電気通信の源流 東北大学 14.技術者運動
松前は、官庁が法科優先で、技術者の地位が低いことに我慢できず、技術者の地位向上運動を起こした。過去に逓信省の局長はすべて法科出身であり、技術者は電信課長か電話課長止まりであった。工学士が局長になる工務局が新設されたのは大正14年になってからである。
初代の工務局長は名古屋市の出身、明治33年東京帝大電気工学科卆の稲田三之助であった。彼は早稲田大学理工学部の教授も務めた。
第二代の米澤与三七は明治39年東京帝大卒である。彼は、昭和40年から52年まで、三期12年間電電公社総裁を務めた米澤滋の父君である。
第三代の梶井剛(前出)は明治45年東京帝大卒業で、筆者は拝謁の栄に浴したことがある。
第四代の荒川大太郎は大正8年の東京大学卆業でCCIR(国際無線諮問委員会)第四回総会に日本代表で出席し、活躍された。工務局の初代無線課長でもあり、第15代無線課長を務めた筆者から遥かな先輩にあたる。
松前は、工務局の技術者を中心として「技術談話会」を結成、逓信省の技術者の地位向上と権限の拡大を求める運動を始めた。三年後には「逓信技友会」に発展し、逓信大臣に技術者の待遇改善と工務局への四課増設を要求するに至った。この要求によって調査課が新設されたことは先に述べた。
松前の活動は逓信省内だけにとどまらなかった。官庁を横断して各省の技術者に働きかけた。昭和12年には「六省技術者協議会」を結成し、神田学士会館で第一回の会合を開くに至った。六省は大蔵、内務、農林、商工、逓信、鉄道で、後に厚生省も加わり七省となる。
筆者が電電公社に入社したとき、技術系社員は研究所を含め約40名、事務系社員は約30名であった。これら社員は7、8年後に本社の係長或いは通信部課長レベル、17、8年後に本社の課長或いは中規模の電話局長レベルに昇進する。その後には退社する人が多くなるが、残った社員は27、8年後に本社の局長或いは通信局長になる。ここまでの昇進は、事務系も技術系も全く同じテンポである。
筆者はこのように、事務系と技術系が同じであることを当たり前のことだと受け止めていた。
しかし、これは電電公社だけの例外的なことなのであった。逓信省以来の伝統を受け継いでいた、正しくは松前重義の活躍の恩恵に浴していたのである。筆者は電電公社技術局の総括調査役のとき職務上から全技懇(全国技術者懇話会)に出席し、そのことを知った。例えば、通産省の技術系職員は工業技術院院長が最終職位であり局長に昇進した例を筆者は存じていない。そして各省庁の代表から、電電公社の技術者は羨ましいと言われ、驚いたのであった。
<13.松前重義の活躍
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