野田山の一角に大乗寺山というのがある。大乗寺という僧洞宗の禅寺があることからその辺りを大乗寺山と呼んだのだらう。
大乗寺は元野々市にあったらしい。室町時代の終り頃戦火に合い、金沢の木の新保(現在の金沢駅前辺り)に寺を移し、元禄時代(1697年)に本多家のご好意で現在地に移った。
大乗寺
そして、明治の初め、それに似た?忠義による仇討ち事件が加賀藩にも起きた。殺されたのは殿は殿でも、藩主ではなく、加賀藩八家の出頭を勤める本多政均(まさちか)。
事の起こりは1869(明治2)年8月。金沢城二の丸御殿で、金沢藩執政(藩臣の最高職)の本多政均が暗殺された。テロの実行犯は下級藩士2人。廊下でじっと息を潜め、白昼堂々行われた凶行だった。
「西洋かぶれ」だった。西欧文化を積極的に導入し、藩の近代化を推し進めようとした政均の改革は、時代の急激な変化についていけない藩士の不満のはけ口にされてしまったのだ。
14代藩主(金沢藩知事)前田慶寧(よしやす)は黙っていなかった。犯行の翌日、政均の改革は自分の意に沿うものだと強調した上で、「今後は心得違いをすることのないよう、一同に強く申し諭しておく」と家臣に命じたのである。
事件から1年半後、実行犯の2人は処刑されたが、共犯者は多くが軽い処分で済んだ。これ以上、事を荒立てて、藩内の対立をあおりたくないという上層部の意向が働いたのであろう。
これで納まらないのは、主を殺された本多家の家臣たちだった。無念を晴らそうと立ち上がった15人は、暗殺計画に関与した藩士を突き止めると、自宅や通勤途中、出張先へ押しかけ、3人を討ち果たした。仇討ちに加わった15人のうち12人は翌明治5年、切腹を命じられた。新生日本社会に与えた影響は大きく、政府はすぐさま「仇討ち禁止令」を出し、全時代的な風習の一掃を図ったのである。~北國新聞より
12義士の墓
12義士の墓の謂れが書いてあるらしいが読めない。
右から本多彌一・西村熊・矢野策平・鏑木勝喜知・富田總・舟木鉄外・浅井弘五郎・吉見亥三郎・芝木喜内・廣田嘉三郎・湯口藤九郎・藤江松三郎以上12名。
12義士の中に入っていないが同じ仇討ちに加わった仲間の墓が隣に並んでいた。
左から島田伴十郎・竹下卯三郎・清水金三郎・諏訪八郎の4名。
12義士の墓の前に元総理大臣の林銑十郎の墓があった。僅か4ヶ月だけの政権でした。
本多家墓地の真ん中にひときわ目立った大きな墓があった。
本多家初代の本多政重の墓かと思いしや・・・
12代当主本多政以の墓でした。
側面には正四位勲三等男爵本多政以之墓と書いてある。
大名ではなかったが、5万石のお殿様は偉かったのだ。
隣りの小さな墓は奥方の墓らしい。