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忘れまじ、ソ連が行った日本人捕虜の抑留という戦争犯罪を

2015年08月10日 06時49分23秒 | 時事放談: 海外編

 非人道的なソ連が行った戦争犯罪を、日本人のわれわれは絶対に忘れてはいけません。産経が抑留生活の厳しさをうまくまとめています。記録しておきましょう。

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【戦後70年~昭和20年夏(5)】抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ…
産経新聞 2015.8.10 06:10

 「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います

 ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。

 厚生労働省が実施する旧ソ連による抑留犠牲者の遺骨収集事業。会津は4度目の参加となる。

 ロシア側の資料によると、かつて付近に第3762野戦病院があり、死亡した抑留者200人余りがここに埋葬されたという。

 冬は凍土と化す厳しい気候。長い歳月を経た遺骨はきれいな状態では見つからない。500平方メートル超の埋葬地を小さく区切って掘り進め、土に不自然な変色が見つかると遺骨がないかを丁寧に確認する。今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。会津はこう語った。

 「現場を離れる時はいつも残さざるを得ない遺骨を思って涙が出るんです

 1991(平成3)年から抑留者調査や遺骨収集に協力してきたガリーナ・ポタポワ(76)は、ある埋葬地で日本人女性が慟哭する姿に衝撃を受けた。

 「やっとお父さんを見つけた。お母さんは死んだわ。ここに来られて本当によかった…

 その姿は、戦死した父の墓を80年代に見つけた時の自分と同じだった。ポタポワはこう語った。

 「『埋葬地に来てやっと私にとっての戦争が終わった』と言われるのが何よりもうれしい。この問題に国籍は関係ありません

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 コムソモリスクには1945(昭和20)年~49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された。満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。

 街の中心部のホテル「アムール」は内部こそ改装されたが、今もなお現役。同じく日本人が建てた2階建て集合住宅群に住む元調理師のタマーラ・ボブリク(68)はこう語った。

 「この通りの家はすべて日本人が建てたと両親から聞きました。古くはなったが、造りが大変しっかりしており、改修なしで住み続けています

 地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。

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 45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。

 ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした

 だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。

 クジミナはソ連末期、閲覧可能になったロシア人の弾圧犠牲者の資料を調べる中で「囚人」に交じって日本人が強制労働させられたことを初めて知った。

 「極東は辺境なので働きたいという人は少ない。それでも国土維持のための労働力が必要だということで政治弾圧された人々が囚人として送り込まれた。ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか

 ロシア政府は、日本人抑留者のうち1万5千人以上に関する資料をなお開示していない。未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。

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 十字架が並ぶ墓地、木材を積んだ汽車-。見慣れない風景だった。

 「こりゃ、だまされた。日本じゃないどこかに連れて来られたぞ

 独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93)=宇都宮市在住=は千島列島・幌筵(ほろむしろ)島で終戦を知った。ソ連軍がいつ島に上陸したのかは分からない。交戦で数人の死傷者が出たが、ソ連軍の通訳に「もう戦争は終わった」と言われ、武装解除に応じた。

 前田も「おかしい」とは思っていた。数週間前から連日のように米軍機が島の上空を旋回するようになったからだ。赤いマフラーの女性を同乗させ、遊覧飛行する米軍機もあった。

 ソ連兵の「トウキョウ ダモイ(帰国)」という言葉を信じ、輸送船に乗り込んだが、ナホトカ港を経由して連行された先はコムソモリスクのラーゲリ(収容所)だった。

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 ラーゲリでは、木材の伐採作業や線路の敷設工事を命じられた。重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。鼻や耳が白くなり、壊死(えし)して黒くなると切り落とすしかない。仲間と「おーい、白いぞ」と声をかけ合い、互いにマッサージした。

 時計などの持ち物はソ連兵に取り上げられた。ソ連の女性兵は、日本人から奪った歯磨き粉をうれしそうに顔に塗っていた。ソ連兵の制服はボロボロ。缶詰にはUSAの刻印があった。「ソ連もよほど物資がないんだな」と思った。

 与えられた食事は黒パン1切れだけ。空腹を満たすため、ソ連兵の目を盗んでは野草をゆでて食べた。

 ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。飯盒(はんごう)に入れた卵をストーブで炊き、味付けは岩塩。仲間は大喜びで食べたが、前田はなぜか口に入れる気がしなかった。翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。

 ラーゲリでは時折、健康診断が行われ、健康状態のよい順にA、B、C-とランク分けされ、労働内容が決まった。前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。

 朝鮮では船への積み込み作業に従事した。食糧や衣類、家具-。タンスや畳など日本人のものだと分かる品も多かった。

 極寒のシベリアよりは格段にましだったが、休む度にソ連兵にムチで尻をたたかれた。街を歩くと朝鮮人から日本語で罵声を浴びた。

 「兵隊さん、日本なんて国はもうないんだぞ!」

 栄養失調で鳥目となり、夜はほとんど目が見えない。作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。

 帰国できたのは昭和23年初夏。「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。引揚援護局でわずかな現金をもらってサツマイモを買い、夢中でほお張った。あの甘さと感激は今も忘れられない。

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 約57万5千人に上る日本人抑留は明確なポツダム宣言(第9項)違反だが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンの指示により極めて計画的に行われた。

 原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。

 ここでスターリンは第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対日参戦を約束し、満州や千島列島などの権益を要求したが、もう一つ重要な取り決めがあった。3カ国外相が署名したヤルタ協定だった。

 ドイツが連合国に与えた損害を(1)国民資産(工作機械、船舶など)(2)日常的な生産物(3)労働力-で現物賠償させることを決めた。

 問題は「労働力」だった。米英は、まさかソ連が協定を盾に戦後も捕虜らに強制労働させるとは思っていなかったようだが、ソ連は「米英のお墨付きを得た」と受け取った。

 英首相のウィンストン・チャーチルは後にスターリンの非人道性に気づき、二の句を継げなかった。7月のポツダム会談で、チャーチルが英国の炭鉱労働者不足を嘆くと、スターリンは事もなげにこう言った。

 「それなら炭鉱でドイツ人捕虜を使うことだ。私はそうしている」

 スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。対日参戦の目的は領土拡大だけでなく「労働力」確保にもあったのだ。

 ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。

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 満州国の首都・新京(現長春市)で武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は昭和20年暮れ、クラスノヤルスク北の炭鉱・エニセイスクのラーゲリに送られた。

 氷点下40度近い極寒地を片道約1時間歩き、1日3交代制で採炭や鉄道敷設作業に従事した。秋元は作業前、いつも「今日もみんな元気で帰っぺな!」と呼びかけたが、毎日のように人が死んでいった。やはり食事はパン1切れ。野良犬、ネズミ、ヘビ-。食べられるものは何でも食べた。

 気温が氷点下50度を下回ったある日、公会堂に一時避難するとピアノがあった。小学教諭だった秋元が「故郷」を弾くと仲間たちは合唱を始めたが、途中から嗚(お)咽(えつ)に変わった。「ダモイ(帰国)まで頑張ろう!」。これが合言葉だった

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 第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=が連行されたのはシベリアの山中のラーゲリだった。

 2重の鉄条網に囲まれ、四方に監視塔。丸太小屋には3段ベッドが蚕棚のように並んでいた。暖房はドラム缶製の薪(まき)ストーブだけ。電灯もなく松ヤニを燃やして明かりにした。

 食事は朝晩はコウリャンやアワの薄い粥(かゆ)。昼は握り拳ほどの黒パン。空腹をこらえながら木材伐採を続けた。2人一組で直径30~40センチの木を切り倒し、枝を落として1メートルの長さにそろえ集積所まで運ぶ。1日のノルマは6立方メートル。氷点下30度でも作業は続いた。

 夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。

 凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた

 そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。どこからともなく万歳が上がった。

 夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。「山ってこんなにきれいだったのか…」。全員が涙を浮かべて景色にみとれた。(敬称略)

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戦争に負けるとは、こういうことです。ゆえに、戦争に負けてはいけないのです。

もちろん、戦争をしないのがいちばんです。しかし、日本は戦争をしないと決めても、他国が戦争をしたがったら、それでおしまいです。

中国のような領土拡大に野心を抱く国が(もう東京の大半が中国人に牛耳られているようなものではありますが)侵略してきたら、どうするのでしょう。その戦争で捕虜にされた日本人は、労働改造所という名の強制収容所に入れられて、厳しい労働をさせられるかもしれません。

これを冗談と思うなら、チベットやウイグルの人たちを見ればよいのです。南シナ海で何が起こっているかを見ればよいのです。

まずは、戦争を起こさない。しかし、戦争を仕掛けられたら、日本の国土と国民とその財産を守る。そういう強い意志が必要です。

ソ連のような戦争犯罪国はこれからも現れます。われわれは、70年前に何が起きたかを忘れないようにしないといけません。


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