電気通信の源流 東北大学 12.英国軍が使っていた八木アンテナ
昭和17年3月、日本軍が英国植民地シンガポールを占領した後、英国軍が捨てていった兵器を視察するため、技術将校が派遣された。視察団の一人が屑籠の中から分厚いノートを発見し、これとゴルフ場のアンテナらしき設備の写真を陸軍兵器本部に送った。
兵器本部の命令で、兵器技術指導班が現地に急行した。指導班の将校が捕虜収容所に捕獲されていたノートの持ち主を探し出し、ノートに書かれたYAGIという言葉の意味を尋ねた。
「YAGIというのは、そのアンテナを発明した日本人の名前だ」
そう答えられた将校は愕然とした。指導班は書類を東京の陸軍技術本部に送付した。
本部はあらためて、東芝の真空管開発のリーダーである浜田成徳を含む三人の電波の専門家を現地に送った。浜田等は確かに八木が発明した指向性アンテナがレーダーに使われていたことを確認した。電波の波長は1.5メートルということも分かった。専門家等は日本人が忘れていた日本人による発明を、敵軍の基地で見せつけられたのであった。
陸軍の中にも、レーダーの必要性を提案した技術者が居たようだ。しかし彼らの意見は、電波研究部長等の指導者層により
「敵を前にして自分から電波を出すなど、闇夜に提灯をともして自分の位置を相手に教えるようなものだ」
として、拒否されてしまっていた。
一方、英国は一千万ポンドもの巨費を投じ、数千人の科学者、技術者を動員してレーダーの開発を進めた。日米開戦により大戦に参加した米国も、ただちに英国から技術の供与を受け、マサチューセッツ工科大学にレーダー専門の研究所を設け、やはり数千人の科学者、技術者を集めてレーダーを開発した。
昭和17年には、米艦隊の主要艦はレーダーを装備していた。これに対し日本の艦船は装備をしていなかった。ミッドウェー海戦において、レーダーを持たぬ日本の空母は真上に敵爆撃機が襲来しているのに気が付かず、飛行甲板に爆弾を投下されて初めて襲来を知り、大敗した。
この話を聞かされると、明治38年の日露戦争における日本海海戦を思い出す。このとき日本艦隊は、明治36年に開発された三六式無線機を各船が装備し、哨戒艇信濃丸からの無線連絡により敵艦の艦影を確認して、訓練で鍛えぬかれた射撃技術により完勝した。ロシアの艦隊も無線機を装備してはいたが、ほとんど使用した形跡がなかったという。この辺りの話は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に紹介されているので多くの日本人が知っている。三六式無線機は今でも横須賀リサーチパークに浮かんでいる記念館「三笠」に複製が展示されている。
日本は戦争相手に先んじて無線技術を利用することにより一回は完勝し、さらに次は基本技術を開発しておきながら、自らはその技術を活用することをせず、逆に相手に利用されて惨敗する結果となった。
無線屋にとって、悲しい戦史である。
<11.陽極分割マグネトロンの発明
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます