古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「椎の葉に盛る」考(万142番歌、有間皇子作歌)

2017年07月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
※本稿は、別稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」に改稿している。

 有間皇子の自傷歌は、万葉集の挽歌の初めを飾る名歌として古来名高い。しかし、その第2首目の、「椎の葉」にご飯を盛るのかについては疑問とされたままである。

  有間皇子の自ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首
 磐白(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結ぶ ま幸(さき)くあらば また還り見む(万141)
 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(万142)

 万142番歌の古来からの難題は結着がついていない。「椎の葉に盛る」という表現が、椎の葉は飯を盛るには小さすぎるから、椎の葉に盛られた飯が有間皇子の食べようとするご飯なのか、「紀州磐代の道祖神の神前に供へ」た神饌(注1)ではないのか、と意見が二分している。今日では前者が優勢である。後者の考えに立つと、歌で表現しようとする「家」と「旅」の対比がうつろになり、「余りにも抽象化し、ふやけた発想になってしま」う(注2)と批判されている。ご飯を「椎の葉に盛る」ことはあり得ないとする再批判には、安楽な家を離れて旅の不自由さの嘆きを表わさんがために詠んでいると強調されている。また、141番歌とともに2首あげられている題詞に、「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」とある点との関わりが不明ともされている。後の人が有間皇子を偲んで「自傷」と仮託したという説まである。
 筆者は、悠長な見解について詳しく解説しない。日本書紀を併せ読めば、この歌の歌われた時点は、有間皇子が謀反の疑いで都から紀温湯へ護送される途中が141番歌、申し開きが適わずに紀温湯から都へ護送される途中に歌ったものが142番歌であるとわかる。拘束感が違うと読み取れる。そして、142番歌は、藤白坂で絞殺刑に処せられる直前のものである。

 十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣、語有間皇子曰、天皇所治政事、有三失矣。大起倉庫、積聚民財、一也。長穿渠水、損費公粮、二也。於舟載石、運積為丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善己、而欣然報答之曰、吾年始可兵時矣。甲申、有間皇子、向赤兄家、登楼而謀。夾膝自断。於是、知相之不祥、倶盟而止。皇子帰而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪、率宮丁、囲有間皇子於市経家。便遣駅使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子、与守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚、送紀温湯。舎人新田部米麻呂従焉。於是、皇太子、親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天与赤兄知。吾全不解。庚寅、遣丹比小沢連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬塩屋連鯯魚・舎人新田部連米麻呂於藤白坂。塩屋連鯯魚、臨誅言、願令右手、作国宝器。流守君大石於上毛野国、坂合部薬於尾張国。〈或本云、有間皇子、与蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬、取短籍、卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人、一日両夜、邀牟婁津、疾以船師、断淡路国。使牢圄、其事易成。或人諫曰、不可也。所計既然、而無徳矣。方今皇子、年始十九。未成人.可成人、而得其徳。他日、有間皇子、与一判事、謀反之時、皇子案机之脚、無故自断。其謨不止、遂被誅戮也。〉(斉明紀四年十一月)

 問題は残されたままである。旅先で食べるために盛ったご飯は握り飯なのか、糒(乾飯(ほしひ、ほしいひ、かれひ、かれいひ))の類なのか、という点である。「握飯」とすると、「罪人として護送中の囚われの身であれば、そのまま手づかみでたべたのであって、わざわざ食器や椎の葉に盛ってたべるという手間ひまをかける必然性はまったくない」し、「乾飯」とすると、「椎の葉に盛って食べるということはちょっと無理であろう」とフローチャートを組んだ解説(注3)もある。「盛る」と明示された作業を考究しなければならない。
 「家に有れば笥(け)に盛る飯(いひ)」とある「笥(け、ケは乙類)」とは何かである。ご飯をよそう器であると信じ込んでいる。和名抄に、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、和名介(け)〉は食を盛る器也といふ。」(注4)とある。食器のことを指しながら、そこへよそった食べ物のことも同じく「食(餉)(け、ケは乙類)」と呼んでいる。御食(みけ)、朝餉(あさげ)というケである。関根真隆『奈良朝食生活の研究』(吉川弘文館、昭和44年)に次のようにある。

 ……これら笥類の用途であるが、『万葉集』によると、
  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(一四二)
とあり、飯を盛るという。武烈紀の影媛の歌に「拖摩該儞播(玉笥)、伊比佐倍母理(飯_盛)、拖摩暮比儞(玉盌_)、瀰逗佐倍母理(水_盛)」とあり、神功皇后紀十三年条に「命武内宿禰太子角鹿笥飯大神」などとあるのも笥に飯を盛った証左となろう。また近時の藤原宮跡出土木簡にも「]二大御莒二大御飯笥二□(坐)[」(〈『同概報』〉)とみる。
 まず大笥については、経師〜雑使五八人分として大笥五八合を計上し((16)六七~六八)、同じく経師〜雑使四四人分として大笥四四合を計上((16)五一三)しており、人別一合の割となる。ただここで問題となるのは、飯を盛るといっても今日の飯茶碗のように、それで食事をとったのか、あるいは今日のオヒツのように、ただ飯を入れるだけのものであったのかは定かでない。前掲『万葉集』では前者の意になろうか。(306頁)

 関根先生は、茶碗に当たるのか、オヒツ(飯櫃)なのか、推測だけで決定されていない。和名抄も、「飯を盛る器」としていて、それが銘々の茶碗(お椀、お弁当箱)に当たるものなのか、オヒツに当たるものなのか、分けていない。「笥」はケと訓んで、使い方として、「飯を盛る器」であると提示している。用途細目には触れていない。筆者は、142番歌の「笥」は、オヒツ(注5)に当たると考える。
 歌に、「家にあれば……」と「旅にしあれば」を対比させている。本当の対比とは、やることがことごとく正反対ということであろう。家にいれば、ご飯は炊いた後、オヒツに入れて余分な水分を木地に吸ってもらって良い頃合いの食感となる。反対に、旅路で糒(乾飯)を食べるときには、水分を与えて吸わせて「ふやけた」状態にする。ふやかさなければ硬くて食べられない。糒は携行食であるが、けっして飲みこむものではない(注6)。米粒の水分の出し入れがちょうど反対になるから、家と旅の対比が鮮明になる。空中を言葉が飛び交う「歌」なのだから、それぐらいでないと聞いただけではわからない。

 爰(ここ)に烏賊津使主(いかつのおみ)、命(おほみこと)を承(うけたまは)りて退(まか)る。糒(ほしひ)を裍(ころも)の中(うち)に裹みて坂田に到る。……仍りて七日経るまでに庭の中に伏せて、飲食(みづいひ)与ふれども湌(くら)はず。密(しのび)に懐(みふところ)の中の糒(ほしひ)を食(くら)ふ。(允恭紀七年十二月)(注7)
 餱 胡溝反、平、乾飯也。食也。加礼伊比(かれいひ)、又保志比(ほしひ)。(新撰字鏡)(注8)

 「椎の葉」は、「笥」=オヒツと対となるものなのか。対になるものである。糒(ほしひ、ヒは甲類)に水分を与える容器に、椎(しひ、ヒは甲類)ほどふさわしいものはあるまい。ホシヒとシヒの洒落をバカにされる人がいるかもしれないが、「歌」は空中を飛び交う音声言語である。それぐらいの想像力を持たなければ、無文字文化のなかでコミュニケーション力を強化することはできない。「旅にしあれば」の「飯」とは、ホシヒにほかならず、それが「家にあれば」の「飯」の水分調節を「笥」=オヒツが担っていたことを直観させるのである。「椎の葉」が糒を盛って水分を与えることができるかといえば、あまり生産的、効率的、実用的ではない。小さな葉1枚1枚に、糒を1粒1粒載せていって、水をポトリ、ポトリと垂らしていく。その結果、「椎の葉」上に、1粒1粒ご飯がよみがえる。それを1粒1粒食べるという話にしている。謀反の大罪を犯した罪人とはいえ、天皇家の皇子、有間皇子である。そのようなことを実際に行ったわけではないであろう。しかし、それと同等の屈辱を味わったことは確かである。すぐに絞首刑に処せられている。
 処刑されてお骨になった。お骨の1粒1粒のことは仏教に舎利である。ご飯の1粒1粒も、舎利である。色彩、形状が似ているから、言葉の上で同様に扱われた(注9)。すなわち、有間皇子が「自傷」の歌として詠んだという題詞は、この142番歌においてさらに際立っている。あと何分かで皇子、あなたは舎利になりますよ、と告げられて辞世の歌を詠んでいる。命乞いの歌ともとれる。なぜなら、シヒ(ヒは甲類)には、ほかに、メシヒ(盲)、ミミシヒ(聾)などのシヒ(癈、痺)という語があり、どんな不具も受け入れるから、命だけは助けてほしいという訴えに聞こえる。謀反に参加していた塩屋連鯯魚(しほやのむらじこのしろ)は、命乞いをしている。「塩屋連鯯魚、誅(ころ)されむとして言はく、『願はくは右手をして、国の宝器(たからもの)作らしめよ』といふ。」とある(注10)。このド迫力に付いていかなければ、少なくとも初期万葉の歌の生の声を聞きわけることはできない。
 題詞と142番歌の歌の内容が関わらないかとの指摘に触れておく。護送されて行く時に、有間皇子は、藤白坂で141番歌を歌い「磐白」と言っている。松の枝を引き結ぶ行為は、呪的な行いであるとされる。筆者は、その習俗について深くは立ち入らない。そうではなく、有間皇子がそのように口に出して歌ってしまったことが問題である。「ま幸くあらばまた還り見む」と続けている。無事である、良好な状態であるなら、再度見ようと言っている。斉明朝の天下は、完璧に良好な状態を保っているとするのが政府の方針である。全体主義的な国家は言論統制に傾く。そのなかで、言葉として発せられてしまった以上、言霊信仰下にあっては言=事であるから、「また還り見」るところまでさせなければ、「ま幸く」ないことになる。なぜなら、上三句には主語がない。有間皇子一人のことではなく、世の中全体について言い及ぼすアジテーションとして効いている。斉明朝の政策は、少なくとも歌が広まる宮廷社会のなかでは秩序を保つように向かう。したがって、有間皇子が歌を歌った「磐白の浜松が枝を引き結」んだ地点までは生かしておき、「ま幸くあ」ることを「還り見」させることで、社会全体の安寧の揺るぎないことを確定させたのち、絞首している。まったく同じ道を戻らせて、「還り見」させつつ、道(=道徳)に悖(もと)ると弾圧した。題詞の「松が枝を結ぶ」との指定は、2首目の142番歌に生きている。無文字文化の言霊信仰の歌であることを忘れてはならない。

(注1)高崎正秀「萬葉集の謎を解く」『文芸春秋』昭和31年5月号。
(注2)稲岡耕二「有間皇子」『萬葉集講座』第五巻、有精堂、1973年。
(注3)川上富吉「椎の葉に盛る考―有間皇子伝承像・続―」『萬葉歌人の伝記と文芸』新典社、平成27年。
(注4)狩谷棭斎の箋注和名抄に、「曲禮上注作簞笥盛飲食、文選思玄賦注引、作並盛食器、与此所引合、按曲禮注又云、圓曰簞、方曰笥、禮記引兌命曰、惟衣裳在笥、然則笥又可衣裳、故説文云、笥、飯及衣之器也、依以上諸書、笥非皇國所言介[(け)]、只以飯食之耳、古所謂介、蓋土器、後有銀造者、内匠寮式銀器有御飯笥、不源君所載者、其狀奈何、」とある。源順は、お茶碗に当たるものを「笥」と呼ぶとするのではなくて、「笥」というのは食べ物を盛る器でケというものだよ、と指摘している。「木器」の項に載せているのは、彼の目に木製のものが一番ポピュラーに映ったからであろう。オヒツとして、曲物であろう。
 延喜式に、「笥」、「板笥」、「飯笥」、「板飯笥」、「銀飯笥」、「熬笥」、「大笥」、「縄笥」、「円笥」、「筥笥」、「平笥」、「藺笥」、「笥杓」、「麻笥」、「水麻笥」とある。「藺笥」とはイグサの茎で編んだ飯を盛る器のこと、「熬笥」とは糒等を熬るための器のことであろうか。金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)(ぎょうせい、1999年1月)に、「……延喜式(九二七)では、麻笥と桶とは区別せずに使用しているが、(~)ケと(~)ヲケとは助数詞の合と口によってあきらかに区別されている。」(171頁)と指摘がある。(~)ケ系は13種33例中31例に「合」(蓋付き容器)が、(~ヲケ)系は7種44例中41例に「口」(蓋なし容器)であるとされている。今検討している「笥(け)」は、蓋付き容器であると考えられるのである。
 正倉院文書に載る経師~雑使に支給された「大笥」は、重箱でうな重か何かのようにそのまま食べろと渡されたのではなく、オヒツを渡されて各々よそって食べるようにということであろう。ご飯茶碗何杯分かが支給されたのではなかろうか。経師~雑使に采女のような仲居さんが給仕して回るとは思われない。その日持って帰って家族も食べたのであろう。また、年中行事絵巻などに描かれるように、強飯式のごとく山盛りにご飯が器に盛られた場合、その器には蓋をすることができない。それが常態であったならば、最初から蓋のないもの、つまり、「口」として数えられる(~)ヲケ系になってしまって、万142番歌は「家にあればヲケ(笥)に盛る飯を……」とつづけて字余りになる読み方をしなければならなくなる。
(注5)オヒツ(飯櫃)は、炊いたご飯をそこへ移し替えて盛り入れ、食事の場へ運んで各々の茶碗へよそうための道具である。オヒツという女房言葉が一般化している。木製の桶形のもの、竹籠様のもの、また、それを保温するための外装品や吊るし懸けるものなど、いろいろあった。水分の出し入れや保温、腐敗の進行を遅らせるなど、時に応じて種々の形態のものを活用していた。ハレの場では、塗物の櫃も使われている。旅館で出てくるオヒツでは、内に布巾をかける工夫もされている。筒江薫「櫃・イジコ・飯籠[ヒツ・イジコ・メシカゴ]」『食の民俗事典』(柊風舎、2011年)参照。宮本馨太郎『めし・みそ・はし・わん』(岩崎美術社、1973年)では、「飯櫃(めしびつ)」と「飯籠(めしかご)」とに分けて、後者を特に夏季のご飯保存用具としている。用途からの切り口ではなく、製作物としての曲物を総括された論説に、岩井宏実『曲物』(法政大学出版局、1994年)がある。史料文献としては乏しく、守貞漫稿や物類称呼などにしかオヒツについて記されていない。生活感がないことを売りにしていたのではなく、当たり前すぎて気に留めなかったのであろう。
オヒツ(一遍聖絵模本、糺晴岱・養承(模)、江戸時代、天保11年(1840年)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0062127.jpgをトリミング)
(注6)寺島良安・和漢三才図会に、「不多食、在腹甚膨張」と注意喚起されている。
(注7)「糒裹裍中」という書き方は注目すべきである。直に懐中に入れているらしい。糒はそれ用の弁当箱に入れたのではないかとも考えられるが、必ずしも決まっていたわけではなさそうである。和名抄に、「樏〈餉附〉蒋魴切韻に云はく、樏〈力委反、楊氏漢語抄に云はく、樏子は加礼比計(かれひけ)といふ。今案ずるに俗に所謂破子、是の破子は和利古(わりこ)と読む〉は樏子、隔て有る器也といふ。四声字苑に云はく、餉〈式亮反、字、亦𩜋に作り、加礼比於久留(かれひおくる)と訓む〉は食を以て送る也といふ。」とある。樏は、中仕切りのある楕円形のお弁当箱を指しており、そのΘ形は、ちょうど雪を踏むカンジキにそっくりなので字を通用(「欙」とも書く)しているとする説がある。カンジキの語が寒敷に由来するのか筆者は知らない。火を使わない寒食(かんじき)(多木洋一「書を楽しむ法」様参照)の食事がお弁当である。半分にご飯、半分におかずの詰まったものがプラスチック製の曲物に多いが、破子の片側半分に水を入れて餉(乾飯)をふやかすのに使ったのではないかとも思う。烏賊津使主は持っていないし、「与飲食而不湌」とあるので、お腹がパンパンになったり脱水症状を起こさなかったかと心配になる。下のワリコの弁当箱の例は、真ん丸でないいびつな楕円形をしている。イビツという語が飯櫃(いひびつ)に由来するとの説はかなり正しいのであろう。
お弁当箱(「博多曲物玉樹」様)
(注8)新撰字鏡に所載の字は、実際には「餱」ではなく、旁が「候」になっている。
(注9)空海・秘蔵記に、「天竺呼米粒舎利。仏舎利亦似米粒。是故曰舎利。」とあるのが早い由来説とするが、サンスクリット語の米の意、sari が遺骨の sarira とに混同があることや、色や形の類似によってもそう感じられるところは誰にも否定できない。米を脱穀する際に臼の中で米粒がうごめく様が、小さな猿がじゃれる風に見て取ったり、作業現場で砂利の小粒の動きを連想したり、あるいは、サル~サリ~シャリ~ジャリ系の語に共通の思惑を込めて行ったと考えた方が、語学的には正しかろうと筆者は考える。
 また、本議論の底流には、椎の実が食用となり、まるで糒のように見えることが前提にあるのであろう。応神記に、

 …… 遇はし嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも 歯並(はなみ)は 椎菱なす ……(記42)

とある。歯の1本1本が、椎の実のようにきれいに粒ぞろいであることを言っている。歯は生きているうちから露出する舎利(お骨・米粒)である。
椎(2017年7月3日)
 小学館の新編日本文学全集本・古事記に、「前から見て、歯並びをほめる。椎と菱とを持ち出したのは、形よく並んでいることをいうためか。殻を割って取り出した実の白さから、白いことを形容するという説があるが、従いがたい。」(262~263頁頭注)とある。しかし、両者とも樹上や水面に形よく並んで結実しているとは言い難い。八重歯、乱杭歯といった叢生、また、歯抜けになってしまう。椎も菱も食用にしたので、殻を剥いてみて大きさが粒ぞろいで歯の形に似て色も白いところから、そういう形容をしたと考えられる。椎の実は、クヌギやコナラの実と違ってあく抜きが不要という。菱の実にもえぐみなどはないという。食べる器官である歯の美しさを讃める謂いにふさわしいよう、おいしく食べられるものを選んで譬えとしている。上代人の「形容」の奥深さには感動させられる。
 なお、村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』(塙書房、2013年)に、「歯並(はなみ)は 椎菱なす」はつづく「櫟井の 和邇坂の土」にかかる序詞とする説があるが、長歌のだらだら表現の一句一句の発想の柔軟さが理解されていない。
(注10)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」参照。

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