神奈川工科大学/災害支援関連ブログ

2011年4月開始の「東日本大震災被災者支援ブログ」を名称変更し、さらに広い支援活動に関する実践、教育、研究を掲載します

南三陸町でのボランティア報告 その4

2011-10-10 14:19:28 | ボランティア

(下島君の報告、続きです。お読みください。)

 センター近くで、コンビニが営業を再開していたので、立ち寄ることにする。操業を止めた工場を間借りしての営業だったが、棚には商品が溢れんばかりにつめこまれ、品揃えも遜色ない。その様子に驚きつつ、昼食にとおにぎりを買い求めた。向かいの倉庫ではヤマト運輸のトラックがひっきりなしに出入りをしていて、物流が再開していることに心強さをおぼえる。被災直後の物不足の噂は、どこ吹く風であった。
 元来た道を南下して自然の家に向かう。天候が回復したからか、町のあちこちでは、人々が働きはじめていた。骨組みだけになったガソリンスタンドが営業を再開していた。その向こうでは、がれきの撤去作業が続く。上空をヘリコプターが飛ぶ。人が動く。
 内陸へ向かうところで、国道をそれ、海岸沿いに進む。路面が急に悪くなった。アスファルトが剥がれて未舗装の状態が続き、橋は土管の上に砂利を敷いただけの簡素なものとなる。道の脇に真新しい電柱がしっかりと立っていた。流された電柱は折れたまま、田んぼの跡と思われる場所に転がっていた。その横に、横倒しになった船が放置されていた。船底に大きな亀裂が走り、赤いスプレーが丸く吹きかけられていた。
 しばらく走ると、周囲に何もなくなった漁港の船揚げ場が見えた。どうやら、まだ使えそうな船が集められ、修理を受けているようだ。ここでもまた、復興への作業が続いている。
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南三陸町でのボランティア報告 その3

2011-10-06 12:53:50 | ボランティア
(下島君の報告、続きです。お読みください。)

 低気圧が去った翌日、空はすっきりと晴れ渡った。片道二時間をかけて、南三陸に向かう。途中、三陸道からは石巻のイオンがよく見える。駐車場は溢れんばかりの車でいっぱいだ。一昨日と同じルートで志津川の町に入った。町は昨日の雨で、ところどころが水没していた。大地に突き刺さり傾いた家は、水面に浮かぶように見え、どこか幻想的な雰囲気さえ醸し出しているように思えた。昨日と同じ道をたどり、ベイサイドアリーナに到着して、今度は間違えずにボラセンに入った。
 センターでは、まずボランティア保険の加入の有無を訊かれる。入っていないと答えると、名前と住所を記入したのち、簡易なボランティア保険加入証が渡される。とてもありがたい。次に、本日の作業の指示を受けた。街から海沿いを南下した所にある志津川自然の家に向かい、フリーマーケットの手伝いをして欲しいと言われる。持ってきた長靴とスコップは、意味がなくなってしまった。実は事前にボランティアに行っていた兄から、泥かきが作業の中心だと聞いていたのだ。とはいえ、被災状況を見てみれば、地域によって、作業内容が大きく違うであろうことは理解できた。兄は仙台市若林区や東松島へと向かっていたが、そちらは比較的平地が多く、広範囲にわたって波をかぶった。結果として、泥は入ったものの、構造自体が維持された建物も多く、それらを復旧させるために、人海戦術が必要だった。一方、リアス式海岸にへばりつくように広がっていた南三陸は、建物が根こそぎ無くなっていた。街の高台への移転が検討されるなか、再利用できる建物も少なく、撤去したいガレキは、重機がないと歯が立たない。ボランティアにできることは限られていた。
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南三陸町でのボランティア報告 その2

2011-10-05 20:42:02 | ボランティア
(下島君の報告、続きです)

 翌朝、あいにくの大雨で、仙台市内はところどころ水没し、南三陸のボランティアセンターも終日閉まっていた。結局、丸一日ホテルから動くことができず、昼食に名物牛タンを食べて鬱憤を晴らした。
夜になり、雨が止んだ。夕食にふらりと立ち寄ったラーメン屋の親父が、お笑いコンビのサンドウィッチマンの話を誇らしげに語った。曰く、高校生の頃からの常連なのだそうだ。地元のために奔走した彼らは、今や被災地のヒーローなのかもしれない。
 仙台の街は、節電ムードの漂う東京よりむしろ明るく、震災の形跡はほとんど残っていなかった。しかし仙台東部道路から海にかけては、全て波をかぶり、家や防風林が根こそぎ流されたことで、二キロ先の海まで一望できるようになってしまっていた。あの暴力的な風景に、どのような言葉を当てていいものか、私にはわからない。
 明るい街並みと、人の生活が消え去った沿岸部、その対比に困惑しながら、まぶしい光を放つドン・キホーテに蛾のように引き込まれ、ウェットティッシュや電池を買いこんでホテルに戻った。
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南三陸町でのボランティア報告 その1

2011-10-04 16:25:29 | ボランティア
情報学部の下島君が南三陸町でのボランティア活動を行った経験をまとめてくれました。これから、何回かに分けて載せていきますので、ぜひお読みください。

南三陸町でのボランティア活動 その1

 五月の終わり、かねてから行こうと考えていた被災地に、二日間の短期ボランティアとして入ることになった。向かったのは南三陸町志津川、リアス式海岸の南に位置する、豊かな港町である。いや、あったというべきか。
 半日かけて仙台までたどり着き、三陸道を北上し、国道の峠を越えると、まだ海も見えないうちに川沿いに瓦礫が散らばっていた。やがて、周囲の建物も消え去った。カーナビを見ると、左手には線路と駅があるはずだった。しかしそこには砂利とコンクリの固まりが転がるばかりだ。海沿いに出ると、その痛々しさは増した。
 橋はことごとく流され、鉄筋コンクリートの建物は文字通り傾き、大地に沈んでいた。
 無残に破壊された水門の横にかけられた仮設の橋を、自衛隊の指示に従って渡り、志津川の街に入る。ある旅行記によると、志津川の街は道が入り組んでいて、迷いやすいとのことであったが、津波に洗われた後は、海から山まで一望できた。信号が無くなっているため、慎重に車を進める。有名な鉄骨だけになった防災庁舎と、四階まで窓ガラスが割れた志津川病院を横目に、ボランティアセンターのある高台のベイサイドアリーナを目指す。
 自衛隊車両に混じってベイサイドアリーナに車を入れ、アリーナの中に入ってみた。線香の香りが鼻についた。アリーナの二階は遺体安置所で、身元不明者の特徴を書いた紙が壁に貼ってあった。そこにいた医師に場所を尋ね、ようやくボランティアセンターに到着した。
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