クラリネット
とても大事にしていたのに
壊れて出ない音がある
ドとレとミとファとソとラとシとドと
レとミとファとソとラとシとドとレと
ミとファとソとラとシとドとレとミと
ファとソとラとシとドとレとミとファ
(終わらない)
クラリネット
とても大事にしていたのに
壊れて出ない音がある
ドとレとミとファとソとラとシとドと
レとミとファとソとラとシとドとレと
ミとファとソとラとシとドとレとミと
ファとソとラとシとドとレとミとファ
(終わらない)
夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2221 「記憶のうちから抽(ひ)き抜いて」
Pの「記憶」は怪しい。
<私はその晩の事を記憶のうちから抽(ひ)き抜いて此所へ(ママ)詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰(もら)って帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見(ママ)ていなかった。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」二十)>
「その晩の事」とは〈夜話の段〉(上十六~二十)と私が勝手に呼ぶ場面での出来事だ。この夜、静は〈Sがネガティブになったのは「大変仲の好(い)い御友達」(上十九)の自殺と関係がありそうだ〉と仄めかす。「記憶のうちから抽(ひ)き抜いて」は意味不明。語り手Pは「抽(ひ)き抜いて」残った方の「記憶」について語っていない。だから、聞き手Qに二種の「記憶」の軽重について考えることはできない。
「書くだけの必要がある」というのは意味不明。「だけ」と「必要」は重複のようだ。〈読んでもらう「必要」〉があるのだろう。「会話」の間、Sは用があって外出中だった。Pが「帰るとき」には、Sは帰宅していた。わざとらしい。
<われわれが自分の行なったことや、他の人々が行なったことを思い出すとき、われわれは過去を考え直し、記述し直し、感じ直すのかもしれない。これらの再記述は、過去について完璧に当てはまるのかもしれない。そして、そうした再記述こそ、われわれが、今、過去について断定的に主張している真実なのである。だが、逆説的ではあるが、それは、過去においては真実ではなかった。言い換えれば、その行為が行なわれた時点で意味を持っていたような、意図的な行為に関する真実ではなかったのかもしれない。だから、私は、過去自体が、過去にさかのぼって改訂されていると述べているのである。私が言いたいのは、行なわれたことに対してわれわれの意見が変わるということだけでなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行なわれたこと自体が修正されるということなのだ。われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行なわれたときには存在しなかった意図的な行為というもので満たされていくのである。
(イアン・ハッキング『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』)>
時間の錯綜は、普通に起きる。だが、「再記述」の主体にその自覚はない。少しでも自覚すれば、再々記述を始めてしまうことだろう。
歴史を含め、通常の物語の語り手は、記憶の複雑な成り立ちを無視し、出来事があたかも必然的に生じたように語る。ところが、PやSは、そのように語らない。では、作者は、〈SやPは語り手として失格だ〉という表現をしているのだろうか。していない。
〈夜話の段〉において、実際には、青年Pは静との「会話を重く見て」いた。ところが、「帰るとき」には「気分」が変わって、自分が「重く見て」いたことを忘れてしまった。「重く見ていなかった」という部分は「再記述」に相当する。つまり、記憶幻想だ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2222 夢のような「記憶」
記憶は不確かなものだ。
<夜の音楽会。大ホールは満席。そこに一人のスパイ氏が座っている。彼は、ある女性を尾行している。午後九時。彼女が現れる時間だ。演奏は佳境に入り、有名な女性歌手の声量ある歌が、ホールに響く。スパイ氏の目は、彼女の居場所を突き止めようと客席を追うが、一方ですばらしい歌声も楽しみたい。
こんな時、スパイ氏の大脳の地図の二つのセットが忙しく活動している。一つは歌声を聞き、別のセットが尾行という、音を聞くのとは別のカテゴリーをつくって活動しているのである。
(イスラエル・ローゼンフィールド『記憶とは何か 記憶中枢の謎を追う』)>
Pの「大脳の地図の二つのセット」は、〈理想的な「先生」の物語〉と〈具体的なSの物語〉だ。P文書では、この二つの「カテゴリー」が混交する。
<その夜遅く、スパイ氏は、自分が尾行していた女性が、音楽会でどんな顔をしていたか、どうしても思い出せない。困ったことに、女性歌手が歌ったメロディーばかりが無意識に口をついて出てくる。しかも驚いたことに、彼の想像のなかで、そのメロディーは、尾行していた女性が歌っているではないか。これと同じような経験を持つ人がいるにちがいない。
これは、記憶というものは、人間の大脳のなかに生じたイメージが、そのままそっくり反復されて出てくるのではなく、大脳内でいったんカテゴリー化されたものが再構成されて出てくるのであるということを、よく示してる。カテゴリーの再構成が起きるのは、異なった大脳地図のニューロン・グループの結合が、一時的に強められるときである。
(イスラエル・ローゼンフィールド『記憶とは何か 記憶中枢の謎を追う』)>
青年Pは「スパイ氏」のようだった。彼は自分が「尾行していた」Sの言葉を、「先生」的人物が発したもののように記憶を作り変えてしまう。そのことにSは気づいてPに「警告を与えた」のだろう。ただし、『こころ』の作者がこうした真相を暗示しているのではない。
語り手Pは、「その人の記憶」について、「イメージが、そっくりそのまま反復される」ように語っている。つまり、文字で記録されたものを読み返すように語っている。ところが、同時に、「カテゴリーの再構成が起きる」としか思えないような事柄を語っている。その結果、本文は意味不明になっている。
『こころ』における「記憶」という言葉は意味不明だ。また、「記憶」の内容も判然としない。『こころ』の本文は、「記憶」の中身を確かなものとして語ろうとするPやSの意地の露呈みたいだ。この露呈が「自然」と形容されるのだろう。「記憶」は、夢のように「自然」なのだろう。ただし、作者が〈語り手たちは、知らず知らず、嘘をついている〉といった文芸的表現をしているのではない。Nが自身の混乱を露呈しているのだろう。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2220 不確かな「記憶」
2223 「ところがその晩に」
記憶の内容が変わらないまま、その価値などが変わるのなら、容易に自覚できよう。
<私が進もうか止(よ)そうかと考えて、ともかくも翌日(あくるひ)まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十八)>
「進もうか止(よ)そうかと考えて、ともかくも翌日(あくるひ)まで待とう」と決心したのは、「土曜の晩」だけではなかったのかもしれない。「Kは自殺して死んでしまった」という出来事のせいで、「その晩」が特別な晩としてSの記憶に残ったのかもしれない。つまり、実際には、特別なことが起きるまで、Sは様子見を続けていたろう。真相は、〈いつまでもKの出方を「待とう」〉と「決心した」〉というのではなかろうか。私には、そのように疑われる。そのように疑わない語り手Sの魂胆を、私は疑う。
作者が〈Sは記憶の偽造を反省できない人間だ〉といった文芸的暗示をしているのであれば、辻褄は合いそうだ。しかし、そんな様子はない。だから、『こころ』は意味不明なのだ。
<自分と三千代との現在の関係は、この前逢った時、既に発展していたのだと思い出した。否、その前逢った時既に、と思い出した。代助は二人の過去を順次に遡(さかの)ぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出(みいだ)さない事はなかった。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。
(夏目漱石『それから』十三)>
「自分」は代助。〈婚前の三千代は代助を愛していながら、代助によって平岡と結婚させられた〉と代助は思う。「思い出した」は〈思い起こした〉と〈思い始めた〉の二様に取れる。この二種の作業は、同時に進行しているようだ。ただし、語り手がそのように語っているのではない。作者も記憶幻想の可能性を考慮していないはずだ。
「いずれの断面」についても具体的に語られていない。「愛の炎」の記憶が代助にはないからだ。「愛の炎」は、「過去」ではなく、現在における代助の感傷の比喩にすぎない。彼は〈「愛の炎」の物語〉という空疎な物語の世界を借りてきて、その世界の主人公を演じようとしている。勿論、語り手がそのように語っているのではない。作者が〈三千代に対する代助の関係妄想〉と〈作中の現実としての三千代と代助の「関係」〉とを混同しているのだ。
語り手は、次のように続けるべきだろう。
〈「自分と三千代の現在の関係は、この」次逢う時、さらに「発展して」いることだろう〉と、代助は「思い出した」〉
作者が〈恋愛とは被愛妄想の共有だ〉といった文芸的表現を試みているわけではない。
Nは、〈男女関係はどのように成立し、中断し、そして、再燃するか〉という問題に答えられない。そのことを自他に対して隠蔽するために小説を悪用している。
(2220終)
夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2211 「世間を憚(はば)かる遠慮」
『こころ』の冒頭の三文は、二種の物語を、同時に、しかも、不十分に暗示している。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取(ママ)って自然だからである。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
第三文は、前の二文の混乱を受け継ぐ。作者はついに墓穴を掘る。
Ⅰ 「私(わたくし)は」ある人に呼び掛けるとき、「その人を」名前などで呼ばず、「常に」ただ「先生と」だけ「呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にする。「その方が私に取って自然だからである」(「先生」と書くのはP的「自然」だ)
Ⅱ 「私(わたくし)は」ある人について語るとき、「その人」のこと「を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にして、「本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮」のためだ。(「本名」を書かないのはP的「遠慮」だ)
形式的には「これ」は〈「本名は打ち明けない」ということ〉だけを指すはずだ。語り手PはSの「本名」を暴露しない理由として「遠慮」を排除しているのにすぎない。Pは、〈「遠慮」または「自然」〉という見せかけの二者択一によって真相を隠蔽している。
「というよりも」だから、「遠慮」は排除されていない。「私に取(と)って自然」はナンセンス。「自然」の真意は〈癖〉だろう。Nは〈nature〉と〈nurture〉を混同していたか。
<物事の考え方、感じ方の、その人独自の傾向から、からだの特殊な、また、無意識にでる動きまでを含んでいう。
(『日本国語大辞典』「癖」)>
Sの前では、青年Pの口から「先生」という言葉が「無意識に出る」ことはあったろう。だが、Sのいない「此所(ここ)」でなら、意識的になれるはずだ。
<自然はよく妙な失策をやりますよ。
(ドニ・ディドロ『ラモーの甥』)>
Pの「自然」が「口癖」のことなら、ややこしいことになる。
喫煙はストレスの解消になるが、禁煙もストレスの原因になる。語られるPはSに向かって「先生」と呼ぶことによって「淋(さび)しい気」を「常に」晴らしていたようだ。一方、Sがいないとき、「先生」と呟かないと、唇に「淋しい気」が生じるのかもしれない。そして、その違いに語り手Pは気づいていないのかもしれない。作者も。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2212 「筆を執っても心持は同じ事」
『こころ』の第一段落を丸ごと引用する。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取(ママ)って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云(い)いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所(よそ)々々しい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
「私に取って自然」は不自然だ。「口癖」が止められないのなら、心の病気だ。止めたくないのなら、その理由をもっと誰にでもわかるように説明すべきだ。
<クライスラーの自然の本性には、自分を滅亡させようとする嵐のような瞬間と闘って勝利をおさめるやいなや、異常なもの、神秘めいたもののもつ緊張そのものがかれの心情に心地よい作用を及ぼすという点がみうけられた。
(E・T・A・ホフマン『牡猫ムルの人生観』)>
「記憶を呼び起す」なんてことが実際にできるのなら、知識問題は満点だろう。
Sの生前から、青年Pは〈「先生」伝説〉の語り部になっていた。だから、「筆を執っても心持は同じ事」というわけだ。
「頭文字(かしらもじ)」は「余所(よそ)々々しい」ものか。〈JFK〉は、よそよそしいか。〈MM〉は、〈BB〉は、〈CC〉は? 「K」はよそよそしいのかもしれない。
〈えへん。よろしいかな。今からある人の話をしよう。その人はもう死んでいる。生前、その人のことを、私は「先生」と呼んでいた。その人は、「先生」と呼ばれるのにふさわしいキャリアを積んだ人ではなかったが、私は彼を呼ぶとき、あえて「先生」という言葉を用いていた。「先生」という言葉に、私は特別の思いを込めていたのだ。その思いは、その人に伝わっていたはずだ。私の口から出る「先生」という言葉の真意を知るのは、私とその人だけだった。私は、特別な思いを込めて、その人に「先生」と呼びかけていたが、そうした思い込みが許される人間は私しかいなかった。その頃の私は、自分がその人にとって特別な人間であることを暗示するために、その人のことを他の誰かに話すときでさえ、常に「先生」という言葉を用いていた。私が優れた人間であることを認めてくれたのはその人だけだったから、私が優れた人間であることを認めてくれたその人は、多くの人にとっても「先生」であってくれなくてはならなかったのだ。語り手に成り上がった今も、私は私の聞き手に対して同じ策を弄している。おお、私は何と賢いのだろう。どうだ! 拍手をなさい、ぱちばちと、世間の馬鹿どもよ。(呵々大笑)〉
本文が意味不明だから、異本は簡単に作れる。もっと続けようか? 読みたくないよね。
2000 不純な「矛盾な人間」
2200 不自然な「自然」
2210 第一段落を読む
2213「呼び起すごとに」
「私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云(い)いたくなる」という文に続いて「筆を執っても心持は同じ事である」という文を読むと、ウッとなる。
Ⅰa Pは、Sのことを思い出すたびに、P自身の「記憶」の世界の住人であるSに向かって「先生」と呼び掛ける。
Ⅱ Pは、Sのことを誰かに語るとき、「先生」という呼称を用いる。
この二つの行為について「心持は同じ事」とするのは、解せない。
読者が確かに知りうるのは、Ⅱのみだ。したがって、Ⅱを主軸にしてⅠaを改定しなければ、本文には意味がない。〈「云(い)い」∽「筆を執って」〉だろう。つまり、「云(い)いたくなる」というその相手は、S以外の誰かだったわけだ。たとえば、Pの「両親」や「兄」だろう。「友達」は含まれなかったのかもしれない。
Ⅰb Pは、Sのことを思い出すたびに、誰かにSの話をしたくなって、そして、する。その場合、「先生」という呼称を用い、「本名」は用いない。
本文は、Ⅰbを表現しているのではない。〈Ⅰa→Ⅰb〉という展開を総括しているのでもない。ⅠaはⅠbに含まれるのだ。〈「先生」の物語〉という曖昧模糊とした物語が先にあり、Pは「先生」役としてSを「見付出した」のだった。自分が語り手に成り上がるためだ。
「呼び起す」が怪しい。
<忘れていたことを思い出させる。また、ある感情を生じさせる。
「一枚の写真が古い記憶を―」「妙なる調べが感動を―」
(『明鏡国語辞典』「呼び起こす」)>
「一枚の写真」は〈「一枚の写真」を見たこと〉などの略だろう。
本文の場合、「一枚の写真」に相当する言葉が欠落している。「私」は、「云(い)いたくなる」の主語だが、「呼び起す」の主語ではない。「呼び起す」の主語は、不明なのだ。
<三四郎は急に気を易(か)えて、別の世界の事を思出した。
(夏目漱石『三四郎』一)>
「思出した」は、〈思い出がよみがえった〉か、〈思い始めた〉か、わからない。つまり、〈「急に気」が「易(か)」わったせいで、「別の世界の事」がよみがえった〉という話なのか、〈「気を易え」るために、「別の世界の事を」「急に」思い始めた〉という話なのか、わからない。「急に」があるせいで、本文は意味不明になっている。「急に」がなければ、〈思い始めた〉が適当だろう。「世界」は三四郎の自分語。「急に」は不図系の言葉。
(2210終)
夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2151 「先生」はあだ名
「先生」という呼称によって「本名」を秘匿し、PはSを神秘化する。
「本名」の真意は〈実名〉だろう。
<事実・実体に相応した名。
(『日本国語大辞典』「実名」)>
語り手Pは、Sの「実体」を隠蔽したいのに違いない。
<物の名と実とを一致させること。
(『新漢語林』「正名(せいめい)」)>
「先生」は、あだ名のようなものだ。あだ名は、本名を隠す働きもする。
<一般に前近代社会では名前は単なる記号ではなく、呪術的意味をもち、地位や身分、帰属集団などを示す役割を果たした。
(『日本歴史大事典』「名」坂田聡)>
語り手PはSの正体を隠蔽している。作者は「呪術的」思考を隠蔽しているはずだ。
<実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。
(『日本国語大辞典』「字(あざな)」)>
Nは日常的に呪術的思考をしていたのに違いない。
<化け物は正体がばれるとその呪力(じゅりょく)を失うものである。古代では名前は物そのものと変わらないから、名前を知られた化け物はひとたまりもなく降参してしまう。
(稲田浩二・稲田和子『日本昔話100選』「大工と鬼六」)>
鬼六の同類がグリム童話に出てくる。その名はルンペルシュティルツヘンという。
〈粉屋の娘は、小人の力を借りて藁から金糸を紡ぐ。それを贈られた王様と彼女は結婚するが、小人は見返りに彼女の子をほしがる。彼女は小人の名を唱えて彼を撃退する〉
小人の名について、「ピョンピョンはねる小さな棒? 錘(つむ)、でしょうか」(乾侑美子『「ルンペルシュティルツヘン」って何でしょう?』*)という説がある。
〈粉屋は貧しい家の娘たちに糸を紡がせ、搾取し、王に賄賂を贈って貴族になった〉といった真相が想像できる。
「先生」からは〈専制〉が連想される。Sは僭主のような怪しい人物だろう。救世主を騙る詐欺師のようなキャラだ。作者はそうした物語を隠蔽している。
*『ルンペルシュティルツヘン』パンフレット所収。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2152 「名もない人」
Pの母親は、SのことをPに話すとき、「御前のよく先生々々という方」(中六)と言う。Pの兄も「先生先生」と言う。Pは、家族に対してさえ、Sの「本名」を隠していたのかもしれない。Sは「先生」というあだ名の先生なのだろう。〈センセイ先生〉か。
<「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問して置(ママ)きながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いたことは聞いたけれども」
兄は必竟(ひっきょう)聞いても解(わか)らないと云うのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。けれども腹は立った。又例の兄らしいところが出て来たと思った。
先生々々と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授位だろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それが何処に価値を有(も)っているだろう。兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。
(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十五)>
「こないだ」のことを語り手Pは語らない。語り手Pは聞き手Qに対して〈QがSを尊敬しないのなら、「兄」の同類だよ〉といった暗示をかけている。作者も同様。
「自分で質問して」と「すぐ他(ひと)の説明を忘れて」は、別の物語。だから、これらを「置きながら」で結ぶのは無意味。
「聞いても解(わか)らない」は〈「聞いても」御前が「先生先生」と尊敬したように言うほどの立派な人物かどうか、「解らない」〉などの不当な略。
「私から見れば」は意味不明。「先生を兄に理解して」は意味不明。「必要」はあったはず。目的が果たせそうになくなったので、「必要はなかった」とうそぶく。この「なかった」は、語り手Pにとっての過去の出来事を表すのではなく、語られるPにとっての過去の出来事を表す。語られるPは自己欺瞞をしていたのだ。語られるPは、怪しげな魂胆を兄に見抜かれまいとしていたらしい。語り手Pは、語られるPの怪しげな魂胆を聞き手Qに対して隠蔽している。つまり、語られるPは兄を騙そうとして失敗したが、語り手Pはその失敗から学ばず、「兄」を俗物に仕立てることによって、Qを騙そうとしているわけだ。「腹が立った」というが、その理由をPは明示しない。愚兄賢弟の暗示か。Pは怪しい語り手だ。
「又例の」とあるが、先の「例」は語られていない。「兄らしいところ」は「動物的」(中十四)と形容されているが、具体性に欠ける。兄の方では〈「又例の」弟「らしいところが出て来た」〉と思ったことだろう。どっちもどっち。目糞が鼻糞を笑うような話だ。
突然の改行。そして、語り手Pは聞き手Qと会話を始める。実際には、語られるPが兄と会話すべきだった。情けない男だ。
「名もない」の「名」は、「本名」の「名」と同義だろう。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2150 「本名は打ち明けない」
2153 P的人間
Pと「兄」のやりとりに関する部分を会話に仕立て直そう。〈M〉は公平な司会者だ。
兄 先生先生というのは一体誰の事だい。
M 本当は、どんな人かって聞きたいんでしょう?
P こないだ話したじゃないか。
M 聞きました?
兄 聞いたことは聞いたけれども、必竟(ひっきょう)聞いても解らない。
M お二人とも困りましたね。どこからやりなおせばいいのでしょうか。
語りの場である「此所(ここ)」に移動し、語り手Pにとって都合のいいQが野次で参加する。
Q Pよ、頑張れ。
P 無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。
Q 異議なし!
M 本当に、そうなんですか?
P けれども腹は立った。
さらに、夢の中へ。
P 又例の兄らしいところが出て来た。
兄 御前のような高学歴の男が「先生先生」と尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならない。少なくとも大学の教授位だろう。
P 違う。名もない人、何もしていない人だ。
兄 それが何処に価値を有っているだろう。
Q 偏見だ。
M 普通ですよ。
P 兄の腹はこの点に於て、父と全く同じものだった。
Q そうだ! 父も兄もMも、引っこめ! 我々はこんな人たちに負けないぞ。
公平なMは、話し相手の「兄」とともに、Pの〈自分の物語〉から排除された。Pにとって都合のいいQだけが残る。『こころ』の読者は、このQに擬態しなければならない。
語り手Pは、Sの「価値」を過不足なく表現することができない。その弱点を隠蔽するために、語られるPの窮状を語ったのだ。語り手Pは怪しい。
作者が読者に対して〈語り手Pに注意せよ〉と示唆しているのであれば、支障はない。ところが、そんな様子はない。だから、実際に汚い手を使っているのは作者なのだ。
『こころ』はP的人間と「兄」のようなG的人間を選別する篩だ。「受け入れる事の出来ない人」とはGのことだ。P的人間は被害妄想的に外敵Gを捏造する。
(2150終)
(2100終)
夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2140 「此所(ここ)」はどこ?
2141 「ただ先生と書くだけで」
『こころ』の冒頭の第二文は、第一文の不備を補おうとして傷口を広げる。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
「だから」は、「此所(ここ)でもただ先生と書くだけで」までしか関わっていない。
「あんたのお名前、なんてえのお?」と、トニー谷が算盤を弾きながら歌うと、聞かれる素人はツイストを踊っていたっけ。思い出しただけ。
閑話休題。
〈「私はその人を常に先生と呼んでいた」の「だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけ」にする。ただし、「先生」の「本名は打ち明けない」でおく。その理由は次に述べる〉
このように語るのが日本語として適当だ。
「此所(ここ)」はどこ? 「此所(ここ)」がどのような性質の場所なのか、判然としないので、「本名」を秘匿する理由が推量できない。「本名」を明示しても、その後、「先生」で通すことはできる。たとえば、P文書では「静(しず)」と明記されているが、語り手Pは「奥さん」で通している。「ただ先生と書くだけ」の「ただ」と「だけ」は重複。「ただ」が名前みたいだ。
① 過去のPは、Sに向かって、「本名」を用いず、「先生」と呼びかけた。
② 過去のPは、Sについて誰かに語るとき、「先生」という呼称を用いた。
③ 「此所(ここ)」の語り手Pは、Sについて語るとき、「先生」という呼称を用いる。
④ 「此所(ここ)」の語り手Pは、聞き手Qに対して、Sの「本名」を秘匿する。
冒頭の二文の本筋は〈②→③〉だ。〈①→②〉というのは幼稚。他人には通じない。青年Pは、現実の②の場面でも、③のような物言いをしていたのだろう。つまり、Sが生きているときからPは〈SとPの物語〉の語り手だったわけだ〈③→④〉は唐突。
以上を繋ぐと次のようになる。
①… ② → ③ … ④
〈…〉は弱い流れを表す。①と④は、ほとんど無関係なのだ。何らかの関係があるとすれば、語り手Pは次のような真相を隠蔽しているのだろう。
〈過去のPはSについて語るとき、誰にもSの「本名」を打明けなかった。「だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」でおく〉
語り手Pは、〈青年PがSの「本名」を秘匿していた理由〉そのものを秘匿しているわけだ。ただし、秘密めかした気分を伝達しようとしている。暗示による忖度の強制。この文は謎めいているが、謎ではない。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2140 「此所(ここ)」はどこ?
2142 「受け入れる事」
思想には二種ある。〈広場の思想〉と〈密室の思想〉だ。
「此所(ここ)」が広場なら、そして、Sが「一人の罪人(ざいにん)」なら、〈静を含めた関係者の名誉のために「本名は打ち明けない」〉という判断は妥当かもしれない。
<古代ギリシアのポリスの公共建築物や柱廊に囲まれた広場。市場にも使われ、市民が政治、哲学などを論じて閑暇を過したポリス的生活の中心。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「アゴラ」)>
「此所(ここ)」は密室らしい。ただし、PとQの関係は不明。
<結社への加入に際してイニシエーション(入社式)を施し、会員が組織内部の位階に応じた秘儀を通過し、人間存在を変革していくこと自体に結社の存在理由をみいだしている。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「秘密結社」綾部恒雄)>
「人間存在」は意味不明。
「遺書」が読み上げられる「此所(ここ)」で、「入社式」が催されるようだ。
<私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と云っても差支(さしつかえ)ないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜(おし)いとも云われるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事の出来ない人に与える位なら、私はむしろ私の経験を私の生命(いのち)と共に葬(ほうむ)った方が好(い)いと思います。実際ここに貴方という一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にならないで済んだでしょう。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>
〈「過去」は「経験」で「所有」で「人に与え」られる〉らしい。意味不明。
「過去」の何を「受け入れる事」になるのか。〈「経験を」~「葬った」〉は意味不明。
「私の過去はついに私の過去で」なんて無意味。「間接に」は意味不明。
〈『こころ』は高校卒業程度の日本語の知識があれば十分に理解できる〉と主張する人は、次の三点について、わかりやすく説明しなさい。ただし、短めにね。
問一 「受け入れる事」とは、PがSの何をどうすることか。
問二 「受け入れる事の出来ない人」にも、「受け入れる事」がSの何をどうすることか、理解できるのか。理解できるとしたら、あるいは理解できないとしたら、なぜか。
問三 ある人が「受け入れる事の出来ない人」かどうか、どうやって判別するのか。
これらの問題に答えない『こころ』ファンを、私の読者として想定しない。消えろ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2140 「此所(ここ)」はどこ?
2143 「自分で自分の心臓を破って」
「自分以外のものを受け入れようとすればすべて『ふり』になる」(いがらしみきお『ぼのぼの』)とオオサンショウウオさんは喝破した。
<他方、ほとんどの人は単に物事を「受け入れ」てしまう。「これが小学校で教える事柄である」と言ってそれでおしまい。常に、「これが最良の方法なのだろうか」と問いかける必要がある。考えることが重要なのです。この能力は記憶を主体とする教育からは生まれない。
(吉成真由美『知の逆転』ワトソンの発言)>
「受け入れる事」とは、次のようなことか。
<私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せ(ママ)かけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新ら(ママ)しい命が宿る事が出来るなら満足です。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>
Sが依拠しているところの血液顔射儀式の実態を、私は知らない。だから、この文に含まれたすべての語句の真意がわからない。
Pが「満足」できなくても、Sは「満足」か。あるいは……。止めよう。空しい。
<「このぶどうしゅは、わたしの血(ち)、おおぜいの人(ひと)びとのつみをゆるすために、わたしがこれから流(なが)そうとしている血(ち)です。そう思(おも)って、のみなさい。そして、これからも、わたしのことを思(おも)いだすために、これとおなじことをたびたびおこないなさい。」
でしたちは、イエスのいうことがわからないながらも、なんだか、かなしい気(き)もちで、イエスのさいてくれた、パンをたべ、さかずきのぶどうしゅをのみました。
(山本静枝『キリスト』)>
私にはイエスの言葉がわからない。原典のカニバリズムの実態を知らないからだろう。
なお、伝統的社会に多くみられる秘密結社には入社的なものが多いが、これらはさらに、
(1)結社がその部族の社会組織の重要な一環を占めており、その部族の男は一定の年齢になるとすべて「死と再生」のモチーフを伴うイニシエーションを受け秘密結社員になるもの、
(2)妖術者(ようじゅつしゃ)や呪医(じゅい)、舞踏者たちが職能的、専門家的ないしは階級的な閉鎖集団をつくる場合とがある。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「秘密結社」綾部恒雄)
青年Pは「妖術者」か。作品の外部には夏目宗という秘密結社があるのだろう。
(2140終)