電気通信の源流 東北大学 15.工務局長から二等兵に
昭和16年末、第三代工務局長荒川大太郎の交代時期が近付いた。次の工務局長は大正12年東北大卆、荒川の後任で無線課長を務めていた小野孝が候補であったが、彼は二年後輩の松前に席を譲ったのであった。松前は調査課長から大政翼賛会の総務部長に転出していたが、小野孝は率先して松前を再び逓信省に復帰させる運動の先頭にたち、逓信省幹部を説いたという。そして彼自身は日本電気子会社に転じた。潔い生き方である。なお、戦後の電電公社施設局無線課長を務めた小野浄治氏(昭和27年東大卆)は孝の令息で、二代続いての同職位である。
なお、序に記述すると、元電電総裁の米澤滋は第二代工務局長米澤与三七の令息であり、筆者の同期生、辻明氏の父君は元電電公社東京電気通信局長の辻正あった。職位の上下は別として、電電公社内にはご子息を電電内に就職させる例が多く、おそらく数パーセントの比率で居られたように思う。
松前が工務局長に就任して5日後の12月8日、太平洋戦争が始まった。初戦こそ有利に戦いを進めた日本だったが、工業力に勝る米国に次第に巻き返されていった。昭和19年6月にマリアナ諸島西方の海上で日米機動部隊の決戦が行われ、日本海軍は大敗をした。その大きな原因となったのが、米軍が使用した波長3センチの高性能レーダーと、超小型レーダーを持つ信管を装着した高射砲弾であった。八木がIREで発表した新技術を、米国は大きく進歩させていたのである。サイパン島陥落の責任をとる形で東条内閣は総辞職をした。
その前年末に兵役法が改正された。それまで満40歳を上限としていた兵役年齢が満45歳にまで引き上げられた。しかし松前は逓信省の局長で、勅任官である。その任免は勅命でしか行えないので自分に召集はないと考えていた。その松前に召集電報が届いたのである。
松前が倒閣運動の一角を担っていたことを知っていた東条は、退任前にその恨みをはらすべく、首相命令として懲罰召集をしたのであった。逓信省の関係者が、陸軍省に必死に交渉したが効を奏しなかった。松前は二等兵となってサイゴンの南方軍司令部へ送られた。
このとき、八木秀次は東京工業大学の学長であったが、松前が召集された四月後の昭和19年12月に、内閣技術院の総裁になった。これは松前の根回しによるものだったという。八木は、住友通信工業(現日本電気)社長の梶井剛(元工務局長)と相談して、松前を技術院の参技管に採用する人事を発令した。召集の解除に際しては当然ながら陸軍兵務局の強い抵抗に遭ったが、松前が無事に戦地から帰還できたのは八木の奮闘の結果にほかならない。
<14.技術者運動
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