日銀の植田和男総裁は31日の会見で、市場が注目してきた「時間的余裕」という表現は今後、使わないと述べた。合わせて為替の変動が過去と比べて物価に影響を及ぼしやすくなっている面があると指摘し、金融政策判断における為替の影響が大きくなる可能性をにじませた。次回の12月金融政策決定会合で利上げが決断されるのか今から即断できないが、米大統領選の結果や米経済指標の出方によってドル/円が155円を突破して160円に接近もしくは乗せる円安の進展があれば、物価押し上げリスクの増大を要因として利上げが決まる可能性は排除できないと考える。
また、少数与党に転落した石破茂首相が11月11日召集の特別国会で首相に指名され、国民民主党との間で政策合意が形成されるケースでは、財政拡張型の政策が盛り込まれる可能性が高く、そのこと自体が円安を加速させる要因として市場に意識されるだろう。国民民主党の玉木雄一郎代表が強調する「手取りを増やす経済政策」にとって、円安加速による物価上昇率の拡大は手取りを減少させることにつながりかねず、円安が問題視される可能性もある。日銀はそうした点も含めて総合判断しながら12月の利上げの是非を議論していくと筆者は予想する。
<植田総裁、「時間的余裕」の不使用表明 ドル/円は152円台に>
植田総裁の発言を注視していた外為市場関係者は、「時間的余裕という表現は今後使わない」と速報されると即座に反応し、ドル/円は31日正午ごろに推移していた153円前半から152円前半へとドル安・円高方向に動いた。
植田総裁は、米雇用統計の弱い結果によってマーケットの値動きが荒くなり、それが重要なリスクと判断し、他のリスク以上に「注意深く検討していかないといけない、という意味でこの姿勢を時間的余裕をもって見ていくという表現で表した」と説明した。
その上で米経済データは少しずつ改善し、市場も安定を取り戻しつつあり「リスクの度合いは少しずつ低下している」と指摘。光を強く当てて「時間的な余裕をもって見ていくとの表現は不要になる」と述べた。
つまり時間的余裕の表現は米経済のリスクに限定して使用してきたが、米経済の不透明さが低下してきたので今後は使用しないという理屈建てを示した。
<日銀の意図を推理する>
今日の会見では「時間的余裕」への質問がかなり多くなったが、多くの市場参加者は「時間的余裕がある」を利上げの赤信号、なければ利上げの「青信号」というイエスかノーかという二者択一の問題に単純化し、日銀の政策の行方を判断しようとしていた。筆者は、そういう安易な市場の見方に日銀がストップをかけ、先行きの政策判断には幅広い選択肢があるということを印象付けようとしたのではないかと推理する。
植田総裁はこの日の会見で、利上げのタイミングで予断を持っておらず、毎回の金融政策決定会合の時点で得られるデータや情報を集めて総合的に判断していく、という従来からのオーソドックスな姿勢を何回も説明した。
少しデフォルメした表現を使えば、時間的余裕という表現があるのかないのか、米経済のリスクが大きいのかそうではないのかといった「二進法」的な思考を排除し、やるかもしれないしやらないかもしれない、という伝統的な中銀の手法に立ち戻ったということだろう。
<為替変動と物価への影響>
だが、植田総裁の会見が何のヒントも与えなかったかと言えば、いつくかの材料は提供されたと指摘したい。1つ目は、為替が物価に与える影響が強くなっていると述べた部分だ。
企業の賃金・価格設定行動が積極化する下で、過去と比べると「為替の変動が物価に影響を及ぼしやすくなっている面がある」と強調したところだ。
足元では、米経済のソフトランディングへの期待感の強まりや米大統領選におけるトランプ前大統領の優勢報道などで米長期金利が上昇しやすくなっており、ドル高・円安への圧力が高まっている。市場の一部ではトランプ氏の当選が決まれば、ドル/円は155円を突破して160円に接近もしくは上回る水準まで上昇するとの予想が台頭。この見方が現実化すれば、日銀は次の利上げを本格的に検討するだろうと予想する。
<賃金とサービス、消費に前向きの評価>
2つ目は、賃金の上昇とそれに関連するサービス価格の上昇について、植田総裁が前向きの評価を下した点だ。民間エコノミストの一部では、サービス価格の上昇が鈍く、個人消費も利上げを検討するほどに活発化していないとの見解が出ているが、植田総裁はそれよりも強気の見方を示した。
植田総裁は賃金に関し、毎月勤労統計の一般労働者の所定内賃金は前年比3%前後で推移し「そこだけを見ると、2%の物価目標と整合的な範囲に入ってきている」と述べ、賃金の堅調さを指摘した。
また、サービス価格についても10月の東京都区部消費者物価指数(CPI)で、ある程度の転嫁が広がっているとの見解を表明。消費も一部の非耐久財について節約の動くが見られるものの、耐久財を含めた消費全体は緩やかに上昇しているとの見方を示した。
<円安進展なら、利上げ検討の可能性>
これまでも示してきた経済・物価の見通しが実現していくとすれば、それに応じて引き続き政策金利を引き上げ、緩和の度合いを調整していくとのスタンスを維持。会見ではこの点も丁寧に説明するとともに、国内の要因については、概ね見通し通りに進展しているとの見解を表明した。ただ、米国など海外経済の不透明感が残っており、その点などを見極めていく姿勢を示した。
このように見てくると、9月の金融政策決定会合で示したリスク判断と比べ、日銀は物価目標達成の確度が上がっているものの、利上げを決断するまでに至っていないと判断したのだろうと筆者は考える。
したがって12月会合までにドル/円が160円近くまで円安方向に振れた場合や、米経済の下振れリスクが大幅に低下したと判断できるなら、本格的な利上げ検討に着手する可能性があると予想する。
<自民・国民民主の政策調整の行方、日銀に影響を与えるのか>
ただ、今日の会見で植田総裁が全く具体的に回答しなかった要素も、日銀の総合判断の中に含まれると付記したい。それは、石破氏が11月11日に首相に指名された後に残る少数内閣の現実とその影響だ。
仮に自民、公明、国民民主の3党間で政策協議が進展し、2024年度補正予算案の可決・成立のメドが立ったとしても、2025年度予算案の編成と可決まで保証されたわけではない。予算編成の段階から国民民主が関与するとの合意ができるのかどうか今のところ不透明だが、25年度予算案の成立が見込めない段階で3党間にすきま風が吹き込むかもしれない利上げの問題を日銀が本格的に取り上げることになるのかどうか。今の段階では全く予測できない。
ただ、25年度予算案の成立に国民民主が関与することになれば、政治状況は劇的に変化し、日銀がフリーハンドを保持することも可能になるかもしれない。
さらに円安が進んで物価上昇が大きな政治問題となるようなら、来年7月の参院選をにらんで政治の側から利上げを求める空気が醸成される展開もゼロではない。
様々な要素を取り込みながら、日銀の政策判断が下されることになる。