散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

サザンオールスターズの最初の3枚のアルバム

2017年07月01日 | 日記
サザンがデビューしたのは1978年ですから、来年で40周年です。

最初の3枚のアルバムは「熱い胸さわぎ」「10ナンバーズからっと」「タイニイバブルス」

1978年時点で活躍していたアーティスト(シンガーソングライター)で今も活躍しているのは、ユーミン、小田和正(オフコース)、井上陽水。

この4人(4グループ)は異次元の活躍をしています。あと、さだまさし、もデビューしてましたし、ヒット曲もたくさんあります。

サザンの1枚目のアルバムは衝撃でした。ユーミンの1枚目も、陽水の「氷の世界」も衝撃だったのでしょうが、僕は小学生だったので、まだそこまでの衝撃を受ける年齢ではなかった。

でもサザンは高校生ですから、もう頭がくらくらするような衝撃でした。

勝手にシンドバッドがデビュー曲ですが、これは「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」を組み合わせただけの題名で、当初はコミックバンド扱いをされていたのです。

でも最初のアルバムを聴いて、そこには「いとしのエリー」(2枚目のアルバム収録)などはありませんでしたが、これは「凄い」と思いました。

陽水さんはちょっと別ものですが、ユーミンもオフコースも、さだまさしも、基本的には「綺麗な旋律」なのです。

でもサザンの旋律は「綺麗」とはいえなかった。それでいて「圧倒的な魅力と新しさ」がありました。

今でもこの最初の3枚に収録された曲は圧倒的に好きです。

分かる人にはわかるのですが「ファイブロックショウ」のB面含めた10曲なども最高です。

で、あえて誰も上げないだろう私的名曲を1曲だけあげるとすると、それは「働けロックバンド」です。

1曲、1曲について書きだしたら、終わりがこないので、それはやめておきます。

高橋和夫著「中東から世界が崩れる」を読んで。

2017年06月18日 | 日記
高橋和夫さんの最新作といっても1年前なので状況は変化しているのですが、とにかく最新作「中東から世界が崩れる」を読んでみました。

アメリカでシェールガス革命がおこった結果、というよりアフガン、イラク戦争でアメリカが疲弊した結果、アメリカは中東への興味を急速に失いつつある。その結果、中東での覇権争いが起きている。これは「新たな列強の時代」とでもいうべき状況である。
キーとなる「人間集団」はイラン、サウジアラビア。そしてロシア、トルコ、イラク、クルド、中国などである。

特にイラン、サウジアラビア、トルコ、クルドに多くのページをさいています。

イランとトルコは中東といっても特殊な国だという指摘があります。トルコはかつてオスマントルコという大帝国でしたし、イランはペルシャです。

ペルシャとはつまり古代の中東の覇者です。ササン朝ペルシャ、アケメネス朝ペルシャ。言語はペルシャ語でアラブ語ではない。他の中東の国とは本質的に違う国だという認識が必要だと書いてあります。

トルコも似ています。しかもオスマン朝トルコは近代の国家です。「古代の栄光」ではなく、近代においても栄光ある国家だったのです。

他の中東の国はエジプト、イスラエル以外は「国もどき」なんだという指摘もあります。あ、でもイスラエルが「国民国家だ」とは書いてありません。中東には「国民国家」はイラン、トルコ、エジプトの3つしかないと書かれています。

現在の中東の覇者と思われているサウジアラビアも実は国もどき。国民国家ではなく、国民は労働すらせず石油で暮らしている。労働は外国人労働者が担っている。アメリカは武器を買ってくれるので重宝に扱っていたが、近ごろは副皇太子がはりきって「その武器を使おうと」している。「国もどき」が武器なんか使いはじめたら、来るものは「混乱」しかない。

最近でもカタールがいきなりサウジアラビア等から国交断絶されましたが、理由は「イランと仲良くしているから」です。

サウジアラビアとイランの覇権争いは年々激化しており、そこにトルコ、ロシア、中国がからんでくる。国をもたない世界最大の民族クルドがあり、イスラエルがあり、さらにISの存在がある。エジプトは今は混乱しているが本来はアラブの盟主となりうる国である。少なくともサウジアラビアのような「国もどき」の人間集団ではなく、「国民国家」である。

というわけで中東の大幅な再編成がやってくると予想しています。中東における日本の評価は今は「とにかく正直な国」というものである。日本人は騙さない、このイメージを損なう行動をとらなければ、アメリカなんぞより日本の方がよほど中東において大きな役割を果たすことができる。

一回読んだだけですが、まあそんなことが書かれていると感じました。

ヨハネ黙示録とかノストラダムスとか終末論とか

2017年06月18日 | 日記
ヨハネ黙示録の作者は分かりません。ヨハネなんでしょうが、そんな名前は極めて一般的な名前で、どこのヨハネかはわかっていません。

この著作はローマ帝国の崩壊を予言したものです。もうちょっと書くと「ローマなどこうやって破滅してしまえ」という作者の強烈な願いが書かれた本です。

直接にはローマと言わずバビロンとか言っています。つまり「全世界の未来」のことを書いているのではなく、現実のローマに対する不満と願望的予言を書いている著作です。

そういうことが忘れられて、今は「未来に全世界にこういうことが起きるぞ、でも信仰があれば救われるぞ」という感じの著作になっています。

ヨハネ黙示録を新約聖書に含むかは反対意見もありました。が結局含まれることになったようです。

キリスト教も基本的には終末論宗教なのです。もっとも今はすべてのキリスト教徒が終末を「待望」しているわけではなく、キリスト教原理主義者だけが望んでいるという状況かと思います。

ユダヤ教もキリスト教も「基本的」には「終末がきたほうがいい」という宗教だということです。世界には終末待望者が結構いるということが日本ではあまり理解されていないような気がします。

終末とは神による「世直し」です。今の悪い世界を滅ぼして、新しい善の世界が作られる、信仰があるものはその善の世界に行くことができます。

日本では終末論は「このままじゃ終末が来るから、人間の努力によって未来を変えよう」という流れの中で言われることが多いですね。

たぶんキリスト教圏でも穏健なキリスト教徒は同じなんでしょうが、新興宗教なんかは終末論を利用して信者を増やすことも多いようです。大川の「ノストラダムス戦慄の啓示」とかがそうですね。

ヨハネではちょっと古すぎるので、ノストラダムスを利用します。1999年に世界が滅びるなんてノストラダムスは書いてませんが、日本では書いていることなっている(五島勉の著作によって)ので、ノストラダムスを利用します。でも1999年が過ぎてしまいました。

終末論者が自分で終末を引き寄せようとした例としてはオウム事件があります。ただ地下鉄にサリンをまいても終末にはならないわけで、結局むごい人殺し事件を起こして罪なき人を殺しただけでした。

五島勉は今はアメリカの同時多発テロが「恐怖の大王だった」と言っていますが、1999年8月には「謝罪」をしています。

文明への警告だった、迷惑をかけたなら謝罪するとかいう内容だったかな。まんざら嘘でもないというか、実際70年代には世界の破滅が迫っていると感じさせる「冷戦という現実」「核開発競争」がありましたから、多くの人が「ありうる」と考えたのにも理由があったのです。

五島勉を擁護する気持ちは全くありませんが、「このままじゃまずいぞ」という土壌があったから、あのインチキ本はあれほど売れたのだと思います。

死海文書はただの古い文章

2017年06月17日 | 日記
だいたい死海文書という言い方が間違いです。「死海のそばのクムランという場所の洞くつで発見された文書」ですから「クムラン文書」です。

死海というのは塩分の強い湖で、人間なんてプカプカ浮かびます。でも塩分が強すぎて生物が住めない。だから死海。とくに神秘性があるわけじゃありません。

中学の頃ですから、1970年代ですね。私がこの「死海文書」「死海写本」という「言葉」を知ったのは。

「キリスト教の古い文書なんだろ」と漠然と考えていました。

「死海文書の神秘性」とか「死海写本の謎」とか「キリスト教史を根底から覆す文書」とか、まあ色々な「嘘」が言われていましたから、ちょっとは興味を持ちましたが、特に深く調べたりはしませんでした。

それが中学の頃です。

「キリスト教の古い文書」という段階で既に間違いでした。

比較的まともな学者さんたちの一致した意見として、まず「キリスト教とは何の関係もない」文書です。

キリスト教成立の以前の文章ですから。

すっごくまじめなユダヤ教徒、別の言い方をすると鼻持ちならないエリート意識をもったユダヤ教徒の「図書館みたいな遺跡」から発見されたユダヤ教関係の文書です。

内容は儀式とか掟とかそういうもの。あと旧約聖書関係。

「とんでもないことが書かれていたらどうしよう」とキリスト教関係者もユダヤ教関係者も考えたのですが、結局「ただの古いユダヤ教関係の文章」でした。

何ひとつ根底から覆さないし、実際、何も覆っていません。

聖書学の面白さ

2017年06月16日 | 日記
「聖書学」ってのは面白い学問です。

徹底的に聖書を「相対化」するのです。コーランに対してこれはできません。でもキリスト教聖書にはできる。

もともと

聖書がなくても、キリスト教は成立するのです。キリスト教がユダヤ教から分化して200年ぐらいは実際、なかったわけですし。まとまった本としては。

戦国時代、キリシタン大名とかが出てきますが、日本版の戦国聖書なんてものはない。聖書がなくても伝道は成立するのです。

だいたい、字が読める人間なんて近代になるまで非常に限られたエリートだったわけで(日本はやや識字率が高かったのですが)、聖書があっても中世の民衆には読めません。

聖書がないほうが、バチカンはやりやすい。指導者の言葉が真実だってことにすればいいわけです。「聖書にはそんなこと書いてないぞ」と言われなくてすむ。

これは宗教改革がバチカンへの反抗としてはじまり「聖書のみ」を重視した歴史からも明らかです。

というわけで、聖書を「相対化」してもそれほど教会主流は困らない。で、堂々と「聖書研究」ができるのです。

もっとも、それでも、護教的な聖書学者と、護教から自由な聖書学者はいます。後者の方がむろん面白い。

私は信仰なんて持てない人間ですが、聖書学は知的関心事項としてとても面白いと思います。

まあ、よくも細かく調べるもんだなと思います。しかも、古べブライ語、古アラム語、古ギリシャ語が読めないとできない。

日本人でもそれができる人間がいる、というだけで、語学嫌いの私には驚きです。

マルコが最初に書かれました。それからマタイ、ルカ、ヨハネ。パウロの手紙。

手紙はともかく福音書の筆者が誰かは分かりません。とにかく全部ギリシャ語です。イエスはアラム語ですから、生きていたとしても新約聖書が読めるのか?読めないという説もあります。

マルコを読んだルカという人とマタイという人が、「これはちょっと違うじゃないか」とそれぞれ別個に考え、自分なりの福音書を書いた。

この3つは同じようなことが書かれているように見えて、ちょっと分析すれば、まったく違うものだそうです。ヨハネはまた別の意味で全く違った福音書です。

全然違う4つの文書が一つとされて、読む方は統一的理解をしようとする。でも統一性なんか元々ないから、結局「なんだかよくわからない」ってことになるようです。

雨音はショパンの調べ とそのカバー

2017年06月14日 | 日記
雨音はショパンの調べ、原曲はガゼボという男性です。英語の詩はよくわかりませんが、「I like Chopin」ですから、ショパンはいいなという歌でしょう。

日本ではユーミンが歌詞をつけました。そして女性の歌になって歌詞も「やめてそのショパン」となります。

歌ったのは小林麻美さんですが、映像はありません。TVでは歌わなかったのです。

「ザベストテン」では2カ月間ランクインしましたが、出演しませんでした。歌うとイメージを損なうとかいう理由だったと思います。

簡単に言うと、小林さんは「そんなに歌がうまくない」ので、生は厳しかったのです。

カバーは数人がしていますが、最近聴いたカバーは柴咲コウさんと田中裕梨さん。

田中さんというのはオペラ歌手を目指していた方で、今はジャズ歌手だそうです。

まず田中さんの方ですが、発音がなんか変です。故意に変なんでしょうが、舌を丸める感じの歌い方、メロディーは小林さんに対して忠実です。

柴咲さん。歌はしっかりしています。声もいい。ただしなぜか一番大切な「アアー」の部分だけ違う音符で歌うのです。違和感。

で、小林さんを聴くとやっっぱり安心します。小林さんが一番だと思います。

ちなみにユーミンも歌ってますが、お得意の「棒歌い」で、お話になりません。

田川健三さんの「書物としての新約聖書」は、物理的に重い。

2017年06月13日 | 日記
田川健三さんの「書物としての新約聖書」を読んでいます。

ほとんど難解なところはなく、非常に読みやすいのですが、「物理的に重い」のです。

700ページあって、単行本。ベッドで読むには「支え」ないといけないわけで、手が疲れます。

調べてみるとこの方、西洋思想史の大家で、吉本隆明さんのことをボロクソに書いた本などを出しています。愚劣な男などと言っている。

僕も吉本さんのカリスマ性に幻惑された人間ですが、今の考えでは、あれは全部小説なんです。「悲劇の解読」なんかはわかりやすい小説ですが、

「共同幻想論」も「言語にとって美とは何か」も、「思想書」「学問書」ではなく、小説。

思想があるとすると、「難しい言葉を使え」「人と同じことを言うな」「孤立しろ」てなところでしょうが、小説として読むべき書物です。柄谷行人さんの本も同じです。小説。

さて、田川さんの本。実に詳しく書かれていて、自分の説か人の説の引用かもはっきりと書いていて、

読んでない本は「読んでないからわからない」と正直に書いている。

吉本さんとは違ったカリスマ感があります。正直でわかりやすい。人の功績は自分の功績には決してしない。好感がもてます。

でも重いのだけはなんとかしてほしい。350ページで分冊して、上下刊行すべきです。この「厚み」だけは「やや権威的」で好ましくありません。

「寝ながら読む本じゃねえぞ」という威圧を感じます。

内容に触れるのは今はよします。全部読んでないし。

加藤隆さんの同門で先輩みたいです。加藤隆さんは田川さんの名前をほとんど出さないけど、加藤さんの「ごく初期の著作」は、ほとんどこの本のパクリというかリスペクトです。

でも加藤隆さんの本の方が読みやすい。なぜって適度なページ数だし、文庫や新書だからです。いい本だけど、重いのだけは勘弁してほしいなと思います。

柴田淳さんの「ぼくの味方」について

2017年06月12日 | 日記
柴田淳さんの「ぼくの味方」は実に「心地の良い」曲です。

が、よくよく歌詞を聴いてみると、実に不思議です。

「かけがえのない大切な人、守ってあげたい、そばにいたい」

と始まります。

ところが、終わりは、

「だから行かないで、遠いところに、僕の味方でいて、僕には君が必要だから」

で結ばれます。

守ってあげたいのか、守ってほしいのか、途中から自然に歌詞が変わっていくのですが、それがいかにも自然なのでよく聴かないと気が付かない。

実にいい曲です。が実に不思議な歌詞です。

「日本会議の研究」を読んでみた。

2017年03月19日 | 日記
菅野さんの「日本会議の研究」。アマゾンでは今新書部門で売れ筋トップです。が、私は前に図書館で予約していて、順番がきたので借りてきて読んでみました。

300頁ほどあります。扶桑社新書です。扶桑社はフジサンケイグループです。

まだ一回読んだきりで、しかも速読です。文体は「変に熱狂的ではなく」、言葉も簡素。政治本にしては読みやすいと思います。日本会議が誕生した「歴史」を追っています。

内容は

日本会議という保守の圧力団体が日本にはある。運動形態は草の根的で、一見すると民主的市民運動のようにも見える。安倍内閣のメンバーはほぼ所属していて、政権への影響力は大変強い。

彼らは運動や組織維持の手法を、左派の市民運動や、左派学生運動の失敗から学んだ。長老たちは右派学生運動の生き残りで、今も右派学生運動を続けているという見方ができる。「もっとも民主的でない考え方をする人々」が、民主的な市民運動の形をとって活動している。

日本会議の名を前面に出さない場合も多く、実際はこの会の活動を担っていながら、担っているという認識がない人も沢山いる。ただの市民運動だと思っている人もいる。

宗教団体生長の家の出身者たちが事務や勧誘を担っている。彼らは「生長の家」から飛び出した「生長の家原理主義」とも言える人々である。

宗教の「勧誘の力」が生かされている。したがって「若い人々がこの団体に入って」くる。あまたの政治運動団体が「高齢化」によって衰退しても、この団体が衰えないのは、若い力があるからで、具体的には「日本青年協議会」こそがこの団体の真の中心である。

彼らのカリスマは安東氏なる人物である。政治と宗教が融合しており、草の根運動(市民運動)の形をとったカルト集団という見方もできる。

彼らが最も興味をもつテーマは「憲法改正(改悪)」、「歴史認識」の変更、「夫婦別姓反対」「従軍慰安婦問題」「反ジェンダーフリー」である。この草の根ファシズム(極右)運動は極めて危険であり、健全なる市民運動によって駆逐しなくてはいけない。

以上。

よりにもよってなぜフジサンケイグループの扶桑社が、とも思いますが、考えようによれば、日本会議の宣伝にもなる。この本の趣旨は「日本会議批判」だけれども、その逆の効果がもたらせれる場合もある。この本で初めて日本青年協議会の名を知り、近づく青年たちも少なくはないでしょう。

そんなことを感じました。私自身は若くないので、こういう本を読んでも「高揚感」はありません。ただ色々知らない団体が沢山でてくることや、舞の海さんが会員とは興味深い、というのが今の段階での感想です。なにしろ速読で、まだ一回しか読んでないのです。

なぜ「左派の運動は一時的な盛り上がりしかしないのに、右派の運動は継続して元気なのか」の説明にはなっているようにも思えます。

私が幼児だった頃、日本には安保闘争という運動がありました。でも大学に入る頃には、左派の運動はすっかり大人しくなっていて、右派の運動も活発ではなかった。でも今では、少なくともネット上には、異常なほど「中韓の問題」「慰安婦問題」「歴史認識問題」に「敏感な人々」がいる。それが何故か、への「回答の一つの例」だと思いました。

さらに思うのは、「保守という連帯感」が一部の若い人々を引き付けているのだろうということ。昔も「左派という連帯感」がありました。今でもあるかな。でも、私のようなわがままな人間はそういう連帯が嫌いで、「自立」とか「孤独」の方に価値を見出していました。

考えてみると、宗教や政治やサークルに至るまで、色々な「勧誘」を大学では受けました。でも私は「連帯感」がどうも苦手で、入ったのは自主ゼミだけ。連帯感とかあまりなく、互いの研究を批判する場。そっちの方が性にあっていたのです。

今は「連帯感を希求する若者」が多く、「保守という連帯感。大きな組織への帰属意識」で心の孤独を埋めているとすれば、なかなか根の深い問題だな、と思いました。

また草の根ファシズムというのは歴史的にみて非常に厄介なもので、そう簡単に「対抗」できるものではない。今回の森友問題が、それを考えるきっかけとなれば、むしろ問題の表面化は日本にとって好ましい事態なのかも知れません。

速読ではなくちゃんと読んでみて、また「感想」を書きたいと思っています。

固有の領土、を英訳するとどうなるか。

2017年03月18日 | 日記
初めに書いておくと、私は領土問題にさほど興味はないし、「領土でエキサイトする」ような人間ではありません。

「固有の領土」

よく聞く言葉ですが、不思議な日本語です。どういう英訳になるのだろうと思って検索しても、なかなかヒットしません。

でやっと見つけたのがこの言葉。「外務省はこう英訳している」とのことです。

an integral part of Japan's sovereign territory

「主権国家である日本にとってなくてはらないパート」「日本の主権が及ぶテリトリーのうち、なくてはならない一部」

英語が苦手な私にはちゃんと訳せませんが、そんな感じでしょう。

「固有の」という言葉の主な英訳は、endemic; indigenousですが、そんな文字は使われていません。

なぜなら「固有の領土」という概念が、世界にはほとんどないからです。

北方領土は我が国固有の領土です、という言葉を少し詳しく訳すと、

日本は17世紀の初めぐらいから、あの辺に島があることを認識していました。正式に領土として認識したのは1855年の日ロ和親条約ぐらいからです。

とでもなるのでしょう。

征夷大将軍の「夷」は蝦夷地(北海道)だからもっと昔、なんて言うとややこしくなります。「夷」は蝦夷地ではなく、蝦夷(えみし)です。彼らは主に東北地方の人々ですが、大和朝廷への帰属を拒みました。固有の領土というなら、大和朝廷ではなく、蝦夷の固有の領土だ、というややこしい問題になってしまいます。仮に日本政府と大和朝廷に「連続性がある」とすると、「固有の領土ではなく、蝦夷の領土だった」という逆の結論が出てしまうのです。蝦夷も今は日本人だから同じこと、まあ、そうなるかは難しいところです。

などと言っても、先に述べたように、私は領土問題にはあまり興味がありません。

興味があるのは「固有の領土」という不思議な日本語表現です。

固有の、と聞くと神代の昔から、みたいですが、せいぜい遡っても江戸時代ですし、近代的領土観念から言えば、19世紀です。

領土問題にこだわるのは人々の自由で、それにとやかくは言いませんが、もっと正確な表現を使うべきだと思います。

明治維新を朝鮮に輸出したかった日本

2017年03月11日 | 日記
韓国の大統領が罷免されました。それはさておき、朝鮮(韓国、北朝鮮)に戦争責任はあるでしょうか。

私は偏った人間ですが、右翼的な人間ではありません。さほど左翼的でもありません。「朝鮮にも70年前の戦争の戦争責任がある」なんて、過激なことを言いたいわけではありません。「限りなくない、もしくは全くない」ことは分かっています。分かっていて、あえて「あるとしたら」という思考実験がしたいだけです。

福沢諭吉が何故「脱アジア」を唱えなくてはいけなかったか。

歴史に詳しい方は、もう既に私が言いたいことは分かってもらえたはずです。

もし朝鮮と中国がもっと早く近代化をなしとげて、近代的な法制度と軍隊を持ってくれていたら、日本はロシア、ソビエトに対する恐怖に怯えなくても良かったかもしれません。

日本の仮想敵国は明治から冷戦時代まで、ずっと、ロシア(ソ連)でした。とにかく怖くてしかたなかった。でもそれを口にできなかった。

明治時代には恐露病という言葉すらありました。ロシアに恐怖するという意味です。

日露戦争は勝ち(実質的には引き分け)ましたが、その後、ノモンハンではロシアから生まれ変わった新生ソビエトに手ひどくやられます。ノモンハン事件は国民に伏されました。

日本、朝鮮、中国が団結して、列強に立ち向かう。福沢諭吉や島津斉彬ら、そういう構想を持った人間が日本には少なからずいました。

「明治維新を中国、朝鮮に輸出する」。

そういうおせっかいを日本がやらざるえなかったのは、ひとえに「列強に対する恐怖」からです。明治維新を朝鮮に輸出しないと、ロシアは朝鮮を通って、日本に来る、そう信じていました。

しかしそういう試みはことごとく失敗し、福沢が育てた朝鮮留学生は、あるいは迫害され、あるいは殺され、福沢はついに「脱アジア」を唱えるに至ります。

その後、あろうことか日本が列強の一員に加わり、と誰でも知っている不幸な歴史がはじまります。

西郷は征韓論を唱えたと言われます。彼は征韓とは言わず、遣韓と言っていました。言葉がどうあろうと、「戦争になる」と止められました。

しかし西郷は言います。「もし自分が死んで、日本と戦争となれば、朝鮮はいやでも近代化をせざるをえない。そして朝鮮にも志士の如き者があらわれ、維新が起きるにちがいない」と。

西郷に随分と「やさしい」考え方ですが、「自分が朝鮮にとっての黒船となる」という意識は西郷にあったと思われます。日本、中国、朝鮮の団結による列強への対抗、これは西郷の師であり主君である島津斉彬が唱えた構想だからです。西郷自身はアジア的教養人で「ぎょうしゅんの世」なんかが好きなんです。本当は近代化は嫌い。でもアヘン戦争の現実がある。なにより大師匠、大恩人である島津斉彬が近代化推進派である。島津斉彬の構想を実現させること、それが斉彬の死後も彼がこの世に留まった理由です。人間としては矛盾に満ちた存在が西郷です。

その後、長い年月と悲惨な歴史を経て、韓国は近代化、民主化しました。北朝鮮は工業的な近代化はなしたものの、政治の近代化である民主化はなされずにいます。

これは誰の責任なのか?むろん答えはでるわけもありません。また「責任を問うべきこと」なのかも分かりません。

民主化をしないこと自体は罪ではないからです。民主制度なしに「うまくやっている国」は現在の世界にもあります。

「近代化をなさなかったからいけないのだ」。

そう言い切れれば簡単なのですが、近代化をしないこと自体に責任があるわけもなく、日本だって、アヘン戦争さえなければ(列強への恐怖さえなければ)、太平の眠りの中でまどろんでいたかったのです。

難しい問題ですね。

私の超常現象

2017年03月10日 | 日記
中年まで生きてきて、本物の超常現象とか体験したことはありません。

浪人時代は馬鹿なのに勉強しすぎて、精神不安定になって、よく「金縛り」に遭いました。脳の現象です。ほぼ解明されています。

「金縛り」は発展するのです。体が宙に浮いて、天井にぶつかったこともありました。天上の灯りを突き抜けて天井に当たり、ドスンと落ちます。ドスンという音も聞こえます。

昼間、世界史の勉強をしていて、ちょっと横になったら金縛り、男の声で戸の向こうから「まだ生きているか?」という声がしました。

全部脳の現象です。大学に入ってからは一度もありません。ついでに言うと「幽霊が枕もと」もあります。全然怖くなくて「あ、幽霊だな」と思いました。それぐらい浪人中は勉強に疲れていたのです。幽霊を見ても、幽霊だな、としか感じないぐらい、感情が変な動きをしてました。太宰の小説で、石ころが歩いていたが何も感じなかった、という風なのがありますが、ちょっとだけ似た感覚です。

それより不思議なのは「小学校時代の火の玉」です。

公園で野球をして、帰りに「お墓のそばの階段」を降りているときにみました。

その階段は危険なので、小学校で使用禁止になっていたのですが、近道なので通ったら、火の玉が浮いています。

4名で見たのですが、転がり落ちるようにして逃げました。でも使用禁止の道ですから、4人で「内緒にしよう」となりました。

そんなの不思議でも何でもありません。火の玉なんて怪談世界では冗談みたいなもんです。

不思議なのはこっから。

それが小学校3年の出来事。それから4人みんな同じ中学に行きました。

なにかの折、本当に偶然に廊下でその4人で話したことがありました。中学2年ぐらい。私は「あ、火の玉の4人だ」と気が付き、「あの時は怖かったなあ」と言いました。

ところが「他の3人は」は「そんな話全く覚えてないし、そんな記憶はない。お前の夢だ」というのです。

私は帰ってからお祓いのため、自分のグローブに手製の「お守り」まで貼ったのです。そのグローブでずっと遊んでいたのです。私は夢をみて、その夢のお祓いのために、わざわざお守りを作ったのでしょうか。

でも「外の3名は」、全く記憶にない。夢だと言います。私はぞっとしました。現実とはなんだ、正常なのはこっちなのか、あっちなのか。現実めぐってあんな不思議な感覚になったのは、あれが初めてですし、あれ以降も一回もありません。

火の玉より、3人の記憶がなくなったことの方がずっと不思議です。あれが私の夢だったとした、さらに不思議です。

今日、車で聴いた曲 久保田早紀さん

2017年03月10日 | 日記
気が付くと家に「スピーカー」がない。昔は「家具のように大きなスピーカー」があったのだが、今の「小さな家」を建てた時、捨ててしまった。

PC用のスピーカーはある。昔買った。結構高かったので捨ててない。でも使ってもいない。

最近のスピーカーは小さい。昔は小型の冷蔵庫ぐらいの大きさだった。技術改良で、あんなでかくなくても「いい音」を出せるようになったらしい。

でもそれを買ったとしてもアンプがない。

というわけで、音楽はもっぱら車で聴いている。前の燃費の悪い車は頑丈で、大きな音をたてても、外に漏れなかった。今のプリウスは鉄が薄く、大きな音をたてると外に「だだ漏れ」である。でも大きな音をたてている。歩行者は少し迷惑だろう。

CDで聴くわけでもない。SDメモリーで聴いている。32GにMP3。死ぬほど曲が入る。

今日は久保田早紀さんを聴いた。いつも聴く。よく聴く。好きなのだ。

異邦人とかは聴かない。異邦人聴くなら別バージョンの異邦人を聴く。「サウダーデ」に収録のファド?バージョン。サウダーデって郷愁という意味らしい。今知った。30年以上たって今初めて知った。

「真珠諸島」

ハイテンポな曲。ポップ調。でも悲しい詩。「二人づつの一つの影が、次々と去って、私一人が潮騒の中、真珠アイランド」、曲がポップなのにこの悲しい歌詞。好きだ。

「天界」

「運命とは星のめぐり、名も知らぬ同士が引き合い引き寄せられていく。エルムーズファルダ。エルムーズファルダー。」

エルムーズファルダー、はペルシャ語で、「今日と明日」。昔は不思議な呪文だと思っていた。ペルシャではどう使われたのだろう。もしかすると、不思議な呪文なのかも知れない。

声がいい。歌詞がいい。こういう世界観で曲を作る人は現在はたぶんいない。で、いつも聴く。飽きない。

高校時代、凄く好きだったのは、井上陽水さん。久保田早紀さん。松原みきさん。松原みきさんは故人になってしまった。久保田さんも引退して今は音楽宣教師。でも今もこの二人の曲はよく聴いている。むろん陽水さんも。

ようやく…、あ、NASA♪ の為の変奏曲(柴田淳さんのブログとの架空対話)

2017年03月04日 | 日記

柴田淳さんのブログ「ようやく…、あ、NASA♪」。2017年2月28日。が面白かったので「架空対話」をしてみます。自分でもうっすら「気持ちわる」と思っているので、そこは責めないでください。自覚はあります。

変な題名(ほめています)。なんだろ、「ようやく、あ、朝」の「もじり」だろうか。

最後は「もう40なのに(笑)」で終わっています。40であの文章をかける精神を僕は素晴らしいと思います。私はお世辞は言いません。

さて、柴田さんのブログからの引用。

あまりに広い宇宙なのに、
生命体は地球人だけで、
そんでもって、自分の星の海底にすら行けてない地球人が最先端技術を持っているなんて考えの方が、無理がある。
視野や思考が狭すぎる傲慢さすら感じる。

宇宙人はいない、とするのは「人間の傲慢さ」なんじゃないか。宇宙人といっても物質形態とは限らない。エネルギー体である場合もあるなんて話が載っています。

人間中心主義への批判の仕方は色々あるけど、宇宙論から持ってくるのは珍しい。小松左京さんの作品「人類裁判」だったかな、を思い出しました。

私なぞは何故「知的生命体」にこだわるのかと思います。人間が「知的」なのは「知的」じゃないと生きられないから。他の動物は別に知性なぞなくとも生きていけます。

その一方で「人間は万物の霊長である」、つまり人間が一番ってのは「よい面もある」と思います。「しっかりしないといけない」わけです。生物の王様だとしたら。王様としてしっかりしないといけない。

人間が聖なる生き物であるとしたら、それに見合った言動をしなくていけない。それを捨てて、全ての動物と一緒、ということになると、「動物並みの本能のままの行動でも仕方ない」となります。

この文章は既にこの数行で矛盾してますが、そういう矛盾した考えを私は同時に持っています。

宇宙を勉強すると、本当に面白い。 
宇宙の大半が物質的存在では無い、という時点でお手上げだからだ。 
理解できない世界であっても、それは確かに存在していると立証されているから、 
安心してそれを受け入れ、感動することが出来る。 

ダークマター、ダークエネルギーのお話。といっても僕もわかりません。完全にわかっている人間は地球にいません。観測不能だから。
ダークマターがないと、銀河の運動が説明できない。ダークエネルギーがないと、宇宙の加速度的膨張が説明できない。
だから「あるはず」なんです。でも全く観測できない。むろん今座っているベッドの周辺にもあります。「ある」けど誰も観測に成功していません。
感動的であるのは僕も同じです。だっって人間のゲノム分析までできている時代になって、宇宙の8割か9割は観測できないってことが分かったのです。
ダークエネルギーは真空のエネルギーって説明はあるけど、あれも仮説ですね。
ヒッグス粒子が見つかった時、これで最後の謎が解けたという人がいました。えっ、と思いました。全然解けてないのです。

知能指数の低い私には、全く未知の世界でしかなく、 
ただ、幽霊も宇宙人もいない、とは、100%言えなくなってしまったことだけは確か。 
宇宙は宗教やスピリチュアルが可愛く思えてしまうほど、理解の域を超えてしまってる変な世界。 
人間の確信なんぞ、太刀打ちできないほどの相手。 
そして訳わかめで寝落ちするのが今の私の生活習慣。 

訳わかめ?の意味を調べました。世の中には僕のしらない造語が沢山ある。「わけわかんねえ」のことのよう。
これダークマター、ダークエネルギーのことだけでなく、量子論にも言及しながら彼女は書いています。
不確定性原理のことだろうけど、彼女は観察者効果と少しだけ混同している。混同するのは当然で、わたしにだってその区別は分かりません。
「分からないことがあるから面白い」っていうのは単純すぎる(私が)かもしれません。
たしかに宇宙論を突き詰めようとした物理学者の中には宗教、特に仏教の「無」とか「空」に行く人もいるし、霊性、つまりスピリチュアルに行く人もいます。
量子論って、僕も何回か挑戦しましたが、ちっともわかりません。
僕は数学、科学が好きでしたが、究極のところでは、自分が「文系だな」といつも思います。
万物の働きを示す「神の数式」。NHKは難しくないというけれど、NHKスペシャル「神の数式」を30回観てもまだ分かりません。

量子力学、相対性理論、、、
1ミリくらいしか理解できてないけれど、
たった1ミリでこんなに面白いんだから、
もっともっと勉強したら、もっともっと楽しいんだろうなと思う。

超弦理論によると、この世は10次元なんでそうです。
相対性理論のウラシマ効果は既に実証されているそうです。
「そうです」の世界なんですよね。自分ではわかってないから「そうです」と引用するしかない。
でも、そういう科学的知見の「かけら」みたいなものを聞いただけでも、なんとも楽しい。


柴田さんは、自分のブログに「どん引き」する人がいるかもと書いています。
そうかもしれません。
でも「どん引き」せずに、こうして「とても面白い」と思っている人間もいます。
伝わらないけど、伝わったらいいと思います。では。

柴田淳さんのブログが面白い

2017年03月04日 | 日記

政治のことを前回ブログに書いて、それが結構醜い話題で、なんだか、気分転換をしたくなって、柴田淳さんのブログをみたら、これがまた面白こと。

話題は、宇宙、というか量子論 というか人間 というか生と死

宇宙論なら私も大好きで、思わず感想をメールで送りたくなったのだけど、ファン会員でもない私にはアドレスも分からない。

ということで、いつかどこかで柴田淳さんがこれを見る、それこそ量子論的な奇跡を信じて

でも本当は信じていなくて、読むはずないのは分かっているけど、それは当然だから、特に気にすることもなく書いている。

「この文章、文体」、実は柴田さんを真似ています。でも無理、全然似ていない。そりゃ当然で、文体ってのは体と同じで、そんな簡単に似せることはできない。

ああいう文体、「憧れ」がある。手が届かないものへの憧れ。

一つの中心的なテーマ、たとえば宇宙、量子論を中心に、話題がどんどん移っていって、普通なら「とっ散らかって」拡散してしまうのだけど

ギリギリのところで拡散しないで調和していく。ああいう文章、私には書けない。あれは「猿回しの猿」の文章ではない。

猿回しの猿?映画「アマデウス」の中のセリフ。モーツァルトの譜面を初めて見た時のサリエリさんのセリフ。

それはごく普通の譜面だった。出だしは驚くほど単純だ。バスーンやバセットホルンがぎこちなく響く。錆ついたような音。

だが突然、その上にオーボエが、自信に満ちた音色で、揺らぐことなく、、

そしてクラリネットが引き継ぐと、甘くとろけるような調べとなる。あれは「猿回しの猿」に書けるような音楽ではない。

初めて耳にする音楽。それは満たされぬ切ない想いに満ちていた。まるで神の声を聞くようだった。

柴田さんの文章は「神の声」ではありません。わたしもそこまで「うつつをぬかしては」いません。

うまい文章ではない。話題は急に移るし、どっちかというとヘタな文章かも知れません。でも全体としてみれば統一があるのです。

ああいう文章。私のような人間にはとても書けません。「うまくまとめようと」する意識がどっかで働くのです。だから、柴田さんの文章には「憧れ」を感じます。