ひとの行為が意味をもつためには、誰かの反応が必要です。
誰かの反応があったとき、自分の行為が他者にどのような影響を与えたのかがわかり、その結果として自分にとっての意味が生まれ、そうやって生み出された行為の意味は、それへの反応、またさらなる反応という反応のキャッチボールが、次の行為、次の反応を引き出し、あらたな意味が付与されながら変化していきます。
それはすなわち、あるひとの行為がもつ意味は、他者の反応に依存しているということに他なりません。そこにあるのは相互作用です。そのなかでひとは、自分の行為の意味を見つけたり、自分の行為に意味を見出したりするのです。
たとえば誰かに喜んでもらおうとしたとします。「喜んでもらう」ためにしたその行為は、自分自身の存在意義を他者との関係性のなかで見出すためのひとつの方法であり、他者をおもんばかったり、他者に忖度したりするのと同様に、他者を喜ばせようとすることは、自己の存在を確認しながら他者とのつながりを強めていくということでもあります。ですから、他者のために何かをするその行為に、自らの喜びが生まれるのです。
かといって、その「他者のため」が打算的なものかというと、そうでもありません。たしかに、そこには「自分のため」があり、それを完全に排除することはできませんが、まず「他者のため」という思いの発動を起点として行為が生じている限り、「他者のため」が「自己のため」と不可分であることを、それほど苦にすることはないでしょう。
行為の先に自分に返ってくるものがあるとすればそれでよし。たとえ返ってこなくてもそれでよし。行為の結果ではなく、行為そのものに意味があるのですから、結果としての見返りは、副次的な産物でしかないと思い定めるべきでしょう。
ひとは他者との関係性のなかで生きています。他者の存在がなければ生きてはいけません。したがって、貴方やぼくが直面する問題のほとんどは、人間関係によって生じます。人間関係そのものと言っても過言ではないでしょう。局所的また部分的には、それをスルーすることもできなくはありませんが、そこを無視したままでは、問題を解決することはできません。
だからといって、全面対決正面突破で白黒をはっきりすることを奨励しているわけではありません。
他者の存在は、自分が何ができて何ができないか、あるいは、何がわかっていて何を理解できていないかを教えてくれるものです。そうやって認識した自らを成長させ、また成熟させるためには、他者の反応や承認が不可欠です。他者は、たしかに自分以外のものではあるのですが、自分と切り離すことができるものではありません。だから、時としてその存在が苦々しく腹立たしく、その関係が悲しく辛いのですが、それらの想いは、すべて逆転の可能性と共にあることも事実です。
だからこそ、自身の重心を一点に定めることなく、他者と平衡を図り、折り合いをつけ、落としどころを探るという行為が必要不可欠なのだとぼくは思うのです。
花森安治実用文十訓(その十)に曰く、「一人のために書く」。
以上、その「一人」が自分であってもいいじゃないか、の巻でした。
恐惶謹言(笑)。