東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

HPからブログに移行し、ちょっと明るい雰囲気です。仏事、納骨、永代供養のご相談、どうぞお申し出ください。

このブログに掲載している民話について

2019-05-13 23:08:31 | 河内國の昔話
こんばんは。
またまた御無沙汰してます。

今日は妙政寺のブログで紹介している民話についてお話しいたします。

妙政寺のお檀家さんに西川増子さんという方がいらっしゃいます。
郷土民話を収集され、その語り部として活躍されてきました。
ご高齢のため、現在では語り部として講演活動が出来なくなられました。
以前から御自身の収集されてきた民話について出版もされていらっしゃるのですが、こうしたネットで発信という手段がなかった頃のことですから、住職のわたしに「何か役立てていただければ」と何冊もの本をお預かりいたしました。
データ化しやすいものから紹介しております。

語り部の西川増子さんが出版された本に語られた自身の想いを、ここに掲載させていただきます。
また、徐々にデータ化して紹介していきます。




 私達の郷土東大阪は、生駒山地で大和と境を接し、河内平野のほぼ中央部に位置しております。
 古くより河内平野を幾筋にもなって流れる大和川の運ぶ土砂の堆積によって、次第に形成されていった三角州や微高地、生駒山麓の扇状地が、人びとの生活の舞台となっていて、大和川の流れを利用する水上交通は、大和と難波を結ぶ交通の要衝として、大きな役割を果たしてきました。
 しかし、その大和川の流路は、屈折が多く水勢も緩慢で、次第に天井川隣、ひとたび大雨になると、川水が溢れて、堤防が決壊し、田畑や村落は泥酔に浸され、家が流出するなど、洪水による惨禍は、人びとにとって最大の辛苦となっていました。
 1704(宝永元)年、今米村の中甚兵衛によって、大和川のつけ替えが行われてより、多くの新田が開発され、天下の台所大坂の近郊農家としての営みを続けてきました。
 その長い間、為政者による政策に翻弄されながら、自然の災害による苦しみにも耐えて、この地にしがみつき、精いっぱい生きてきた郷土の人びとの姿が、親から子へ、子から孫へと語りつがれてきた多くの民話の中に浮き彫りにされております。
 私が収集しました民話は、数多くありますが、本書は、ミニコミ情報(あさひぴーぷる)に、平成2年より、毎月掲載された36話をまとめたものです。
 郷土の先人たちの、生きるための生活の知恵や、道徳観、また宗教思想や、その時どきの切実な願望などを読みとっていただければ幸いに思います。
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河内の民話「砂かけクスの木」

2019-03-10 23:41:53 | 河内國の昔話
こんばんは。
すっかり2月に逃げられてしまいました。
しかも3月も中旬に差し掛かってまいりました。
あと1週間もするとお彼岸です。

さて、久しぶりにの投稿ですが、河内國の昔話のコーナーです。



「砂かけくすのき」
温和な気候に恵まれ、豊かな農産物を背景とし、大坂という経済都市に接している河内地方は、江戸幕府にとって重要な地域でした。そこで大藩を置かず、天領として直接支配する村を多くして旗本領、藩領なども交え、複雑な入組(いりくみ)支配の下に領主の変遷を繰り返してきたのです。
幕府は領主が固まることによって生ずる農民たちの団結を弱め、それを防ぐ政策をとったのです。岩田村を支配していたのは旗本の永井佐渡守で、毎年年貢米をはじめ租税や助郷(すけごう)の負担などが多く、村人を困らせていました。
今日も今日とて、旗本の御母堂様の法要のための上納金を、とのお触れをもって、役人が庄屋の中園さん宅へやって来たのです。
今年の夏はひどい日照りで、水争いまでして給水したかいもなく、稲も棉の収穫もさんざんでした。年貢米は、借金までしてやっと納めた家もあったというのに、どうして、そんなお金を納められるでしょうか。
 庄屋さんをはじめ年寄衆は涙をながさんばかりにして、その件を、ごようしゃくださるよう何度も何度もお願いしたのですが、役人は情けようしゃもなく、
「今月の末までに、必ず用意しておくように………しかと申しつけたぞ」
きついお達しを突きつけて帰っていきました。
 その役人と従者が、前の庄屋、小枝家の塀に沿って歩いて来た時でした。急に風もないのに、小枝家のクスの木の枝がザワザワとざわめき出したかと思うと、大粒の砂が役人たちの頭上に降りかかりました。それも少しではありません。役人たちの目や背中までも入る程でした。
「ふらちな村人めー」
村人の仕業に違いないと、、かんかんに怒った役人は、従者に命じてクスの木の上に登らせたり、あたりをくまなく調べさせましたが、村人の姿などどこにも見えないのです。
 役人たちは、腹立ちをぶっつける所もないので、足音も荒く帰っていきました。
 このクスの木には、昔から「砂かけばば」が住んでいて、夜遊びしてきた道楽者が通ると砂をかけるんやー、といういい伝えがありました。が、その正体を見たものはいません。
 それはきっと「砂かけばあさん」の、無情な役人に対するささやかな抵抗だったのだろうと、村人たちは話し合っていました。




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河内の民話「太鼓楼」

2018-12-22 19:24:14 | 河内國の昔話
こんばんは!

今日は冬至です。
少し暖かい冬至ですね。

さて、今年最後の「河内国の昔話」になります。

仏名寺さんは、この辺りでは最も大きな寺院です。
本堂も群を抜いて立派です。ちょこっと羨ましかったりします。
今回は、その仏名寺さんにまつわるお話です。



「太鼓楼」

 「ドン ドン ドン」
 仏名寺の太鼓の音が、村中に響き渡りました。
 「お昼やでー。弁当にしようや」と刻(とき)を知らせる太鼓の音は、村人の生活に密着したものでした。
 山門の北にあったこの太鼓楼には、二匹の豆ダヌキが住んでおりました。
 春の彼岸会も近いある夜のことでした。打ち合わせに来た檀家総代の伊太郎さんと豊吉さんが、夜も更けてから寺を辞しました。
 庫裏の玄関まで和尚さんに見送られ、山門まで来た時です。ひょっこひょっこと草履の音も軽やかに近づいて来る小さな人影を見ました。それは、前かがみの小さいからだの寺の奥さんでした。あたりはおぼろにかすんで、芽のふくらんだイチョウの大木が頭におおいかぶさるように四方に枝を伸ばしておりました。
 「こんなに晩の遅いのにーごりょさんが門まで送ってくれはったなぁー」
 二人は恐縮して、何度も頭をさげて帰途につきました。
 山門から十間(20m)ほど来た時、豊吉さんがはっと立ち止まり、「寺のごりょさん、きのうから実家へ帰ったあんおとちがうか。おっさんが、そう言うたあったな」
 「せやけどー、さっきの人は、確かにごりょさんやったで。帰ってきはったんやろうな」
 そうかなぁー」と、合点はしたものの、何かはっきりしないものが残りました。
 そこで、二人は翌朝、田仕事に行く前に寺に立ち寄ってみました。
 「まだ、家内は寺の方へ帰って来とりまへん」との和尚さんの言葉でした。
 では、昨夜見た奥さんは幻だったんでしょうか。
 いいえ、それはきっと太鼓楼の豆ダヌキが、奥さんに化けたのだと、村人はうわさをしました。
 また、こんなこともあったのです。
 浅吉さんが、夜更けに山門の前を通った時、小さな黒い影が屋根から飛び降りてきた気配を感じました。
 と、浅吉さんはぴたっとその場にくぎづけになってしまったのです。下駄だけが地面に吸いついたように動かないのです。無理に右足を出そうとしたその時、頭や肩に力が入り、前にどてんと転がってしまいました。
 不思議にも下駄だけが二つちゃんと立っているのです。
 村人は、これも豆ダヌキが下駄の歯の間に入って人を転ばせるのだと、夜おそく寺の前を通ることを恐れておりました。
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月夜のコイ

2018-11-14 23:06:29 | 河内國の昔話
こんばんは。

河内の昔話シリーズです。

月夜のコイ

 それはそれは、月の美しい初冬の夜更けでした。
 ヒタヒタ ヒタ 眠そうな草履の音をたてて、弥太さんが樋の本(ひのもと)の舟着場にやってきました。
 今日は天満の町へ肥を汲みに行く日です。舟着場につないでいる剣先舟には、たくさんの肥たんごが積みこまれています。
 肥を運ぶためのたんごは、直径10cm位の穴を開けた上ふたをきっちりとはめ込み、穴は丸太を切って栓をして動かしても肥がこぼれないように工夫されているのです。
 その舟を、一本の竹竿で天満まで川を往復するのです。往きは、流れにのっていくうえ、たんごは空っぽですから楽なのですが、帰りは肥のたんごを積み、流れに逆らってこぐのですから大へんな重労働です。
 大阪の人たちが暁前の夢をむさぼっている時刻に、家々の大小便を汲みに回る仕事は、河内農民の重要な肥料を得る手段でした。
 その時、弥太さんは、川に入ってピチャピチャと音を立てている人影を見たのです。
 「だれやろう。いま時分おかしな事をしてー」
と、月の光に透かして見ました。その人影は、近所の作じいさんらしいのです。甚平らしいものは岸に放りぱなし、その横に草履が片方裏返しになって夜の湿りを吸っています。
 作じいさんは背を丸めて、魚でも捕まえるようなかっこうをしているのです。
 「作じいさん、作じいさん」
 大声で名を呼びましたが耳に届かなかったのか、じいさんはなおもざわざわと、深い所へ入っていきます。もう腰のところまで、冷たい水につかってしまいました。
 「なにをしてなあんねん。作じいさんー」
 とどなりました。
 やっと弥太さんの声が聞こえたのか
 「コイが。どえらいコイが、ほれ、ここにいよりまんねん」
 振り向きもしないで作じいさんは答えます。
 弥太さんは、じいさんの指す方をじっと目を凝らして見たのですが、月明かりではコイの姿など見えるはずもありません。
 「アッ」。弥太さんは気がついて大声をあげました。
 〝樋の本のキツネは、コイに化けるんや。そして、ぴちぴち銀鱗(ぎんりん)を光らせて人を川に誘い込み、だんだん深みへ連れていく〟と聞いている。これは、きっとキツネにだまされてんのやー、と慌てて作じいさんを岸に引き上げました。
 やっと我にかえった作じいさんは、それから長い間床にふせることになってしまいました。

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キツネつり

2018-11-05 19:40:25 | 河内國の昔話
こんばんは。
久しぶりに河内國の昔話です。




「キツネつり」

千年以上間にこの地に移り住んだといわれる、加納の人々の墓は、村落の東方の小高い丘にあります。
 その墓の北側は、深い竹やぶになっていて、クスノキやエノキの大木も多く、昼なおうす暗く気味悪いところでした。
 竹やぶにはたくさんのキツネやタヌキが住んでいたので、村人は稲荷祭の日や彼岸会には、赤飯と油揚げなどを施していました。キツネの魔力に敬いと共に恐れを感じる人が多かったのです。しかし、うどん屋が害を受けたり、折り詰めを取られたり、野つぼにはめられたり。コイが泳いでいるように見せられて、冬の冷たい川に入って寝込むなど、キツネの害が多くなりました。
 人をだますキツネを退治しようという声があがり、村でいろいろ協議した末、生け捕りにして日下の山へ連れていくことになりました。大好物であるネズミの天ぷらでキツネをつりよせ、傷つけないように捕らえるのが一番だと考えたのです。
 夕方、墓の前に舟を浮かべ、かんてきで火をおこしネズミの天ぷらを揚げました。香ばしいにおいがあたりに流れました。コンコン、という声を聞いたように思いました。ざわっと音がして、はっと緊張させられる一瞬もありました。でも、キツネは一向に現れないのです。舟の舳(へさき)と艫(とも)に吊るしたちょうちんが、ジジーと音を立ててまたたいています。
 「ほっ」と、だれかが大きな息を吐いたので、みんなの緊張が崩れたその時です。西の闇から、がやがやという声と共に、かすりの胴着や、荒い縞の着物を着た人影が近づいてきました。月が沈んだ闇の中なのに着ているものだけが浮かんで見える異様さにはだれも気づきません。その人たちは村の重兵衛、忠吉、茂助さんらで、みんな親しい人ばかりだったからです。
 「ご苦労さんだんな」
 「どんなようすでっか」
 など声をかけてきます。
 それに、二言三言応対しながら、舟上の人たちは「夜も更けてきたし、この考えも骨折り損に終わったか」との思いが強くなり、ぼつぼつ帰り支度にとりかかりました。
 と、一人の若い衆が、びっくりした声をあげました。今まで十五、六匹もあったネズミの天ぷらは一つ残らず無くなっていたからです。いつのまにか、重兵衛、忠吉さんらの姿が消えていたのです。村人は、いちようにじだんだを踏んでくやしがりました。
 それからは、キツネを捕らえようとだれも言わなくなったということです。

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