非日常の舞台を見つめて
移設された諏訪公園の市民壇
(南部丘陵公園北部ゾーン)
市の中心部の公園として親しまれている諏訪公園は、日露戦争の記念として1906(明治39)年諏訪神社内に造られた保光苑が始まりです。
その後1908(明治41)年市営公園となり、1915(大正4)年、大正天皇即位式の記念事業として図書館建築を含む拡張整備がおこなわれ、1916年に諏訪公園と改称されました。
諏訪公園の中でも、特に思い出の中で語られることが多いもののひとつに、市民壇があります。野外舞台であった市民壇は、1934(昭和9)年3月、事業家村山清八氏の寄贈により建立されました。
太平洋戦争中は、「南京陥落戦勝祝賀会」(1937)、「皇紀2600年記念式典」(1940)など、もっぱら戦意高揚のための行事に使われました。
戦後は近くの幼稚園の運動会、野外映画館、子供の写生会など幅広く活用され、また、メーデーや、四日市公害犠牲者追悼と抗議の市民集会も開催されました。
市民の非日常の舞台を見つめてきた市民壇は、1990年3月、南部丘陵公園北部ゾーンに移築されました。現在の市民壇の裏には「四日市祭三相」が描かれています。
(2009年5月記)