人の能力に限界はあるか
翼は無いので自力で飛ぶ事はできない人間。
だが、絵・文字を描ける人間は、水彩や油絵や水墨画やスプレー画等を描けるように、手や筆で何かを描くのは難しくない。為ろうと思えばだれでも絵描きで書家だ。
売れる絵描きや書家がごく少数なのは、芸術に煩い人々の目が肥えているからだろう。
なので売れないからといって腐る必要は無い。
長い芸術の歴史の偉大な絵描きや書家の腕前を越えるほどの作品創作は、そもそもの難題だからだ。
芸術家でいたければ、才能開花を促す時間や労力や少しの奇跡が必要で、無理はできない。
私は芸術への興味や才能の片鱗が有ったから、他の人よりは芸術に触れてきたが、売れる当ての無い絵描きになるのは老後の引退と決めていた。それがやや早まっただけの事で、今の状況は何も不思議ではない。
小説家についても、小説家を目指して為ったわけではないが、翻訳家からの自然な成り行きだ。言語や文章や世の中に対する好奇心の為せるわざだろう。
どれも外からの情報を変換し内側に向かう作業で、ただのお喋りとは違う。本を書く作業に対する礼儀は弁えているつもりだ。
日記とも違う小説を半私小説ジャンルで書いてみても、やはり内面的な作業だけでなく、「誰かに伝えたい事が有る」のだ。
小説家の伝えたい事をデタラメに解釈されるのは、小説家としてとても悲しい。
何らかの暗い基準で、私の作品や私への偏見差別が有るなら、筆を握る必要は無いかもしれない今、デタラメにコピーペースト編集される私の作品たちが不憫でならない。
それとも、「泳げない芸術家」なら信用するのか?「球技もできない運動オンチ」なら信用されるのか?「中国語や台湾語も話せない日本語話者の華僑」なら信用するのか?
人間の能力の限界を、人間はまだわからないのだろうか?
通訳は「泳げない上に球が苦手で他の言語文化には全く興味を持たない」ものか?
通訳・翻訳家は目指した事がある。その延長線上に、今の私がいる。
〈望玄MiharuTogoKana日月緋彌冬月月衣雨のち苺千波らんらんてぃふぃん路世汰月彌千東霜かの東郷嘉奈 筆。〉