東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

HPからブログに移行し、ちょっと明るい雰囲気です。仏事、納骨、永代供養のご相談、どうぞお申し出ください。

河内の民話「堤所のお地蔵様」

2017-01-15 21:31:21 | 河内國の昔話
こんばんは。

いやぁ〜寒い1日でした。
なんか一日中雪がちらついてましたねぇ。

お参り、女房が運転手としてまわってくれたので助かりました。

さて、またまた河内の民話です。


「堤所のお地蔵様」




 加納の東から流れてきた井路川は日の本の樋(ひ)から二つに分かれています。その一つの流れに沿って百㍍程北西に小さな地蔵堂がひっそりと建っています。このお地蔵様はたいへん霊験あらたかだと、村人の厚い信仰を集めておられます。それには、こんな話が伝えられているからなのです。
 ある年の五月、毎日続く梅雨は、黒々とした濁水を下流へおし流していました。豊吉さんが川のようすを見回りに来たときです。濁流の中から射るような一筋の不思議な光を見たのです。光はまもなく濁流に消されたのですが、なぜか豊吉さんの心に強く残りました。
 また、その年の八月の夜のことでした。村の与助さんが光の差した堤へさしかかった時、川の方から声がしたように思いました。ちょうちんを差し出して川面を照らし、あたりを見回しましたが何も見当たりません。気のせいだったかと五、六歩あるきだしました。
 と、「助けてくれ!」含み声が聞こえるのです。
 「誰か川に落ちたのでは!」と、慌てて川を調べましたが、水は静かに流れているだけです。近所の人を呼びなおも必死に調べました。でも何事もありませんでした。
 それから、秋風の吹くころにも同じ声を聞いた人がありました。続いて聞こえる不思議な声や光に、村人は「キツネやタヌキの仕業ではなさそうや」「濁流で光るのも不思議や」「ずっと昔の紀州のお寺の話やけどー、海の底から金色の光が差すので、海女がもぐって調べたら金無垢(きんむく)の観音さんが沈んでおられたんやと聞いたことがあったで」「もしかして……」などと言う人があって、村中総出で川さらえをすることになりました。
 水をせき止め、すきやくわで底の泥を上げました。何度目か泥をすくい上げた時、カチッとすきの先に硬いものがあたりました。若者数人が、力を合わせて引き上げたのは一㍍程の石塊でした。
 その石の泥をとり除いた人々の目に映ったのは、船形石に浮き彫りにされたお地蔵様の尊いお姿だったのです。




 いままでの不思議な光や声などは、このお地蔵様のなされたことだったんだと合点した村人は、美しい水で洗い清め、清水地蔵と名付け、この地におまつり申し上げたというのです。
 その年は例年にない豊作で村中喜びにわきました。「お地蔵様を川底からお助けしたおかげに違いない」と、その後毎年八月二十四日の地蔵盆には、五穀で干支(えと)や、御名を表現する飾りつけなどをして、その御徳をしのんでいるのですって。
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河内の民話「維新と武士」

2016-12-24 20:56:16 | 河内國の昔話
こんばんは。
ちょっと更新が滞りがちです。

今日は「世界大冬至祭」ですね。
まぁ、年中行事ですから、難いことなしで。

またまた昔話シリーズです。

「維新と武士」

 千年以上むかし、祭神を奉じて加納の地に住みついた人びとの子孫が、宮座を組織して代々神社を守ってきました。その宮座の一つ、西組の座の長老・源兵衛やんの離れ座敷に、幕末より倉富という武士が住んでおりました。
 嘉永6(1853)年に米使ペリーが浦賀に来てから、開国か攘夷かと日本中が騒然となり、京都では天皇に政権を奪いかえそうと、公家たちが長州や薩摩藩を味方に策動し、京都守護職の会津藩士や新撰組と日夜激しく争いました。その争いの渦中に柳川藩の剣の指南役だった、この倉富さんもいたのです。
 ある春の宵、王政復古を願うための会合で清水の坂を下って来た所で、倉富さんらは新撰組の隊士と争う羽目になりました。その激戦でいっしょにいた無二の親友が命を落としてしまいました。
 友のあだ討ちとばかり、しゃにむに切りつけていたその時の倉富さんは、鬼と化してしまったのでしょう。松の木の陰にかくれている男を見つけると、勢いに乗じ、手を合わせて命ごいをしているその男を斬ってしまいました。その男とは、目の不自由な老僧だったのです。その翌日、倉富さんは悪夢のような昨晩の出来ごと、自分の振る舞いをどんなに悔やんだかしれません。
 やがて明治維新を迎え、日本中がようやく静かになりました。
 倉富さんは、世の中のための主義主張とはいえ日本人同士が殺し合う馬鹿らしさ、武士道の名のもとに縛られてきた自由。何もかもが空しく感じられ、静かに人生を送ろうと知己であった源兵衛宅へ身を寄せたのです。
 その間に、お世話になるお礼にと源兵衛やんの一人息子に、読み書きとともに剣の道と柔(やわら)を教えました。教える方は真剣そのもの、習う方ももとより利発もので熱心な少年です。めきめき腕をあげ、いずれも免許皆伝の腕前となりました。そのような時、倉富さんの目が日に日に悪くなってきたのです。
「これも、盲目の老僧を斬ったむくい」と、かつての所業を深く悔いる毎日でした。
 そんな時でした。盲目となる前に一度故郷の地へ帰りたいとの思いがつのってきたのは…。ある日、旅を案ずる源兵衛やんの止めるのも振り切って、故郷をさして旅立ちました。それっきり、倉富さんの消息は途絶えてしまったということです。源兵衛やんに残されている一巻の巻物のみが、倉富さんの心を今に伝えているように思えます。
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河内國の昔話「預かった赤ん坊」

2016-12-16 13:45:14 | 河内國の昔話
こんにちは。

さむ〜〜い。
寒いです。あきません。
気管支疾病のため、寒暖の差が激しいと厳しいです。

年末です。皆様もご自愛ください。

さて、河内國の昔話です。
今回は「預かった赤ん坊」というお話です。


〜預かった赤ん坊〜


 めっきり冷える秋の夜でした。加納村の源太さんは、妹のお里さんが産気づいたとの知らせで、お見舞いに行こうと夜道を急いでいました。おかげ灯ろうの横を曲がろうとしたとき、宇波神社の方から近づいてくる人影をみました。
 灯ろうのあかりに照らし出されたその影は、見たこともない美しい女の人でした。「ついそこまで、急いで行かんなりまへん。この子を、ちょっとの間お願いもうしま」女の人の言葉には、断ることのできない強い響きがあります。源太さんは、思わず両手を出して受け取りました。女の人はせかせかと急ぎ足で南のやみに消えていきました。
 源太さんは、とんでもないものを預かったと思ったのですが、かわいい赤ん坊の寝顔には見とれてしまいました。どれだけ時間が過ぎたのでしょう。赤ん坊が急に重たくなってきたのです。びっくりして赤ん坊を見ましたが、寝顔はかわりません。その間にも、赤ん坊は石のように重くなってきます。あまりの重さに放り出したくなるほどで額には油汗がにじんできました。
 もうこれ以上は耐えられないと思ったそのとき、すうっと一度に軽くなったのです。やれやれと思って赤ん坊を見ました。赤ん坊は相も変わらず、気持ちよさそうに眠っています。まもなく女の人が疲れた様子で帰ってきました。そして丁重に礼を言い、赤ん坊を受け取ると神社の方へ帰っていきました。
 ほっと息をついた源太さんは、「えらいおくれてしもうた……」と、お里さんの家へ急ぎました。お里さんは、無事に男の子を産みおとしていました。「やれやれそれはめでたい」と喜んで赤ん坊の顔をのぞきこんだ源太さんは、声も出せず息をのみました。赤ん坊は石のように重くなった先ほどの赤ん坊の顔にそっくりなのです。
 その上、お産の様子を聞いて、またまたびっくりしてしまいました。ひどい難産だったのです。母子ともに死ぬのではないかと思うほどにお里さんの苦しんだその時刻には、源太さんが預かった赤ん坊が石のように重くなったときです。やっと生まれたときは、腕が急に軽くなった時刻でした。あの女は、いったいだれだったのでしょう。
 加納の村人が五穀豊穣を願う氏神さまは、孝元天皇の妃(きさき)で河内青玉繋(かけ)のむすめ埴安媛(はにやすひめ)さまだといわれています。その女神さまが、赤ん坊を源太さんに預けた女(ひと)で、あの夜氏子であるお里さんの難産を救って下さったに違いないと、村人たちは今でも信じています。
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河内の民話 「うしのとき参り」

2016-12-01 21:35:08 | 河内國の昔話
こんばんは。

今回も河内の民話の紹介です。
写真は加納の鎮守「宇波神社」の本殿です。




「うしのとき参り」

 月もなく冷たい夜風は、肌を刺すように感じられる初冬の真夜中のことです。
 小加納(こがの)で開かれた賭場(とば)で日ごろせっせとためたお金を勝負に負けてしまった宇之吉さんは、しょんぼりと肩をすぼめて、油屋さんの倉を曲がろうとした時です。宇波神社の参道を、ゆらゆらと揺れながら近づく火に気がつきました。あたりは、異様な殺気に包まれています。ぎょっとして立ち止まり、目を凝らして見ていた宇之吉は、さっと倉陰に身をかくしました。
 近づいてきたのは、白い着物にざんばらの長い髪、額には、火のついたろうそくが二本、口が耳まで裂けたすさまじい形相を、その火が映し出していました。これがうしのとき参りをする女の姿なのだということを、宇之吉さんは知っていたからです。またこんな言い伝えのあることも―
 “うしのとき参りをする姿を見られてしまうと、のろい殺そうとする願いは神様にききとどけてもらえないばかりか、逆に、うしのとき参りをした者の命がなくなってしまうというので、この姿を誰かに見られたと感づいたら、今度は、姿を見た人をのろい殺すのだと……”
 宇之吉さんは全身の血がひいていく思いでした。見つけられはしないかと必死で息をひそめていました。
 風を切るように駆けてきた女は、まもなく神社の鳥居をくぐり拝殿へ―。前には黒い大きなものが横たわっているのが灯ろうのあかりに照らしだされています。拝殿の黒いものは牛で、毎夜一匹ずつふえ満願の日に七匹、その牛を飛び越えなくては願いは聞き届けられない、という言い伝えも宇之吉さんは思い出しました。女はその牛を軽々と飛び越えて一心に拝みます。
 誰かをのろい殺そうとする世にも恐ろしいうらみの深さ、女の執念の強さを目のあたりにして歯の根も合わず震える宇之吉さんです。
 やがて、祈り終えた女は、お社の奥の繁みに消えていきました。
 「カーン カーン―」 五寸クギを木の幹に打ちつける音を背に、宇之吉さんは夢中で駆け出しました。
 それからちょうど三日目のこと、クギを胸に打たれた人形が見つけ出され、村中の話題になりました。
 でも、日ごろ口の軽い宇之吉さんでも、この話だけは誰にも言えませんものね。
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河内の民話・キツネの悲しみ

2016-11-26 22:48:36 | 河内國の昔話
こんばんは。

今夜も河内の民話です。

あんまり続けるとネタがなくなるのですが、まだ大丈夫です。


《キツネの悲しみ》



 加納村の南に、猫の額ほどの田を作り、農閑期のときは、猟をしている幸助という人が住んでおりました。

 ある年の五月のことです。村の東を走る今米堤に、銃をさげた幸助の姿が見えました。堤の両側の畑は、おたふく豆の花が咲き競っていて、のどかな昼さがりです。幸助はその豆畑の中で眠っているキツネを見つけたのです。
「しめた。こんなとこに大きなキツネがいよったぞ」と銃をかまえました。
 その気配にキツネは目を覚まし、畑のうねを飛び越えて逃げます。しかし銃に自信のある幸助は「ズドン」。鋭い銃声が五月の空を引き裂きました。ねらいたがわず一発でキツネをしとめたのです。幸助は意気揚々と太い尻尾を垂らしたキツネを担いで家に帰り土間につるしました。このことを聞きつけた村人たちはつぎつぎと見物に来ました。そして一発でしとめた幸助の腕前に感心していました。
 しかし見物に来た人の中には、今にもこぼれ落ちそうな大きな乳房を持った母ギツネを哀れに思った人もあったのです。
 その夜のこと。上機嫌で寝た幸助は、雨戸をたたく音に目を覚まし、「だれやねん。今じぶんに―。どうしたんや」と窓から外をのぞいてみました。門口の前には、何か小さな黒い影が飛び跳ねているのです。月明かりでよくよく見てみると、それは、三匹のキツネの赤ちゃんなのです。その三匹が、しっぽで必死に戸をたたいているのです。「トントン、トン」とたたく音が「返せ、返せ」と聞こえるのです。
 幸助は「昼間に撃ったキツネのややこ(赤ちゃん)に違いない。まだ乳飲んどったんやなー」とあ然とつっ立っていました。
 どれだけの時間がたったのでしょうか。東の空が白みかけた時、キツネの赤ちゃんの姿は見えなくなっていました。
でも話はこれで終わったのではありません。
 やがて幸助の娘が美しく成人して嫁に行ったのですが、女の子を産んだ後、乳が大きくはれあがり痛み出しました。あらゆる手当てをしたのですが、少しも良くならず、ついに娘は苦しみながら死んでしまったということです。

「これはきっと母ギツネを殺したたたりやでー恐ろしいこっちゃなぁ」と村人たちは、うわさし合いましたと。
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