本の感想

本の感想など

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉑ 老いに垂々(なんなん)として仏脚を抱く

2022-11-10 14:53:51 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉑ 老いに垂々(なんなん)として仏脚を抱く

 昭和18年10月12日の項に、荷風さん聖書を読むが出てくるのは驚きです。このころの前後は防空壕を掘ったり地方疎開を勧められて迷ったりしているけど、劇場興行もあり待合芸者営業もまだしていたころです。どうも本当の真っ暗闇というのは昭和19年前半からの一年数か月のようです。そのころ「仏蘭西訳の聖書を読むことにしたり。」(原文旧漢字)とあります。ここで荷風さんのいう「この教えは兵を用いずして欧州全土の民を信服せしめたり。」というのは、ちょっと物言いをつけたくなります。そんなうまいこと行くもんかなと素人考えですが思ってしまうところです。

 さて、わたしの知識では耶蘇教は荷風さんのような生活を絶対許さないはずで、散々遊び散らしておいて先行き不安に思ったとか老いを感じたとかで、神様におすがりするのはちょっとわがままが過ぎはしませんかと言いたい。しかも、戦後荷風さんは再び遊び散らす生活に戻るんです。

荷風さんの実の弟のうち上の弟とは八重次さんを家にいれた際に義絶しましたが、下の弟はお母さんの実家鷲津家(この家は漢学が家業になっている代々学者の家)に養子に出ています。この下の弟さんがキリスト教の牧師さんになったというから、荷風さんにも、キリスト教に親しむような環境があったと考えられます。単に苦しい時急に神さん信心するのとは違うかもしれません。信仰心と野放図な生活は両立するのかはちょっと判断に迷うところです。

若いころ散々遊び散らして小説を書いて老いて仏門に入り尼さんになって、今度は若い女性の失恋相談に乗ると今度はそれが大流行りしたという人がいるらしい。一度でも咲かすのが難しいのに人生2度花を咲かせた。では荷風さんもこのまま戦後遊びに出なくなって、若い男の悩みの相談に乗って流行るかというときっとそうはいかなかっただろう。まずやたらに難しい言葉を使う、相手の意表を突く答えを準備してそれはいい解決案であることが多分多いと考えられるが相手が受け入れられないことを荷風さん平気で言うだろうと予測される。

テレビで見ていると先ほどの尼さんのお悩み相談は、相手が言ってほしいと思っていることを見透かしてそれを言うところがある。何しろ高名な尼さんである、それで相談者は安心するし喜ぶ。多分カウンセリングのコツはこの尼さんのやり方なんだろうと思う。荷風さんはカウンセリングのできないヒトであろう。

しかしこのころ荷風さんは、戦争末期から終戦直後は淋しい孤独であると盛んに言っている。(荷風さんにこそカウンセリングが必要であったと思われる。)芸者さんが仕事をしなくなったから行くところがなくなると淋しくなるが再開するとまた元気が出るのだから、まあ人間そんなものか。人間には趣味が大切ですなーとしか言いようがない。

 


断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑳ あれは嘘であったようだ。

2022-11-09 15:27:13 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑳ あれは嘘であったようだ。

 日乗には至る所付き合った女性の名前とどんなことしたかまで詳しく書いてあって、物価統制時の生活がどんなもんであったかを知りたく読んでいる者にははなはだ迷惑な部分です。こんなことまで書くのは、のちの世の人に読んでもらいたいためなんだろう、あざとすぎる人だなと思っていた。または、小説の種を仕入れるその仕入れの過程をもう一遍文章にしてお金儲けするのとはがめつい人だな。または、こんなこと書いてある文章に文化勲章はちょっとおかしくないかとも思った。

 しかし、こうとも読める。付き合う女性を変えるのは新小説のネタを拾うためではなく、生きるエネルギーを得るためではないか。芸術への意欲と生きるエネルギーは同じものから得ている。その目で見ると、関根うたさんとの間に家庭的な平穏な生活をしていると元気がなくなるようである。昭和三年(荷風49歳)の年末には元気がなくなったと書いてある。しかし昭和五年一月には、山路さん子という新しい女性を得て再び元気と創作意欲を取り戻している。(ついでにこのころは不景気の時代)普通に考えれば芸術のエネルギーを多少失っても平穏で寂しくない老後の準備をすればよかったものを、わざわざ困難な道を選んでしまい不幸な人になってしまう分かれ道はこの昭和五年一月(荷風51歳)にあった。芸術家に不幸はつきものとはこのことが原因かもしれない。しかしそうでないと芸術家としては大成しない。

北斎は何十回も引っ越しした。部屋が汚くなると掃除するのが面倒で引っ越したとする評論家がいるが、多分環境を変えることが創作に大きな利得があったとみることができる。荷風が発見した小説家谷崎潤一郎は、東京から芦屋に居を移して新たな創作のエネルギーを得たようである。それと同じように環境をどんどん変えねば創作のエネルギーの枯渇するものなのだろう。芸術家の中には、鶏を描き始めたら鶏ばっかり、カボチャを描いたらカボチャばっかりですごい人もいるけど芸術家とはどんどん自分を変えていかねば成り立たない商売ではないか。

ならば今も多分義務教育では大事な徳目として教えているであろう「うまずたゆまずこつこつと努力することが良いことである。」①というのは、全く役立たないどころか生命力を保持するためには邪魔なことではないのか。そんなあほらしいことを大きな声で教えているとこへ行きたくないというのが、不登校児童生徒の思いではないのか。

さらにこれも中学あたりで盛んに教え込まれた気がするが「性の衝動を抑えれば、芸術のエネルギーに昇華される」②という教えはどうなんだ。荷風さんは衝動を抑えなかったので芸術のエネルギーを得た。抑えているときは元気を失った。この教え②を言い募った人物(誰であるか知らないが)と荷風さんを対決させたいもんだ。どんな警句を荷風さんがひねり出すか。

わたしは①も②も従順な工場労働者を作り出すための洗脳の言葉ではないかと強く疑う。


断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑲ 暗い時代のはずだけど結構楽しんでいる

2022-11-08 13:33:20 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑲ 暗い時代のはずだけど結構楽しんでいる

 伝え聞くところによると、大正12年の関東大震災の震災手形発行が原因で、昭和2年金融恐慌。

 その後昭和4年からの井上デフレ、昭和6年からの赤字国債を日銀引き受けをする高橋是清の金融抑圧の低金利の時代が昭和11年まで続く。(実際はそのあとは統制経済に入ったと考えられる。)低金利にするとインフレが起こるというのは素人にはわかりにくい話だけど、戦後のイギリスで実行されてずいぶんポンドが安くなったらしいから効果あるんだろう。この金融抑圧の時代は、今の日本と同じだから果たして同じことが起こっているのかを読んでみた。

 低金利であるから新産業が興るのかと思うのだけど、実際は人々は新しい仕事を始めようとはしないようで、なんだか停滞してしまうこと現代と同じようです。ここも素人にはわかりづらいけど現在もそうなっているようですから実験済みです。同じかどうかを知るのが目的でこの時代を再読したのですが、荷風さんは自分の人生が楽しげであることを書くのみのように見受けられます。

昭和8年に文無しの男爵が、女給のひもみたいになって女給の貯金をあてにして半ば詐欺みたいにして銀座で喫茶店を開く話が出てきます。(278ページ)しかしカネが尽きて男爵女給家主斡旋人の4人が話し合いをしていると、電灯会社の支払いをしていないもんだから部屋が真っ暗になったと嗤っています。銀座で聞きこんできた話で多分実話に近いものでしょう。もう少し脚色すれば小説にできるかもと思って、荷風さん日記に書き残したと思われます。フランス映画のラストシーンに使えそうな話です。

同じころ、男爵子爵が舞踏場で女給とどうこうして逮捕されたという話が出てきます。今の私どもは爵位を持っているとお金持ちで品がある人と思ってしまいますがどうもそうでもない人々と考えられます。日記のところどこで見られる「歓談深更に及ぶ。」の歓談とはこのような話をしていたと考えられますから、荷風さんはゴシップ好きの俗人で決して気難しい人とは思えない。

極めつけは、菊池寛他3名の文士がかけマージャンをして捕まったがこれは歳末のボーナス上げを狙った刑事達の点数稼ぎであるというような話まで書いていた。荷風は菊池寛が嫌いであるとどこかほかのところで聞いたことがある。嫌いな人の失態を書くことは当然楽しいことだろう。してみると、ついつい荷風に限らず文士は立派な人と思い込んでいるが、芸能週刊誌の記者みたいな仕事をしているような気がする。風采の立派なひとや評価の高い芸術家をむやみに気高い人のように思ってしまうが実質はそうではない。気高いと洗脳されてしまっているだけだから、時々断腸亭を読み返して洗脳を解く必要がある。

このように、読んでいるうちに金融抑圧の時代が現代とどこが同じなのかはついに読み取ることができなかった。ただ何となく時代の雰囲気が似ている。井上デフレのころはストライキが起こったり公務員の給料10%カットの話があったのにそれが無いだけましの時代である。ただ、現代の状態は金融抑圧が終わりそうなのでまさか昭和11年に相当するんじゃないでしょうなと恐れるところがある。


京の薬種商の内儀③

2022-11-05 12:27:34 | 日記

京の薬種商の内儀③

 仕事は自分には向いていないと思っていたが、さしあたりはやっておかないといけないことは十分わかっていた。歯抜けばあさんのおかげで、仕事のコツがわかるとずいぶん楽な仕事であることもわかってきた。初めての給金は半月分で20円であった。ばあさんは自分はひと月働いてその半分と少ししかもらってないと言っていた。自分は通いだから仕方ないとも言っていた。時々、ばあさんは気を利かして野菜を買うのにお雪を付き合わせてくれた。まず人の後ろをまた人が歩いているのにびっくりして、その人々が着飾っていることに気づくまで時間がかかったほどの驚きであった。

 内儀はいつも帳場に座っていて帳面をつけていた。用事のある時だけそこに番頭が座ることもあったが四名いる店員は一切帳簿に触れることは許されなかった。そうして毎夜番頭と内儀が帳簿と売上金をもって主人の寝ている部屋にやってきて、内儀が帳簿を読み上げ番頭がそろばんをはじくことが儀式のように行われた。その時主人を布団の上に座らせてその肉の落ちた背中を支えるのはお雪の役目であった。ごくまれに仕入れの部で定吉さんから何かを仕入れたのであろう定吉さんの名前が読み上げられるとひどく懐かしく思われる。しかしそのとき支払われた金額は驚くほど低いものだった。これでは交通費や宿泊費も賄えないのではないか、定吉さんのお商売はうまくいく目途が今のところ立っていないのではないかと思われた。

 帳簿と現金の残高が会ったとき主人はわずかに満足そうな表情を浮かべた。二人はこの表情を見ると目配せして主人の前から引き下がり、お雪は主人をふたたび布団の上に寝かしつけることができた。主人はこれを聞くことが唯一の生きる楽しみの様子であるし、二人はこれを聞かすことが仕事をする目的であるように見えた。

 祇園祭の時もお店は開いていた。この時ばかりは店員も交代で祭り見物に出かけることが許されたし、お雪もばあさんに連れられて少しの時間だが見物することができた。せっかくだったが祭りはお雪にとっては、ヒトが多いのに酔ってしまってむな苦しいだけであった。

 お盆の四日間お店は閉めるが、昼間くぐり戸だけは開けておいて急なお客には対応することになっていた。番頭も店員もみな帰るので内儀一人で対応する、といってもお客はそんなに多くはない。内儀はお雪に今年の藪入りはあきらめてくれと盛んに言ってくるが、故郷で自分の母親が自分のことを父親と同じようになるんではないか心配していることを思うと、ここはどんなことをしても帰らねばいけなかった。お正月は必ず帰郷しないようにするから、今年は返してくれと頼み込んでやっと帰ることになった。その間はばあさんの遠縁の娘さんが来てくれることになった。この程度の仕事ならご内儀が自分でやってもできそうなのだがと不思議に思うばかりである。

 母親のために古着を買い求め、お菓子を手に持てるだけ持って帰郷して一泊だけという約束であったのでせわしなく次の日の朝には発たなければいけなかった。姉には是非京で仕事を探すように勧めた。二人の稼ぎで町中に小さな家を借りて三人でやっていけるんではないかと相談した。二人ともまんざらではない表情であったので、三人で幸せに暮らしていけるかもしれないとやっと希望を持つことができた。お雪は絶対に再婚しないつもりであった。

 さて鈴虫の声が、背中を支えるお雪の耳にも喧しく聞こえるある夜のことです。いつもの通りそろばんをはじく番頭のそろばん玉の音を聞きながら、お雪も暗算で頭の中で計算しています。これはやるなと言われても読み上げを聞いていると自然に目の前に仮想のそろばんがあらわれ珠が動き出すのです。番頭が六の球を置かねばいけないところ四の球を置いたような音がしたので、思わず小さな声で「アッ」と出してしまいました。番頭は急に取り乱して指が動かなくなり「まことにあいすいませんご破算で願います。」と申し述べますが表情はなんだか苦しそうです。もう一度初めからそろばんを入れます。同じところでまた同じことがおこりまたお雪は「アッ」と出してしまいました。今度は何事もなく計算が終了しましたが、番頭の出した結果はお雪の暗算とちょうど二円違っていました。しかし番頭の結果とその日の現金残高はピタリ一致していてその夜はそれで何事もなく終わりました。