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2017/09/21 伊賀市の上野城を訪ねる。
『尾張文化の会』のメンバー38名と敢国神社と伊賀上野城がある上野公園に行ってきました。(No392)
今回は勝川IC→亀山IC経由伊賀一之宮IC→敢国神社→(食事)→上野公園(芭蕉翁記念館→伊賀流忍者屋敷→俳聖殿→伊賀上野城)→中瀬IC→亀山IC経由伊勢湾岸から名古屋南JCT経由勝川ICの行程です。伊勢湾岸自動車道への迂回は弥富近辺の事故情報で渋滞距離が伸びてる情報にて迂回した。
伊勢、大和、近江国に囲まれた伊賀国は、小国であり古く荘園は東大寺の黒田荘・玉滝荘をはじめ、藤原摂関家領や興福寺、伊勢神宮の領地があった。その後、天正9年(1581)織田信長の伊賀への侵略(天正伊賀の乱)で鎮圧された、翌年の「本能寺の変」のとき、家康を護衛して伊賀越えの危難を救った服部半蔵は幕府に召抱えられた。きっと徳川家康の三代危機と言われることであろう。また、藤堂高虎が城の大修築のとき伊賀は『秘蔵の国』と言ったと伝える。
現在の首都東京には伊賀市に似た地名が多く有る。その代表は「上野公園」、「半蔵門」等が代表的である。
◎敢国神社(あえくにじんじゃ)
伊賀国一之宮の敢国神社は斎明天皇四年(658)に創建と云われ、ご祭神は三柱で主神は大彦命(おおひこのみこと)です。
御祭神の大彦命は、第八代孝元天皇の第一皇子で第九代開化天皇の同母兄弟です。近くに廟があり神社の鬼門方向1kmに御墓山古墳(国の史跡)である。
江戸時代には藤堂高虎が伊賀上野城の鬼門鎮護の神として神領が寄進され、藤堂家の崇拝厚く、社殿修理、祭儀の復興等が行われた。
石標 両部鳥居
拝殿前の石灯籠 拝殿
拝殿 境内で禰宜さん説明を受ける
・石造灯籠(市有形文化財)
慶長15年(1610)に後の上野城城代家老となった藤堂采女元則より寄進された。
石造灯籠(神殿横)
むすび社の鳥居 むすび社
むすび社の奥にある、楠社の神殿
芭蕉句碑は全国各地に多く建てられています。生誕の地伊賀市は中心部に約20有り、「ふるさと芭蕉の森公園」「くれは水辺公園」を含め市全体では約80の句碑はある。
・芭蕉句碑
貞亨五年(1688)芭蕉翁参拝のおり詠んだ詩です。
「手はなかむ 音さえ梅の 匂いか那」 者世越
者世越の句碑
・伊賀市の俳人宮城きよなみの句碑
明治35年(1902)生まれの俳人
「知る人乃 あるかや伊賀の 薺(なずな)唄」 きよなみ
句碑
◎上野公園
・伊賀上野城
天正13年(1585)伊賀の領主、筒井定次(さだつぐ)が天守を築いた。
慶長13年(1608)藤堂高虎が伊予今治から国替えされ、伊勢・伊賀の城主となった。築城の名手の藤堂高虎は城の大修築を行うに当たって。本丸を筒井定次の城より西に移し、日本一高い「高石垣」を築くなど、大改修に着手した。その後、天守が再建されなかったが伊賀一国の城として城代家老がおかれた。
石標 入口の石垣と彼岸花
上野城天守閣 筒井定次時代の石垣
・高石垣
慶長16年(1611)から着手した。西側(大坂方面)の守りを強化を目的に、石垣の高さ約30mののぼり、大坂城の石垣に2m足りないものの、堂々の第2位と云われる。
高石垣
高石垣
・芭蕉翁記念館
芭蕉直筆の色紙や遺言状などが展示され、芭蕉の足跡を辿ることができる。
(写真なし)
・俳聖殿
芭蕉翁の旅姿を表現して生誕300年を記念して建立、上層の屋根は芭蕉の笠を表現し、内部には伊賀焼きの芭蕉翁坐像がある。
俳聖殿 芭蕉翁坐像(伊賀焼)
・伊賀流忍者博物館
多くのからくりがあり、どんでん返し、隠れ部屋、天井の高さ、などの隠された演舞の忍者屋敷でした。
どんでん返しの演舞
以上
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