断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉑ 老いに垂々(なんなん)として仏脚を抱く
昭和18年10月12日の項に、荷風さん聖書を読むが出てくるのは驚きです。このころの前後は防空壕を掘ったり地方疎開を勧められて迷ったりしているけど、劇場興行もあり待合芸者営業もまだしていたころです。どうも本当の真っ暗闇というのは昭和19年前半からの一年数か月のようです。そのころ「仏蘭西訳の聖書を読むことにしたり。」(原文旧漢字)とあります。ここで荷風さんのいう「この教えは兵を用いずして欧州全土の民を信服せしめたり。」というのは、ちょっと物言いをつけたくなります。そんなうまいこと行くもんかなと素人考えですが思ってしまうところです。
さて、わたしの知識では耶蘇教は荷風さんのような生活を絶対許さないはずで、散々遊び散らしておいて先行き不安に思ったとか老いを感じたとかで、神様におすがりするのはちょっとわがままが過ぎはしませんかと言いたい。しかも、戦後荷風さんは再び遊び散らす生活に戻るんです。
荷風さんの実の弟のうち上の弟とは八重次さんを家にいれた際に義絶しましたが、下の弟はお母さんの実家鷲津家(この家は漢学が家業になっている代々学者の家)に養子に出ています。この下の弟さんがキリスト教の牧師さんになったというから、荷風さんにも、キリスト教に親しむような環境があったと考えられます。単に苦しい時急に神さん信心するのとは違うかもしれません。信仰心と野放図な生活は両立するのかはちょっと判断に迷うところです。
若いころ散々遊び散らして小説を書いて老いて仏門に入り尼さんになって、今度は若い女性の失恋相談に乗ると今度はそれが大流行りしたという人がいるらしい。一度でも咲かすのが難しいのに人生2度花を咲かせた。では荷風さんもこのまま戦後遊びに出なくなって、若い男の悩みの相談に乗って流行るかというときっとそうはいかなかっただろう。まずやたらに難しい言葉を使う、相手の意表を突く答えを準備してそれはいい解決案であることが多分多いと考えられるが相手が受け入れられないことを荷風さん平気で言うだろうと予測される。
テレビで見ていると先ほどの尼さんのお悩み相談は、相手が言ってほしいと思っていることを見透かしてそれを言うところがある。何しろ高名な尼さんである、それで相談者は安心するし喜ぶ。多分カウンセリングのコツはこの尼さんのやり方なんだろうと思う。荷風さんはカウンセリングのできないヒトであろう。
しかしこのころ荷風さんは、戦争末期から終戦直後は淋しい孤独であると盛んに言っている。(荷風さんにこそカウンセリングが必要であったと思われる。)芸者さんが仕事をしなくなったから行くところがなくなると淋しくなるが再開するとまた元気が出るのだから、まあ人間そんなものか。人間には趣味が大切ですなーとしか言いようがない。