日曜の朝は、しばしば『ボクらの時代』というテレビ番組を観ます。観るか否かの判断は、その出演者が既知である場合は誰が出ているか、また未知の人であるときは、それが何を生業としている人間かによります。
20日ほど前は、山田孝之、仲野太賀、岡山天音という3人の男性俳優がそれでした。仲野くんはぼくが気に入っている役者です。観ない手はありません。
以下、10月13日放送『ボクらの時代【山田孝之×仲野太賀×岡山天音】』より一部分の文字起こしです。
******山田何か新しいことを挑戦するっていうときに、やっぱり、特に今の時代はネット、SNSがあるから、批判の声を恐れて行動できないことが多いんだけども、でも、初めてやることって下手くそで当たり前だと。だから、とりあえずやってみたらいいじゃん。で、何をやったって「つまんねぇ」とか「こんなの、やんなくていいんだよ」って言う人は絶対にいる。なにやったって。どんな絵かいたって。どんな写真とったって。だけど好きな人はゼッタイいるわけじゃん。(中略)とりあえずやってみて、見せてみて、誰かがなんかこう、あ、オレもやってみようとか、でイイとオレは思う。(中略)やらないとまずは最初に不安を考えちまうんだよね。で、仲間をけっこうみんな先に探そうとするんだけども、いないんだよ仲間なんて、最初は。でもとにかく一歩踏み出していけば、どこかで誰か一歩踏み出した人と方向がなんとなくいっしょだったらいつか交わって仲間になるんだよね。で、チームができていくわけよ。そのなかでもどんどん詰めていくと、ピンポイントでまったく同じとこを目指してる人っていうのは一人もいないと思うわけ。だから意見の食い違いが出たりもする。だけども、ちゃんとコミュニケーションをとってどうやってもっと伝えていこうかとすると次の段階にいけるから。だからやっぱやった方がいい、特に若い人は。******
山田くんが述べたこの言葉が、ぼくをいたく感激させました。
不安にゆれ批判におびえ仲間がいない孤独に耐えながらも、「まずやってみる(一歩踏み出す)」を繰り返すうちに、それは自らのなかで「方法」に昇華します。そうなったらシメたものです。
しかし、それでイッチョアガリというほど、人生は甘くない。不安や批判や孤独は、折を見ては顔を出し、時につきまとって離れません。
しかもそこに至ってのそれは、同じステージのそれではなく、高い段階や別の次元におけるそれなのですから、そうなったらなったで悩みは尽きないどころか、さらにパワーアップして襲ってきたりもするわけです。
もののついでですから、少しばかり弱音を吐かせていただくと、それがまた辛いのです。踏み出した一歩の産物としてそれがあるかと思えば、なお辛い。「結局オレが撒いた種じゃないのか、これは」てなもんです。
そこでまた批判が恐くなる。不安になる。仲間がいない孤独に耐えかねて「オイライチヌケた」と逃げ出したくなる。
ならば踏み出さない。あるいは、自ら進んで踏み出そうとはしない。ひょっとしたらそれが分別ある大人のすることなのかもしれません。そうすれば失敗をする確率は俄然低くなるのですし、己の精神安定を図る上でも好ましい。しかし、そのようなやり方が通用する世の中はとっくの昔に終わってしまっている、というのがぼくの状況把握です。
いや、通用しなくはない。ですがそれは、今そのときがよければそれでよし、あるいは、今そのときを保つためにしか通用しないものであり、今という時代で組織の将来を見据えたときには、やはり通用しないのだとぼくは断言します。
ではどうすればよいか。
そこで、「踏み出すという方法」を身につけていることが役立ちます。
そこからまた、やってみればいい。一歩踏み出せばいい。踏み出した結果が失敗か成功か、それはその場その時々次第と了見して、「一歩踏み出す」を繰り返すのです。
かといって、のべつ幕なしいつでもどこでも、前へと踏み出すだけでは能がありません。ただのバカです。時には「動かない」を選び「じっとガマンの子である」ことも必要。「一歩踏み出す」はあくまでも原理原則、あるいは基本スタイルとしてあるのであり、そこに固執し拘泥してしまうと道を誤ってしまいかねません。
と、それはそれで置いといて・・・
何をするにおいても、「つまんねぇ」とか「やんなくていいんだよ」とか言う人間は必ずいます。物事を推進するためにも、また己の精神を不安定にさせないためにも、そのような言を弄する輩には、はなから耳を貸さなければよいのですが、そうもいかないのが世の中です。
また、「つまんねぇ」とか「やんなくていいんだよ」とか、はっきりとアウトプットはしないけれど、態度や表情でそうと判別できる人たちも少なからずいます。これもまた斟酌しなければ済むのですが、それが同じ組織やチームの構成員ならばそうもいきません。
だから仲間を探そうとする。賛同者を生み出そうとする。それはそれでまちがってはいない。どころかむしろ、そちらの方が王道でありメインストリートでしょう。しかし、いつまでもその方法に拘らず、山田くんが言うように「いないんだよ仲間なんて、最初は」と早い段階で開き直ることが肝要なのかもしれません。
行動が結果を生み出します。それがプラスにせよマイナスにせよ、どちらにしても結果は行動からしか生まれません。
であれば、同じところを目指す仲間をつくることから始めるのではなく、また、異なる部分は見て見ぬふりをし、とにかく「一歩を踏み出す」。そして前へと進む。そのプロセスのなかで欠かしてはならないのが「伝える」という行為です。伝え合わなければ協働することはできません。
かといって、それで万事が上手くいくほど世の中は甘くありません。いや、むしろ、自分の思い通りにはならない、という意味で上手くいかないことの方が多いはずです。となると、不安や批判や孤独が、折を見ては顔を出し、時につきまとって離れなくなります。
あらあら、繰り返しです。
ループです。
ついでですから、これも繰り返させていただくと、これが辛いのです。
踏み出した一歩の産物としてそれがあるかと思えば、なお辛い。
「繰り返し」のなかから得られるものがきっとあると信じ、他人さまにもそう説いてきたぼくだとて、己がループの渦のなかにいると思うと心がへし折られそうになることがよくあります。
肝要なのは、「繰り返し」が同じところに戻らないようにすることです。
螺旋です。
螺旋は、ループするリズムによって生み出されます。ループをしなければ螺旋を生み出すことはできません。同じところに戻るのではなく、少しずつ精度を高め、3次元状に繰り返す。それが螺旋です。
2次元平面の上での繰り返しは、「元へ戻る」という結果しか生み出しませんが、螺旋というループは、ループすることを原動力としてその行動体そのものを高みに上げていきます。
ぼくの言う「繰り返しが方法に昇華する」とは、そういうことなのかもしれません。そうなればその「繰り返し」は、堂々巡りや無限ループとは決定的に異なるものとなっているはずです。
そこにおいては、「繰り返し」の結果としての現状を平面的に捉え、元へ戻っていると判断するか、たとえわずかでも高くなり、螺旋状となっている現状を正確に認識し評価を与えてやるか、どう捉えるかという観点と態度も大切なものとなるでしょう。
20日前の朝、山田くんの言葉にうんうんと頷きつつ、思わず胸があつくなり、己の来し方と重ね合わせて言語化しようとしたのはよいのですが、これが思いもかけず難行で、うんうんと唸りつつ悪戦苦闘。明かりも見えず結論も出ないまま、とうとう放り出してお蔵入りにしていたこのテキスト。ふと思い出して読み返し、筆を加え稿をあらためているうちに螺旋というキーワードに考えが至ると、そこからは絡み合った糸がスルスルと解け、やっと陽の目を見せることができました。
こういうのもまた、螺旋的なのだろうな、いやきっとそうにちがいない、などと、少々我田引水的に思ったりする朝。さて、この稿、なんとタイトルをつけようかとひとしきり考え、「螺旋式」としてみたのですが、如何?