『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告
(5/12)「自尊心」
本来の自尊心は、尊大ではなかろう。
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自己に対して好意的な評価を行なうことを自尊心、自己尊重という。所謂集団から承認されたり、自己の能力に対する自信から自尊心は起きる。劣等感の補償として過大な自尊心が示されることがある。精神分析的には、自我が超自我から罰を加えられるおそれもなく、超自我から見捨てられる心配もなく調和を保っている状態。自尊心がなくなれば、うつ病的症状を示す。うぬぼれはうつ病的傾向を防衛するものである。
(『心理学辞典』「自尊心」)
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次の場合はどうか。
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共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
(中島敦『山月記』)
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こんな戯言に痺れるのが知識人だ。〔3450 『山月記』夏目漱石を読むという虚栄 3450 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。
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私はその時さぞKが軽蔑(けいべつ)している事だろうと思って、一人で顔を赧(あか)らめました。然し今更Kの前に出て、耻(はじ)を掻(か)かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)
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〔4323 「屁」のような「罪」夏目漱石を読むという虚栄 4320 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。
〔解答〕の「自尊心が強くて、実は脆(もろ)く弱い知識人」は意味不明。
普通の意味で自尊心の強い人は滅多に傷付かない。彼らにとって、ピンチはチャンスだろう。「実は」が怪しい。〈一般に〈「知識人」は「自尊心が強くて」脆くないと思われているが、「実は」違う〉といった意味に取れる。この場合、二人の「共通点」ではなく、「知識人」の「共通点」を述べただけだから、解答になっていない。
そうではなくて、〈SとKの二人だけが例外的に「脆(もろ)く弱い知識人」だった〉としたら、「知識人」という言葉は不要になる。この場合、〈SとKは知識人ではなくて、「実は」知識人の真似をしていた道化師だった(笑)〉ということになる。したがって、「共通点」は〈「脆(もろ)く弱い」性格〉などだ。
ただし、二人とも弱くはない。強気で、頑なで、負け嫌いで、他人を攻撃するタイプだ。〔3330 受動‐攻撃性格夏目漱石を読むという虚栄 3330 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。硬いと脆いよね。
(5/12終)