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クドカン、『あまちゃん』を朝日に語る

2013年10月01日 07時06分40秒 | TVドラマ・CM

『あまちゃん』の脚本家宮藤官九郎氏が、朝日新聞のインタビューに答えています。記録しておきましょう。

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「じぇじぇ」ヒットの秘密 宮藤官九郎に聞く哲学と手法
朝日新聞 2013年10月01日00時45分

  NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」が完結した。東京から北三陸(岩手県久慈市が舞台)に移住したアキをめぐる物語。作品世界の魅力を生んだ脚本家・宮藤官九郎の哲学と手法を、本人への単独インタビューと演劇ジャーナリストの寄稿で探った。

 ――あまちゃんで描きたかったテーマとは何だったのでしょうか。

 一つのテーマでは半年間はなかなかキツイものがあったので、特にこれっていうのは事前には決めていませんでした。何となく人物設定を考えつつ、物語がスタートしていったら、テーマも見えてくるかな、と思って書き始めました。結果、言おうとしていたことはほとんど第1週で言っているような気がします。

 「田舎が好きな人は東京に行ってもなんとかなる」とか、「田舎が嫌いで飛び出しちゃう人は東京でもうまくいかない。結局、場所じゃなくて人だ」とかいうあんまり意識しないで書いたせりふが意外と最後まで効いてて、それらが全部テーマといえばテーマなのかなと思います。(アキの祖母)夏さんがアキを海に突き飛ばす時に「考えてもしょうがない」とか。それらが全部テーマなんじゃないかなと振り返ってみると思います。

 ――テーマは元々考えていなかった?

 元々はそれぞれのキャラクターを自由に動き出すように、1話、1週目と書き始めたつもりなんですけれど、結果的に思っていること、ドラマで伝えたいことみたいなのは、最初の方に全部言っちゃったなっていうのが正直なところですね。

 ――場所じゃなくて人という箇所ですか。

 要は「こんな田舎に来てくれてありがとうございます」というところから始まる(ローカル線・北三陸鉄道駅長の)大吉さんのせりふ。「100円ショップがつぶれたら町は終わり」だとか、モータリゼーションがどうたらこうたらというところ。

 田舎の人は自分の場所のネガティブなところばかり言うけれど、主人公のアキからみたら全部新鮮に見える。そういうモノの見方、全部1週目で言っちゃってるなって気が。23週のせりふ「色んな世界を見てまわったけどここが一番いい」が結局、1週目と同じこと言ってるなと思って。

 ――東京から帰ってきたアキが、北三陸から離れたことがない親友のユイにいうセリフですね。アキの祖父忠兵衛さんが遠洋漁業に行く理由を「いろいろな国や街を目で見て、ここが一番いいところだと教えてやってんだ」と話すセリフに重なります。

 そういうことが最終的に自分が言いたかったことなのかな、と今思います。

 ――ユイを東京に行かせなかった理由を聞かせてください。

 アキとユイという2人がいて、(アキの母親の)春子と(女優の)鈴鹿ひろ美がいて、その2人の関係は対照的ということとか、(父親が急に倒れたり、東日本大震災が起きたりして)東京に行けないユイちゃんの「行けない」が最後は「行かない」に変わるということとか、最初から決めてました。

 ――なぜですか。

 東京と田舎の対照でいうと、僕は出てきた側ですけれども、来られなかった友だちとか、出てこなかった人たちとか、どこかで頭の中にあるし、結局、東京でも田舎でも一緒じゃないかっていうこと。東北を方言で書き始めたとき、まさか、そういうすごくまっとうなところに落ち着くとは思っていなかったんですけどね。

 ――つまり、宮藤さんの東北や田舎への見方ということですか。

 東北に限らず、田舎や地元に帰るところがあるという人の気持ちなんじゃないかなと思いますね。

 何か変わったことをやろうと思って東北を舞台にしたわけじゃない。地元でアイドルをやっていた子が、東京に行って苦労して帰ってくるという話をやるのに一番良い場所を探して、それがたまたま岩手の海女さんだった。別にどこでも話の流れはかわらなかったんじゃないかな、って今は思いますね。

 ――なぜ、岩手が物語に適していると?

 一番は海女さん、北限の海女として伝統的に潜っている文化があって、なおかつ三陸鉄道っていうローカル線があって、っていうところが決めてですね。NHKの方が下見して下さった中で、そこ行ってみたいなって。今思えば1回目に久慈に行ったときに、ほとんどの材料が目の前にありました。まめぶがあったり、じぇじぇって言葉があったりするような。見て回った後、ここだったらいくらでも書けると思いますっていうとこまで見えていた。

 琥珀(こはく)を掘ってる人がスナックで磨いてたらいいねとか、たまたまこっちが考えた話があって、そういう探してもみつからないものがたまたまあった。出会いとしてすごくよかったなと思います。

 ――5月にNHKで放送された葉加瀬太郎さんとの対談番組で、身近なものを愛するというメッセージを発信していた。どういう意味でしょうか。

 モノの見方といいますか。愛情があったり、思い入れがあったりしすぎてそれが見えていない。僕も自分の地元が全然好きじゃなくて、ネガティブなところばっかり見てた気がする。そっちの方が人と話すときにユーモアにしやすいからなんですけど、自虐的に言うときに、なんもなくてこーでこーでというのが。

 久慈にあるそれらのものは、外からきた僕からすると原石。ドラマを作る上でこんなにおもしろい材料がある。観光にはいかせないかもしれないけれど面白いなと。例えばまめぶ、なんでこういうモノを食べようと思ったのかなと思うんですが、どうしたらもっとメジャーになるんですかねと思っている人もいる。なんかもう見ている、見えているモノが違う。それが人間のおもしろいところ。

 それを描くには、東京生まれで東京育ちの女の子が突然、北三陸に連れてこられて、目に見えるモノを全部かっけーかっけーと言う。僕が久慈に行ったときに思ったことが重なりますよね。

 ――故郷が好きでないと、なかなか自分の周りにいいものがあると気づかないと思うのですが。

 僕も同じで、東京に出れば道が開けると思っていた。渋谷、原宿に行けば、華やかな生活が始まると思っていたけれど、行ったからって何も変わらない。自分が変わらなければ。そういうところが、さっき言った「場所じゃなくて人じゃないか」というセリフなんですが。久慈に行って、やっぱり人ですよね。人を見たときに面白いなと思うところがいっぱいあって、あたたかいし、控えめだけど心が強い。半分ぐらい何を言っているかわからないけれど、やっぱり人なんじゃないかなと。

 1回目に見て回ったときは、ディレクターさんは、どうします?いいと思いますか?という感じだったけれど、2回目に見に行ったときは、ディレクターさんが半分地元の人みたいになっていて、思い入れがすごい。こんなものがあります。こんなものもあります。おもしろい人だから会ってくださいと。演出を担当した人はみんな久慈の人みたいだった。

 ちょうど、東日本大震災で止まった電車が再び動き出すという町のイベントがあって、見に行ったんですが、盛り上がってきてるなと。向こうの人は、僕が朝ドラの取材で来ているとは思っていないので、日常だと思うのですが、そのセレモニーが盛り上がっていて、それも含めていいなと思いました。

 ――昔に比べて、今のモノの見方は変わったと思いますか。そういう思いであまちゃんを描いたんでしょうか。

 なんでも疑問に思って、これはこうだと信じている人には言いたくなってしまう。朝ドラはお年寄りしか見ないと思っている人もいる。本当にそうなのかな?と思って作った。東京編でのアメ横を舞台にしたアイドルの話。朝から、アイドルなんて見たいのか?ということに対し、本当にそうかな?と。

 物語を作るとき、見る角度を一回変えないと、おもしろいモノは生まれない気がする。80年代の話は2013年の今から見れば一昔前。僕からすれば時代劇。長いスカートをはいて、聖子ちゃんカットで学校に通っている。そこから話を考えれば、新しいモノができるような気がした。おじいちゃんが見られるような話で考え始めたら、なにも思いつかなかったと思う。それがモノの見方を変えるということ。創作するときのしみついた癖。

 ――朝ドラを意識した部分はあるのでしょうか。

 いつもと同じことをやるんなら、いつもと同じ枠でやればいい。それが通用できないところにいって、自分がどれぐらい出せるかと思った時に、朝ドラをやらしてもらうというのはチャレンジだなと。

 発見もいっぱいあった。朝の15分間、毎日見るという習慣について考えた。15分の中で勝負する。でも、途中で自分にあってるなと思い始めました。自分のリズムやお客さんのリズムはこれぐらいがいいんじゃないかな。どんなに早口で進めても15分で終わるから、物語を振り返ることができる。要点もそんなにいっぱい詰め込めない。たぶん45分のドラマだと、見ている人の集中力が息切れしてしまうんだと思う。

 ――最高視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の「半沢直樹」や、一匹おおかみのフリーランスの医者が活躍する「ドクターX」など最近のドラマの多くは現状打破がテーマ。一方、宮藤さんの作品には悪人がいないし、今いる場所を大切に描いている。ほかのドラマと比べて、現実を肯定しているように見えます。

 人間のいいところばかりを見せるドラマをやりたくないし、人間のちょっとしたミスや弱いところを攻撃するようなドラマも見たくない。いいところも悪いところも「面白い」という言葉で全部一緒にしちゃえ。いいところも悪いところもおもしろいからいいじゃんっていう肯定の仕方。

 見ていて息の詰まるものは自分でもちょっと、いいかな見なくて。(先に挙げたドラマは)両方とも見るのは好きなんですが、自分がそれをやるかというと、それはやらない。好きな人や得意な人に任せた方がいい。

 僕のは善人しかでてこないドラマではないし、善人の中にある毒とか悪意とか、弱い部分も入っている。それが僕が見ている日常。ウソをないことには絶対できないから、全部同じバランスで入ってないと気が済まない。ふたをするような表現はしたくない。

 あまちゃんは26週もあったので、要点だけをつまんで話を作らなくてよかった。寄り道がいっぱいできて、1人の人間を多面的に描けた気がする。そういう方法が自分は一番好きだし、自分が一番出る方法。 基本にあるのは、弱いところも、だめなところも、悪いところもひっくるめて面白いということで人間はできているんじゃないかと。

 ――人の多面性に一般の人はなかなか気づかない。いいところばかりを見る人もいれば、違う人もいる。そうすると、周りを愛せなくなってしまうのかもしれない。

 悪いところを見つけたら、それっきりになっちゃう。例えば、恋愛したらすぐにつきあって、すぐ別れるということだと思う。悪いところを見たら、もうってなる人には、僕のドラマは楽しめないかもしれない。

 いやな部分、めんどくさい部分を何回も見ているから、この人が面白いなと気づく。そういう意味では、ドラマは半年間、嫌なやつも描かなければいけないし、それを面白がらなければいけない。僕はそこを面白いと思っているからいつまでも書ける。

 たぶん、創作の原動力は、怒りや憤りじゃない。言いたいことはあるけれど、それを言うためにドラマをやりたいとは思わない。これ面白くないですか?という視点でスタートするから。

 ――面白さを見つけていく作業ということですか。

 今回は東北を舞台にしているからといって、震災を描くドラマではない。震災に対するみなさんの憤りとか、その後の社会に対する怒りは現実。僕の場合は、それが作るときの原動力にはなっていない。その後の世界をどう受け止めているかというか、登場人物たちが相変わらず、スナックでくだらないことを言っている。というのが面白くないですか?と思っていますね。

 ――いじめや災害、新聞では毎日マイナス面がたくさん書かれています。どうしても、怒りや憤りにベクトルが向いてしまうのが現実だと思うのですが。

 感じるけれど、間違っているんじゃないかな。これでいいのかなと。それを作品を通して言いたいとは思わない。僕はやらなくてもいいかなと。自分の中では、それでいい作品が生まれたことがない。世の中おかしいというのをちゃんと新聞は伝えなくちゃいけないし、日本はこんなに平和ですという新聞は求められていない。でも、大きい地震があった後は、問題提起だけじゃなくなったというのは感じた。がんばっている姿とか。バランスをとらなきゃ人間は生きていけないんだなと思った。いいことにやっと目を向け始めたじゃないですか。このドラマでもそこをすっとばして、アキが田舎に帰ってからを見てほしいですね。

 ――震災後の描き方ですね。見てほしい部分とはどこでしょう。

 アキが帰るまでは東京の人しか描かなかったんですけれども、帰ってみたら、東京の人より元気だった。それは僕が経験したことでもあるし、みんなが思っていること。それは朝ドラだからこそやりたかった部分。

 夏さんが後半「お構いねぐ」と言う。これは東北の人がよくいう言葉で、礼儀というか、決まり文句。お構いねぐと言ったからといって、本当にお茶を出さなかったら、あのやろ~ってぐらいなんですが。その精神というのはやりたかったわけではないけれど、何ができるかなと思った時に僕はそれだなと。僕がやるんだったら、おかまいなくという精神だなと。

 ――お構いねぐの意味をどうとらえましたか?

 こっちは大丈夫です、I am OKみたいな。突き放しているのではなくて、ご心配なくの照れがはいっているニュアンスの言葉だと思う。それは自分が肌で感じたことで、好きな言葉ですね。

 ――震災前は悪い部分しか見ないという風潮があったと思いますか。

 なんかね。正直、思いました。だからどうだというわけではないが。落ち着かなかったのは、どんどん選挙があって、総理大臣が変わって、興味はあんまりないんだけれど、落ち着かないなと。

 ――世の中が落ち着かないということですか。

 よくわからないけれど、気分ですよね。僕が嫌だなと思ったのは、電車の中で、人がぶつかったときに、知らない人だからいいだろうと、つんけんした言い方をするみたいなこと。

 新聞やニュースを見てというよりも、自分が感じる「あ~」って思うこと。今、こういうドラマを作っているからかもしれないけれど、あれに戻りたくはないなと、個人主義な感じ。社会が悪いとか、世の中が悪いとかじゃなくて、もっと仲良くしましょうよというだけ。

 ――その風潮は震災後に変わったと思いますか。

 いいことか悪いことかわからないけれど、そういう気はしますね。今まで自分のことだけを考えていた人たちが、気がついたかな。いいこととか悪いことではない。ただ気がついたんだな。自分もですけど。電気消したりとか、ちょっとしたことですよ。

 ――身近に幸せがあるというあまちゃんから感じるメッセージがそういう意味で伝わったと思いますか。

 わからない。なんでかな。前から同じことをやっている気もするんで。ただ、ダイレクトに言ったことはそういえばなかったかな。(脚本を書いた)「池袋ウエストゲートパーク」(00年)や「木更津キャッツアイ」(02年)から同じことを言い続けて、自分でも進歩がないなと思うけれど、それが受け入れられたのかな。それすらもわからない。

 あまちゃんの1週目を書いたのは1年半前。その時は、(北三陸を)「なんもねぇところ」というせりふを08年の設定で言っていいのか慎重になっていました。久慈市の駅前デパートを見にいったときに、過疎だって思った。でもこれ、今言うのと、震災前に言うのと違うよなと。

 大吉さんのせりふは、はらはらした。カラオケがつぶれて、100円ショップがつぶれて、今は廃墟(はいきょ)になっているというくだりは大丈夫かなと。田舎に帰ったアキが北三陸のすべてを肯定して、母親の春子が「私が嫌いなものばかり好きにならないで」というのもそうだし。僕というよりかは、演出家のみなさんが上手に導いてくれた部分があるかもしれない。今までだったら、もっとそこから飛躍していたけれど、そこを掘り下げる。前にこういうせりふがありましたよねといわれ、丁寧に作り上げてくれた気がする。

 ――家族や自然、地元など自分の周りにある現実を肯定することが今の世の中にどういう意味があって、どう幸せに結びつくと思いますか。

 みんなが言っていることを言ってもしょうがない。僕が言わなくてもいいじゃん。それより、みんなそっちばっかりを見ているけれど、ここにこんな面白いものがありますけどみたいなことから入っていくから。

 いいもの、面白いもの、楽しいもの、笑えるものをいつも探しているわけで、世の中の人がそうなったら、僕は違うものに注目するのかもわからない。これはこうだといって、考えることをストップすることに対する恐れ。本当にそうなのか?といつも思っているからかもしれないですね。本当に世の中悪いのかな?景気悪いのかな?とか、本当にそれって悪いことなのかな?みたいなことをずっと考えてるのかもわからない。

 ――宮藤さんがそっちを向いているということは、現実を肯定している人って少ないということでしょうか。

 そうですね。ずいぶんよくなってきているのかなとは思いますが、自慢する人って少なくなりましたよね。自慢できる人ってもっといればいいのにと思います。もうかっちゃってとか、いや言えないか。

 ――なんで言えないのでしょう。

 足並みをそろえたいんじゃないですか。嫁が好きなんですよといえばいいのに。コミュニケーションはぼやきから入るじゃないですか。みんな一緒だなを確認するみたいな。そうじゃない人は、陰口いわれますよね。自慢ばっかりだなって。でも、僕は現実では絶対言わないけれど、ドラマの中では出したいなと思います。度が過ぎる愛妻家とか、そういう設定が好きだから書くけれど、世の中の人がみんなそうじゃないから面白いかなって。今だからというか前からだけど。人間のいろいろなところを肯定するというよりかは、いろいろな角度から見るということなのかもしれません。

     ◇

■クドカン組、そろって躍動 徳永京子(演劇ジャーナリスト)

 放送中からさまざまな角度で分析された「あまちゃん」人気。特にメディアで注目されたのは、脚本を手がけた宮藤官九郎が所属する劇団大人計画をはじめ、舞台をメーンに活躍する俳優たちの個性と達者さだった。

 事実、原宿の喫茶店のマスターを演じた松尾スズキは大人計画の主宰。北三陸駅副駅長役の荒川良々、北三陸高校教師役の皆川猿時も劇団メンバーだ。

 だが、映像系の俳優も宮藤作品の経験者が大半だったのもポイントだ。主人公アキの母・春子を演じた小泉今日子は「マンハッタンラブストーリー」(2003年)、大女優・鈴鹿ひろ美役の薬師丸ひろ子は「木更津キャッツアイ」(02年)と、それぞれ宮藤脚本のドラマにレギュラー出演。また、飄々(ひょうひょう)としたマネジャーの水口役で全国的な人気を得た松田龍平は、宮藤作・演出の舞台「R2C2」(09年)で、すでに脱力系のコメディーセンスを披露していた。

 アキの父・黒川役の尾美としのりに至っては、宮藤脚本のドラマに3本、宮藤作・演出の舞台「七人の恋人」(05年)にも出演。ちなみに「あまちゃん」と同じタクシー運転手役だった作品もある。

 宮藤の脚本はいつも、細かい起伏の後方に大きなうねりがあり、瞬間的な笑いと後からじわりと来る笑いが並立する。その感覚を体に通過させた俳優が多く集まったことが、最初から「あまちゃん」独自のグルーブ感(ノリ)を生み、愛されるドラマに必要なチームワークへと昇華されたのではないだろうか。

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 〈あまちゃん〉 引っ込み思案の高校生アキ(能年玲奈)が、北三陸(岩手県久慈市が舞台)に移住し成長していく物語。祖母(宮本信子)の影響で海女になるものの、母親(小泉今日子)の果たせなかった夢を追いかけ東京でアイドルを目指す。東日本大震災後は北三陸に戻り、復興のため地元アイドルとして活躍する。

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『あまちゃん』のすばらしさが、宮藤氏の卓越した脚本で出来上がっていたのは間違いない事実。その創作の秘密がうかがえたインタビューでした。

とりわけ、「怒りや憤り」から物語を作らないというのは素晴らしい発言だと思います。まったく同感です。上司への復讐を誓うために銀行で働いている半沢直樹なんか、まったく見たくないですもの(実際、1話も見てないです)。『あまちゃん』のあの温かさこそ、求めているものなのです。

いまは、完全なあまロス症候群。「『あまちゃん』、カムバック!」と叫んでも仕方ないので、今日は宮藤氏が脚本を書いた『謝罪の王様』を見て、元気をもらってくるようにします。


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