2017年の9月にニュースが流れました。明智光秀の手紙が新発見され、幕府再興の狙いが見えてきたというものです。実は新発見ではありません。直筆だと藤田達夫さんが「鑑定した」というだけです。でこれを受けて
☆藤田達生氏が示した材料から幕府再興の狙いという結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。
という意見が出ました。これで終わりでもいいのですが、本文と訳文を載せます。ちなみにわたしは藤田達夫さんの学説まで全面否定しているわけではありません。
なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、
1、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
1、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、
1、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言
くれぐれも貴人のご入洛の為、お働きなさることが肝要です。こまかいことは上意としてご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
京都にお入りになれること、すでに承知しております。
土橋様もその為、お働きくださいますようお願いいたします。
1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。
・光秀と相手土橋が音信を交わすのは初めて。少なくとも光秀からは初めて。
・将軍の帰京の願いは知っている。よく分かっている。
・よく分かっているから、お味方を願いたい。
・上洛のことについてはご上意があるだろうから、私からは申し上げない。
つまり「貴人(義昭か)に上洛の意思があって命令していることは知っている。具体的には自分からは何も言わない。とにかく自分は上意を知っているので、お味方願いたい」という内容です。
新発見でもなんでもなく、原本らしきものが新発見ということで既知の資料です。
どう読んでも、義昭?が上洛したくて上洛の命令をしていることは知っている。自分も努力する。とにかく安心してお味方願いたい。
これ以上の内容は読み取れないわけです。「自分も努力する」は拡大解釈でそんなことも言ってないようにも読めます。
「貴人のことは貴人から命令があるだろう」と言っているこの手紙から、「私は幕府を再興するために本能寺を起こしました」なんて内容を読み取ることは絶対にできないわけです。
貴人が誰かも明快ではありません。
「幕府再興と関係がある資料だ」「義昭と光秀に連絡関係があった」と読み取るのは無理があると思います。
例えば次の有名な手紙・細川幽斎宛
1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。
「義昭」の「よの字」も出てはきません。「息子と細川忠興に権力を譲って引退する」と言っているわけです。
「一次資料なんてこんなもの」とは言いませんが、「相手に合わせて自分に利があるように書いている」わけです。
さっき、神田千里さんの本を読んでいたら「信長は天正元年に義昭の居場所が分かったら、義昭のことは、大名で相談して物事を決める。毛利はお味方願いたい」と毛利に書いている。だから「将軍の帰京を認める可能性があったし、天下のことは合議で決めようとしていた」とか書いてあって驚きました。天正元年ならまだ本願寺もいます。敵は多いのです。誰が「将軍を追放してやった。あいつは許さない。毛利も将軍の味方をするな。したら攻めてぶっ潰すぞ」なんて書くでしょうか。
信長は天下支配を狙っていたと言えるのかという持論の補強のため、あえて「裏を読まないで誤読というか、そのまんま真実だと」しているわけです。
大名同士の手紙なんて「裏やウソがある」のが常識で、「持論の補強の為、あえてそれを読まない」というのは、実に不真面目な研究姿勢です。
☆藤田達生氏が示した材料から幕府再興の狙いという結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。
という意見が出ました。これで終わりでもいいのですが、本文と訳文を載せます。ちなみにわたしは藤田達夫さんの学説まで全面否定しているわけではありません。
なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、
1、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
1、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、
1、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言
くれぐれも貴人のご入洛の為、お働きなさることが肝要です。こまかいことは上意としてご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
京都にお入りになれること、すでに承知しております。
土橋様もその為、お働きくださいますようお願いいたします。
1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。
・光秀と相手土橋が音信を交わすのは初めて。少なくとも光秀からは初めて。
・将軍の帰京の願いは知っている。よく分かっている。
・よく分かっているから、お味方を願いたい。
・上洛のことについてはご上意があるだろうから、私からは申し上げない。
つまり「貴人(義昭か)に上洛の意思があって命令していることは知っている。具体的には自分からは何も言わない。とにかく自分は上意を知っているので、お味方願いたい」という内容です。
新発見でもなんでもなく、原本らしきものが新発見ということで既知の資料です。
どう読んでも、義昭?が上洛したくて上洛の命令をしていることは知っている。自分も努力する。とにかく安心してお味方願いたい。
これ以上の内容は読み取れないわけです。「自分も努力する」は拡大解釈でそんなことも言ってないようにも読めます。
「貴人のことは貴人から命令があるだろう」と言っているこの手紙から、「私は幕府を再興するために本能寺を起こしました」なんて内容を読み取ることは絶対にできないわけです。
貴人が誰かも明快ではありません。
「幕府再興と関係がある資料だ」「義昭と光秀に連絡関係があった」と読み取るのは無理があると思います。
例えば次の有名な手紙・細川幽斎宛
1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。
「義昭」の「よの字」も出てはきません。「息子と細川忠興に権力を譲って引退する」と言っているわけです。
「一次資料なんてこんなもの」とは言いませんが、「相手に合わせて自分に利があるように書いている」わけです。
さっき、神田千里さんの本を読んでいたら「信長は天正元年に義昭の居場所が分かったら、義昭のことは、大名で相談して物事を決める。毛利はお味方願いたい」と毛利に書いている。だから「将軍の帰京を認める可能性があったし、天下のことは合議で決めようとしていた」とか書いてあって驚きました。天正元年ならまだ本願寺もいます。敵は多いのです。誰が「将軍を追放してやった。あいつは許さない。毛利も将軍の味方をするな。したら攻めてぶっ潰すぞ」なんて書くでしょうか。
信長は天下支配を狙っていたと言えるのかという持論の補強のため、あえて「裏を読まないで誤読というか、そのまんま真実だと」しているわけです。
大名同士の手紙なんて「裏やウソがある」のが常識で、「持論の補強の為、あえてそれを読まない」というのは、実に不真面目な研究姿勢です。
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