昔、アマゾンで買った本です。
「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ」。原始仏典のうち、ブッダが神々と対話した記録集。無作為に選んで記していきます。読みやすいよう、多少アレンジしています。
「孤独な人々に食を給する長者」・・・
「傍らに立った〈孤独な人々に食を給する長者〉という名の〈神の子〉は、お釈迦さまのもとで、
「ここは、健やかなジェータ林である。仙人の集いが住み着いている。(仙人・・・ブッダと弟子たち)
真理の王 (ブッダ) が来り住みたまう。
私にますます喜びを起こさせる。
行為と知識と理法と戒律と最上の生活と 。
これによって人々は清められる。種姓によるものでもなく、また財産によるのでもない。
それ故に、賢者なる人は、自己のためになることを見て、真理を正しく思考せよ。
このようにしたならば、人はそこで浄められる。
サーリプッタのように、智慧と戒律と心の静かな安らぎによって彼岸に達した修行僧は、
これだけでも最上のものとなるであろう」
※ 彼岸・・・修行が完成して涅槃に入ったこと。
〈孤独な人々に食を給する長者〉という名の〈神の子〉は、このように言い、お釈迦さまに敬礼して、右回りの礼をして、その場で消え失せた。
そこでお釈迦さまは、その夜が過ぎてから、修行僧たちにそのことを話された。
「修行僧たちよ。この夜、或る〈神の子〉が、夜が更けてから、容色麗しく、ジェータ林を遍く照らして、私のもとに近づき、私に敬礼して、傍らに立ち、私のもとで、これらの詩をとなえた。
『ここは、健やかなジェータ林である。仙人の集いが住み着いている。(仙人・・・ブッダと弟子たち)
真理の王 (ブッダ) が来り住みたまう。
私にますます喜びを起こさせる。
行為と知識と理法と戒律と最上の生活と 。
これによって人々は清められる。種姓によるものでもなく、また財産によるのでもない。
それ故に、賢者なる人は、自己のためになることを見て、真理を正しく思考せよ。
このようにしたならば、人はそこで浄められる。
サーリプッタのように、智慧と戒律と心の静かな安らぎによって彼岸に達した修行僧は、
これだけでも最上のものとなるであろう』
その〈神の子〉は、このように言った後で、私に敬礼して、右回りの礼をして、その場で消え失せた」と。
それを聞いた、尊者アーナンダは、お釈迦さまに、
「お釈迦さま、彼はおそらく、〈孤独な人々に食を給する長者〉という名の〈神の子〉だったのでしょう。実在していた人物としての〈孤独な人々に食を給する長者〉と言う資産家は、尊者サーリプッタを生前信仰していました」と。
「みごとだ。みごとだ。アーナンダよ。推測によって達し得る限りのことを、そなたは達成した。彼はおそらく〈孤独な人々に食を給する長者〉と言う〈神の子〉なのだ」
※ みごとだ。みごとだ。・・・善きかな。善きかな。・・・真言宗の回向で必ず唱える「般若理趣経」には、「善哉・・・ぜんざい」・・・真言宗の発音では「せんざい」と聞こえる・・・がクライマックスで何度も出てきます。
「せんざ~い せんざ~・・・い せんざい せんざい せんざあ~い」と言う風に・・・この「せんざい」「ぜんざい」の語源が、お釈迦さまがお弟子を褒める時に「よきかな よきかな」と言われたところにあるの「だと」思います。
ちなみに、般若理趣経は、得度受戒した坊さんしか唱えられないので、われわれ檀信徒は唱えません・・・と言うより、長すぎてハナから唱えようとは思いません ※
この「神の子」は、スダッタ長者のことですかね? 有名な方で、在家仏教者が目指す最上の存在と言えば、スダッタ長者と、チッタ長者 (維摩居士のモデル?) です。
以下、ウィキより。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、Jetavana-vihāra)、正式名:祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)
スダッタ(Sudatta シュダッタ、音写:須達多、須達など、訳:善施など)は、コーサラ国のシュラバスティー(舎衛城)の富豪・長者。祇園精舎を建立し寄進した。彼はよく孤独な貧者に食物などを施したので、給孤独(アナータピンディカ, Anathapindadasya[1])と呼ばれていた。
彼はある日、マガダ国に赴き、その地にあった竹林精舎で釈迦仏の説法を聞くと深く敬信の心を生じ、釈迦仏に舎衛城への遊化に来てほしいと請い願った。彼はそのために精舎を建立する願を立てると、すぐに探しついに祇陀(ジェータ)太子が所有していた林苑を見つけ、ジェータ太子に譲ってほしいと頼んだ。するとジェータ太子は冗談で「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と言ったら、シュダッタは本当に金貨を敷き詰め始めたためジェータ太子は驚いて、土地を素直に譲りさらに自らも樹木を寄付して寺院建設を援助した、という逸話がある」
また彼は死んで兜卒天に生じたといわれている。
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