いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

2011年 後半

2014-01-02 | 2011年

【2011年7月】

7月9日 虫送り(四日市市富田地区)   2011・7・11
 「害虫」という言葉がまだ無かった時代に、農作物が豊かに実るように、虫たちの退散を願って行われたのが虫送りである。

 かつては農村のあちこちで見られた年中行事のひとつだったが、四日市市内各地では、大正から昭和初期頃、相次いで廃止されたらしい。富田地区でも長らく途絶えていたが、3年前に55年ぶりに地域の行事として復活させた。

 農作物に被害をもたらす「害虫」には、今では農薬の使用が当たり前になっている。江戸時代でも大蔵永常が『除蝗録』を著し、鯨油を用いた駆除法を紹介するなど、虫対策の研究はあった。

 しかし、江戸時代はもちろん明治に入ってからもしばらくの間、技術的にも、意識の上でも、農家の人々にとって、虫の存在は人間の力で解決できるものではなく、天災だった。そして、収穫のためとはいえ、虫など生類の命を奪うことを悲しむ心根をも抱いていた。

 鉦を先頭に、燃える松明を持った人々が畦道を進むと、辺りは打ち鳴らされた鉦の音と火と、煙幕で騒然となった。虫送りは、豊作への祈りの込めた村の大切な行事だったのだろう。

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地区内の3神社(北村若宮八幡神社・茂福神社・伊賀留我神社)から、
集合場所の霊園に向かって出発。

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重い、熱い。松明を抱えて畦道を行く。辺り一面に煙が広がる。

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背後に見えるのは、コンビナート。

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3ヵ所の参加者が合流し、地区内仏教会の住職による法要が始まった。

藤原岳自然科学館 展示棟の移転   2011・7・9
 県が所有する建物の耐震性が問題となっていた展示棟が、いよいよ、1km以上離れた文化センターに移転する。オープンは来年春頃らしい。

 今年3月にこの科学館を訪れた時、一部の手作り感のある展示に興味がわき、博物館の成り立ちを質問したのだが、個人のコレクションを集めたということ以外に特に情報は得られなかった。
 ところが最近、思いがけないところで、開館当初の関係者の声に接することができた。

 1974年に名古屋で開催された社会教育研究全国大会で、地元の人々の手作りで支えられた藤原岳自然科学館設立の経緯が報告されたという。「お金がなければ展示ができない、業者が地方にはいないなどという泣声はどこにもきこえません。自然保護への主張が人々の心をとらえ、藤原岳へこれから登る人、また下山してきた人たちに実に多くを語りかけます。」(「博物館へどうぞ48 藤原岳自然科学館 手作りの展示」日本モンキーセンター学芸員 広瀬鎮 『モンキー』141号 1975)
 
 藤原岳のビジターセンターであればこその科学館。電車で藤原岳を訪れた人が新たな展示施設まで歩いて行くのは、ちょっと遠い。マイカーの人は寄ってくれるのかなあ。地元の人には便利なのかなあ。

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海から、コンビナートから、1kmちょっと   2011・7・8
 危機管理室のある市役所から、海、そしてコンビナートまでは1kmちょっとである。
 結構近い、と思う。

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猫もいろいろ  2011・7・7

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何?

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スリッパ大好き

【2011年6月】

カラー    2011・6・23

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オキーフの好きなカラーリリー  6月の暑い日に

図書館資料は重い  2011・6・12

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ありそうで無かった図書館風景 あったらいいなと思ってました。

三重県知事 新県立博物館建設の見直し  2011・6・6
 就任後、全ての事業をゼロから見直すとし、現在建設中の県立博物館についても検討していた新知事が、6月3日県議会全員協議会において、新たな条件を示して整備を進めることを明らかにした。6月4日の朝刊地方版で各紙が伝えたが、その書きっぷりに、いかにも各社の嗜好(思考?志向?)が表れていた。

 まず、毎日は、鈴木知事の説明から「県民にとって新博物館が必要」「三重の自然や歴史、文化に関する資産を守る責務が県にある」を引き、建設推進の前提となる条件を7点、詳述している。
 ①年間運営費の県費負担を2割程度削減 
 ②収入増のため広報強化 
 ③外部有識者による委員会で経営評価
 ④民間参画で経営基盤確立
 ⑤現博物館の今後の扱いには県費負担しない
 ⑥自然エネルギーの活用拡大
 ⑦金銭価値では示せない社会への影響や効果を明示し、評価と改善の仕組みを作る

 対して、読売が知事の発言で注目したのは、「新博物館が今後の三重にとって、アイデンティティー(自己認識)の創造と継承、子どもたちの成長、県民が生きていく上での心の支えにとって大きな役割を果たす」「三重の持つすごさ」「県民の誇りの醸成につながる博物館にしたい」である。
 そして、一部展示における協賛企業の獲得、ネーミングライツ(命名権)の売却といった民間資金の活用検討を挙げた。

 一方、朝日が取り上げたのは、「三重の子どもたちの成長に大きな役割を果たす」「新たな豊かさのモデルとなる潜在的可能性がある」という部分。

 三紙をながめると、読売の暑苦しさが際立っているが、それは知事もまた同様か。
 「アイデンティティー」だの、「生きていく上での心の支え」だの、「三重の持つすごさ」だの、「誇りの醸成」だのと並べられては、博物館も息苦しかろう。これだけ言い立てなければならない御時世なのだろうか。

【2011年5月】
広告な動物    2011・5・28
■その1 ウマ
 5月29日は日本ダービーだそうで、28日土曜日の朝刊に全面広告が掲載された。それが驚いたことに、各紙それぞれ内容が異なるという贅沢さ。
 朝日新聞のそれは文学、毎日新聞では絵画、読売新聞では数字をテーマに、競馬の魅力を広告している。

 朝日新聞
 「文豪たちが愛した競馬に また今年も 特別な日がやってくる。」「日本ダービー、いよいよ明日。」
 取り上げられたのは、夏目漱石の日記とアーネスト・ヘミングウェイの小説
 
 毎日新聞は
 「第78回日本ダービー記念特別企画 競馬の魅了された芸術家たち」
 取り上げられたのは、エドゥアール・マネと武者小路実篤
 
 読売新聞
 「明日は日本ダービー」「数字で見る競馬」
 取り上げられたのは、196,517人、1932年、7458頭分の1、2分23秒3

■その2 ワオキツネザル
 そして、同じく28日の朝日新聞によると、6月から、名古屋トヨペットが、今春日本モンキーセンターで生まれたワオキツネザルの命名権が抽選で当たるキャンペーンを始めるとのこと。
 ワオキツネザルといえば、同園で、ぬいぐるみの売り上げが一番人気とか。私も思わず連れてきちゃいました。

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虫供養塔    2011・5・26
 人と動物の関係を考える時、対象とする動物の範囲をどう捉えるかは重要なポイントである。
 
 一部で混迷を深める「鯨問題」を引くまでもなく、人以外の生き物を、どのような指標で線引きするかという点に、その人の動物に対する態度があらわれてくる。
 
 虫を見つけると殺虫剤でシュッという行動に躊躇がない現代人(私は、あれは苦手である)には無縁かもしれないが、一昔前まで、農村の生活と共にあったのが虫供養である。
 
 四日市市馳出町の浄土宗円明山金剛寺に残されている虫供養塔は、一部再建された部分も含まれているものの建立は江戸時代と推定され、当時の虫供養の様子を伝えている。

 「南無阿弥陀佛 徳住」「虫供養」「禽獣龍蛇魚貝虫 羽毛鱗甲四類雑」「念仏講中」と刻まれている。

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【2011年4月】

神宮農業館    2011・4・23

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 「日本最古の産業博物館」といわれる神宮農業館だが、第1室の入り口には「天皇の農業」と「皇后の養蚕」のコーナー、第2室の最初には田中芳男等編集の『有用植物図説』という展示構成が、この博物館がどういう場所かをよく示している。
 「天照大御神と豊受大御神の御神徳を広め、『自然の産物がいかに役立つか』をテーマにした農業館」(図録『神宮の博物館』)なのである。現在の農業館は、神宮と産業の「博物館」に、創設時に協力した田中芳男コレクションのごく一部が紹介されている。

 1891(明治24)年に神苑会によって外宮前に創設。1905(明治38)年に現在地に移設され、1911(明治44)年に神宮に移管された。老朽化により1989(平成元)年に解体された後、1996(平成8)年に、その一部を縮小し復元された。

 そして言う。 「百年余の推移で時世に適応しない資料が多くなっているといえども、明治時代の殖産興業をめざす『博物館の博物館』という目でご覧いただきたい」と。
 つまり‥今日からみると、いかにも博物館行の古くさい資料ばっかりだけど、これはどれもが歴史的には貴重な伝統ある博物館のコレクションなのだから、心して見てね‥ということですね。

 しかし、たとえば館内の配置がわかる『農業館案内』(明治42年発行)がケースの中に陳列されているのだが、印刷状態がよくない上に字が細かいので、たいそう読みにくい。せっかく日本初の産業館の様子を知ることができる資料なのだから、パネルにするとか、読みやすい高さに置くとか、せめて内容がわかるようにすることは、さほど難しいとは思えない。
 
 また、この明治42年発行の『農業館案内』を「開館当初に作られたパンフレット、昔はこのような展示でした」と説明しているが、それは現在地に移設後の農業館(明治38年落成)のことではないのか。気になって調べてみると、1900(明治33)年発行の神苑会『農業館列品目録』(国立国会図書館近代ライブラリー)で知ることができる農業館とその付属館の姿は、1905(明治38)年落成のそれとは異なる。
 
 現在の農業館からみれば、1909(明治42)年のパンフレットが開館当初というのは誤りということではないかもしれない。けれども「日本最古の産業博物館」として「博物館の博物館」であると自らを語るのであるなら、こういう資料を丁寧に見せる工夫の方が大切なことではないかと思った。

 さて、1909(明治42)年の刷り物が伝える農業館は、館中央の「内園」の四方に展示棟があり、以下の38のコーナーが配されていたようだ。
 穀菽類 菜菓類 香辛類 茶類 砂糖類 醸造類 製造食品 貯蔵食品 烟草類 薬材類 油蝋類 染料類 繊維類 製紙類 綿絮類 各用類* 牧草類 木材類 竹材類 園芸類 種子類 有毒植物 有害植物   飲食物分析 土性地質 肥料類 農業用具 農業製貯具 動物類 動物産物 繭絲類 昆虫類 水産動物 水産漁労具 水産製貯具 神祭具 掛図類 図書類
  〔*「各用類」とは各種の用途ある植物製品のこと〕
 
 ところで現在の農業館だが、展示点数は多くはないが、明治期の剥製、模型の中には、鯨の筋の乾燥品や、中桟に牛の肋骨を貼った算盤製造模型、牛骨製皿秤製造標本が含まれている。
 「ほら、ここには、この骨を使うのがポイントなんです。この骨じゃないとダメなんです」という職人たちの声が聞こえてきそうで楽しかった。

【2011年3月】

IT 亀山市史
 3月28日亀山市は、IT「亀山市史」を製作したと発表、亀山市史ウェブ版公式ページの利用が始まった。開設して間もないためか、まだ検索では上がってこないので、しばらくは亀山市歴史博物館HPのトップからリンクで入る。

 亀山市によると、こうしたITを利用した自治体編纂史は全国でも初めてという。そして、その特徴を、およそ次のように説明する。
 1 いつでも、どこでも、だれでもインターネットの接続環境があれば利用できる。
 2 読むだけでなく、大量の画像や動画も見ることができる。
 3 検索ができる。
 4 史資料の追加ができるので、最新の情報が利用できる。
 5 デジタルデータなので印刷もできる。
 6 書籍と違い保管に場所をとらない。
 7 歴史博物館の活動に活かすことができる。
 
(ただし、デジタルデータが利用できるといっても、接続して可能なのは画面の印刷である。著作権保護のためコピーはできない。)

 亀山市制50周年を期に、2003年編纂がスタート。市の歴史博物館が編纂事務局となった。博物館所蔵資料の一部や動画も公開している。インターネットが利用できない市民には、書籍割付版(2000ページ)も発行しているという。
 
 全体に手づくり感のあるHPである。亀山市の人口は、およそ5万人。このこじんまりとした規模が、頃合いなのだろうか。
 
亀山市史ウェブ版の公式ページ
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html

芦浜
 いつからなのか、原子力発電が、温暖化防止に有効なクリーンエネルギーとして喧伝されていることを、苦々しく思っていたところ、今年2月、中部電力が、原発の新規立地計画を発表する予定との報道が流れ、警戒していた。

 三重県では、1964年に芦浜原発計画が持ち上がって以降、推進と反対とで地元が激しく対立する事態が37年続いた。原発計画に一応の決着が見られたのは2000年のこと。北川知事は、過去に県が策定した4原則3条件の中の「地域住民の同意と協力」について、地元の合意があるとは言えないとし、この長年の対立をこれ以上続けるわけにはいかないと、芦浜原発計画の白紙を宣言した。

 37年の反対運動の中で、三重の人びとの胸に去来していたのは、芦浜にさえ来なければよいということではなく、原発という存在自体への疑義だったはず。しかし、平和と繁栄を享受する日本社会に必要な電力の供給に、原発はますます存在を高め、世界でも原発建設を進める国が増えた。私たちはもう、原発を手放すことなどできないかのようだった。

 そこに福島原発の事故である。
 暮らしていた場所を追われた人びと、現場で作業を続けている人びとのことを思う。

 原発事故が現実のものとなった今、実は想定内だった津波対策さえ怠った東京電力の瑕疵、国の安全チェック体制の不在といった問題が解決できればよいのか(もちろん、これは喫緊の課題である)、それとも原発そのものが抱えている宿痾を考えて、原発依存からの脱却を指向するのか。その判断材料として、原発の評価に、福島原発事故の、未だに先行きの見えない人的、環境的、経済・産業的リスクが盛り込まれることは言うまでもない。原発もまた、ビジネスなのだから。

*芦浜は、三重県南部の紀勢町(現在は大紀町)と、南島町(現在は南伊勢町)にある。
 *電源立地の4原則3条件(三重県) 
  4原則は、
  ①地域住民の福祉の向上 ②環境との調和 ③地域住民の同意と協力 ④原発の安全性確保。
  3条件は、
  ①立地の初期の段階から国が一貫して責任を持つ体制の整備 
  ②安全確保のための国、自治体、事業者の責任の明確化 
  ③漁業と共存できる体制の究明と産業振興の指導体制の強化。

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藤原岳自然科学館

 三岐鉄道終点西藤原駅から歩いて10分ほどで、藤原岳自然科学館へ。セメントの貨物列車が行き交う三岐鉄道丹生川駅の博物館で貨物鉄道の歴史に触れたなら、ここも訪ねたい。

 個人コレクターからの寄贈で、1973年に開館した。こじんまりした展示室だが、標本やジオラマで動物、植物、昆虫、そして化石など藤原岳の自然を紹介している。

 ところが、展示室内に変わった様子はないのに、なぜか長期臨時休館中。不思議に思い理由を尋ねると、最近、設置した県の調査で、展示棟の耐震性に問題があることが判明。建物が使えないため閉鎖されることになり、標本など展示の引越し先が、まだ決まらないのだという。ビジターセンターであるこの場所に建てられた建物のうち、耐震性に問題があったのは、県が所有するこの展示棟のみであったらしい。

 藤原岳を訪れる人のために、ここに建てられた自然科学館。早く近くで再開されますようにと思う。

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太平洋セメント
貨物鉄道博物館のある丹生川駅から藤原岳に向かって2つ目は東藤原駅。太平洋セメントを横に見ながら藤原岳登山口のある西藤原駅に向かう。

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