一部の人たちから「師匠」と呼ばれるようになって久しい。
もちろんそれは、いわゆるニックネーム、愛称のようなものであり、当然ながら、ぼくのことを本当に師であると思い定めてくれた人は、そのうちのごくごく僅かな人たちにすぎない。
呼ばれはじめた当初は、なんだか尻がこそばゆく、ついつい苦笑いを浮かべてアタマをぼりぼりと掻いていたものだが、いつしかそれにも慣れ、今では「師匠」と呼ばれると、「ハイ」と返事をしてしまう。いやはやどうにも困ったものだが、それはそれで御愛嬌の部類だろうと観念している。
そんなぼくを「仙人」と呼ぶ人がいる。はじめてそう呼んだのは、とある地方自治体の土木部幹部だった。
いくらなんでも「仙人」はないだろうと、聞こえないフリをしていた。その後もそれはつづいたが、ぼくのどこをどう見たらそのような表現となるのかを確かめたことがついぞないまま、その人とは疎遠になった。
2人目があらわれたのは、つい先日のことだ。それも、「土木」という名詞を先につけ、「土木仙人」とその人は言う。
あらためて辞書で意味を引くと、仙人とは道教由来の言葉。俗界を離れて山中に住み、不老不死で神通力を持つ人を指すという。これまでのぼくの理解にまちがいはない。
やはり、世俗にまみれたぼくに対しては、断じてあり得ない表現だ。
他にも「無欲で世事に疎い人」という意味があるらしい。それは初めて知ったが、これもまた、世事には敏感に反応するし、いつまでたっても我欲の塊であるぼくとは、対極をなす人のことを指している。
しかも、ぼくの頭部には毛がなく、ヒゲも薄い。仙人といえば、白髪白鬚と相場が決まっていることを思えば、ビジュアル的にも正反対にあると言わざるを得ない。
してみるとやはり、「仙人」はない。
ところで、余人は知らず、ぼくが「仙人」と聞いて実際に名前が出てくるのは李鉄拐、鉄拐仙人しかいない。中国の代表的な仙人である八仙のひとりだが、ぼくの彼に対する知識やイメージは落語『鉄拐』の主人公としてしかない。
噺のあらすじは・・・
******上海屋唐右衛門(とうえもん)は唐土のとある横町で異国相手に手広く商売をしている大店。新年の祝いには各国の出店から人が集まり、余興を楽しむ。珍しい芸を探せとの命を受けて番頭の金兵衛が旅に出たが山中で仙境に迷い込み、鉄拐と名乗る仙人に遭遇。一息吹けば分身が口から出る一身分体の術を持つと聞いて連れ帰る。宴当日、豆粒大の鉄拐が現れるとやんやの喝采。大評判になり、あちこちからお座敷が掛ると、俺も一山当てたいという御仁が出て来る。見つかったのが、いくら飲んでも酒が出るという瓢から馬を出せる張果老。人気が下火になり、妬んだ鉄拐は張果老の宿に忍び込んで瓢から馬を吸い取った。ところが馬を腹から出す術を知らず「馬上の鉄拐」を吐き出せない。それならと見物を吸い込んで胎内興行に切り替えたところ、「痛い!中で酔っ払いが喧嘩だ」。大きく咳払いをしたら酔っいた二人がころっと出た。誰かと思えば酒豪の双璧李白と阿淵明だったとさ。(東京のイベント情報『古典落語演目「鉄拐(てっかい)」』より)******
あらすじだけでもわかるように荒唐無稽でじつにバカバカしい噺だ。晩年の立川談志が、「粗忽長屋」「居残り佐平次」「芝浜」「二人旅」と並んで「これが俺の落語だ!」と選んだうちのひとつだというから、よほど気に入っていたのだろう。いかにもナンセンスや非常識、そしてイリュージョンを好んだ談志らしい。
と、そう考えると、「仙人」と呼ばれるのもわるくはないと思え始めた。
そうか、鉄拐がいるではないか。バカバカしくてナンセンスな仙人ならば、望むところだ(なれるはずはないけれど)。