先日の孫⑤のお宮参り、孫③としゃがんで鯉に餌やりをしていた、そのすぐ横
広島城二の丸跡に爆心地から740mで被爆したユーカリがあります
1971年の台風により幹の途中で折れたそうですが、再び芽を吹き成長を続けています
1945年8月6日、原爆によって被爆した樹木の中で生き残っているユーカリはこの木だけだそうです
※白黒画像はお借りしました
「75年間、草木も生えない」
そう不安視された原爆投下後の広島で、荒野に芽吹いた緑は復興への大きな希望となった
爆心地からほど近い広島城も、城郭建築はすべて倒壊焼失したが
意外に多くの被爆樹木が生き残り見守られているんだそう
16歳から広島で暮してるワタシは、縁あった人と子供や孫に恵まれ今に至ります
子や孫の人生の節目は喜ばしい事で、健康でたくましく幸あれ、と願わずにはおれません
あの日から77年も経ったユーカリの姿に、平和や生命力の強さを感じさせられます
前回の続きです
そもそもワタシがおばの家に寄ったのは、時々家の前を通る知人からの電話でした
「最近、娘さんの車がずっと庭に止まってるけど、仕事辞めたかな」(母と従姉妹になるM姉ちゃんの車)
そう聞いたのは10月に入ってすぐのこと
それがずっと気になっていて、どうしても家に寄りたかったワタシ
留守の様だけど・・・
玄関先には今から植えようとしてるビオラの苗、洗濯もおばの分だけが干してあり
生活感はある
ワタシは元々、 良い事と そうでない事 どちらもですが
突然の突風で周辺の空気感が変わり、胸騒ぎを覚えた、なんて不思議なことが時にあり
その時もそうだった
それがなかったら、留守だし、そのまま戸を閉め帰ったと思う
とっさに高齢のおばの事が心配になったから、ウロウロと家の周りを探した
本当にまさかのまさか
墓に気付き墓誌に刻まれたM姉ちゃんの名前、彼女の訃報を知る事になったと思います
まだ57歳のM姉ちゃんが亡くなっていた事は、ワタシにとって相当な衝撃でした
心がザワザワしてたのは亡き父ではなくM姉ちゃん?
呼ばれたんですかね( 。-_-。)
おばはもう高齢だからディサービスに通っていてもおかしくはない
でもね・・・
下記に家庭の事情を書いてますけど、母と娘が支え合って生活してたから。。
1人になったおばは大丈夫なんだろうか。。。家の電話番号は知らないのょ
翌朝、何事も有りませんようにと願いながら、7時半到着
昨日の洗濯物は取込んで有るし、中に灯りが見える、これだけでも十分な安心材料
ワタシを見たおばは驚いた様子でしたが、元気そうな顔にホッとしました
「としちゃん!!(母の事)」
前に会った時は、ワタシが母に似てきた様でそう言いましたが、今回は大丈夫
仏壇を拝ませてもらって小一時間話し込んで帰りました
M姉ちゃんは喉の癌で、治療のかいも無く・・・
それもね、私達が米を取りに行って、その帰り道に寄ろうかどうしようか?
結局寄らなかった日、その翌日に亡くなっていて、本当に悔やまれました
ヘビースモーカーで、ビールが大好きで、関西弁で華奢なM姉ちゃん(未婚です)
お土産に喜ぶぞっ♪と、嬉しげに缶ビール6本パックを抱えて寄ったけど
それは持帰って正解だった(咽頭癌のその多くは喫煙と飲酒が原因とされているから)
コロナのせいにせず、生前の元気な頃に、もう1度会って話したかった(._.)
母の葬儀の時、久しぶりに会ったおばが歳を取ってより小さくなっていた
母も父も、身近な人間が1人2人と、この世からいなくなり
今度はもうない、会えないかもしれない。。。そんな思いが年々強くなって
縁者の人に、思いついた時には会っておかないとと思う自分がいます
そしてコロナ過になり
人に、親戚にも、知らせず、小さなお別れをする家庭が増え
今回のワタシみたいに日が経って初めて知る事にもなる
2つ上の従兄弟の訃報も半年後に喪中ハガキで知り、叔母(父の弟の嫁)もいつの間にか逝去
何もしてあげられませんでした
台所にはゴボウがアク抜きしてあったり、料理の仕込みがされていて
石油ストーブの上には鍋ややかん、1人になっても自分で用意してる様子
ディサービスみたいな所は嫌いだからと、行ってないし行く予定も無いそう
数日に1度タクシーで買物に行く、誰とも会わない話さない日もある
長男は県外にいて電話くれる様な気の利く息子ではないと言う(私も1回しか会った事が無い)
ワタシを玄関先まで見送ると言い外に出ようとするおばに手を貸すと
「自立して行かんといけんから、大丈夫!」と、93歳が凛とした顔をみせる
しかし、ワタシに言わせたら危なっかしくて・・・近況を知ってよけいに心配になった
おばに限らず、高齢者の1人暮しは珍しくないのかもしれないですが
それを目の当たりにして色々考えさせられた出来事だったです
その日の夜、知人に電話をして、その地域の1人世帯の高齢者に対する支援を聞くと
毎日安否確認する様な事はなくて、SOSを出さないと何も受けられないそりゃそうか
出しゃばる事ではないと思いつつ
亡母が自分と同じ境遇の叔母を心配したり共感したり、あれこれ世話を焼いてたから・・・
また顔を見に行ってみようと思います
ここからは田舎の跡継ぎ問題、重くて長い話になりますので興味無ければスルーして下さい
何時代の事? な話に感じられるでしょう
同世代でも街で生まれ育った方や若い方には理解できないかも知れませんが
親の時代には普通にあり、55歳の年齢の私にも大きな影響を及ぼした、家の話です
母が亡くなった後の遺品整理に通ってた時期、葬儀のお礼におばの家(祖母の生家)に顔を出すと
「としちゃん(母の事)かと思ったわー」と、相変わらずな関西弁でテンポ良く話す彼女
おばには葬儀でもあったけど、不定休で仕事してるM姉ちゃんと会うのは久しぶり
20歳代の頃には同じ仕事をしていたし、一緒に飲みに行ったり泊めてもらったり
仲良くしてもらっていた
この家族も私の家と同じで、跡継ぎの長男を田舎に残し大阪で暮していて
M姉ちゃんは大阪生まれ、Y兄ちゃんとは随分と歳が離れていた(8歳?)
祖母の弟であるおじ家族、そのおじを頼って大阪万博の翌年、私が3歳の頃に家族で大阪に出た
(当時はおじ達が住んでいた社宅によく遊びに行ったし、姉がいないワタシにとって本当の姉のようで慕っていた)
私達兄弟と同様に、彼女もY兄ちゃんとは兄妹別々に育った
もっと言うなら
おじの20歳上の兄(祖母の兄弟は男女女女男)が長男で跡継ぎだったけど子に恵まれず
家を繋ぐために弟の子を養子にとったと思われる
(農村部である生家地方には、長子継承・家督制度・家制度・家父長制、そういう昔の考え方が根強く残る地域だった)
おじは58歳で急死し、大阪から夫の実家に戻って来たおばとM姉ちゃん
夫の早死で、兄夫婦やその上の親の面倒までみる事になったおばは相当苦労したと思う
Y兄ちゃんは頭が良く一流企業に就職、結婚、後は転勤族で1度も実家で暮す事無く
定年後も最後の勤務地で暮していて帰る予定はないんだそうで
本来の親子関係を取り戻せないままの母と息子
それがあってM姉ちゃんは結婚する事を諦め(おばを1人にさせられないから)
私と一緒で、地元で学校を出ていないから同級生すらいない土地になる
家の為の大人の事情により
跡継ぎの長男だからと祖父母の元、田舎に残され、子供世帯は都会で働き仕送りをする
祖父母の元に残され淋しい子供時代を送った長男達が大人になり
遠方に就職し家には戻らない宣言、こうした事も先で空家になる原因の1つかと思う
ワタシの兄の様に家には残ったが『育ててもらえなかった恨みがある』と
口走るような大人になり、自分だけが不幸者で田舎は嫌だと不平不満ばかり
生みの母と育ての母(祖母)に対する対応は明らかに違い
熟年離婚し出て行った父がいなくなると母1人に怒りの矛先が向けられ
兄嫁までもが加担し母を追い込み始めるが、母に無関心な兄が気付くはずもなくて
それでも平穏に暮していた母と祖母と兄夫婦の暮しが一変する事が・・・
3人の子供達が入れ替り立ち替わり、自分の家族を連れ短期の同居を繰り返すようになると
(当時21歳の兄が17歳の嫁を妊娠させたし、甥達も高校卒業後すぐのデキ婚で生活力が無いから)
兄嫁が同居したいが為、息子の嫁に気に入られようと必死にデキル姑を演じる
街育ちの息子の嫁達に田舎での暮らしは無理だと諦めると次は
自分達が3人の子供の家を転々と移動しながら暮すと言い始めた
兄嫁は自分が悪者にならないように、兄と母を喧嘩別れさせる為の嘘を積み重ねる
小中学生レベル、学校で起きる陰湿ないじめ問題と一緒、狭い世界へ孤独へと追いやる
母は自分さえ居なくなれば兄夫婦が家に残り家が繋がると自ら命を絶った
2人姉妹の妹の母が跡継ぎ、嫁の立場なら時代の流れに身をおいたでしょう
母が12代目、自分の代で途切れる事だけはしたくなかったのだと思います
霊能者を介して母が伝えて来たのは
【家督の為に自分の人生を捧げてきたけれど、この世は辛い事ばかり】と
家の為に頑張ってきた母の人生を思うと何とも言えない感情がわいてきます
そんな親の背中を見て育った甥や姪達
生まれ育ったとはいえ、その地に想いを残す子はいるのでしょうか?
みな、スネだけかじり倒したらサッサと街に出て行き、家を建て暮す
子供がすべてだった兄嫁にとって、今夫婦2人きりで暮す事は想定外だったと思います
母が死んで、最後だから棺の上に何か愛用の服を掛けてあげて。と葬儀屋が言った時
母の畑仕事用の汚れた野良着を手に持ち
バイ菌でも付いてるかの如く親指と人差し指でつまんで持って来た姿
母の携帯を葬儀翌日に解約し、勿体ないからリサイクルで売ってきたと笑った顔
娘の私には兄嫁の行動は理解できず怒りと悔しい事が沢山ありました
子供時代に両親を亡くし親も兄弟もいない兄嫁は、口を固く結んでだんまり
特に兄嫁と祖母、この2人は自分のせいにされないよう必死に繕う姿が異様でした
私の卒業証書を手渡した兄嫁は
「これで桜子さんの物はここには何も無いからもう来る用事はないでしょう」と
兄には遺品整理に通う最後の日にやっと母の死の原因を問うと怒りだし
「お前とは話が合わないからもう来るな」と
排除するより上手く使えば、私なんて随分と役立つと思うんですけどね
2人共、私の事が怖いんです
私にとって元々が実家であって実家でない
生まれただけの家は、祖父母や母や兄の家であり、常に気を使ってきた私は
大阪からUターン後の15歳で家を出て自立したし、自力で学校にも通った
家にも親にも兄にも、迷惑を掛けたり何も悪い事をしていないんですけどね
ただただ、自分の家族の事をいつも思い心を痛め心配していただけ
兄も兄嫁も愚かな人だと思います
それっきり
母の一周忌の納骨にも法事にも呼んでもらえず、祖母の訃報は従姉妹から聞かされました
平日は祖母しかいないので母の一周忌前までは月命日に顔を見に行く事ありましたが
もう行く事もないし、兄弟としての兄の事はあきらめた、遠い故郷になった
母は昔の墓を新たに兄が建て直した墓に納まる、もう墓参りにも行かれない
舵取りだった父がいた頃は、兄嫁もいい人で家族関係もそんなに悪くなかったのに
何でこんな事になったのか、今でも私の心を憂鬱にさせます。。。兄嫁は私の3つ年下
親世代は、その親、親の言う事を聞いていたら間違いない、そう言う世代でした
うちは母の実母である祖母が105歳まで生き、常に陰の権力者でラスボス
一見強そうに見えてた母自身も、親の言う事を聞いてたら間違いない、と
母が亡くなった時が100歳、その頃にディサービス・デビュー
亡くなる半年前までデイサービスに通いながら家で暮し、ピンピンしてました
その半年も施設利用ではなく心臓が弱り入退院を繰り返す
(帰っても介護する人間がいないという事で、元気になっても病院に置いてもらってた)
祖母とは仲が良かった兄嫁も結局は口ばかりで介護ができるような人間ではなく
車で5分の職場から昼休憩に戻る事すらなく放置、介護ではなく介助程度
祖母がいるから家から出なかったとか、〇〇せんかったとか良い事を言うけれど
結局は自分達に生活能力や甲斐性が無いだけの事で、祖母のせいにしたただの言い訳です
まぁ、みんなが共依存だったんでしょう
そんなに手を煩わす事無く祖母も逝った、心も体も強い人だったです
母が亡くなった時も1つの時代が終わったと思いましたが
祖母も亡くなった今
江戸時代から先祖代々続いてきたあの家も、もう終わったなと思います
家を継ぐ事が原因で不幸になったのか
それぞれ個々の人間の問題なのか
それとも時代の流れのせいなのか
昔ながらの凝り固まった古い考えが影響してると思いたいですが
たぶん私の家族、みんな、今世での学びは家族なんだと痛感します
支離滅裂な文章スイマセンm(_ _)m 長~い記事にお付合い頂きありがとうございます
かくかくしかじか・・・こんな事情もあり
分からず屋の兄を誘い一緒に父の納骨に行った時の事は又書こうと思います