散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

大河ドラマ「春日局」 美化しているのに暗い

2018年11月13日 | ドラマ
大河「春日局」は平成元年のようです。30年前ですね。アマゾンプライムビデオで見ることができるので、さーと見てみました。

美化しています。春日局だけでなく、ほぼすべての人物を美化しています。「お江」なんかも「ものわかりのよい賢い女性」です。

徳川は豊臣を残そうとしたのだけど、徳川家臣になってまで生きたくないという「秀頼の美学」によって滅んだことになっています。

「美化しているのに全て暗い」作品です。春日局は生まれた時だけ幸福で、斎藤利三の死によって一気に転落、その後、家光と乳母になって苦労、権勢を握ってからも息子が死んで不幸。というように「とにかく苦労ばかり」なのです。

作者は橋田さんで「渡る世間は鬼ばかり」の人です。周りが鬼でもないのに、「春日局は苦労ばかりでずっと不幸」です。

やたらと明るい大河も嫌いですが、ここまで不幸ばかり描かれると気持ちが沈みます。バランスが大事だなと思います。

やたらと明るい前向きの大河でも「時代劇そのものが今の若者にとっては暗すぎるのかも」と感じました。

それにしてもこんな暗い作品だと思いませんでした。当時はよく見ていなかったような気がします。

歴史上の事件は一応抑えて書かれています。もっともその「解釈」は当然、春日局に「いいように」解釈されています。それでも春日局は不幸なのです。

大坂の陣以後の歴史について、大河ドラマはほとんど描きません。大阪の陣が最後であとは幕末まで飛びます。吉宗と「忠臣蔵」が描かれる程度です。

春日局の縁故の家系は沢山ありますが、息子の家系はやがて「淀藩」になって幕末まで続きます。「淀藩」か、、、という感じです。

齋藤道三は油売りではなかったの根拠は「六角承禎書写」だけなのか?

2018年11月09日 | ドラマ
歴史ドラマファンの私にとっては「斎藤道三は油売りから一代で美濃の国主となった」と信じているほうが「おもしろい」わけです。

でも最近は親子二代国盗り説が流行で、

あっという間に

「斎藤道三は油売りなどではなく、一代で国をとったわけでもない」という風になってしまいました。

根拠は何なのだろ?と「ネットで調べてみると」、今の段階では「六角承禎書写」という文章一つみたいです。

最後に「写」とあります。

偽書じゃないか、後世の写しじゃないか、と思ってもそれを実証する力はわたしにはありません。

学者さんたちが色々調べて、当時の資料としたのだろう、と思うしかありません。

でもじゃあ父親の長井さんは何をしていつ生まれたのか。となると「わからない」ということになるようです。

ただ「一つの手紙だけで、いとも簡単に史実が覆っていいのかな」とは思います。もう少し二代国盗り説を「補強する資料」が必要だと思います。

ブログ村の住人なんだが・歴史ブログの住人なんだが。

2018年11月09日 | ドラマ

HTMLというネットの「言語」がよく分からない私は、バナーを張り付けるのも一苦労。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

 

なんとか「にほんブログ村」のバナーは張れましたが、ブログランキングの方は無理だったので諦めます。下の方にバナーがでているので、そこを押すと行けます。

 

で、思うのが自分の平凡さ。「大河ドラマ関係」しか書けないので、結局戦国有名人、幕末有名人ばかりになります。

戦国でも畿内中心です。島津・毛利・伊達とかまして最上なんては「書けない」のです。まあ「毛利元就」だけは「大河になったことがある」、橋之助さん主演、で、なんとか書けます。あ、伊達もありますね。でも書けない。

「戦国島津」は主役にはならないので、書けるとすればせいぜい「関ケ原の退き」ぐらいのものです。

でも、色々疑問があります。

・最初の兵数は1700とか1500とか。まあそのぐらいなんでしょうが、西軍に入ったのは「なりゆき上しかたなく」なのかな?

・正面突破後の兵数はだいたい300となっているようです。

・戦がほぼ終わってから正面突破するぐらいなら、途中で徳川に内応して、「しずしずと帰っても」「いつの間にかいない」って感じでも良いのでは。

・そもそも本陣を突いたのか、本陣の前を通り過ぎたのか。ドラマでも作品によって描き方が違います。

一番疑問なのは「なりゆき上西軍」という点で、関ケ原後の「薩摩の外交力」と比べて、おかしな感じがします。

私の場合、日本史の学者ではなく「歴史ドラマファン」なので、そういう「素人的疑問」を、なんとか調べて、このブログを書いています。

でも歴史ブログをやっているかたは「こだわり」が違います。実に細かい点にこだわって書かれている。「へぇー」と思います。

下のバナーから行けます。が押すと「わたしのポイント」が増えるということも、予めことわっておきます。増やしたくなければ押さないでください。

ブログ村の注目記事欄に私のブログが二つ載っているのですが、どっちも「力をこめて書いたものではなく」、こっちの「思い入れ」とみなさんの興味は違うのだなとつくづく思います。


西郷どん・維新の三傑の死没年齢・高杉晋作・吉田松陰・伊藤博文

2018年11月08日 | ドラマ
維新の三傑とは、書く必要もないでしょうが、西郷・大久保・桂です。

死没は明治10年・11年で「ほとんど同じ時に亡くなって」います。

西郷は戦死で49歳  墓は薩摩にある。
大久保は暗殺で47歳 墓は青山霊園。
桂は結核による病死で43歳 墓は京都。京都霊山護国神社。幕末の志士たちを多くまつっている。

亡くなった時の年齢が50歳に達していないわけです。幕末の最終段階では彼らはみんな30代です。桂に至っては幕末段階では、まだ30歳ぐらいです。

西郷は南洲翁と言われます。「翁」ですから60は超えていたかというと、亡くなった明治10年で49歳です。島津斉彬に見いだされた時はまだ26歳ぐらいです。その後彼は斉彬の下で各藩の名士と交流しますが、それは20代後半の話です。斉彬が死んだ段階でも30歳ぐらいです。

ちなみに吉田松陰というと何か「老成」した印象がありますが、安政の大獄で切腹した時、まだ29歳です。高杉晋作は結核で病死27歳、坂本龍馬は暗殺時31歳ぐらいです。

伊藤博文は高杉と同じく松下村塾出身で、弟分ですが、2歳年下です。明治元年の段階ではまだ27歳ぐらいです。総理になった時点でも44歳ぐらいです。伊藤は67歳で亡くなりますが、明治も後期になると高杉のことは、回想で「高杉は」などと呼び捨てにしていました。そりゃそうです。だって彼の知っている高杉は27歳の「若僧」で、伊藤は「総理大臣経験者」です。むろん幕末にあっては「高杉さん」(もしかすると高杉君)だったでしょう。「君」はないかな。なにしろ高杉は「名家の子」で、伊藤は「士分ともいえない身分」です。ただ「君」は平等意識に基づいたもので「志士の間での流行語」でした。さすがに松陰は「先生」、木戸のことは「木戸公」もしくは「木戸先生」と呼んでいたようです。
ちなみに山縣有朋が死んだ時は既に大正時代で、83歳ぐらいのようです。圧倒的に長生きしました。生まれたのは1838年で、1839年の高杉晋作より「一つ上」です。高杉も病気にならなければ、大正時代まで生きていた「可能性」はあったのです。

篤姫・天璋院・徳川家定・徳川家茂・徳川慶喜 食生活は大切だ

2018年11月06日 | ドラマ
篤姫は13代将軍家定の正室です。今はとっても有名な人です。夫亡き後は天璋院。「璋」ってなんだろうと思ったら、玉(東洋で珍重された宝石)製品の「ひしゃく」みたいです。まあ「玉」という意味でしょう。

ウィキペディアを見ると「大奥」で菅野美穂さんが演じたとか「単発ドラマ、主役」で佐久間良子さんが演じた。大河「篤姫」で宮崎あおいさんが演じたと「3つの作品」が載っています。

何か忘れてはいませんか?と思います。大河「翔ぶが如く」で富司純子さんが演じましたし、大河「慶喜」では深津絵里さんが演じました。

大河「慶喜」は総集編すらDVDになっていません。私は昔、スカパーの時代劇専門チャンネルで録画したので、探せば全話分を持っていると思います。

「翔ぶが如く」が1990年ですから、1998年の「慶喜」の時には私は十分に篤姫のことを知っていたはずです。でも気が付かなかった。そもそもは、司馬さんの何かの文章で知りました。大変賢く、人望があったと書いてあった気がします。ちなみに小説「翔ぶが如く」には登場しません。小説の方は全部明治後の話だからです。大河ドラマの明治以前の部分は、脚本の小山内美江子さんが、司馬さんの他の幕末ものを参考に1から作り上げたものです。素晴らしい創作力です。

さて大河「慶喜」の篤姫ですが、すっごく「高慢ちきな女」なのです。あまり登場もしません。だから篤姫だと気が付きませんでした。深津絵里さんは1998年には「踊る大捜査線」に既にでており、「きらきらひかる」では主演もしています。なんで大河「慶喜」で「わきのわき」みたいな役につき、あんな「いやな女」を演じたのか、不思議です。

宮崎あおいさんの「篤姫」は「かろうじて1回観た」程度です。苦手な作品です。なにしろ主人公が徳川に嫁いでから一回も江戸城を出ないわけです。準主役は小松帯刀ですが、キャラとしては坂本龍馬の「いいとこ取り」みたいな人物として設定されていました。

夫である13代家定、堺雅人の設定が不思議でした。「暗愚のふりをしているという設定」でした。「子供のころから何度も毒をもられたから」だそうですが、じゃあ大人になって「将軍親政」を行い、敵を「粛清」すればいいと思いますが、どうも「トラウマ」を持っているみたいで、まあ不思議な設定でした。

史実としてもよく分からないところがあります。病弱だったということは良く言われます。「子供はできないだろう」と当時から思われていました。女性と性交渉ができない病弱な体ってなんだろうと思います。脳性麻痺とも言われますが、確実なところはわかりません。

とにかく子供は作れない。だから「誰を次の将軍にするか」が早くから問題となりました。一橋派が負けて、徳川家茂(いえもち)派が勝ち、紀州から入って12歳で将軍となります。篤姫は家茂を我が子のように育てた、らしい、のですが20歳で亡くなっています。脚気衝心つまり「かっけ」というビタミンB1欠乏症です。白米ばかり食べているとそうなります。玄米だと予防できます。豚肉を食べるとまずこの病気にはなりません。

実は篤姫の夫である家定も「脚気衝心」で亡くなっています。篤姫が食事を作っていたわけではないので、別に篤姫のせいではありません。でも「薩摩産の豚肉」を勧めていれば、家定も家茂も少しは長生きできたかも知れません。食生活は大切です。豚肉は「不浄なもの」ですが、けっこう「隠れて食べていた」人も多いのです。

徳川慶喜に至っては隠れて食うなんてこともせず、堂々と食べていました。でついたあだ名が「豚一様」です。写真をみると貴族風のなかなかにいい男なんですけどね。豚のおかげか、パンのおかげか、75歳ぐらいまで長生きします。亡くなったのは明治帝のあとで、大正2年です。幕末ものの本を読むのが好きだったようです。たぶんですが、夏目漱石だって読んでいたはずです。

さてドラマの天璋院にもどると、

富司純子さんが演じた時は驚きました。若い頃を別の女優が演じるわけでもなく、いきなり富司純子さんが10代を演じたわけです。幕末だってまだ30歳ちょっとで、亡くなった明治16年でも47歳です。でも富司さんの天璋院はいかにも「包容力があり」、西郷に対しても優しい人間として描かれました。

(西郷は斉彬の公武合体構想に沿って行動はしなかったけれども)

よい、世は流れているのです。吉之助は立派に世直しをしたのです、と西郷に告げます。西郷涙ぼろぼろでした。

北川景子さんの天璋院は「西郷、慶喜殿の首ひとつでこの戦を終わらせてくれ」と命令調でした。女優さんは綺麗ですが、セリフが美しくありませんでした。

慶喜の首ひとつ差し出す、自分も死ぬという論理です。まあ西郷あての手紙では「たしかにそんなことを書いては」いるのです。慶喜は天罰を受けても仕方ないし、自分もどうなってもいいが、徳川家だけは守ってほしい、とそう「書いては」います。なんで「天罰」いう言葉が出るかといえば、彼女は「息子同然の14代家茂を殺したのは慶喜だ」と信じていたからです。

が、そのまま単純に彼女が「慶喜に切腹させ、自分も死ねば事態は収まる」に思っていたとは思えません。しつこく「徳川家」と何度も書いている点が重要かと思います。

「徳川家を潰すというが、もし立場が逆で、島津家を潰すと言われたらどうする。勅命であったとしても、それに西郷は従うのか。島津家臣が家を重んじるように、徳川家臣も家を重んじている。ここは立場を変えて考えてみてほしい。島津はむろんのこと西郷家だって潰したくはないだろう。」

「家の論理」を繰り返し訴えることによって、「家を特に重んじる薩摩」の武士である西郷の弱点を突いている、私にはそう読める気がしてなりません。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は物理的に重たい。石谷家文章とか本能寺の変と四国の関係とか。

2018年11月06日 | ドラマ
中断を挟みつつ、3年ぐらいこのブログを書いていますが、「本能寺の変」の「原因」とか「動機」とか、まして「黒幕」なんてことに触れたことは、おそらくほとんどないと思います。

どれを信じるかはあなた次第って感じで「次々と説が」出ますが、どれも「こじつけ」感が強すぎるからです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は三重大学の教授さんが書いた「明智光秀論」というか「本能寺の変の裏に四国あり」というご本です。

正直何言ってるかよく分からない(私の頭が悪いせいで)のですが、物理的に重い。単行本で400頁あります。値段も5000円。むろん図書館で借りたので買ってはいません。

最初の三分の一ぐらいは「古文書を活字にしたもの」がズラーと並んでいます。

まあ「四国関係説」に立つわけです。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。

2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)

3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。

4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。

5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。

6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。

7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。論理の筋道が通らないところが少なくないためです。

まとめている私の中で「なぜ?どういう理屈だ?」という言葉がガンガン響いて仕方ないのです。

一番重要なのは「光秀派閥」または「派閥」という言葉のようです。石谷家文章の中には長曾我部元親と斎藤利三が交わした手紙が含まれるのですが、もちろん「長曾我部を討つらしいので、明智家が信長を討って長曾我部を守ります」なんて書いてあるわけではありません。

そもそもずっと四国関係説を言ってきたが、無視されてきた。そこに石谷家文章が公開された。これこそ四国関係説の証拠というべきものなのだ。まあ「証拠なのだ」は言い過ぎかも知れないけど、これをきっかけに四国関係説を真剣に検討せよ。そう訴えているように私は読みました。

もし藤田氏ご本人、またはそのお弟子さんたちがこの文章を読んだら、「浅読みしかできない素人が何いってやがるんだ」と怒られると思います。いや怒る気もなくして無視されると思います。当時の資料を本の3分の1を使って載せているのだから、古文書に「注釈」を加えて欲しいと思います。「そんな必要はない学者向きの本」なのかと思うと、途中で「コラム」とかが出てきます。とすれば「素人向き」でもあるわけで、それにしてはあまりに「不親切」です。

私に分かったことは、なにか当時の文章(たぶん鑑定は済んでいるのでしょう)が出てくると、必ずそれに付随して「説」がまた増えるか、もともと存在していた「説」が「息を吹き返す」こと。

そしてある種の学者さんは、少し論理的におかしいと自分でも分かっているだろうに、自説を語る時には「必要以上の断定口調で語ること」です。

そもそも1次資料ってそれほど「信頼に足る」ものなのでしょうか。事実の叙述には必ず解釈が入ります。「今日は久々に空に雲があまりなかった」「今日は3日ぶりの快晴だった」、どっちも同じ事実を語っていても、そこに微妙な違いが生じます。しかも当時は「だましあい」の時代であり、書いた時点で既にウソなんて文章も沢山あると思います。「資料に語らせる」というと何か客観的、科学的という感じがありますが、果たしてどうなのでしょう。

むろん筆者さんたちが私の百倍も歴史知識があり、時間をかけて古文書を読んでいることは分かっています。分かっていても、、、。まあ、関係者の方ご免なさい。でも「素直な感想」です。

私は基本、本能寺の「説」に興味がないのですが、一応少しばかりは本能寺本を読んでいます。全部に「つきあっているヒマ」はありません。一番「心にストンと落ちる」のは「たまたま説」です。特に「奇妙」まで、つまり織田家当主の「織田信忠」まで討ち取ることができたのは「たまたま」だと思います。実際、一緒にいた信長の弟・長益、織田有楽は逃げ延びたわけです。

織田信忠が、少数とはいえまだ兵を持っていた丹羽・信孝軍までたどり着いて、そして生き延びていれば「清須会議」など開く必要もないわけです。家督は譲られていて、信忠は既に当主だったのです。「明智討伐に大功あり」ということで、秀吉が強引なことをしようとしたなら、信忠指揮のもと、柴田、丹羽、滝川、織田信雄、織田信孝が動き、秀吉派は駆逐されていたでしょう。秀吉は馬鹿ではないので、そんな行動はそもそもとらないはずです。秀吉は信忠との関係が良好であったと伝わっていますし、そんな無謀な行動をとるとも思えません。

信忠存命を知ったら、秀吉は大返しなどしなかったと考えることもできますが、そうなると柴田が帰ってきてしまい、秀吉にとっては不利な状況が生まれます。柴田が担当した越後にはもう謙信はおらず、上杉は存亡の危機でした。秀吉よりずっと帰ってくる「余裕」があったのです、したがって秀吉が信忠のもとで重臣になろうとするなら、やはり「大返し」をしたと思います。当時織田家では謀反が増えていましたから、秀吉は当然、京で何かが起きる「少しの可能性」は考えていたでしょう。準備もしていたかも知れません。信長が死ぬとは思ってなかったでしょうが。

「本能寺はたまたまだ」と声を大きくして言いたいわけではなく、「たまたま説」が今のところ一番筋が通っていると思うだけです。

「ドラマにできる大久保利通」・江藤新平・山内容堂・大村益次郎おまけで麻生太郎

2018年11月06日 | ドラマ
大久保利通という政治家は基本的には公正無私で、生活は質素であり、無口で仕事は厳密にこなす、同時代人で悪くいう人はあまりいないようです。

エピソードも西郷に比べればはるかに少ない人物です。

が、以下のようなシーンならあるいは「ドラマにできる」かも知れませんし、実際「ドラマになったシーン」も含まれます。「ほぼ史実」だと思います。

・大久保に何か言いたくても言えない桐野(半次郎)が、酒の勢いで大久保に意見しようとする、しかし、大久保にちらっと「一瞥」されただけで、あの桐野が委縮して黙り込んでしまった。

・中江兆民が大久保に自分の意見を披露した。大久保は目を閉じていた。眠るとは失礼と中江兆民が不満を述べた。大久保は「よく聴くために目を閉じている。私が見ていては君も話しにくいだろう」と応じた。

・警備を重くしろという周りの忠告を聞かなかった。死ぬとすればすべて天がなすものとして、厳重な警備をしなかった。(もしかすると川路大警視は大久保に警備をしたいと言って、断られたのかも知れません)

・江藤新平の佐賀の乱鎮圧時は強権を発動した。明治後であるのに、江藤を追いつめ「さらし首」にした。これは不満氏族への見せしめと言われているが、必ずしもそれだけではない。江藤新平と大久保は国家観が近く、国家の仕組みを建設する能力が高いことも同じであった。明治初期においてはただ一人「江藤新平」のみが自分と匹敵するような男と思っていたふしがある。

・伊藤は西郷など尊敬していなかったが、大久保を深く尊敬し、それは終生変わらなかった。ちなみに伊藤は木戸も尊敬はしていたが、「口うるさい兄貴」という風にも思っていた。

・慶喜討伐を話題にした御前会議で山内容堂に意見し、「何をいいやがる」とどやされた。(慶喜は領地を返還しないから朝敵というのが大久保の論でしたが、領地返還をまだしていないと言えば、土佐も薩摩も長州も同じでした。そこをとらえて容堂は「何をいいやがる」と叫んだわけです。当時大名はそんな言葉はまず使いませんでした。)

・予期せず暗殺された時、西郷隆盛からの手紙を懐に持っていた。(いつも持っていたということ)

兵制論争
大久保利通は長州の大村益次郎とは兵制改革をめぐって「大喧嘩」をしています。兵制改革とはつまりは国民皆兵で、武士の誇りを奪うものです。大久保は「ソフトランディング」を目指しました。「薩摩の反発と暴発」「島津久光の動向」が頭にあったためでしょう。大村は至急なる「兵制改革」を主張します。論争に敗れた大村は辞表を出しますが、結局大村以外はできないということで、また軍政のトップに戻ります。ただしほどなく暗殺されます。大村暗殺は不平士族の犯行ですが、「黒幕」には大久保ではなく、薩摩の海江田がいたと言われています。
大村にも「久光の影」は見えていたでしょう。しかし長州の出身ですから殿様の意向なぞに重きはおきません。しかも久光は殿様ではなく、殿さまの父親に過ぎません。「薩摩の反発と暴発」は予想していました。「やがて九州から足利尊氏の如きものが現れる」と予感していました。その時こそ薩摩を叩き潰し、武士の世を終わらせる。大村はそう考えていたでしょう。大久保も同じだったでしょうが、「それにはまだ時間がいる」と考えていたのだと思います。


おまけ
麻生太郎氏、どうも彼の政治姿勢というか「傲慢な態度」には下品さしか感じません。経済政策にも賛同はできません。が、一応は大久保利通の「孫の孫」みたいです。
矢印で示すと大久保利通→牧野伸顕→雪子→和子→麻生太郎となるようです。孫の孫ですから玄孫。ちなみにひ孫は「孫の子」です。

西郷どん 川路利良・泉澤祐希・西郷と大久保を両名とも殺した大警視のこと

2018年11月05日 | ドラマ
川路利良は日本最初の大警視です。明治12年になくなりましたが、勲二等という勲章ももらっています。今でいう「警視総監」です。

薩摩の郷士、準士分ですが、西郷、大久保に見いだされ、明治4年より明治政府に出仕。警察制度の創設にかかわっていきます。この時40歳少し前という年齢です。

岩倉の西欧視察団に司法省より参加。(当時は警察は司法省・江藤新平の管轄、その後内務省・大久保利通など、今は内閣府の国家公安委員会の管轄)、フランス式の警察制度を導入します。

日本の警察制度を作った、で終わればいいのですが、西郷と大久保の死と深くかかわりを持った人物としても有名です。彼が直接両名を「殺した」わけではありませんが、「殺したようなもん」とされています。ただし、彼の名誉のために書いておくと、彼自身は「近代日本国家の建設」に深い情熱を持っていました。いや、過剰なほど持っていました。過剰すぎただけです。

簡単に書くと、

1、薩摩に下野した西郷を暗殺するため中原尚雄という刺客を送った。少なくとも薩摩私学校の人間は「川路が西郷を暗殺しようとした」と信じた。それが西南戦争の直接の契機となる。で、西郷は西南戦争で死にます。明治10年。

2、薩摩の黒田清隆が行った妻の殺害を隠蔽した。それが大久保暗殺の遠因となった。しかも川路は周りの忠告を聞き入れず、「大久保の警備」を強化しようとしなかった。で、大久保は死にます。明治11年。

3、本人も西郷、大久保のあとを追うようにして、病死する。明治12年。二代目の大警視は大久保巌である。

そういえば「西郷どん」に大山巌がでていないような気がします。理由もなんとなく想像がつきます。

さて、この「西郷どん」、私は散々「悪態をついて」きました。むろん他の方のブログをみると「感動した」という方もいます。私はそれを否定はしません。ただ、私が読んだ多くのブログでは「私以上の悪態をついている人々」が多かった。史上最低とはいいませんが、最低の作品の一つでしょうね。人物の描き方が「浅いにもほどがある」のです。

特に、明治後の大隈重信、江藤新平、伊藤博文、板垣退助といった人々の描き方が薄いし、誰が誰かもよく分かりません。正直、俳優さんの名前もわかりません。西郷の引き立て役というか、にぎやかしというか、「ひな壇芸人」というか、とにかく薄っぺらい人間として設定されていて、「かわいそうだな」と思います。

さて、西郷と大久保を死においやった「川路利良」ですが、「西郷どんの法則」からみて、「刺客を送った」とはされないと思います。まあ真偽は分かれていますから、「送らなかった」でもいいと言えばいいのです。でもそうすると「西郷には大恩を受けたが、近代国家の設立にとっては西郷はもはや障害である。西郷の命と近代国家の成立、どっちが重いかと言えば、間違いなく近代国家の設立である」という「川路の信念」もどっかに吹っ飛んでいってしまいます。乱を起こして死ぬ江藤だって、大隈だって伊藤だって板垣だって、それぞれの信念を持って生きていた。「人に対するリスペクトがなく、みんなを西郷の引き立て役」にしてしまうから、この作品は多くの批判を呼んでいるのです。

ちなみに前回では、島津久光が西郷を叱って、はげましていました。実際はあれを行ったのは板垣退助です。

維新後の西郷は一種のうつ患者でした。明治政府を作ったら腐敗だらけ。久光には不忠者とずっとなじられる。近代化派と武士ファースト派の間で板挟み状態。ある日、同じく参議をしていた板垣退助に、

「こんな政府を作って、旧幕府の方々にむしろ済まない思いすらする」と泣きつきます。

すると板垣退助は怒気を発してこういいます。

「そんなことで、幕末そして戊辰の戦争で死んでいった、多くの人々に申し訳がたつと思っているのか!」

西郷は膝を正し、板垣に謝ったそうです。これ、私はいい逸話だと思います。

西郷どん・新しき国へ・いきなり登場した山縣有朋とは何者か・山縣有朋と帝国主義の時代

2018年11月04日 | ドラマ
「西郷どん」の感想ではありません。いきなり登場してきた「山縣有朋」についてです。

長州出身・奇兵隊を率いる・明治になって陸軍卿・兵制改革を行う・総理大臣も経験・公爵となる・文字通りの日本のドンとなる・もらった勲章数知れず・でも国民には全く人気がなかった。

山県有朋は「日本軍閥の祖」なんて有難くない名前をちょうだいしながら、当時も、昭和時代も、そして今も、「全く人気がない」人間です。葬式は国葬だったが、参列する人民はほとんどいなかった、というのもどうやら事実のようです。

森鴎外の「舞姫」に出てくる「天方伯」のモデルとして、文学部系の学生の間ではちょっとぐらいは有名です。

むろんNHKの「八重の桜」にも「坂の上の雲」にも出ていました。「明治陸軍のドン」なのですから当然です。古くは西田敏行さんがその若い頃を演じました。あの山県はなかなかよい、です。でも全然人気がない。トホホ。

若い頃は山県狂介と名乗り、奇兵隊を足場にして活動しました。狂介と名乗ったのは、「なかなか狂うことができない」たちだからです。慎重の上にも慎重。高杉から「みそ徳利」(動かない。出ないことへのからかいです)と呼ばれていたようです。

ボロクソに言われてきた山県ですが、近頃、「彼はアジア主義者の側面を持っていた」という人がいます。アジア主義とはここでは、「清国、朝鮮国、日本」が共に近代化しかつ連携し、「欧米列強に対峙する」という意味です。

これは明治政府の要職にいたものなら、誰でも多かれ少なかれ持っていた考えで、山県有朋にも当然そういう側面はあったでしょう。勝海舟も福沢諭吉もそれを夢想していました。そして伊藤博文はやや多量に、山県はやや少なめに、この考えを持っていたと思います。(詳しくは書きませんが、脱亜論は福沢の失望感の裏返しです)

「いまさら言うべきことでもないかな」と思うのです。

しかし、ウィキペディアの山県の解説をみて、ちょっと驚くというか、不謹慎にも笑ってしまいました。

以下引用です。

また有馬は明治末期から山縣の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山縣が、大正11年の死から昭和戦前期にかけて「否定の対象としても忘れ去られ」、第二次大戦後の軍国主義批判のなかで批判的にとらえられ、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山縣有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けたと指摘する。
しかし近年、イデオロギー的文脈から切り離した山縣の実像に迫る分析がジョージ・アキタ、伊藤隆らにより試みられている。そこからは、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢をとり続けた政治家という、従来の軍国主義的人物像とは異なる山縣の姿が浮かび上がる。

笑ったのは「否定の対象としても忘れ去られ」の部分。つくづく嫌われ者だと思います。(もっとも坂本龍馬だって明治16年までは、完全に忘れられていましたが)

山県は風雅を好みましたが、政治的には一貫して慎重派であり、リアリスト(現実主義者)でした。だいたい「山県はファシスト的」とか聞いたことがありません。学者さんだけの世界の話ではないでしょうか。

上記の文では「軍国主義者」「帝国主義者」と言葉が並んでいます。
「軍国主義者」という言葉のイメージはたぶん受け手によって全然違うでしょうが、どうやらジョージさんたちは「盲目的国粋主義者ではなかった」と言いたいようです。「みそ徳利の山県」が、そんな人間でないのは当然です。そんな人間なら、今でも同じような傾向を持つ一部の人限定で、もっと人気がでています。

彼はリアリストです。当時の「リアル」は「帝国主義」です。だから彼は現実を分析し、「日本の必要」に応じて「帝国主義的な」行動をとったのでしょう。帝国主義者ではなかったかも知れませんが、現実が彼に帝国主義的な人間であることを要求したのです。むろん「やりすぎ」ました。そして人間に対して公平でもなかった。汚職で逮捕されかけたこともあります。

全てが時代のせい、とは言いません。帝国主義の時代と彼の資質が、ある種の化学反応を起こして合体し、「あの嫌われ者の山縣」が出来上がったのだと思います。

「西郷どん」第41話感想・「新しき国へ」・山縣有朋の登場・明治帝は天子様?・どこまでも優しい久光

2018年11月04日 | ドラマ
「西郷どん」、本日の放送、「新しき国へ」

相変わらず、歴史上の重要な出来事が「さらー」と薄っぺらく流れていきます。あれじゃあ中学生が見たら、どうつながるのか全然わからないでしょう。

ます岩倉使節団のことが取り上げられます。岩倉使節団のことなら、もっと描くことはあるだろうに、「天子様」(ナレーションでも天子様と言っていた。)のミコトノリのシーンにやたらと時間をかけて、しかも桂小五郎がお声を聞いただけで「泣いたり」してました。「終戦の御前会議の様子」みたいでした。なんなんだろ。幕末においては志士は天皇を「玉」(ぎょく)と呼んでいました。明治になっても桐野(半次郎)などは、「天皇陛下」を「てんのうかいか」と読んで笑われていました。

明治6年、西郷は下野し、多くの薩摩人がそれにつき従って下野します。中将だった半次郎も下野します。中将や少将というのは当時少なく、当然「天皇、天子様が任命した職」だったわけですが、「そんなの関係ねえ」というのが桐野(半次郎)たちの意識でした。

つまり天皇というか天子様?は見捨てられたわけです。

この「痛い体験」が陸軍トップの山縣有朋の「危機感」につながります。彼が中心となり、西南戦争直後の明治11年には軍人訓誡、さらに明治15年には「軍人勅諭」が出されます。

「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」という宣言です。これが「統帥権の独立」につながり、明治期はそれでもそこそこのバランスはとれていたのですが、昭和になって「政府は軍隊の軍事行動には干渉できない」という悲劇的な状態が生じてしまいます。昭和8年段階までには、日本には「総理」「軍令部総長」(海軍)、「参謀総長」(陸軍)という3つの権力がバラバラの状態で存在することになりました。しかも宮廷勢力という第4の勢力もありました。大きな権力が3つもしくは4つもあるのです。「国のかじとりが少なくとも3人」。それでは国がまともな方向に行くわけがありません。

「極東軍事裁判」の被告は「共同謀議」という罪状で裁かれることが多かったのですが、ある被告は「共同謀議とはお恥ずかしい限りだ。政府はこうしろと言い、陸軍はこうすると言い、海軍も同じで、てんでバラバラ。もし共同謀議なんて高度な政治行動がとれていたら、もう少しはまともに戦えたはずだ。」と言っています。

で、なんで山縣有朋の話をしているかというと、ドラマの中で何故か急に半次郎が山縣有朋に「キレている」シーンが登場するからです。「いきなり」です。「翔ぶが如く」でもこのシーンはありましたが、「キテて」はいません。半次郎だって一応は中将です。篠原らと「問い詰め」に行ったのです。怒ってはいました。話題は汚職ではなく、国民皆兵でした。様々な布石があって、半次郎たちが山縣を追い詰めるシーンが登場するのです。「いきなりキレている」なんて「下品なシーン、漫画みたいなシーン」は登場しません。なおこの昔の大河では山縣有朋は役所の部屋の奥に隠れており、対応するのは緒方直人さん演じる西郷従道でした。

たしかこんな感じ。
桐野(半次郎)「信吾どん。百姓を軍人にして、武士の誇りを奪うような真似をしたら、たとえ大西郷の弟であっても、オイは許さん。」
信吾(西郷従道)(ご意見は一応聞きましたよと流す感じで)「おやっとうさんでした」(お疲れ様でした。さっさと帰れ、兵制改革に逆らうならオイも桐野を許さんという意味)

桐野と従道がそれぞれの「つわもののの信念」をかけて、バチバチと対峙する緊張感溢れる名シーンでした。西郷どんの「キレた暴走族の若者」のような桐野とは全く違います。

話を山縣と天皇、天子様?に戻すと、山縣有朋はその後も「あの手この手で天皇を飾って」いきます。「荘厳で重々しく近寄りがたい天子様」に仕上げていくのです。

つまり山縣有朋というのは「昭和につながるその後の日本の歴史を決定づけた男」です。天皇を「現人神にした人間だ」と言ってもさほど間違いではないでしょう。なるほど、今回描かれたように、明治5年には大規模な汚職事件も起こしています。それでも「軍制改革ができるのは山縣有朋しかいない」ということで、彼は陸軍のトップに座り続けます。参議であった西郷もそれを支持しました。ちなみに「兵制改革」における彼の部下は西郷従道でした。

韓国では伊藤博文が大層な悪者ですが、韓国に方は責めるなら伊藤より山縣有朋を責めるべきだと思います。なんと大正11年まで生き、陸軍の、というより文字通りの「日本のドン」として軍隊にも政界にも強烈な影響力を持ち続けます。松下村塾出身者では伊藤博文とならんで、もっとも権力を持った人間です。しかもその権力を思うままに使った人間でもあります。森鴎外の「舞姫」の中に天方伯という人物が登場しますが、モデルは山縣です。ちなみに森鴎外は小説家ですが、本業?は軍医です。軍医としても最高の階級まで上りつめています。

山縣有朋の葬儀は「国葬」でしたが、参列する国民はほとんどいなかったと言われています。調べてみると、どうやら都市伝説ではなく事実のようです。とにかく嫌われていました。

でも山縣有朋がいなければ兵制改革(国民皆兵)はできなかったのです。なぜなら長州の大物である村田蔵六(大村益次郎、こぶ平ちゃんが演じていた)は、薩摩の海江田がはなった刺客によって既に暗殺されていました。残ったのは大村の弟子である山田顕義です。山田顕義にも兵制改革はできたでしょう。しかし彼は岩倉使節団の一員なのでこの当時日本にいません。しかも少し年上である山縣有朋とは全く「そり」があいません。山田顕義は司法省に転身し、やがて法律の学校を作ります。それが今の「日本大学」です。

なんだか「西郷どん」のことより、山縣のことが中心になっています。まだまだ書きたい内容はありますが、やめます。

ドラマ後半はなんと「久光が西郷を励まし」、「やれるところまでとことんやれ、それでだめなら薩摩に帰ってこい」とか言ってました。なんでそうなるのだろう。「演出上の問題」なんでしょうが、何を演出したいのか、それが分かりません。この段階では久光の西郷に対する怒りは頂点に達していて、三条実美に西郷弾劾状を送りつけたり、西郷の罪状を並べ立てたりしていました。西郷にとって「不忠者」と言われることが「死ぬより辛い」ことだと知りつつ、それを言いづづけたのです。今の主君に対して忠義のない西郷が、斉彬に対して忠義の心を持っていたはずはないとまで言いました。これはもう「早く死ね」と言われているのと同じことです。世の中には演出上の問題としても、ついていいウソとついてはいけないウソがあると思います。
怒りの花火打ったと思ったら、西郷に「がんばれ」。二重人格なのか。このドラマ、そのシーンに合わせて「テキトーにキャラを変える」ものだから、しかもたった1話の中でも変えるものだから、理解できないセリフの連続です。この脚本家は「頭がおかしい、か、天才」です。

朝鮮王朝入門・初期朝鮮・李氏朝鮮・六龍が飛ぶ・龍の涙・大王世宗・根が深い木

2018年11月04日 | ドラマ
初期朝鮮王朝「超入門」です。自分の頭の整理の為に書いています。

1、朝鮮王朝を建国したのは李成桂(りせいけい、イ・ソンゲ)で、それは1392年、日本で言えば室町幕府の成立から60年ほど後である。滅亡は日韓併合の1910年である。

2、朝鮮王朝の基礎を作ったのは李成桂の五男のイ・バンウォン(李芳遠)であり、彼は三代目の王である。

解説
初代のイソンゲという人は、もともとは高麗王朝の将軍で、李氏朝鮮の建国に関してはかなりの「ためらい」も持っていました。建国後は政治の権力そのものは腹心のチョンドジョンが握っていました。彼は決して「ぎらぎらした権力の権化」などではなく、そもそも真面目な学者でありました。王は権威の象徴として君臨し、政治そのものは優秀な宰相が行うべきというのが彼の考えでした。
そこで、王権の強化によって支配すべきとするイ・バンウォンらと対立が起こります。イ・バンウォンは父を軟禁し、皇太子(後継の王、世子)に決まっていた異母弟の八男を惨殺、チョンドジョンらも粛清して、王権を奪取します。王には兄である次男をつけ、その後自分自身が王になりました。

3、イ・バンウォンは次々と外戚(妻の親族)や功臣(有力家臣)を殺し、王権を固める。そして三男イドを四代目の王として即位させた。

4、この4代目の王がイド世宗であり、ハングルのもとを作った人物である。

5、朝鮮には「朝鮮王朝実録」という書物があり、朝鮮王朝のことは「そこそこ正確に」把握することができる。

この時代(朝鮮建国時)を描いた作品としては以下のものがあります。

・龍の涙・・・朝鮮王朝実録に基づいており、かなり写実的。正確に歴史を反映しようとする意図がある。180話以上あって非常に長い。
・大王世宗・・・歴史の流れはそこそこ正しく描いているが、人物のキャラ設定は「ほぼフィクション」である。全ての人物を「立派に」描き過ぎている。
・根が深い木・・・世宗のハングル創生にまつわるミステリーもの。ただし「王権か宰相か」という問題を巡っては、かなりシリアスなセリフが多く登場して、おもしろい。
・六龍が飛ぶ・・・朝鮮建国時の、宰相チョンドジョンと王の五男イ・バンウォンの「親交と決裂、そして戦い」を描く。基本フィクションである。ただし大きな歴史の流れはおさえている。


「麒麟がくる」キャスト一覧・増補版・生没年付き・キャスト予想

2018年11月03日 | ドラマ


最新版はこちらにありますので、最新版をご覧ください。


主人公は「明智光秀」、主人公並みの重要人物は「斎藤道三」「織田信長」「細川藤孝」「今川義元」「織田信秀」「松永久秀」「足利義昭」

信長と光秀が「盟友である」という設定は、NHKが公表している。信長の親の世代を描く意図、主人公たちの青春時代を描く意図も発表している。従って全体に俳優の年齢が若くなっている。

齋藤道三の死去は1556年・桶狭間の戦いは1560年・信長の上洛戦は1568年・義昭追放は1573年・本能寺の変は1582年・関ヶ原の戦いは1600年

主人公・明智光秀関連

明智光秀(1528-1582 早くに両親を亡くし、祖父光継に育てられた、道三に仕え、道三死去後、信長と盟友となる、諸国を遍歴、乱世収拾の道を探る)・・・長谷川博己
明智煕子(没1576 あけちひろこ、光秀の妻)・・・吉岡里帆
明智光継(光秀の祖父、光秀の育ての親、武芸に秀でている)・・・近藤正臣
明智牧子(史実では名前不詳、光秀の祖母・京都公家出身、教養が深い)・・・松坂慶子
明智光慶(史実を変更)(あけちみつよし、光秀の長男、学説では死んだ時まだ14歳であるため、それを24歳と設定する。光秀と信長の連絡係として活動したことにする)・・・神木隆之介
明智光安(1500-1556 美濃明智城主、明智家家督、道三正室の兄)・・・佐藤二郎
明智倫(史実では名前不詳、光秀の長女、荒木村重室→明智光春室)・・・山本美月
明智宝子(史実では名前不詳、光秀の四女、信長の従弟である津田信澄の正室)・・・橋本環奈
明智左馬助光春(1536-1582 明智秀満 光秀の女婿にして重臣)・・・山崎賢人
明智珠(1563-1600 あけちたま 光秀の三女、細川ガラシャ、細川忠興正室、関ヶ原の混乱の中で死去)・・・桐谷美玲
明智光忠(光秀の従弟、光秀重臣)・・・浅利陽介
齋藤利三(1534-1582 光秀腹心の部下、春日局の父)・・・新井浩史
細川藤孝(1534-1610 細川幽斎、はじめ光秀とともに足利義昭擁立に尽力する。のち織田信長に仕え、光秀の与力武将となる。古今伝授を受けた歌人)・・・草なぎ剛
細川忠興(1563-1646 細川幽斎の嫡子、細川ガラシャの夫、関ケ原で功を立て、肥後細川家の基礎を築く)・・・溝端淳平
上泉信綱(1508-1577 柳生新陰流の祖、諸国を遍歴して、槍術、剣術を広めた。一時美濃に滞在し、光秀に槍術剣術を指南、将軍義輝の剣術信南、光秀と義輝をつなぐ)・・・真田広之
伊丹新之助(架空の人物)(商人ではあるが武術の達人、その自由な生き方が光秀に大きな影響を与える)・・・オダギリジョー

齋藤道三関連

齋藤道三(1494-1556 斎藤利政、美濃国主、土岐頼芸より美濃を奪取した。天下取りの野望を光秀と信長に託す)・・・阿部寛
長井新左衛門尉(生没年不詳、ながいしんざえもんのじょう、道三の父。はじめ京都妙覚寺僧侶、還俗して京の油屋山崎屋に入り婿し、その財力を背景に国盗りを目指して美濃土岐家の家臣となる)・・・遠藤憲一
お万阿(架空の人物)(おまあ、道三父の京都の妻、道三の母ではない。京都の豪商、油屋山碕屋の女主人)・・・井川遥
土岐里子(架空の人物)(土岐家支流の娘、道三の母)・・・黒木瞳
深芳野(みよしの、道三の側室、もとは土岐頼芸側室、斎藤義龍の母)・・・麻生久美子
小見の方(1513-1551 おみのかた、道三正室、明智光安の妹、濃姫の実母)・・・広末涼子
竹中半兵衛(1544-1579 天才的軍略家、幼少時は道三の薫陶を受ける、神童と言われ12歳で道三の軍略を受け継ぐ、斎藤家家臣→信長家臣、秀吉の与力)・・・志尊淳
齋藤義龍(1548-1573 道三の子、実は土岐頼芸の子、長良川の戦いで道三の首を奪う)・・・城田優
赤兵衛(架空の人物)(元妙覚寺の寺男、道三の父の最古参の腹心、道三にも仕えた)・・・(華丸大吉の華丸)
稲葉一鉄(1515-1589 西美濃三人衆の一人、土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家、娘は斎藤利三室、春日局の祖父)・・・安田顕
猪子兵助(1546-1582 いのこひょうすけ、道三の小姓、道三没落後、織田信長に仕える)・・・濱田岳
土岐頼芸(1502-1582 ときよりよし、もと美濃国国主・道三により尾張に追放される)・・・小日向文世
日運上人(1484年生、美濃常在寺住職、長井氏出身、道三の父とは妙覚寺で同学)・・・温水洋一
天堂玄隆斎(架空の人物、てんどうげんりゅうさい)(道三の武術指南、槍術の達人)・・・仲代達矢
山崎屋いろは(架空の人物)(道三の父とお万阿の間に生まれた娘、道三の異母妹、やがて油屋山崎屋女主人となる。京都における信長、光秀の指南役として大きな存在感を発揮する)・・・常盤貴子

織田信長関連

織田信長(1534-1582 初めは道三とは対立、が濃姫と婚姻後、道三と手紙で交流、道三の野望を受け継ぎ天下人を目指すことになる)・・・山田孝之
☆信長については「保守的、中世的側面を強調、経済政策に優れていた点も強調される」とNHKが発表している。
織田信秀(1511-1552 信長の父、京都志向がある教養人にして強き武人、道三と幾度も戦うが結局美濃を奪うことはできなかった)・・・西島秀俊
織田信定(没1538 清州織田家に仕えた奉行、織田信秀の父、信長の祖父、信秀の尾張制覇の野望に賛同できぬものの黙認、隠居する)・・・大和田伸也
濃姫(1535生誕、没年不詳 斎藤帰蝶、信長正室、道三の娘、母は小見の方、幼き頃は光秀に淡い恋心を抱いていた)・・・新垣結衣
お市(1547-1583 信長妹、浅井長政正室、淀君の母、お江の母、豊臣秀頼、徳川家光の祖母、長政没落後、柴田勝家に嫁ぐ)・・・北川景子
土田御前(没年1594 信長の母、信長の才能を実は見抜いていた、息子である織田信行の謀反を心配している)・・・水野美紀
織田信忠(1557-1582 信長の嫡子、幼名は奇妙丸、織田家家督を継ぐ、本能寺の変にて討ち死)・・・竹内涼真
生駒吉乃(1528-1566 いこまきつの、信長側室、信忠、信雄、徳姫の実母ということになっている、穏やかな性格で濃姫との関係も悪くない)・・・満島ひかり
織田信行(没年1558 信長弟、信長と家督を争い、謀殺される)・・・三浦春馬
織田長益(1547-1622 おだながます、織田有楽斎、信長弟、信秀の11男、茶人、東京都有楽町は彼に由来する)・・・坂東巳之助
柴田勝家(1522-1583 織田家重臣、通称権六、織田家家督に信行を推した過去を持つ)・・・市原隼人
木下藤吉郎(1537-1598 後の豊臣秀吉)・・・中村七之助
木下寧々(1548-1624 秀吉妻、のちの北政所)・・・夏帆
前田利家(1539-1599 織田家家臣、柴田勝家の与力武将、秀吉とも親しく、のち加賀前田100万石の当主となる)・・・斎藤工
前田まつ(1547-1617 前田利家正室、芳春院、「加賀100万石は芳春院でもつ」と言われた)・・・瀧本美織
森蘭丸(1564-1582 信長小姓、信長より5万石を与えられた、本能寺にて討ち死)・・・加藤清史郎
夕顔(架空の人物)(信長、光秀に情報をもたらす女忍び)・・・栗山千明

戦国武将・その他
武田信玄(1521-1573 52歳で死去、甲斐の戦国大名)・・・平岳大(ひらたけひろ、平幹次郎子息、真田丸で武田勝頼を好演)
上杉謙信(1530-1578 48歳で死去、越後の戦国大名)・・・野村萬斎
今川義元(1519-1560 41歳で死去、駿河の戦国大名、領地経営に優れていた、桶狭間の戦いで戦死)・・・大泉洋
北条氏康(1515-1571 56歳で死去 相模国の戦国大名、後北条氏三代目当主、謙信・信玄と互角に戦った)・・・市川猿之助
浅井長政(1545-1573 28歳で死去、北近江の戦国大名、お市の最初の夫、のちに信長と対立、豊臣秀頼、徳川家光の祖父)・・・向井理
朝倉義景(1533-1573 40歳で死去、あさくらよしかげ、越前の戦国大名、光秀は信長と謀り、越前の状況を探るべく、一時義景のもとに身を寄せていた)・・・ムロツヨシ
六角承禎(1521-1598 77歳で死去、六角義賢、近江の戦国大名、信長上洛戦にて敗退、その後も信長と交戦、晩年は秀吉の保護を受ける)・・・要潤
本願寺顕如(1543-1592 一向一揆の総本山石山本願寺住職、浄土真宗本願寺派宗主、10年以上信長と激しい戦いを繰り広げる)・・・伊勢谷友介
三好長逸(1573年前後に死去か、みよしながやす、将軍義輝を暗殺した三好三人衆の一人、畿内で三好政権ともいわれる勢力をほこった。信長上洛で逃亡するが、その後も本願寺と連携、信長と戦う)・・・松田龍平
荒木村重(1535-1586 信長家臣、信長より摂津一国の経営を任される。光秀の娘と村重の息子は婚姻関係にある。のち信長に謀反して失敗、しかし生き延びる)・・・六角精児
筒井順慶(1549-1584 大和国大名、のち信長に臣従、光秀の与力となる。妻は信長の娘である)・・・柄本佑
ルイスフロイス(1532-1597 ポルトガルの宣教師、足利義輝、織田信長の保護のもとで布教、著書「フロイス日本史」を残す)・・・ピーターフランクル(数学者にして大道芸人)
松永久秀(1508-1577 69歳で死去、畿内を実質的に治めていた三好家の重臣、やがて主君を上回る力をつけていく。信長以前に天下統一を夢みた梟雄。将軍義輝暗殺には関与していない)・・・草刈正雄
足利義輝(1536-1565 29歳で死去、足利幕府13代将軍、三好三人衆によって御所で暗殺される、剣豪でもあり、多くの寄せ手を斬り殺した)・・・中村獅童
足利義昭(1537-1597 60歳で死去、足利幕府15代将軍、信長が将軍に擁立、のち信長と対立。信長包囲網の中心人物となる。晩年は秀吉の保護を受けた)・・・松坂桃李
雑賀孫一(史実不詳)(さいかまごいち、紀州雑賀衆の頭目、またの名を「尻くらえ孫一」、鉄砲隊によるゲリラ戦を駆使して信長の雑賀侵攻を退け、「信長、わが尻をくらえ」と言い放つ)・・・椎名桔平
徳川家康(1543-1616 73歳で死去、三河遠江の戦国大名)・・・高橋一生

最後にお知らせ

言うまでもなく「予想キャスト」です。カッコ内の解説は6割ぐらいが史実です。4割は「設定」ということです。縁戚関係については故意に嘘は書いていません。間違っていたら私が浅学であるせいです。そもそも戦国の人物については、資料の正確さに問題があり、縁戚関係についてすら確定的なことを言うことはほとんどできません。主人公の光秀の前半生を、もし誠実に書くとしたら、「ほとんどわからない」ということになると思います。なお、1540年ぐらいからを描くようです。そうなると武田信玄(晴信)ですらまだ19歳です。となると大御所役者ではなく若い俳優となるはずです。つまり全体に若い俳優の起用ということになる。たとえば最初私は織田信秀を「渡辺謙さん」と予想したのですが、もっと若い俳優になると思って「西島秀俊さん」に変えました。

「西郷どん」で鶴瓶師匠(岩倉)が叫ぶ「天子さまー」・孝明天皇暗殺説について

2018年11月03日 | ドラマ
「西郷どん」

どうやったこんな「深みのない薄っぺらい」脚本が書けるのか。「脚本家は頭がおかしいか、天才なのかも知れない」と思って調べたら、中園ミホさんです。

「やまとなでしこ」を書いています。あれは良かった。「ドクターX」も書いている。あれは個人的には嫌いです。頭もおかしくないし、天才でもないようです。じゃあどうやったらこんなひどい脚本が書けるのか。小池真理子先生の原作がさらに凄いのかなー。一生読みませんが。

録画したけど見ていない回があって、さっき見てみたら鶴瓶師匠が、岩倉か、どっちでもいいけど、岩倉が天皇を慕って「天子さまー」と叫んでいました。

なんじゃそりゃ。

もちろん真実ではないでしょうが「孝明天皇暗殺説」は、孝明天皇死後直後から存在しました。「当時の時点」から岩倉は疑われていたようです。昭和になってからは堂々と岩倉が暗殺したという説が出されました。

これはトンデモ説だとしても、史実としても、岩倉は孝明天皇に対して、かなり厳しい批判を「当時から」ビシバシとやっていて、文章にも残っています。

孝明天皇は佐幕派でした。特に会津を信頼していました。岩倉や薩長にとっては面倒な「玉」だったわけです。当時からいわゆる志士たちは天皇を「玉」(ぎょく)と呼んでいました。

あまりに見事なタイミングで崩御し、継いだのはまだ幼い明治帝です。そりゃ暗殺説もでるわけです。ちなみに死因は天然痘と言われています。

「孝明天皇、岩倉暗殺説」がトンデモだとしても、「岩倉ならそれぐらいやりかねない」という見方が当時から存在しました。

そういうことを知っていると、というか幕末にちょっと詳しい人間なら「誰でも知ってます」が、鶴瓶師匠の「天子さまー」はコント以外の何物でもないわけです。

岩倉の話はここまで。

「西郷どん」という題名がよくありませんね。「西郷のみに着目して明治維新と明治政府を描く」ことになるので、どうしても「底の浅い作品」にならざるを得ないのです。
ほとんど意味があるとは思えない「家庭のお話」とかに時間を割くことにもなります。「西郷の家庭」なんて誰が興味を持つのだろう?「糸がどーしたとかこーした」とか本当にどうでもいい話です。
しかも戊辰戦争が終わってからは、西郷は「ほぼ何もやらず」(廃藩置県をしたりしましたが、西郷が主導したわけでない。)、唯一やったことと言えば「西南戦争」ぐらいのものです。
そもそも戊辰戦争だって全ては村田蔵六(大村益次郎)が江戸で指示をしていたわけです。西郷は上級指揮官の一人に過ぎません。

韓国では西郷は「悪人で有名」ですから、たぶん「西郷は何をやった」と言えば韓国の学生なら「征韓論を唱えて、韓国を侵略しようとした」と答えるでしょう。

でも日本では「坂本竜馬は何をやった」にも答えられない学生は多いのです。まして「西郷」なんて。「明治維新で活躍した人」と答えられればいいほうでしょう。

「西郷によって明治維新はなしとげられた」というは「ウソ」になります。「西郷とか桂とか大久保とか龍馬とか大村とか、とにかく多くの人間によって維新はなった」わけです。西郷は何百という人間の「その中のひとり」に過ぎません。それを無理やり「多くは西郷がやった」としようとするものだから、中身のない薄っぺらい脚本にならざるを得ません。

西郷批判ではありません。西郷はたぶんがんばったのでしょう。問題は原作、それから脚本、TV局の「製作意図」です。「意図」があるとはどうしても思えないのですが。

意図があれば、例えば「翔ぶが如く」のように、維新後の西郷を「近代的価値と武士的価値に引き裂かれた悲劇的人間として描く」という「意図」があれば、「維新後の西郷だって」、魅力的な人物として描くことができるのです。

例えば「翔ぶが如く」における西郷下野のシーン。征韓論は決まっていたのですが、最後に天皇の裁可をえる段階になり、三条はあまりの重荷で倒れてしまいます。そこで岩倉が「三条の代理」として参内することになるのですが、岩倉は「自分の意見、つまり征韓論反対意見も述べる」と言います。

それを聞いた西郷、江藤、板垣は岩倉邸に押しかけます。しかし岩倉は命の危険があると知りつつ、断固として征韓論反対の意見を変えず、それを天皇に奏上するといいます。
最後のシーンでは西郷の用心棒である桐野(半次郎)が刀をちらつかせます。しかし岩倉は「そんな刀が怖くて、一国の右大臣がつとまるものか。馬鹿ものが」と中村半次郎を一喝します。

西郷はもうその時には部屋を出ていて、追ってきた江藤新平、板垣退助にこう言います。

「右大臣、岩倉具視、よーくきばった」(根性のある見上げたヤツだという意味)、そしてニコリと笑います。そしてそのまま薩摩に下野するのです。

見どころのあるシーンです。維新後の西郷でもここまで魅力的な人間として描くことは「できる」のです。

「麒麟がくる」キャスト一覧・生没年付き・増補版・キャスト予想

2018年11月03日 | ドラマ
主人公は「明智光秀」、主人公並みの重要人物は「斎藤道三」「織田信長」「細川藤孝」「今川義元」「織田信秀」「松永久秀」「足利義昭」

これは旧版で最新版はこちらです。

信長と光秀が「盟友である」という設定は、NHKが公表している。

齋藤道三の死去は1556年・桶狭間の戦いは1560年・信長の上洛戦は1568年・義昭追放は1573年・本能寺の変は1582年・関ヶ原の戦いは1600年

主人公・明智光秀関連

明智光秀(1528-1582 早くに両親を亡くし、祖父光継に育てられた、道三に仕え、道三死去後、信長と盟友となる、諸国を遍歴、乱世収拾の道を探る)・・・長谷川博己
明智煕子(没1576 あけちひろこ、光秀の妻)・・・吉岡里帆
明智光継(光秀の祖父、光秀の育ての親、武芸に秀でている)・・・近藤正臣
明智牧子(史実では名前不詳、光秀の祖母・京都公家出身、教養が深い)・・・松坂慶子
明智光慶(史実を変更)(あけちみつよし、光秀の長男、学説では死んだ時まだ14歳であるため、それを24歳と設定する。光秀と信長の連絡係として活動したことにする)・・・神木隆之介
明智光安(1500-1556 美濃明智城主、明智家家督、道三正室の兄)・・・大泉洋
明智倫(史実では名前不詳、光秀の長女、荒木村重室→明智光春室)・・・山本美月
明智宝子(史実では名前不詳、光秀の四女、信長の従弟である津田信澄の正室)・・・橋本環奈
明智左馬助光春(1536-1582 明智秀満 光秀の女婿にして重臣)・・・山崎賢人
明智珠(1563-1600 あけちたま 光秀の三女、細川ガラシャ、細川忠興正室、関ヶ原の混乱の中で死去)・・・広瀬アリス
明智光忠(光秀の従弟、光秀重臣)・・・浅利陽介
齋藤利三(1534-1582 光秀腹心の部下、春日局の父)・・・東出昌大
細川藤孝(1534-1610 細川幽斎、はじめ光秀とともに足利義昭擁立に尽力する。のち織田信長に仕え、光秀の与力武将となる。古今伝授を受けた歌人)・・・星野源
細川忠興(1563-1646 細川幽斎の嫡子、細川ガラシャの夫、関ケ原で功を立て、肥後細川家の基礎を築く)・・・溝端淳平
上泉信綱(1508-1577 柳生新陰流の祖、諸国を遍歴して、槍術、剣術を広めた。一時美濃に滞在し、光秀に槍術剣術を指南、将軍義輝の剣術信南、光秀と義輝をつなぐ)・・・真田広之
伊丹新之助(架空の人物)(商人ではあるが武術の達人、その自由な生き方が光秀に大きな影響を与える)・・・オダギリジョー

齋藤道三関連

齋藤道三(1494-1556 斎藤利政、美濃国主、土岐頼芸より美濃を奪取した。天下取りの野望を光秀と信長に託す)・・・阿部寛
長井新左衛門尉(生没年不詳、ながいしんざえもんのじょう、道三の父。はじめ京都妙覚寺僧侶、還俗して京の油屋山崎屋に入り婿し、その財力を背景に国盗りを目指して美濃土岐頼芸の家臣となる)・・・遠藤憲一
お万阿(架空の人物)(おまあ、道三父の京都の妻、道三の祖母ではない。京都の豪商、油屋山碕屋の女主人)・・・井川遥
土岐里子(架空の人物)(土岐家支流の娘、道三の母)・・・黒木瞳
深芳野(みよしの、道三の側室、もとは土岐頼芸側室、斎藤義龍の母)・・・麻生久美子
小見の方(1513-1551 おみのかた、道三正室、明智光安の妹、濃姫の実母)・・・広末涼子
竹中半兵衛(1544-1579 天才的軍略家、幼少時は道三の薫陶を受ける、神童と言われ12歳で道三の軍略を受け継ぐ、斎藤家家臣→信長家臣、秀吉の与力)・・・志尊淳
齋藤義龍(1548-1573 道三の子、実は土岐頼芸の子、長良川の戦いで道三の首を奪う)・・・城田優
赤兵衛(架空の人物)(元妙覚寺の寺男、道三の父の最古参の腹心、道三にも仕えた)・・・(華丸大吉の華丸)
稲葉一鉄(1515-1589 西美濃三人衆の一人、土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家、娘は斎藤利三室、春日局の祖父)・・・安田顕
猪子兵助(1546-1582 いのこひょうすけ、道三の小姓、道三没落後、織田信長に仕える)・・・濱田岳
土岐頼芸(1502-1582 ときよりよし、もと美濃国国主・道三により尾張に追放される)・・・小日向文世
日運上人(1484年生、美濃常在寺住職、長井氏出身、道三の父とは妙覚寺で同学)・・・温水洋一
天堂玄隆斎(架空の人物、てんどうげんりゅうさい)(道三の武術指南、槍術の達人)・・・仲代達矢
山崎屋いろは(架空の人物)(道三の父とお万阿の間に生まれた娘、道三の異母妹、やがて油屋山崎屋女主人となる。京都における信長、光秀の指南役として大きな存在感を発揮する)・・・常盤貴子

織田信長関連

織田信長(1534-1582 初めは道三とは対立、が濃姫と婚姻後、道三と手紙で交流、道三の野望を受け継ぎ天下人を目指すことになる)・・・山田孝之
☆信長については「保守的、中世的側面を強調、経済政策に優れていた点も強調される」とNHKが発表している。
織田信秀(1511-1552 信長の父、京都志向がある教養人にして強き武人、道三と幾度も戦うが結局美濃を奪うことはできなかった)・・・松田龍平
織田信定(没1538 清州織田家に仕えた奉行、織田信秀の父、信長の祖父、信秀の尾張制覇の野望に賛同できぬものの黙認、隠居する)・・・大和田伸也
濃姫(1535生誕、没年不詳 斎藤帰蝶、信長正室、道三の娘、母は小見の方、幼き頃は光秀に淡い恋心を抱いていた)・・・新垣結衣
お市(1547-1583 信長妹、浅井長政正室、淀君の母、お江の母、豊臣秀頼、徳川家光の祖母、長政没落後、柴田勝家に嫁ぐ)・・・北川景子
土田御前(没年1594 信長の母、信長の才能を実は見抜いていた、息子である織田信行の謀反を心配している)・・・水野美紀
織田信忠(1557-1582 信長の嫡子、幼名は奇妙丸、織田家家督を継ぐ、本能寺の変にて討ち死)・・・竹内涼真
生駒吉乃(1528-1566 いこまきつの、信長側室、信忠、信雄、徳姫の実母、穏やかな性格で濃姫との関係も悪くない)・・・満島ひかり
織田信行(没年1558 信長弟、信長と家督を争い、謀殺される)・・・三浦春馬
織田長益(1547-1622 おだながます、織田有楽斎、信長弟、信秀の11男、茶人、東京都有楽町は彼に由来する)・・・坂東巳之助
柴田勝家(1522-1583 織田家重臣、通称権六、織田家家督に信行を推した過去を持つ)・・・市原隼人
木下藤吉郎(1537-1598 後の豊臣秀吉)・・・中村七之助
木下寧々(1548-1624 秀吉妻、のちの北政所)・・・夏帆
前田利家(1539-1599 織田家家臣、柴田勝家の与力武将、秀吉とも親しく、のち加賀前田100万石の当主となる)・・・斎藤工
前田まつ(1547-1617 前田利家正室、芳春院、「加賀100万石は芳春院でもつ」と言われた)・・・瀧本美織
森蘭丸(1564-1582 信長小姓、信長より5万石を与えられた、本能寺にて討ち死)・・・加藤清史郎
夕顔(架空の人物)(信長、光秀に情報をもたらす女忍び)・・・栗山千明

戦国武将・その他
武田信玄(1521-1573 52歳で死去、甲斐の戦国大名)・・・草刈正雄
上杉謙信(1530-1578 48歳で死去、越後の戦国大名)・・・野村萬斎
今川義元(1519-1560 41歳で死去、駿河の戦国大名、領地経営に優れていた、桶狭間の戦いで戦死)・・・ムロツヨシ
浅井長政(1545-1573 28歳で死去、北近江の戦国大名、お市の最初の夫、のちに信長と対立、豊臣秀頼、徳川家光の祖父)・・・向井理
朝倉義景(1533-1573 40歳で死去、あさくらよしかげ、越前の戦国大名、光秀は信長と謀り、越前の状況を探るべく、一時義景のもとに身を寄せていた)・・・佐藤隆太
六角承禎(1521-1598 77歳で死去、六角義賢、近江の戦国大名、信長上洛戦にて敗退、その後も信長と交戦、晩年は秀吉の保護を受ける)・・・要潤
本願寺顕如(1543-1592 一向一揆の総本山石山本願寺住職、浄土真宗本願寺派宗主、10年以上信長と激しい戦いを繰り広げる)・・・伊勢谷友介
三好長逸(1573年前後に死去か、みよしながやす、将軍義輝を暗殺した三好三人衆の一人、畿内で三好政権ともいわれる勢力をほこった。信長上洛で逃亡するが、その後も本願寺と連携、信長と戦う)・・・市川猿之助
荒木村重(1535-1586 信長家臣、信長より摂津一国の経営を任される。光秀の娘と村重の息子は婚姻関係にある。のち信長に謀反して失敗、しかし生き延びる)・・・六角精児
筒井順慶(1549-1584 大和国大名、のち信長に臣従、光秀の与力となる。妻は信長の娘である)・・・キングコング 西野亮廣
ルイスフロイス(1532-1597 ポルトガルの宣教師、足利義輝、織田信長の保護のもとで布教、著書「フロイス日本史」を残す)・・・ピーターフランクル(数学者にして大道芸人)
松永久秀(1508-1577 69歳で死去、畿内を実質的に治めていた三好家の重臣、やがて主君を上回る力をつけていく。信長以前に天下統一を夢みた梟雄。将軍義輝暗殺には関与していない)・・・草刈正雄
足利義輝(1536-1565 29歳で死去、足利幕府13代将軍、三好三人衆によって御所で暗殺される、剣豪でもあり、多くの寄せ手を斬り殺した)・・・中村獅童
足利義昭(1537-1597 60歳で死去、足利幕府15代将軍、信長が将軍に擁立、のち信長と対立。信長包囲網の中心人物となる。晩年は秀吉の保護を受けた)・・・松坂桃李
雑賀孫一(史実不詳)(さいかまごいち、紀州雑賀衆の頭目、またの名を「尻くらえ孫一」、鉄砲隊によるゲリラ戦を駆使して信長の雑賀侵攻を退け、「信長、わが尻をくらえ」と言い放つ)・・・椎名桔平
徳川家康(1543-1616 73歳で死去、三河遠江の戦国大名)・・・高橋一生

最後にお知らせ

言うまでもなく「予想キャスト」です。カッコ内の解説は6割ぐらいが史実です。4割は「設定」ということです。縁戚関係については故意に嘘は書いていません。間違っていたら私が浅学であるせいです。そもそも戦国の人物については、資料の正確さに問題があり、縁戚関係についてすら確定的なことを言うことはほとんどできません。主人公の光秀の前半生を、もし誠実に書くとしたら、「ほとんどわからない」ということになると思います。

「麒麟がくる」の織田信長は「つまらない男」になる?「流行の学説」に従うとNHKが発表。

2018年11月03日 | ドラマ
以下はNHKのHPに載っている文章のコピーです。少し長いですが、引用します。

大河新時代= 最新の研究と新解釈を反映した人物像。
「麒麟がくる」では最新の研究で新たなアプローチがなされ始めている英傑たちの姿を、従来のイメージを覆す新しいキャラクター像として、描いていきます。
私怨により本能寺で信長を討った謀反人のイメージを覆す、勇猛果敢かつ理知的な天才・明智光秀。史料がほとんど残っていない20代の青春時代から描写していきます。
また、革新的な魔王のイメージが強い光秀の主君・織田信長を、最近の研究で見直されている保守的かつ中世的な側面も強調、父・信秀から実直に受け継いだ財政面、経営面での才覚も描いていきます。
さらに親子二代で美濃をのっとったという説に基づく斎藤道三、反織田勢力を自由自在に操り、室町幕府の再興をなそうとする権謀術数にたけた第15代将軍・足利義昭、ほかにも若く野心にあふれる細川藤孝、松永久秀、今川義元など、一癖もふた癖もある群雄たちが、戦国時代を舞台に、縦横無尽に活躍します。
明智光秀とはいったい何者なのか?
麒麟は一体、どの英雄の頭上に現れるのか…
物語は、本能寺へと向かいます…

以上引用終わり。

「織田信長を、最近の研究で見直されている保守的かつ中世的な側面も強調、父・信秀から実直に受け継いだ財政面、経営面での才覚も描いていきます。」

「保守的かつ中世的な側面」を「強調」とあるのが気がかりです。「なにも強調しなくてもいいのに」と思います。

織田信長を「どうしても凡人にしたい」「どうしても普通の武将にしたい」という「奇妙な情熱」を持つ人々がいます。学者さんに多いですね。
国民が「ドラマのイメージ」に引っぱられて、信長のカリスマ性に憧れることが「たまらなく嫌」なようで、「史実としては普通の武将だったんだ」ってことを強調します。

そういう学者が1万回ぐらい言うのが「天下とは近畿地方のことだ。天下布武とは近畿地方を掌握することだ」ってセリフです。

聞き飽きました。

「じゃあ、実際の行動として、日本全土を武力制圧しようとした武将がいますか」と聞いてみたいと思います。

答えは「ただ1人、信長だけ、あと本能寺後の秀吉」。よくよく考えてみてください。「本気で天下を狙っていた戦国武将」は他にいるでしょうか。「狙っていたことになっている武将」はいますが、具体的に行動をとった戦国武将は信長以外いません。

信玄の上洛なんてのも、それこそ「近畿の制圧目的」「信長の京からの駆逐目的」であって、日本全土制覇なんて壮大な構想は全然頭になかったでしょう。義昭に頼まれてやっと重い腰をあげた感じです。上杉謙信も最後の最後に少し動きますが、手取川で(たぶん)勝って、越後に引き上げています。いつもの「関東管領」としての謙信の行動パターンです。そもそも天下を狙っていたなら、動く年齢が高すぎます。当時としては老境である50前後で動いても、天下など取れるはずもありません。実際二人とも動くやいなや病死しています。

毛利は中国地方で拡大をやめます。謙信はあくまで関東管領としてふるまいます。信玄の上洛は義昭に強く請われての行動です。北条は「関東の覇者」であること以上の野望は持ちません。それぞれが地方の「管領的立場」以上の行動はとらないようにふるまったのです。

そして「事実として日本全土の武力制圧を考え実際に行動したのは信長しかいない」のです。
信玄も謙信も、浅井も、朝倉も、北条も、むろん毛利も、長曾我部も、そんな行動はとっていません。

「天下は近畿のこと」なんてのは「言葉遊び」で、信長の実際の行動を考えれば、彼のいう「天下」とは「日本全土」です。
こう言い換えてもいい。信長が「天下」という言葉を日本全土という意味にしたのだ、と。言葉の意味なんてあっという間に変わります。現代における「やばい」の用法のように。

さらに奇妙な情熱をもった学者は言います。

「3000丁の鉄砲の三段撃ちなんてなかった」
そりゃなかったでしょう。整然と1000丁ずつ撃つなんて無理です。だいたい3000丁も怪しく、1000丁ぐらいみたいです。

しかし1000丁ほどと考えても、その威力は強力です。

1000丁の火縄銃を各自が「勝手に撃った」とします。そうなると大体200丁分ぐらいの鉄砲玉が間断なく飛び交っていたでしょう。相手は進むことができません。
「武田騎馬軍団なんてなかった」を認めて、徒歩だとすると、余計に前に進めなくなります。
銃弾というのは一発でも相当な心理的圧迫性があるのです。200発が間断なく発射されたら、もう乱射と同じです。竹の束で身を守って、おずおず進むのがやっとでしょう。

つまり「三段撃ちを否定したぐらい」で、学者さんに「ほら、信長は天才ではないでしょ」とか言われても、困るしかありません。

というわけで、学者さんたちの奇妙な説明は、「はいはい、分かりました」という感じです。「奇妙な困った人たちだ」という感じすらします。

信長が完全なる合理主義者じゃないとしても、「義昭追放」だけでも、「延暦寺焼き討ち」だけでも、「大量の鉄砲の実用利用」だけでも、「中世の破壊者」の名を与えられるのは当然だと思います。
批判される前に書いておくと「将軍追放」だけなら三好も松永もしましたし、彼らもまた中世の破壊者的側面を持っていますが、彼らこそまさに「畿内の争奪だけ」をしていた人間です。

一部学者さんは「どうしても信長を凡人に」したくてたまらないようです。それは「つまらない」し、なにより「間違い」です。そういう「つまらない、半ば私憤をこめた学説、珍説」に飛びついて、NHKに「大河新時代」などと誇られても、ただ苦笑あるのみです。ちなみに「財政面、経営面での才覚」ともありますが、そんなの「楽市楽座」でみんな知っています。「副将軍の要請を断って、商業の重要地の支配許可を義昭に申し出た」ことも「みんな知っているし、既に描かれてきた」ことです。「桶狭間の段階で神仏に祈った」(中世的行動をとった)と描いた作品もあります。大河ドラマ「信長」では「加納隋天」という「吉祥占い師」(平幹次郎)が登場し、いつも信長の傍で天運を占っています。26年前の大河「信長」の段階で既に「中世的側面を持った信長」は描かれているのです。

加納隋天は、本能寺で信長とともに死にますが、最期は信長の「盾」となって、何発鉄砲で撃たれても、数十の矢が体に突き刺さっても、信長切腹の時間稼ぎをするまでは「決して死なない」わけです。明智側も「この世のものではない」と考えてひるみます。「妖怪」ですね。まさに「中世的存在」として登場しているわけです。

ただし中世的側面を描いたことによって、緒方直人さん演じる信長は「多少つまらない男になった」、私はそう感じています。

最後に「人の威を借りる」と、日本史学者、本郷和人さん、NHKによく出てきますが、彼なども「信長を普通の武将にしたい学者の行動には問題がある。」と指摘しています。