漫画の思い出
萩尾望都『トーマの心臓』(5)
断乳後のユーリは、悪魔的なサイフリートに再会する。イヤイヤ期の再開。
ユーリの実家に向かうエーリクの脳裏にサイフリートの姿が浮かぶ。
「へんなやつだったな 髪の長い …なに者だったんだろう」
この台詞のあるコマには、鋳込まれたように眼鏡の顔が描かれている。それは、次のコマでユーリの祖母の顔になる。サイフリートと祖母の共通点は何か。強烈な被愛願望らしい。愛してくれる人を苦しめても愛されたいのだ。その願望はトーマのものでもあったろう。
ここで、ヒッチコックみたいに作者が登場する。もう限界ってことね。
作者はユーリの妹を演じる。彼女は病弱だ。〈男装の少女が女になりかけているが、未熟〉という隠喩だろう。
妹は洗礼を受けるキリストの絵を見ながら、エーリクとユーリの本質を暴露する。
「これがマ…」と言いかけて咳き込む。ママ? マリア? マリエ?
作者は三人の女を区別できない。区別したら、少女読者の不評を買いそうだからだ。祖母の原型は萩尾の母親だろう。そのことを身勝手に表出して、作者に余裕が生まれる。そして、物語は徐々に通俗的になる。エーリクとマリエの婚約指輪が外れる。外したのではない。外れてしまったのだ。
男装の少女は主体的に母親と決別したのではない。少年が母親を嫌うように、まるで指輪が外れるように、ヒロインは母親の支配から逃れた。この狡い展開を見て、少女読者は〈私は無罪だ〉と錯覚して喜ぶ。誰も悪くないんだよね。
この後、オスカーは、ユーリを「おやじ」と重ねていたことを告白する。二人の関係は、同性愛ではなかったのだ。父子関係の反復でしかない。これは思い出したくない母子関係の暗示だ。
トーマの謎めいた意味不明の遺書にあるように、この作品が描いているのは「性もなく正体もわからない」誰かとの愛なのだ。その誰かは母子分離以前の母親だ。自分を客体とする無条件の愛の主体は、自分自身と区別しがたい理想の母親だ。
エーリクがトーマの母親に迎えられる。エーリクは、母親の一方的で暑苦しい愛情に耐える義務はない。だから、主体的に母性愛を穏やかに受け入れることができる。
こうして母と娘の和解の物語が終わる、少女読者の頭の中で。
『トーマの心臓』の隠蔽された主題は〈母親探し〉だろう。ただし、ヒロインが誰なのか、判然としない。だから、彼女は母親と出会っても気づかない。『傾城阿波の鳴門』のお鶴のようなものだ。
不定のヒロインと作者を区別することは難しい。彼女はマザコンだ。母親を探すのは、母親から自立の許可を得るためだ。離脱するための再会。作者は、この矛盾めいた企みを反省できず、さまよう。
目隠し鬼のようだ。あちこちから声が掛かる。鬼さん、こちら、手の鳴る方へ。処女は、仲間たちに翻弄されて遊ぶ。作者は読者に翻弄されて仕事をする。
(続)