電気通信の源流 東北大学 5.八木秀次の登場
八木アンテナの発明者として有名な八木秀次は、明治19年に大阪市で生まれた。府立一中、第三高校を経て明治39年に東京帝国大学の電気工学科に入学した。
八木は、米国ゼネラル・エレクトリックの留学から帰った鳳修太朗の電磁気学を受講したことから、無線に興味を持った。電磁気学が電気工学の基礎で、物理学に根ざすものであることを知り、物理学科に行って、長岡半太郎の電気物理学の講義を聴講したりした。
八木は大学に残って研究者になりたかったが、母校にポストがなかったため、鳳は八木に仙台高等工業の嘱託講師の職を紹介した。同校はいずれ東北大学の工科大学として移管される予定であり、そうなれば帝大で研究ができると説得したのである。
明治42年に仙台高等工業に着任した八木は、四か月後に東京中野の電信隊に志願入隊した。志願すると二年の兵役が一年に短縮されたのである。
兵役を終えて仙台高工に戻った八木は、直ちに電気科教授に任命された。嘱託講師から一気に飛び上がって、満23歳の若い教授が誕生した。
明治44年、東北帝大理科大学が開校した。まだ高等工業に在籍していた八木には、研究ができる大学の教授がうらやましかった。高工では、学生の教育に忙しくて研究をする時間がなく、設備もなかった。しかし明治45年、仙台高工は東北大学に移管され、工学専門部となった。
ここで八木は、幸いにも、物理学科の教授で7歳年長の本多光太郎の親交を得た。八木は、本多がドイツ留学中からヨーロッパの学会誌に論文を発表していることを知り、尊敬の念を抱いていた。
本多の好意で、八木は理科大学物理学科に出入り自由の特権を得た。また毎週開かれる本多研究室の雑誌会にも出席するようになった。
理科大学の学者は、蔭では工学者を「俗物」と呼んで軽んじていた。そんな風潮の中で、八木が物理学の雑誌会に招かれるのは異例のことであった。
あるときの雑誌会で、八木はドイツのバルクハウゼンの弧光振動の論文を発表した。それを聞いた本多は八木の先端的な学問への意欲と研究センスを認め、長岡半太郎に伝えた。八木は長岡と本多の文部省への口利きにより、異例の早さで留学することになった。
大正2年から三年半の間、独英米で過ごすことによって八木は目覚ましい成長を遂げることになる。
<4.東北大学物理学科
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