金沢東別院は昭和37年に火災に合いコンクリートの御御堂に代わりました。
そのすぐ近くにある西別院は焼けなかったので立派な建造物として残っています。
その西別院の一角に金沢城の時刻を告げたと言う梵鐘が展示されています。
明治になって藩が無くなるとこの梵鐘は長い間金沢市に保管されていました。
当寺の鐘は戦時中に供出されてありませんでした。戦後にある篤志家によって昔加賀藩が使っていたこの鐘を寄贈してもらいました。
平成5年この梵鐘にひびが入って音が悪くなったので、鐘楼から降ろされ御御堂の前に飾られることになりました。
この鐘になぜか鉄砲の弾が当たったような穴が開いています。その中を覗くとどうも中がコンクリートのように見えます。
どうも偽物のように思えてなりません。
今の鐘楼には同型の鐘が取り付けられています。人手不足なのか鐘は電気仕掛けで突くようになっているようです。
別院の境内に転輪蔵(てんりんぞう)という立派な建物が立っています。この中には一切経というお経のすべてが書き記された経典が入っているそうです。転輪蔵とは仏教の経典が乗った台をぐるりと一回転することで経典のすべてを読み上げたこととする事から来ています。
入口の扉の一角に小さな穴が開いていた。お賽銭を入れる穴かなと一寸中を覗いてみました。立派な仏様?が座っていました。
榑(ふ)大士とその子供らしいです。榑大士とは中国の南朝梁代のお坊さまでこの経典を考案された人物のようです。
金沢城には極楽橋というのがありますが、この辺りのもその極楽橋があったそうです。この橋を渡れば極楽に行けると言う意味でしょうが。
金沢城の極楽橋は二の丸から本丸に行くところに架かっています。その昔本丸は尾山御坊という一向宗のお寺のあった所です。
この別院の辺りはその昔御寶町(ごぼうまち)と言われました。〝寶″という字があることから相当ありがたい場所だったのでしょうね。