電気通信の源流 東北大学 11.陽極分割マグネトロンの発明
東北大学では本多光太郎の金属材料研究所と勢いを競うかのように、八木が率いる電気工学科が活発な研究活動を続けた。そうした研究の成果の中で八木アンテナに次ぐ大きな収穫となったのが、昭和2年、助教授岡部金治郎による陽極分割マグネトロンの発明だった。
マグネトロン自身は、強力な磁界の下で電波を発振する特殊な真空管で、1921年に米国のアルバート・ハルが発明した。岡部は磁界をさらに高め、かつ陽極を二つに分割することによりさらに波長の短い電波を発振することを発見した。岡部はこの結果をただちに論文にまとめて「電気学会雑誌」に発表した。
八木は、昭和3年にニューヨークで開催されたIRE(無線技術者学会)で指向性アンテナと陽極分割マグネトロンを発表した。IREは送られてきた論文の抜き刷りによりこれらの発明を知り、八木に講演を依頼してきたのである。ここで八木は、岡部が新しいマグネトロンで波長が17.5センチのマイクロ波の発振に成功したと発表、聴衆に衝撃を与えた。
IRE総会の議長は、太陽表面の爆発が電離層を乱し短波通信に影響を与える現象を解明したデリンジャーであった。彼は、
「今日はヤギ・ショック・デーだった。八木博士の講演はエレクトロニクスのクラシックになるであろう」
と述べたという。エレクトロニクス(電子技術)という言葉が米国で使われるようになったのは、この会議から僅か2年ほど前からのことであった。
その夜、ホテルに戻った八木を米国の弱電メーカーの重役が訪れ、指向性アンテナと陽極分割マグネトロンの特許使用を求めた。また米連邦標準局無線課長であったデリンジャーもホテルを訪れ、指向性アンテナを米政府の航空局でも使わせて欲しいと申し出た。飛行場から指向性アンテナにより発射した超短波ビームを上空の飛行機が捉えられれば、霧の中でも着陸が可能になるというのである。八木は、これらの要請に快く応じた。
これに反し、日本ではこれらの発明に対して反応が鈍かった。日本の技術者たちには発明があまりに先端すぎたのである。二年前に東京でラジオ放送が始まったばかりであり、技術者はようやく短波の実用化に注意を向け始めた段階で、超短波、さらには極超短波などは夢物語であった。
唯一、長岡半太郎が委員長を務めていた学術会議の電波研究委員会が発明の意義を認めてくれた。普段は厳しい長岡が「電波研究でも世界レベルの結果が出るようになった」と誉め、東北大の弱電研究を高く評価したのである。
なお、電気通信学会が電子通信学会と改称したのは昭和42年だから、このときから40年も先のことである。
昭和4年、八木は文部省に対し東北帝国大学工学部付属の電気通信研究所の創設を申請したが、文部省はその申請を却下した。国家財政に余裕がないというのがその理由である。八木はその後も毎年、研究所創設を申請し続けた。斎藤報恩会の巨額の寄付によって整えられた設備と、八木が率いる研究グループとによって、仙台は日本一の弱電研究の地となっていた。
明治から大正半ばまで、日本の弱電研究は世界から遅れてはいたが、その中心は逓信省の電気試験所であった。それが、大正末期以降は東北大に移り、「弱電は東北大」との世評が定まった。日本の研究者は皆、仙台まで教えを乞いに来た。弱電を学びたい学生は仙台に集まってきた。
昭和6年の末までに、斎藤報恩会の寄付によって生まれた研究論文は300編以上、特許登録も30件に及んだ。
昭和6年、東京、京都、東北、九州、北海道に続く6番目の帝大として、大阪帝国大学の創設が決まった。初代総長には元理化学研究所長の長岡半太郎が就任した。
大阪大学はまず理学部を中心に設立された。その理学部は、最低限度の体裁である数学、物理学、化学の3学科をもって発足することになった。このとき、八木は阪大の物理学科長に就任し、仙台を離れることになる。
長岡は「理と工の間を行く物理学科」を頭に描いて居り、そのリーダーは「物理学に根ざした工学」を標榜しつつ研究成果を生み出している八木が適任だと考えていた。長岡は「大学の特色は教授の研究によって決まる。阪大の理学部は、教えることより研究を主体とする学部にしたい」
という抱負を八木に語りかけ、八木はこの言葉に応えることにしたのである。
昭和7年、八木は東北大電気工学科を本務、大阪大物理学科を兼務とする形で大阪に赴任をした。
しかし新幹線も、航空機も利用できない時代のことである。大阪と仙台は今日ほど簡単に往復できない。八木の大阪にいる月日が多くなった。
同年7月、これまで八木に次ぐ二番手の存在であった抜山平一が、東北大の第八代工学部長に就任すると、急速に八木体制が崩れて、抜山体制に変っていった。
第一は、研究費の配分が抜山の意向に沿うものとなった。第二は、独創的研究路線を実用化研究路線に改めた。第三は、実力主義人事から毛並み主義人事へと変えられた。抜山は「天皇」と呼ばれるほどの権力を持った。抜山と意見を異にした千葉茂太郎教授は東京電気(現在の東芝)に転出させられた。
八木が昭和4年に発案し、文部省に設立を申請し続けていたわが国初の電気通信研究所が昭和10年にようやく誕生した。しかしその初代所長は抜山であった。研究所は、自前の建物を作らず、すべての設備を電気工学科から借り、研究者のほとんどは電気工学科の教官が兼務をした。これは八木の構想していた姿と、大きく異なるものであったろう。
筆者は、これらの件の善悪については評論を避けたい。阪大時代の八木の活躍について省略し、これ以降は、十数年、タイムスリップさせ話を進める。
なお、後には述べる機会を逸しているので、ここで付記しておく。八木は昭和16年に指向性アンテナの特許延長願いを提出しているが、特許庁がこれを重要特許として認めず却下したため昭和17年8月に15年間の有効期限が切れた。重要性を全く認識していなかったのである。
<10.指向性アンテナの発明
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