電気通信の源流 東北大学 16.独創の科学者 西澤潤一
21世紀初頭、日本は世界最先端の技術レベルにあると自他ともに認め、また半導体生産量は世界で8割のシェアを占めていた。ドコモが第三世代携帯電話、フォーマの販売を開始し、世界の移動通信事業者から「日本は何故そんなに先を急ぐのか」と批判されたほどであった。
その日本が、世界特許出願件数は第3位へと転落、競争力は過去最低の34位にまで落ちたとメディアが報じている。そうした中で、近ごろ話題になった科学者がいる。その人は、西澤潤一東北大名誉教授である。
筆者が住むマンション内の友人から「NHKが面白い番組をやっています」と連絡が入った。6月21日、BS-3のNHKスペシャルで「独創の科学者~光通信に賭けた男 西澤潤一」という番組であった。この項のタイトルも、番組そのものを使っている。昭和60年に放送された番組を、世の警鐘のつもりで再放送したのであろう。平成も最後の年に亡くなられたので追悼の意味であるかもしれない。
西澤は東北大工学部教授の長男として昭和元年に仙台市で生まれた。昭和20年、終戦の年に東北大学工学部に入学した。理学部を希望していたが、父親が電気工学科の抜山平一教授と相談し、渡辺寧の研究室に入れた。渡辺は八木の愛弟子で、ちょうど半導体の研究を始めた時期でもあり、西澤が半導体研究の道に進むきっかけとなった。
昭和18年、「学生への徴兵猶予の停止」が発表されたが、学術研究が維持できなくなることを憂慮した東大からの申し入れによって、一週間後に大学院特別研究生制度が発足した。各帝大と東工大、早大、慶應などに、一講座あたり二名の研究生を残すことができるというもので、昭和18年度の第一回生には434人が選ばれた。西澤もこの中の一人に入った。
西澤は特研生である時代に、独自の構造を持つダイオードやトランジスタ、イオン注入による半導体製造プロセスなどを発明した。日本で、個人としては最も数多くの特許を保有しているといわれる西澤の凄さが、すでに現れ始めた。
特研生を終えた西澤は昭和28年に東北大学電気通信研究所の助手、29年に助教授、37年に教授となった。この間、多くの新規学説を発表した西澤であったが、学界では定説と異なっていると攻撃を受けた。発想が早すぎた八木が受けたと同様な、抜きんでた者の宿命である。日本の学会や企業は西澤の論文には目もくれずに、欧米の論文を有難がった。
恩師の渡辺は、かかる状況を憂慮して、西澤が書いた論文を二年間、対外発表を控えさせた。しかし、西澤が書いたのと同じ論文が、欧米において次々と発表されていたのである。
<15.工務局長から二等兵に
こんな記事は誰も書けないでしょうね。
新年もお元気でご活躍くださいませ。