(承前)
内実を伴わないが見た目や味付けは同じなものが、クワイを材料に精進料理にこしらえた鰻の蒲焼ということであろう。上述の守貞漫稿に、「鰻蒲焼の摸製等」を豆腐と海苔で作っていたとある。豆腐を使う以前にはクワイの摺身を使ったのではないか。鰻を食べていたとする初出文献は万葉集である。
痩せたる人を嗤咲ふ歌二首
石麿に 吾物申す 夏痩せに 良しといふ物そ 鰻取り食せ〔売世の反なり〕(万3853)
痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を取ると 河に流るな(万3854)
右は、吉田連老といへるもの有り。字を石麿と曰ふ。所謂、仁敬の子なり。其の老、為人身体甚く痩せたり。多く喫飲すれども、形、飢饉に似たり。此に因りて大伴宿禰家持の、聊かに斯の歌を作りて、戯れ咲ふことを為。
続いて鰻の蒲焼とその擬き料理について考えなければならなくなっている。
花咲1991.に、次のような例があげられている。
花咲氏は、鰻の蒲焼の擬き料理を山の芋で作ってきたことを考えから外しているようである。確かに、五十年、百年の法事は目出度いからと生臭物を禁じないところがある。精進料理の山芋に代わって、本物の鰻の蒲焼が振る舞われることがある。したがって、俚諺から捩られた川柳であると解釈している。けれども、山の芋と鰻の蒲焼とのつながりは、長細い形状のつながりだけとは考えにくい。山の芋を使った擬きの料理があったればこその面白味が、俚諺そのものにも備わっていたのではないかと考える。
鰻料理の古記録としては、次のようなものがある。
上座敷十四人朝振舞、汁……鱣かは焼・鮒すし・かまぼこ・香物・肴種々台物五つ(鈴鹿家記・応永六年(1399)六月十日)
宇治丸 かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也(大草家料理書(16~17世紀))
「宇治丸」とは、ウナギの寿司や蒲焼、ウナギそのものの別称ともなっていたという。鰻の産地として宇治川が有名で名物であったともされる。いかにもという名称である。万葉集の3853番歌に、人名が「石麿」とあったのは何か関係があるかも知れない。ウヂは地名でもあろうが、氏のこととも思える。マルは、昔は鰻を割かずに、丸のまま串刺しして焼いたからと考えられている。と同時に、マルは、麿・麻呂、立派な男子の呼び名である。つまり、氏素性のはっきりした良い所のご主人様という名に聞こえる。桶に入って捏ねくり回っている鰻の形態は、夫婦和合を表すとされている。その様子は、虚空蔵菩薩の使者、化身、乗物とされており、京都の三嶋神社や虚空蔵菩薩を祀る寺院や本地とする神社では、鰻を禁食にする信仰も行われている。虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の慈悲を表す菩薩であるという。歌の左注に、「所謂仁敬之子也」とある点は、話が勘案された結果であろう。殺生をしない人という意味である。他方、くわいの漢名、慈姑は、慈悲ある姑と記されている。関連を推測させる字面である。上代の知識人がどこまで意識していたか、また、くわいを使って鰻の蒲焼擬きの料理を通例として作っていたか、残念ながら証拠を見つけることはできない。それでも、「宇治丸」などという呼び名を付けるということは、反対に、紛い物の鰻があったということを示唆してくれている。すなわち、擬きの料理の鰻の蒲焼があったということである。
丸のままの串焼きには、別に蒲鉾があった。
かまぼこハなまず本也、蒲のほこに、にせたる物なり(大草家料理書(16~17世紀))
ナマズを摺身にして竹串に回し塗りつけた竹輪やきりたんぽ様のものが、蒲鉾の原形であった。これをがんもどきのように「もどき」という名にしない語学的意味合いは、原材料が魚肉だからであろう。精進料理ではない。カバヤキを蒲焼、カマボコを蒲鉾と書くのは、蒲の穂のような形に由来するのではないかと説かれている。カバ、カマ、ガマと音に揺れがある点については不明と言わざるを得ないが、蒲焼をカマヤキと言えば、釜焼なる料理が連想され、植物のガマの古音はカマと清音であった。
蒲の穂(府中市)
さて、餓鬼については、仏典中、preta を餓鬼と呼ぶ近所に、「鬼」とだけ記す個所もある。妙法蓮華経・譬喩品に、「……復有諸鬼 其身長大 裸形黒痩 常住其中 発大悪声 叫呼求食 復有諸鬼 其咽如針 復有諸鬼 首如牛頭 或食人肉 或復噉狗 頭髪蓬乱 残害凶険 飢渇所逼 叫喚馳走 夜叉餓鬼 諸悪鳥獣 飢急四向 窺看窓牖……」とある。鬼を訓でオニというのは、「隠」の字音 on に読みやすいように i をつけて oni としたからとされている。銭が zeni 、盆が boni というのと同様である。鬼はどこに隠れているか。人の身近にいる。餓鬼草紙の絵でも、人のそばにいながら誰も気づかない様子が描かれている(注10)。上に仮説として餓鬼とクワイとの関連を見たが、クワイは田圃の泥の中にある。クワイの塊茎は泥田から採取される。あるいはお正月に縁起物として食べたくわいの煮含めは、芽が出て目出度いから食べたというばかりではなく、人のなかに隠れている鬼性を封じ込める意味で食べたものかもしれない。淵源を合理性から短絡的に理解しようとすることは、かえって民俗の風習を知ることから離れてしまう。
くわいの金団が喉に詰まるのは、喉が針のように狭いからである。ガンやカモの喉首は細く狭い。餓鬼のキ音は、カキ(垣・籬)ばかりか、キ(酒)と同じく甲類であると考えることができた。餓鬼の正体としては、キ(酒)に飢えている禁断症状なのであろうか。あるいは、飲酒後、何杯水を飲んでもなかなか喉の渇きが癒されないことを表すものだろうか。そうやって、餓鬼という言葉がヤマトコトバとして人々に了解されただろう。そうでなければ、早い時期に国語化されて万葉集に登場することなどなかったと想定される。了解され合わない言葉とは、マコト(真言・誠)ではなくカタコト(片言)であり、言葉とは言い難い(注11)。字音をもって了解されるためには、字が読めなければならない。今、発音だけでわからない術語を聞かされた時、どういう字を書くのですかと確かめることがある。漢字のように表意性を重く備えているとなおさらである。文字によって理解の助けにできるのである(注12)。共通認識として文字が使われるようになるには、上代後半、律令や続日本紀の時代まで俟つことになるであろう。
「餓鬼」という語を、比喩表現として子どもになずらえた理由は、無財餓鬼との関係で言われたとされているが、上代に行われていたか不明である。ご飯ご飯と言ってがつがつ食べたがる子どもの譬えとして用いたかどうか、文献上の用例が見られない。今日でもあまり印象の良くない言葉である。上代にあったとすると、口の悪い人たちによって使われた口語の俗語表現なのであろう。聖徳太子がませた餓鬼に譬えられていたとする考えについては拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/52a67c7e2ae17af11d93d2f433babf41参照。証拠とはならないものの、力強い傍証は二つある。第一に、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第四に、「母は小腕引つ立てて、エヽ卑怯なの、人やら水やら知れもせぬおなかな餓鬼めがそほどに惜しいか、餓鬼めが父に名残が惜しいか。忽ち親が迷惑するが、親が大事か、子が大事か。夫がかはいか、親がかはいか、ちつと世上も思へかし。鰓骨をわつてなりとも、飲まさにやおかぬと責めけるは、地獄の呵責もかくならん。」とある。この例は、ひょっとすると、巷間に厩戸皇子のことを「餓鬼」と呼んでいた伝承が反映されているのかもしれない。第二に、俗語をよく伝える日葡辞書に、「Gaqi.ガキ(餓鬼) ゼンチョ(gentios 異教徒)の説によれば,インヘルノ(Inferno 地獄)にいるという飢えた亡霊.¶また,比喩.飢えて痩せこけ,やつれて色青ざめた人.¶また,人を叱り,けなす言葉.例,Ano gaqimega.(あの餓鬼めが)あのみじめで不仕合せな奴が,とか,飢えた奴が,などの意.」(日葡辞書292頁)とある。「青ざめた人」という形容が、厩戸皇子について、「更は名けて豊耳聡聖徳といふ。」(用明紀元年正月)と綽名されたことと通じている。この箇所は、「豊聡耳」の誤写という説が根強い。しかし、伝本はどの写本にもそのようにあって確かである。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bcほかで論じたように、トヨミミトとは、トヨミ(響)+ミト(水門)の意で、ミトサギが鳴いていること、今いうアオサギ(青鷺)のことである。厩戸皇子の特徴の一つは、ザビエル形のてっぺん禿であった点、第二は、顔色が青白い人であった点、また、沈思黙考する人であった点が押さえられている。青鷺と綽名されるほど青いから、ませた餓鬼と呼んで何ら違和感がない。
てっぺん禿のアオサギ(井の頭自然文化園にて)
再び上宮聖徳法王帝説を見る。
則ち證むる歌に曰はく、
斑鳩の 富の井の水 生かなくに 食げてましもの 富の井の水
といへり。是の歌は、膳夫人臥病して没なむとしたまひし時に、水を乞ひたまひき。然れども聖王許したまはずて遂に夫人卒せぬ。即ち聖王誅めて是の歌を詠みたまひき。即ち其の證そ。
思想大系本『聖徳太子集』の補注に、「歌意は「所詮生きていることができなかったのならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを」の意。」(421頁)、『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』に、「「所詮生きないのであったならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを」の意。」(106頁)とある。太子(聖王)が病の床につき、夫人も看病の挙句に床につき、二人並んで床についていた。先に夫人が亡くなり、次の日に太子が亡くなっている。太子の辞世の歌になった。なぜ、病人に井戸水を飲ませたがらないのか。下痢や嘔吐を伴う伝染病であったからかとも思われるが、それならば煮沸して湯冷ましを飲ませるのが科学的合理性というものであろう。古代の人であっても経験知として知っていたに違いない。
筆者は、餓鬼という考え方によるものと考える。仏教における餓鬼という概念の変遷について、西1984.は、仏典を時代的に遡るように検証している。
餓鬼はどこにいるか。上述のとおり、人間の世界のすぐ近くに見られる。クワイが田圃の泥の中に隠れているようなものである。それが人でなしである。人のように見えて人ではない。クワイの葉が漢字の「人」字の形に見え、上代前半の人がどのくらいに漢字に対する識字能力があったか検討を要するが、上宮聖徳法王帝説の説話の焦点になっているように思われる。もちろん、クワイは人ではなくて「人でなし」である。泥のなかで泥を食べているようで、糞を食べている餓鬼にもなぞらえることが可能である。そして、くわいの塊茎を食べるに当たっても、精進料理にするために摺身にされて形を変えたのであろう。人擬きの存在、それがくわいであり、つまりは餓鬼である。
問題なのは、その井戸の名が、「富の井」という点である。餓鬼道に堕ちるとされるのは、生前に贅沢をした者であるとされている。生きながらも渇望する振る舞いを餓鬼とも呼んで戒めた。正法念処経・第十六に、「……女人多生餓鬼道中。何以故。女人之性。心多妬嫉。丈夫未随。便起妬意。以是因縁。女人多生餓鬼道中。復次比丘。知業果報。観餓鬼道。餓鬼所住。在何等処。作是観已。即以聞慧。観諸餓鬼。略有二種。何等為二。一者人中住。二者住於餓鬼世界。是人中鬼。若人夜行。則有見者。餓鬼世界者。住於閻浮提下五百由旬。長三万六千由旬。及余餓鬼悪道眷属。其数無量悪業甚多。住閻浮提。有近有遠。復次比丘。知業果報。観諸餓鬼有無量種。彼以聞慧。略観餓鬼三十六種。……」とある。
つまり、「富の井の水」を飲むということは、言霊信仰のもとにあっては贅沢なことに当たるから、それを飲むことは、即ち夫人が餓鬼になることと同じことである。「富」という地名が引っ掛かったのである。考え方は大乗仏教的で、あの世で餓鬼道に堕ちるというよりも、いま、餓鬼と同じ精神に陥ることになるから止めるようにと諭したということである。太子は、亡くなった膳夫人のあの世でのことを心配していたのではなく、今生のあり方を説いたのであった。
この歌を歌として論じたものとしては、志田1921.がある。少し長くなるが大時代的な捉え方がどのようなものか知れるので、引用しておく。
太子の人物像についてドグマにとらわれていると、この歌が何を謂わんとしているのかわからないであろう。上代、それも飛鳥時代前期の人のあの世観について、中古・中世とは明らかに異なることを示す好例であると考えられる。上代前半の浄土思想がどのようなものであったか議論されることがあるが、仏教によく通じていたであろう太子が、あの世に餓鬼となることよりもこの世に餓鬼となることを好まなかったこと、さらには、死んでしまうのであれば、この世に餓鬼になることを許さなかった己を後悔していること、そして、病が篤く次の日には自分も死んでしまってこれが辞世の歌となってしまったこと、それらを考えあわせると、生き生きとした精神生活が余りあるほどに営まれていたことが彷彿とされ、悦ばしくさえ感じられるがいかがであろうか。生きる指針として仏教の思想を大局から見据えていたようにも思われる。仏教の考え方が方便たり得たのは、仏教流入以前から心の中に、当たり前のこととして、人間としてのあるべき生き方についての弁えがあったからと考えられる。無知蒙昧ではなかった(注13)。
以上のことから、万葉集に登場する「餓鬼」は、精進料理に使うために寺に用意されたクワイのことを比喩にかけていると考えられる。万3840番歌の原文に、「寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子将播」とある。寺院に「女餓鬼」、神社に「男餓鬼」と対比されている。新大系文庫本万葉集のような考え方は、寺社の合体、神仏習合のようなことを念頭に置いてのことだろうか。少なくとも単なる野合の話とは考えにくい。大神朝臣が返している歌からは、大神朝臣が神社を代表して寺側の「仏造る」ことへの皮肉を言っている。大神朝臣はその名から神社側の立場から歌を作ることは理解でき、池田朝臣は寺院に作られている蓮池のことから寺院側の者として作歌しているように思われる。最初の池田朝臣の歌の題詞に「嗤」とあるのは、大神朝臣が痩せていたからといった表層の譬えを語るものではない。「寺寺の 女餓鬼申さく」で始まることに、不思議なおもしろみがある。「……申さく」は、神社で行われる祝詞の常套句である。祝詞が寺寺であげられている。形式としては、「申さく、……とまをす」とあったものとして、引用句を承ける言葉としての助詞の「と」をもって歌は終わっていると解したい。引用を表す助詞トが、「倒置以外で文末を「と」で終えることは、極めてまれである。」(注14)が、文脈から通じるところである。
漁する 海人の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 貴人の子と(万853)
天の川 瀬ごとに幣を 奉る 情は君を 幸く来ませと(万2069)
万853番歌は、「貴人の子」と知られてしまうのであり、万2069番歌は、「幸く来ませ」と祈っているのである。この例から考えると、万3840番歌の、「寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子将播」は、「申さく……と」と終っているのではないだろうか。原文に「其子将播」とあるのを誤写とせずに正しく写すと考えれば、次のように訓むことができる。
寺寺の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼賜りて その子播かむと(万3840)
本稿で見てきたのは、餓鬼とクワイの近親性である。寺寺にある餓鬼とは、寺寺で精進料理を作る主材料とするためにごっそり置かれたクワイの塊根を指しているのであろう。
クワイの食感は、シャリシャリしている。お寺に安置されているのは仏舎利である。寺が二つ、「寺寺」とあるから、シャリシャリ(舎利舎利)である。舎利容器には、塔の形をしたものが多い。塔の形がクワイの形に見えてくる。和訓語の「くわゐ」が生れた経緯の一端が覗かれるようである。そのくわいを二つ並べれば、女性の乳房にも見える。女餓鬼と呼んだ理由である。他方、大神朝臣奥守が大神という神社の代表に置かれている。神社と餓鬼とは関係がないように思われるが、寺院側の代表に祝詞をあげさせている倒錯からして、これもおもしろみを狙ったものであろう。大神神社の由来は、いわゆる三輪山伝説として知られている。
以上のことから、「大神の 男餓鬼賜りて その子」という言い回しは、大神神社の祭神、大物主神にクワイの葉の形状を見ているものと思われる。クワイの葉は、サトイモの葉同様、食べることもあったらしいことが正倉院文書から推測されている。ずいきの一種である。嗤われている対象者は大神朝臣奥守である。奥に置いて守っている。後生大事にしている。そういった語感を秘めた名である。山自体を神と崇めているということであろう。
京都の北野天満宮、野洲の御上神社には、神輿の屋根を葺くのにずいきが用いられる風習が伝わって、ずいき神輿と呼ばれ、お祭り自体をずいき祭とも称する。そのずいきは、乾燥させて乾物にした。紐のようになるから、ヲ(緒)+ガキ(餓鬼)である。鎌で刈ってまとめて乾しておくわけだから、そのなかには花が終わって種をつけた穂も含まれていたことであろう。だから、クワイのずいきを分けてもらって、ワタクリ同様に種子を選って翌年の春に播こうというのである(注15)。そうすれば、塊茎のほうは小芋とて残さず食用とすることができる。
また、葉にもシュウ酸は含まれ、着けると痒みを伴うため、後には肥後ずいきという徳川将軍献上品にもなった大人の玩具が考案されている。人の世の習いとして、そういう性質のものは古代から知られていたであろう。だから、「女餓鬼」が「男餓鬼」を「賜り」たがろうとする歌が戯れに作られている。三輪山に坐す神は大物主神である。ペニスを指して大人の玩具のようにモノと呼ぶことはよく知られている。「播」を「懐(懷)」字の誤写としてハラムという動詞と捉えることも可能ではあるが、基本的にクワイの話なので、「播」はマクと考えるのが正解であろう。
万608番歌に、「相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に 額づくがごと」とあるのは、クワイの塊茎そのものを有り難がるようなことであり、クワイの形を留めているときに有り難がるのは変な話で、摺身にしてうなぎの蒲焼擬きの料理が作られて初めておいしい料理とされるのである。ガツガツと食べようとするのでは美味しさは得られない。渇望している餓鬼はクワイの持つ本当の美味しさが味わえないということをおもしろがっている。相思相愛の仲となれば、その頃合いがわかるから、互いにおいしい味わいを楽しむことができるということである。見た目は大したことのない男女であっても、得られる幸せは大きいということを歌っている。無論、くわいの煮含めをお正月に有り難がることへのからかいも含まれている。世の中で芽が出ることよりも、身近な幸せは工夫によって得られるものである。人として生きることを充実させるには、欲望のままに貪るのではなく、知恵を使って一工夫することが大事なのだと教えてくれる。大きなお寺の御利益に与ろうとしてもそれは無駄なことで、自宅にある念持仏の前で毎日のお勤めに励むことの方が、信心としては真っ当で精神生活を豊かにしてくれるということでもある。
(注)
(注1)サトイモの品種分類としては、染色体のセット数から、三倍体のものと二倍体のものとに大別される。三倍体のものに、「土垂」、「石川早生」、「蓮葉芋」、「蘞芋」、「黒軸」、「赤芽」(セレベス)など、二倍体のものに、「唐芋」(海老芋)、「八つ頭」、「檳椰心」、「筍芋」(京いも)、「沖縄青茎」などがある。野生のサトイモの原産地から少し離れて、三倍体サトイモと二倍体サトイモとがそれぞれ栽培植物として起源して派生したとされている。当然、起源地を厳密に特定することはできないものの、動植物の家畜化、栽培化において、ニワトリ、イヌ、サトイモ、イネが東南アジア周辺である点は、人類史を考えるうえで興味深いものであろう。なお、万葉集にクワイの改名前の「ゑぐ」とされるものが、サトイモの一種の蘞芋である可能性は存在する。子イモを食べるもので、収穫時の地中での在り方が似ているかもしれない。
クロクワイは、water chestnut という綽名(?)以外にも呼び方があるらしい。Weblio辞書・英語例文に、‘The black arrowhead tuber (Kuro Kuwai or Karasu-imo) used in Chinese cooking is a big black arrowhead in the Cyperaceae family and is a different variety of plant from the Japanese arrowhead, and is available in cans as water-boiled arrowhead, however there is evidence that this has also been used as a food from ancient times in Japan and has been unearthed from Jomon Period remains in Kameoka, Aomori Prefecture.’(中国料理に使用される黒クワイ(烏芋)はカヤツリグサ科のオオクログワイという日本のクワイとは別種の植物で、水煮の缶詰でも出回るが、日本でも古くから食用としていた形跡があり、青森県亀岡の縄文時代遺跡から出土している。)という例があげられている。
クワイの缶詰(原材料:オオクログワイ、原産国:タイ)
(注2)宮崎安貞・農業全書、「烏芋」の項に、「唐にてハ多く作りて、凶年にハ粮とすると見えたり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558572/10)、貝原益軒・大和本草に、「烏芋 葧臍トモ云。時珍曰、一茎直ニ上ル上ニ枝葉無く、状龍鬚ノ如し。今按其茎オホ井ニ似テ小也。燈心草ニ似テ大也。茎ノ内空シ。摂州・河州ニ多シ。根ハ慈姑ニ似テ黒シ。果トシテ生ニテモ煮テモ食ス。救荒本草に、根を採り煮熟して之れを食す。粉を製作して之れを食せば人ノ腸胃ヲ厚ス。飢ゑずトイヘリ。三四月苗生ス。旧根カレス慈姑ノ如シ。花ナシ。食物本草に曰はく、又一種、野生なるは小にして香る。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557470/32~33)、人見必大・本朝食鑑に、「慈姑〈於毛多和と称す。根を白久和井と称す〉〔集解〕慈姑、浅水の中に生ず。或は亦之れを種ゑ、三月、苗を生ぜしめ、青茎中空にして稜有り、葉は燕尾箭鏃の如くにして前尖り、後へ岐あり。四五月、小白花を開きて穂を作す。……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557332/153)とある。クワイの葉が鏃のようであるとの見立てが行われている。
(注3)クワイが美味しいかどうか、好みによるものだから決めつけられない。筆者ならびにその周辺の人の意見によると、あまり美味しいものとはいえない。金団がいつからあったかは議論を要するが、古くからあったとするなら、サツマイモのない時代、金団にするのに裏ごしして食べたということであろう。栗の部分にクワイまるごとを使うばかりか、餡の部分にもクワイを使った。クチナシの実を使って黄色く染めた理由について、サツマイモに由来するのか、栗色に由来して時代的に先んじて染めていたのか、難しすぎてわからない。
(注4)正倉院文書に、「芋荎」、「★(草冠に慈)葉」とあり、前者は芋柄、後者はクワイの葉のことかと思われる。関根1969.に、「芋荎」は、「蔬菜としては低廉であった」(74頁)、「★葉」は、「価格例によれば下等な菜」、「強いて言えばクワイのことか」(63~64頁)とある。それぞれ大日本古文書巻之六(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1909013/21~22)、巻之十四(同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1909013/125)に載る。
(注5)クワイは植物学的にはイモではないが、民俗学的には芋であろう。芋として認識されていたであろうという意味である。サトイモに関して民俗学が品種についてあまり考慮しないで語ることについて、植物に詳しい方面から異議が出ており、それはそれで大切なことながら、料理されて御膳の上に載っかって出てきているものについて、どこまでやかましく言えばいいのかわからない。クワイは、精進料理の材料にされ、くわいの蒲焼なるものがあり、うなぎの蒲焼に似せられている。学問としての民俗学ではなく、一般の生活レベルで、くわいの蒲焼のクワイは、同じ泥水の中に棲息するウナギの仲間、魚類である。
(注6)ズイキ(随喜)とは法華経のキーワードである。良いことを見て、喜びの心が芽生えること、それが世界にどんどん広がっていくことである。妙法蓮華経・随喜功徳品に、「……阿逸多。如来滅後。若比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。及餘智者。若長若幼。聞是経随喜已。従法会出。至於餘処。若在僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落田里。如其所聞。為父母宗親。善友知識。随力演説。是諸人等。聞已随喜。復行転教。餘人聞已。亦随喜転教。如是展転。至第五十。阿逸多。其第五十。善男子善女人。隨喜功徳。我今説之。汝当善聴。……」とある。
(注7)また、同名の鳥に、漢名で「載勝」(史記・司馬相如列伝)がある。ブッポウソウ目ヤツガシラ科の鳥で、列島には旅鳥として見られる。
ヤツガシラ剥製(国立科学博物館展示品)
(注8)精進(Virya(サンスクリット語))とは、精進をこめて悪心、悪行を抑え、善行を修めることであり、その一つとして美食せずに粗食であること、魚介肉類を食べずに野菜、根菜、海藻などを食べることが勧められた。殺生をしない戒めとは本来は別の考えから来るものらしい。蛋白源として、豆類は貴重であったろうから、精進料理に豆腐のアレンジは欠かせないことになる。可笑記に、「さるおてらへ参る、和尚引入給ひて、様々の御ちそう、色々の御料理なるに、きじやきのたぬきじるのとどしめく、こはいかなる事にやと、心空にてみれば、さもなき精進物の御菜なり、寺方のれうりだて心得あるべし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/945807/1/41)とある。精進料理で擬きの料理は好まれていたらしい。
なお、頼住2009.は、殺生を嫌うことと肉食をしないこととは、仏教の元々の考え方としては別の観点であったと指摘している。食において最低限という制限を越えた場合、その欲望は煩悩として否定されるべきもので、煩悩は執着であり、執着は修行を妨げる汚れであるとされている。そして、「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)を奉じる東南アジア諸国では、現在でも僧侶は供養されたものであれば肉も食べている。肉食を避けるために調理される精進料理も発達していない。」(308頁)としている。
(注9)吹田くわい保存会2010.口絵ⅵ頁参照。
(注10)現在、古い時代のものでは二巻が遺されている餓鬼草紙のうち、東博本は正法念処経を、京博本はそのうえ救抜焔口餓鬼陀羅尼経と盂蘭盆経を典拠としているという。
(注11)鳥のさえずりや獣の吠え声を言葉として捉えようとする考え方がある。動物界には方言のようなものもあることが研究の末わかっている。筆者は浅学にしてそれらが述語文の変相を構成するものなのかよくわからない。例えば、「敵が来る」、「敵が来る?」、「敵が来る!」という会話が鳥どうしの間で行われているのであろうか。その有無が、マコトとカタコトの違いなのかもしれない。クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った、という場合、その言葉は本当なのか嘘なのか、俄かには定められないところなど、これは確実に言葉であると了解できる。枠組を得たとき、言葉たり得るということである。言葉と言葉でないものとの問答としては、日本書紀に礼がある。「是に、大彦命異びて、童女に問ひて曰く、「汝が言何辞ぞ」といふ。対へて曰はく、「言はず。唯歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽に見えずなりぬ。」(崇神紀十年九月)。
(注12)表音文字とされるアルファベットであっても、言葉が聞き取れないとき、綴りを聞いて理解の助けにすることはよくあることであろう。イギリスのEU離脱を Brexit、そして後悔することを Regrexit と造語して、なにほどかわかった気になっている。日本ではさらに、大後悔時代などと揶揄している。
(注13)餓鬼について論じているが、本稿では本邦における施餓鬼会について詳しく論じることをしていない。お盆の魂祭行事として民間に根づいている。精霊祭とも呼ばれ、精霊棚を設えて供物をそなえている。仏教では、盂蘭盆経などに目連が母の倒懸(ウラバンナ)の苦を観て供養したとするのと相似している。けれども、本邦の民間仏教行事としては、お盆とお彼岸ぐらいしか特段視されていないところを見ると、餓鬼道の餓鬼に施すことと荒魂(新魂)に施すということが習合したと考えるのが妥当であろう。枕詞アラタマノから考えると、七月のお盆とは関係がなくお正月にしなくてはおかしいし、上に論じてきた餓鬼とクワイとの関連からも七月にクワイは得られないとも言えようが、七月に食べられないところが餓鬼の飢餓をよく表しているとおもしろがられたのかもしれない。五来2009.参照。
(注14)小田2015.526頁。
(注15)わたくり(大蔵永常・綿圃要務「蒔たねにする綿をくりて俵ニ入、貯ふ図」、八尾市立歴史民俗資料館 河内木綿の部屋HP、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556774/1/22参照)
筆者は、ワタクリに類する機械を、古代に求められていない(道具のみである)。魚などの調理に当たっては、腸の内臓部分を除去し、身だけを食用とすることが多い。サンマを焼いた時に腸を食べるのさえ、新鮮な場合に限られるのではなかろうか。身の方が大切にされる。綿の場合、繊維となるからワタをも大切にはするが、実の方も油が採れて重宝されている。その分別を行うのがワタクリという作業と考えられる。クワイは缶詰にあるとおり「水栗」である。田栗ともいえ、ワタクリとの洒落が考案されたことと思われる。拙稿「三輪山伝説について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f9831a12585fe330a14f1117911b2edbほか参照。
クワイのことは、和泉往来・文治二年(1186)点に、「田豆」ともある。海の中となれば、海はワタである。クワイは淡水にしか育たないが、水栗と海栗?とを掛けているように思われておもしろい。海栗、ウニ(雲丹、海胆)は、食べるところがすべて腸のようである。ウニのことは別名、カセ、ガゼなどという。すべてがガセネタということであろう。身のない生き物にして食べ物である。クワイの場合は、すべてが実ということであろうか。実は実なのだが真実ではなくて、ちょっとえぐい人でなしということであろう。
(引用・参考文献)
小田2015. 小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年。
川上2006. 小出昌洋編、川上行蔵『完本 日本料理事物起源』岩波書店、2006年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
五来2009. 五来重『五来重著作集第八巻 宗教歳時史』法蔵館、2009年。
埼玉県農林部経営普及課1987. 埼玉県農林部経営普及課編『クワイの史料とその栽培』同発行、昭和62年。
思想大系本『聖徳太子集』 家永三郎・藤枝晃・早島鏡正・築島裕校注『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、1975年。
志田1921. 志田義秀「聖徳太子の歌」『聖徳太子論纂』平安考古会編・発行、大正10年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
吹田くわい保存会2010. 吹田くわい保存会編『吹田くわいの本─なにわの伝統野菜─』創元社、2010年。
『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』吉川弘文館、2005年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系文庫本万葉集一 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系文庫本万葉集五 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
東野2013. 東野治之『上宮聖徳法王帝説』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
西1984. 西義雄「仏教における餓鬼と其の救済─特にその源流を尋ねて─」大正大学真言学智山研究室編『那須正隆博士米寿記念佛教思想論集』成田山新勝寺、昭和59年。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
額田1984. 額田巌『垣根』法政大学出版局、1984年。
花咲1991. 花咲一男『川柳うなぎの蒲焼』太平書屋、平成3年。
林1984. 林春隆『食味宝典 野菜百珍』中央公論社(中公文庫)、昭和59年。(昭和5年初出)
松下・吉川・川上・山下1983. 松下幸子・吉川誠次・川上行蔵・山下光雄「古典料理の研究(九)─「小倉山飲食集」について─」『千葉大学教育学部紀要』第32巻(第2部)、昭和58年12月。
頼住2009. 頼住光子「仏教における『食』」『第3回国際日本学コンソーシアム』お茶の水女子大学、2009年。
※本稿は、2016年7月稿を2024年8月に一部訂正、整理のうえルビ形式にしたものである。
内実を伴わないが見た目や味付けは同じなものが、クワイを材料に精進料理にこしらえた鰻の蒲焼ということであろう。上述の守貞漫稿に、「鰻蒲焼の摸製等」を豆腐と海苔で作っていたとある。豆腐を使う以前にはクワイの摺身を使ったのではないか。鰻を食べていたとする初出文献は万葉集である。
痩せたる人を嗤咲ふ歌二首
石麿に 吾物申す 夏痩せに 良しといふ物そ 鰻取り食せ〔売世の反なり〕(万3853)
痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を取ると 河に流るな(万3854)
右は、吉田連老といへるもの有り。字を石麿と曰ふ。所謂、仁敬の子なり。其の老、為人身体甚く痩せたり。多く喫飲すれども、形、飢饉に似たり。此に因りて大伴宿禰家持の、聊かに斯の歌を作りて、戯れ咲ふことを為。
続いて鰻の蒲焼とその擬き料理について考えなければならなくなっている。
花咲1991.に、次のような例があげられている。
「山の芋が鰻になる」(天地自然の妙は人知ではかり難いこと、物事の突然の変化の意)という俚諺の伝わることは古く、すでに狂言の「成上者」にも見える所であるが、『松屋筆記』第三巻には、永正九年(一五一二)成立の『体源抄』に、『日蓮本尊供養御書』の中に、この俚諺が引用されていることが見える。
半分ハうなぎになつてもの思ひ(川評宝八松)……
この句、この俚諺を詠んだのではあるまいか。
月令に芋が鰻の事やある(柳樽五十一7ウ)
うなぎやへのろりと化て山の芋(柳樽九十二18ウ)
山のいも化して鰻を喰に来る(柳樽七十五4ウ)……
八ッ目鰻に化シそうな八ッがしら(柳樽百二十四81ウ)
「花の雲鐘ハ上野の谷中門から、日ぐらしの里にかゝり、茶屋が床几で一盃のミかけ、帰りに茶代を払ながら「この山の芋の田楽ハなんぼじや」「アイ一串六銭でござります」「ハテ安いもの」亭主「それでも、鰻鱺になると十二銭でござります」(天明『うぐひす笛』日暮の里)(121~123頁)
半分ハうなぎになつてもの思ひ(川評宝八松)……
この句、この俚諺を詠んだのではあるまいか。
月令に芋が鰻の事やある(柳樽五十一7ウ)
うなぎやへのろりと化て山の芋(柳樽九十二18ウ)
山のいも化して鰻を喰に来る(柳樽七十五4ウ)……
八ッ目鰻に化シそうな八ッがしら(柳樽百二十四81ウ)
「花の雲鐘ハ上野の谷中門から、日ぐらしの里にかゝり、茶屋が床几で一盃のミかけ、帰りに茶代を払ながら「この山の芋の田楽ハなんぼじや」「アイ一串六銭でござります」「ハテ安いもの」亭主「それでも、鰻鱺になると十二銭でござります」(天明『うぐひす笛』日暮の里)(121~123頁)
花咲氏は、鰻の蒲焼の擬き料理を山の芋で作ってきたことを考えから外しているようである。確かに、五十年、百年の法事は目出度いからと生臭物を禁じないところがある。精進料理の山芋に代わって、本物の鰻の蒲焼が振る舞われることがある。したがって、俚諺から捩られた川柳であると解釈している。けれども、山の芋と鰻の蒲焼とのつながりは、長細い形状のつながりだけとは考えにくい。山の芋を使った擬きの料理があったればこその面白味が、俚諺そのものにも備わっていたのではないかと考える。
鰻料理の古記録としては、次のようなものがある。
上座敷十四人朝振舞、汁……鱣かは焼・鮒すし・かまぼこ・香物・肴種々台物五つ(鈴鹿家記・応永六年(1399)六月十日)
宇治丸 かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也(大草家料理書(16~17世紀))
「宇治丸」とは、ウナギの寿司や蒲焼、ウナギそのものの別称ともなっていたという。鰻の産地として宇治川が有名で名物であったともされる。いかにもという名称である。万葉集の3853番歌に、人名が「石麿」とあったのは何か関係があるかも知れない。ウヂは地名でもあろうが、氏のこととも思える。マルは、昔は鰻を割かずに、丸のまま串刺しして焼いたからと考えられている。と同時に、マルは、麿・麻呂、立派な男子の呼び名である。つまり、氏素性のはっきりした良い所のご主人様という名に聞こえる。桶に入って捏ねくり回っている鰻の形態は、夫婦和合を表すとされている。その様子は、虚空蔵菩薩の使者、化身、乗物とされており、京都の三嶋神社や虚空蔵菩薩を祀る寺院や本地とする神社では、鰻を禁食にする信仰も行われている。虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の慈悲を表す菩薩であるという。歌の左注に、「所謂仁敬之子也」とある点は、話が勘案された結果であろう。殺生をしない人という意味である。他方、くわいの漢名、慈姑は、慈悲ある姑と記されている。関連を推測させる字面である。上代の知識人がどこまで意識していたか、また、くわいを使って鰻の蒲焼擬きの料理を通例として作っていたか、残念ながら証拠を見つけることはできない。それでも、「宇治丸」などという呼び名を付けるということは、反対に、紛い物の鰻があったということを示唆してくれている。すなわち、擬きの料理の鰻の蒲焼があったということである。
丸のままの串焼きには、別に蒲鉾があった。
かまぼこハなまず本也、蒲のほこに、にせたる物なり(大草家料理書(16~17世紀))
ナマズを摺身にして竹串に回し塗りつけた竹輪やきりたんぽ様のものが、蒲鉾の原形であった。これをがんもどきのように「もどき」という名にしない語学的意味合いは、原材料が魚肉だからであろう。精進料理ではない。カバヤキを蒲焼、カマボコを蒲鉾と書くのは、蒲の穂のような形に由来するのではないかと説かれている。カバ、カマ、ガマと音に揺れがある点については不明と言わざるを得ないが、蒲焼をカマヤキと言えば、釜焼なる料理が連想され、植物のガマの古音はカマと清音であった。
蒲の穂(府中市)
さて、餓鬼については、仏典中、preta を餓鬼と呼ぶ近所に、「鬼」とだけ記す個所もある。妙法蓮華経・譬喩品に、「……復有諸鬼 其身長大 裸形黒痩 常住其中 発大悪声 叫呼求食 復有諸鬼 其咽如針 復有諸鬼 首如牛頭 或食人肉 或復噉狗 頭髪蓬乱 残害凶険 飢渇所逼 叫喚馳走 夜叉餓鬼 諸悪鳥獣 飢急四向 窺看窓牖……」とある。鬼を訓でオニというのは、「隠」の字音 on に読みやすいように i をつけて oni としたからとされている。銭が zeni 、盆が boni というのと同様である。鬼はどこに隠れているか。人の身近にいる。餓鬼草紙の絵でも、人のそばにいながら誰も気づかない様子が描かれている(注10)。上に仮説として餓鬼とクワイとの関連を見たが、クワイは田圃の泥の中にある。クワイの塊茎は泥田から採取される。あるいはお正月に縁起物として食べたくわいの煮含めは、芽が出て目出度いから食べたというばかりではなく、人のなかに隠れている鬼性を封じ込める意味で食べたものかもしれない。淵源を合理性から短絡的に理解しようとすることは、かえって民俗の風習を知ることから離れてしまう。
くわいの金団が喉に詰まるのは、喉が針のように狭いからである。ガンやカモの喉首は細く狭い。餓鬼のキ音は、カキ(垣・籬)ばかりか、キ(酒)と同じく甲類であると考えることができた。餓鬼の正体としては、キ(酒)に飢えている禁断症状なのであろうか。あるいは、飲酒後、何杯水を飲んでもなかなか喉の渇きが癒されないことを表すものだろうか。そうやって、餓鬼という言葉がヤマトコトバとして人々に了解されただろう。そうでなければ、早い時期に国語化されて万葉集に登場することなどなかったと想定される。了解され合わない言葉とは、マコト(真言・誠)ではなくカタコト(片言)であり、言葉とは言い難い(注11)。字音をもって了解されるためには、字が読めなければならない。今、発音だけでわからない術語を聞かされた時、どういう字を書くのですかと確かめることがある。漢字のように表意性を重く備えているとなおさらである。文字によって理解の助けにできるのである(注12)。共通認識として文字が使われるようになるには、上代後半、律令や続日本紀の時代まで俟つことになるであろう。
「餓鬼」という語を、比喩表現として子どもになずらえた理由は、無財餓鬼との関係で言われたとされているが、上代に行われていたか不明である。ご飯ご飯と言ってがつがつ食べたがる子どもの譬えとして用いたかどうか、文献上の用例が見られない。今日でもあまり印象の良くない言葉である。上代にあったとすると、口の悪い人たちによって使われた口語の俗語表現なのであろう。聖徳太子がませた餓鬼に譬えられていたとする考えについては拙稿「聖徳太子の一名、「厩戸皇子」の厩の戸について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/52a67c7e2ae17af11d93d2f433babf41参照。証拠とはならないものの、力強い傍証は二つある。第一に、近松門左衛門・用明天王職人鑑・第四に、「母は小腕引つ立てて、エヽ卑怯なの、人やら水やら知れもせぬおなかな餓鬼めがそほどに惜しいか、餓鬼めが父に名残が惜しいか。忽ち親が迷惑するが、親が大事か、子が大事か。夫がかはいか、親がかはいか、ちつと世上も思へかし。鰓骨をわつてなりとも、飲まさにやおかぬと責めけるは、地獄の呵責もかくならん。」とある。この例は、ひょっとすると、巷間に厩戸皇子のことを「餓鬼」と呼んでいた伝承が反映されているのかもしれない。第二に、俗語をよく伝える日葡辞書に、「Gaqi.ガキ(餓鬼) ゼンチョ(gentios 異教徒)の説によれば,インヘルノ(Inferno 地獄)にいるという飢えた亡霊.¶また,比喩.飢えて痩せこけ,やつれて色青ざめた人.¶また,人を叱り,けなす言葉.例,Ano gaqimega.(あの餓鬼めが)あのみじめで不仕合せな奴が,とか,飢えた奴が,などの意.」(日葡辞書292頁)とある。「青ざめた人」という形容が、厩戸皇子について、「更は名けて豊耳聡聖徳といふ。」(用明紀元年正月)と綽名されたことと通じている。この箇所は、「豊聡耳」の誤写という説が根強い。しかし、伝本はどの写本にもそのようにあって確かである。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bcほかで論じたように、トヨミミトとは、トヨミ(響)+ミト(水門)の意で、ミトサギが鳴いていること、今いうアオサギ(青鷺)のことである。厩戸皇子の特徴の一つは、ザビエル形のてっぺん禿であった点、第二は、顔色が青白い人であった点、また、沈思黙考する人であった点が押さえられている。青鷺と綽名されるほど青いから、ませた餓鬼と呼んで何ら違和感がない。
てっぺん禿のアオサギ(井の頭自然文化園にて)
再び上宮聖徳法王帝説を見る。
則ち證むる歌に曰はく、
斑鳩の 富の井の水 生かなくに 食げてましもの 富の井の水
といへり。是の歌は、膳夫人臥病して没なむとしたまひし時に、水を乞ひたまひき。然れども聖王許したまはずて遂に夫人卒せぬ。即ち聖王誅めて是の歌を詠みたまひき。即ち其の證そ。
思想大系本『聖徳太子集』の補注に、「歌意は「所詮生きていることができなかったのならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを」の意。」(421頁)、『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』に、「「所詮生きないのであったならば、斑鳩の富の井の水を飲ませてやればよかったものを」の意。」(106頁)とある。太子(聖王)が病の床につき、夫人も看病の挙句に床につき、二人並んで床についていた。先に夫人が亡くなり、次の日に太子が亡くなっている。太子の辞世の歌になった。なぜ、病人に井戸水を飲ませたがらないのか。下痢や嘔吐を伴う伝染病であったからかとも思われるが、それならば煮沸して湯冷ましを飲ませるのが科学的合理性というものであろう。古代の人であっても経験知として知っていたに違いない。
筆者は、餓鬼という考え方によるものと考える。仏教における餓鬼という概念の変遷について、西1984.は、仏典を時代的に遡るように検証している。
……(一)最も後世のものでは、「餓鬼」とは、六趣(又は六道)の一趣(又は一道)として、人間趣と全く別個であり、人間趣にとっては、種姓的にも地位的にも全く他的存在と見る如き記録が著しかった。然るに(二)稍々時代が遡る仏典では、餓鬼趣と人間との距離的間隔は消え、相互に交流あるものと見られているものが多くなり、更に古い仏典になれば、餓鬼には餓鬼趣に住するものと、人間中に住するものとありとしている経典群がある。(三)最后に仏教が南北に分派分立以前、正確には漢巴共通の仏典記録になると、人間と全く別種のものとしての餓鬼ではなく、むしろ人間の男女の餓鬼的状態を記録するものと見られる相応部(漢訳雑阿含)経典の存在を検出し得たのである。
さて、かく古典では餓鬼を人間の悪しき状態と見たとすれば、餓鬼と通訳される preta を、人間の、「人らしさを失ったもの」「人でなし」の状態としてその義を現わしたのが、餓鬼という名称の起ったもとであったと見得ることを推定してきたのである。換言すれば、現存の仏典中、最も早い時代の経律では、后世の餓鬼に相当するものは、むしろ人間の中の苦難に満ち「人でなし」的な境遇にある男女の衆生を指したのである。(47~48頁)
さて、かく古典では餓鬼を人間の悪しき状態と見たとすれば、餓鬼と通訳される preta を、人間の、「人らしさを失ったもの」「人でなし」の状態としてその義を現わしたのが、餓鬼という名称の起ったもとであったと見得ることを推定してきたのである。換言すれば、現存の仏典中、最も早い時代の経律では、后世の餓鬼に相当するものは、むしろ人間の中の苦難に満ち「人でなし」的な境遇にある男女の衆生を指したのである。(47~48頁)
餓鬼はどこにいるか。上述のとおり、人間の世界のすぐ近くに見られる。クワイが田圃の泥の中に隠れているようなものである。それが人でなしである。人のように見えて人ではない。クワイの葉が漢字の「人」字の形に見え、上代前半の人がどのくらいに漢字に対する識字能力があったか検討を要するが、上宮聖徳法王帝説の説話の焦点になっているように思われる。もちろん、クワイは人ではなくて「人でなし」である。泥のなかで泥を食べているようで、糞を食べている餓鬼にもなぞらえることが可能である。そして、くわいの塊茎を食べるに当たっても、精進料理にするために摺身にされて形を変えたのであろう。人擬きの存在、それがくわいであり、つまりは餓鬼である。
問題なのは、その井戸の名が、「富の井」という点である。餓鬼道に堕ちるとされるのは、生前に贅沢をした者であるとされている。生きながらも渇望する振る舞いを餓鬼とも呼んで戒めた。正法念処経・第十六に、「……女人多生餓鬼道中。何以故。女人之性。心多妬嫉。丈夫未随。便起妬意。以是因縁。女人多生餓鬼道中。復次比丘。知業果報。観餓鬼道。餓鬼所住。在何等処。作是観已。即以聞慧。観諸餓鬼。略有二種。何等為二。一者人中住。二者住於餓鬼世界。是人中鬼。若人夜行。則有見者。餓鬼世界者。住於閻浮提下五百由旬。長三万六千由旬。及余餓鬼悪道眷属。其数無量悪業甚多。住閻浮提。有近有遠。復次比丘。知業果報。観諸餓鬼有無量種。彼以聞慧。略観餓鬼三十六種。……」とある。
つまり、「富の井の水」を飲むということは、言霊信仰のもとにあっては贅沢なことに当たるから、それを飲むことは、即ち夫人が餓鬼になることと同じことである。「富」という地名が引っ掛かったのである。考え方は大乗仏教的で、あの世で餓鬼道に堕ちるというよりも、いま、餓鬼と同じ精神に陥ることになるから止めるようにと諭したということである。太子は、亡くなった膳夫人のあの世でのことを心配していたのではなく、今生のあり方を説いたのであった。
この歌を歌として論じたものとしては、志田1921.がある。少し長くなるが大時代的な捉え方がどのようなものか知れるので、引用しておく。
大体此歌は、書紀にもなく、補闕記や伝暦にもなく、其他太子に関係の古い方の書類に更に見えないと云ふ事が、先づ考ふべき点であらう。又歌の内容其者が、果して太子の事として是認されるであらうか。歌の内容は、全く通常人が愛妻の臨末に欲した水を与へなかつた事を、妻の没後に悔恨したと云ふ丈の俗情に過ぎない。或人は是を太子の仏教的慈悲心の発露であると観るかも知れないが、其れは俗情から観た慈悲心の誤解であつて、仏教的慈悲心は、斯る俗欲を満足せしめる如き者ではなく、寧ろ俗欲を離れて法悦に浴せしめて、後世菩提を得しめるのが其れである。特に「生かなくに」と云ふ様な不覚悟な言葉は、太子の口から出づべきものとは考へられない。天寿国曼陀羅の文に見える太子は、「世間虚仮、唯仏是真」と大悟した人である。大安寺伽藍縁起は第一史料ではないにしても、猶太子を憶度するに十分であらうと思ふが、同文中推古天皇が太子の病中其遺言を聞かしめる為に遣された田村皇子に対して、太子の奉答された所は、「蒙二天皇之頼一、無二楽思事一」唯過去将来の歴代天皇の為に、羆凝の道場を大寺にしたいと云ふ事であつた。斯の如く厭離欣求の願に生き、断欲思情の念に専らであつた太子は、其妃の臨末に当つて、自己の法味を頒つて臨終の正念を勧め、倶に天寿国に生れて、永劫の快楽を得ようとこそはされようが、虚仮の世の死を悲しんだり、之を悔恨したりする様な事が、有るべき事とは考へられない。従つて、若し太子に膳夫人の死後に歌があつたとすれば、其れは夫人の冥報を祈る意味のものでなければならないと思ふ。斯う考へて来ると、若し帝説の著者が僧であつたとしたならば、自ら其書中に太子の慧慈師事の事を述べて、「能悟二涅槃常住、五種仏性之理一」と云ひながら、而かも斯る歌を挙げ来つて證歌となすが如きは、其見を疑はざるを得ないばかりでなく、頗る矛盾を感ぜざるを得ぬのである。(144~145頁。漢字の旧字体は改めた)
太子の人物像についてドグマにとらわれていると、この歌が何を謂わんとしているのかわからないであろう。上代、それも飛鳥時代前期の人のあの世観について、中古・中世とは明らかに異なることを示す好例であると考えられる。上代前半の浄土思想がどのようなものであったか議論されることがあるが、仏教によく通じていたであろう太子が、あの世に餓鬼となることよりもこの世に餓鬼となることを好まなかったこと、さらには、死んでしまうのであれば、この世に餓鬼になることを許さなかった己を後悔していること、そして、病が篤く次の日には自分も死んでしまってこれが辞世の歌となってしまったこと、それらを考えあわせると、生き生きとした精神生活が余りあるほどに営まれていたことが彷彿とされ、悦ばしくさえ感じられるがいかがであろうか。生きる指針として仏教の思想を大局から見据えていたようにも思われる。仏教の考え方が方便たり得たのは、仏教流入以前から心の中に、当たり前のこととして、人間としてのあるべき生き方についての弁えがあったからと考えられる。無知蒙昧ではなかった(注13)。
以上のことから、万葉集に登場する「餓鬼」は、精進料理に使うために寺に用意されたクワイのことを比喩にかけていると考えられる。万3840番歌の原文に、「寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子将播」とある。寺院に「女餓鬼」、神社に「男餓鬼」と対比されている。新大系文庫本万葉集のような考え方は、寺社の合体、神仏習合のようなことを念頭に置いてのことだろうか。少なくとも単なる野合の話とは考えにくい。大神朝臣が返している歌からは、大神朝臣が神社を代表して寺側の「仏造る」ことへの皮肉を言っている。大神朝臣はその名から神社側の立場から歌を作ることは理解でき、池田朝臣は寺院に作られている蓮池のことから寺院側の者として作歌しているように思われる。最初の池田朝臣の歌の題詞に「嗤」とあるのは、大神朝臣が痩せていたからといった表層の譬えを語るものではない。「寺寺の 女餓鬼申さく」で始まることに、不思議なおもしろみがある。「……申さく」は、神社で行われる祝詞の常套句である。祝詞が寺寺であげられている。形式としては、「申さく、……とまをす」とあったものとして、引用句を承ける言葉としての助詞の「と」をもって歌は終わっていると解したい。引用を表す助詞トが、「倒置以外で文末を「と」で終えることは、極めてまれである。」(注14)が、文脈から通じるところである。
漁する 海人の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 貴人の子と(万853)
天の川 瀬ごとに幣を 奉る 情は君を 幸く来ませと(万2069)
万853番歌は、「貴人の子」と知られてしまうのであり、万2069番歌は、「幸く来ませ」と祈っているのである。この例から考えると、万3840番歌の、「寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子将播」は、「申さく……と」と終っているのではないだろうか。原文に「其子将播」とあるのを誤写とせずに正しく写すと考えれば、次のように訓むことができる。
寺寺の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼賜りて その子播かむと(万3840)
本稿で見てきたのは、餓鬼とクワイの近親性である。寺寺にある餓鬼とは、寺寺で精進料理を作る主材料とするためにごっそり置かれたクワイの塊根を指しているのであろう。
クワイの食感は、シャリシャリしている。お寺に安置されているのは仏舎利である。寺が二つ、「寺寺」とあるから、シャリシャリ(舎利舎利)である。舎利容器には、塔の形をしたものが多い。塔の形がクワイの形に見えてくる。和訓語の「くわゐ」が生れた経緯の一端が覗かれるようである。そのくわいを二つ並べれば、女性の乳房にも見える。女餓鬼と呼んだ理由である。他方、大神朝臣奥守が大神という神社の代表に置かれている。神社と餓鬼とは関係がないように思われるが、寺院側の代表に祝詞をあげさせている倒錯からして、これもおもしろみを狙ったものであろう。大神神社の由来は、いわゆる三輪山伝説として知られている。
以上のことから、「大神の 男餓鬼賜りて その子」という言い回しは、大神神社の祭神、大物主神にクワイの葉の形状を見ているものと思われる。クワイの葉は、サトイモの葉同様、食べることもあったらしいことが正倉院文書から推測されている。ずいきの一種である。嗤われている対象者は大神朝臣奥守である。奥に置いて守っている。後生大事にしている。そういった語感を秘めた名である。山自体を神と崇めているということであろう。
京都の北野天満宮、野洲の御上神社には、神輿の屋根を葺くのにずいきが用いられる風習が伝わって、ずいき神輿と呼ばれ、お祭り自体をずいき祭とも称する。そのずいきは、乾燥させて乾物にした。紐のようになるから、ヲ(緒)+ガキ(餓鬼)である。鎌で刈ってまとめて乾しておくわけだから、そのなかには花が終わって種をつけた穂も含まれていたことであろう。だから、クワイのずいきを分けてもらって、ワタクリ同様に種子を選って翌年の春に播こうというのである(注15)。そうすれば、塊茎のほうは小芋とて残さず食用とすることができる。
また、葉にもシュウ酸は含まれ、着けると痒みを伴うため、後には肥後ずいきという徳川将軍献上品にもなった大人の玩具が考案されている。人の世の習いとして、そういう性質のものは古代から知られていたであろう。だから、「女餓鬼」が「男餓鬼」を「賜り」たがろうとする歌が戯れに作られている。三輪山に坐す神は大物主神である。ペニスを指して大人の玩具のようにモノと呼ぶことはよく知られている。「播」を「懐(懷)」字の誤写としてハラムという動詞と捉えることも可能ではあるが、基本的にクワイの話なので、「播」はマクと考えるのが正解であろう。
万608番歌に、「相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に 額づくがごと」とあるのは、クワイの塊茎そのものを有り難がるようなことであり、クワイの形を留めているときに有り難がるのは変な話で、摺身にしてうなぎの蒲焼擬きの料理が作られて初めておいしい料理とされるのである。ガツガツと食べようとするのでは美味しさは得られない。渇望している餓鬼はクワイの持つ本当の美味しさが味わえないということをおもしろがっている。相思相愛の仲となれば、その頃合いがわかるから、互いにおいしい味わいを楽しむことができるということである。見た目は大したことのない男女であっても、得られる幸せは大きいということを歌っている。無論、くわいの煮含めをお正月に有り難がることへのからかいも含まれている。世の中で芽が出ることよりも、身近な幸せは工夫によって得られるものである。人として生きることを充実させるには、欲望のままに貪るのではなく、知恵を使って一工夫することが大事なのだと教えてくれる。大きなお寺の御利益に与ろうとしてもそれは無駄なことで、自宅にある念持仏の前で毎日のお勤めに励むことの方が、信心としては真っ当で精神生活を豊かにしてくれるということでもある。
(注)
(注1)サトイモの品種分類としては、染色体のセット数から、三倍体のものと二倍体のものとに大別される。三倍体のものに、「土垂」、「石川早生」、「蓮葉芋」、「蘞芋」、「黒軸」、「赤芽」(セレベス)など、二倍体のものに、「唐芋」(海老芋)、「八つ頭」、「檳椰心」、「筍芋」(京いも)、「沖縄青茎」などがある。野生のサトイモの原産地から少し離れて、三倍体サトイモと二倍体サトイモとがそれぞれ栽培植物として起源して派生したとされている。当然、起源地を厳密に特定することはできないものの、動植物の家畜化、栽培化において、ニワトリ、イヌ、サトイモ、イネが東南アジア周辺である点は、人類史を考えるうえで興味深いものであろう。なお、万葉集にクワイの改名前の「ゑぐ」とされるものが、サトイモの一種の蘞芋である可能性は存在する。子イモを食べるもので、収穫時の地中での在り方が似ているかもしれない。
クロクワイは、water chestnut という綽名(?)以外にも呼び方があるらしい。Weblio辞書・英語例文に、‘The black arrowhead tuber (Kuro Kuwai or Karasu-imo) used in Chinese cooking is a big black arrowhead in the Cyperaceae family and is a different variety of plant from the Japanese arrowhead, and is available in cans as water-boiled arrowhead, however there is evidence that this has also been used as a food from ancient times in Japan and has been unearthed from Jomon Period remains in Kameoka, Aomori Prefecture.’(中国料理に使用される黒クワイ(烏芋)はカヤツリグサ科のオオクログワイという日本のクワイとは別種の植物で、水煮の缶詰でも出回るが、日本でも古くから食用としていた形跡があり、青森県亀岡の縄文時代遺跡から出土している。)という例があげられている。
クワイの缶詰(原材料:オオクログワイ、原産国:タイ)
(注2)宮崎安貞・農業全書、「烏芋」の項に、「唐にてハ多く作りて、凶年にハ粮とすると見えたり。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558572/10)、貝原益軒・大和本草に、「烏芋 葧臍トモ云。時珍曰、一茎直ニ上ル上ニ枝葉無く、状龍鬚ノ如し。今按其茎オホ井ニ似テ小也。燈心草ニ似テ大也。茎ノ内空シ。摂州・河州ニ多シ。根ハ慈姑ニ似テ黒シ。果トシテ生ニテモ煮テモ食ス。救荒本草に、根を採り煮熟して之れを食す。粉を製作して之れを食せば人ノ腸胃ヲ厚ス。飢ゑずトイヘリ。三四月苗生ス。旧根カレス慈姑ノ如シ。花ナシ。食物本草に曰はく、又一種、野生なるは小にして香る。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557470/32~33)、人見必大・本朝食鑑に、「慈姑〈於毛多和と称す。根を白久和井と称す〉〔集解〕慈姑、浅水の中に生ず。或は亦之れを種ゑ、三月、苗を生ぜしめ、青茎中空にして稜有り、葉は燕尾箭鏃の如くにして前尖り、後へ岐あり。四五月、小白花を開きて穂を作す。……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557332/153)とある。クワイの葉が鏃のようであるとの見立てが行われている。
(注3)クワイが美味しいかどうか、好みによるものだから決めつけられない。筆者ならびにその周辺の人の意見によると、あまり美味しいものとはいえない。金団がいつからあったかは議論を要するが、古くからあったとするなら、サツマイモのない時代、金団にするのに裏ごしして食べたということであろう。栗の部分にクワイまるごとを使うばかりか、餡の部分にもクワイを使った。クチナシの実を使って黄色く染めた理由について、サツマイモに由来するのか、栗色に由来して時代的に先んじて染めていたのか、難しすぎてわからない。
(注4)正倉院文書に、「芋荎」、「★(草冠に慈)葉」とあり、前者は芋柄、後者はクワイの葉のことかと思われる。関根1969.に、「芋荎」は、「蔬菜としては低廉であった」(74頁)、「★葉」は、「価格例によれば下等な菜」、「強いて言えばクワイのことか」(63~64頁)とある。それぞれ大日本古文書巻之六(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1909013/21~22)、巻之十四(同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1909013/125)に載る。
(注5)クワイは植物学的にはイモではないが、民俗学的には芋であろう。芋として認識されていたであろうという意味である。サトイモに関して民俗学が品種についてあまり考慮しないで語ることについて、植物に詳しい方面から異議が出ており、それはそれで大切なことながら、料理されて御膳の上に載っかって出てきているものについて、どこまでやかましく言えばいいのかわからない。クワイは、精進料理の材料にされ、くわいの蒲焼なるものがあり、うなぎの蒲焼に似せられている。学問としての民俗学ではなく、一般の生活レベルで、くわいの蒲焼のクワイは、同じ泥水の中に棲息するウナギの仲間、魚類である。
(注6)ズイキ(随喜)とは法華経のキーワードである。良いことを見て、喜びの心が芽生えること、それが世界にどんどん広がっていくことである。妙法蓮華経・随喜功徳品に、「……阿逸多。如来滅後。若比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。及餘智者。若長若幼。聞是経随喜已。従法会出。至於餘処。若在僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落田里。如其所聞。為父母宗親。善友知識。随力演説。是諸人等。聞已随喜。復行転教。餘人聞已。亦随喜転教。如是展転。至第五十。阿逸多。其第五十。善男子善女人。隨喜功徳。我今説之。汝当善聴。……」とある。
(注7)また、同名の鳥に、漢名で「載勝」(史記・司馬相如列伝)がある。ブッポウソウ目ヤツガシラ科の鳥で、列島には旅鳥として見られる。
ヤツガシラ剥製(国立科学博物館展示品)
(注8)精進(Virya(サンスクリット語))とは、精進をこめて悪心、悪行を抑え、善行を修めることであり、その一つとして美食せずに粗食であること、魚介肉類を食べずに野菜、根菜、海藻などを食べることが勧められた。殺生をしない戒めとは本来は別の考えから来るものらしい。蛋白源として、豆類は貴重であったろうから、精進料理に豆腐のアレンジは欠かせないことになる。可笑記に、「さるおてらへ参る、和尚引入給ひて、様々の御ちそう、色々の御料理なるに、きじやきのたぬきじるのとどしめく、こはいかなる事にやと、心空にてみれば、さもなき精進物の御菜なり、寺方のれうりだて心得あるべし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/945807/1/41)とある。精進料理で擬きの料理は好まれていたらしい。
なお、頼住2009.は、殺生を嫌うことと肉食をしないこととは、仏教の元々の考え方としては別の観点であったと指摘している。食において最低限という制限を越えた場合、その欲望は煩悩として否定されるべきもので、煩悩は執着であり、執着は修行を妨げる汚れであるとされている。そして、「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)を奉じる東南アジア諸国では、現在でも僧侶は供養されたものであれば肉も食べている。肉食を避けるために調理される精進料理も発達していない。」(308頁)としている。
(注9)吹田くわい保存会2010.口絵ⅵ頁参照。
(注10)現在、古い時代のものでは二巻が遺されている餓鬼草紙のうち、東博本は正法念処経を、京博本はそのうえ救抜焔口餓鬼陀羅尼経と盂蘭盆経を典拠としているという。
(注11)鳥のさえずりや獣の吠え声を言葉として捉えようとする考え方がある。動物界には方言のようなものもあることが研究の末わかっている。筆者は浅学にしてそれらが述語文の変相を構成するものなのかよくわからない。例えば、「敵が来る」、「敵が来る?」、「敵が来る!」という会話が鳥どうしの間で行われているのであろうか。その有無が、マコトとカタコトの違いなのかもしれない。クレタ島の人は嘘つきだとクレタ島の人が言った、という場合、その言葉は本当なのか嘘なのか、俄かには定められないところなど、これは確実に言葉であると了解できる。枠組を得たとき、言葉たり得るということである。言葉と言葉でないものとの問答としては、日本書紀に礼がある。「是に、大彦命異びて、童女に問ひて曰く、「汝が言何辞ぞ」といふ。対へて曰はく、「言はず。唯歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひて、忽に見えずなりぬ。」(崇神紀十年九月)。
(注12)表音文字とされるアルファベットであっても、言葉が聞き取れないとき、綴りを聞いて理解の助けにすることはよくあることであろう。イギリスのEU離脱を Brexit、そして後悔することを Regrexit と造語して、なにほどかわかった気になっている。日本ではさらに、大後悔時代などと揶揄している。
(注13)餓鬼について論じているが、本稿では本邦における施餓鬼会について詳しく論じることをしていない。お盆の魂祭行事として民間に根づいている。精霊祭とも呼ばれ、精霊棚を設えて供物をそなえている。仏教では、盂蘭盆経などに目連が母の倒懸(ウラバンナ)の苦を観て供養したとするのと相似している。けれども、本邦の民間仏教行事としては、お盆とお彼岸ぐらいしか特段視されていないところを見ると、餓鬼道の餓鬼に施すことと荒魂(新魂)に施すということが習合したと考えるのが妥当であろう。枕詞アラタマノから考えると、七月のお盆とは関係がなくお正月にしなくてはおかしいし、上に論じてきた餓鬼とクワイとの関連からも七月にクワイは得られないとも言えようが、七月に食べられないところが餓鬼の飢餓をよく表しているとおもしろがられたのかもしれない。五来2009.参照。
(注14)小田2015.526頁。
(注15)わたくり(大蔵永常・綿圃要務「蒔たねにする綿をくりて俵ニ入、貯ふ図」、八尾市立歴史民俗資料館 河内木綿の部屋HP、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556774/1/22参照)
筆者は、ワタクリに類する機械を、古代に求められていない(道具のみである)。魚などの調理に当たっては、腸の内臓部分を除去し、身だけを食用とすることが多い。サンマを焼いた時に腸を食べるのさえ、新鮮な場合に限られるのではなかろうか。身の方が大切にされる。綿の場合、繊維となるからワタをも大切にはするが、実の方も油が採れて重宝されている。その分別を行うのがワタクリという作業と考えられる。クワイは缶詰にあるとおり「水栗」である。田栗ともいえ、ワタクリとの洒落が考案されたことと思われる。拙稿「三輪山伝説について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f9831a12585fe330a14f1117911b2edbほか参照。
クワイのことは、和泉往来・文治二年(1186)点に、「田豆」ともある。海の中となれば、海はワタである。クワイは淡水にしか育たないが、水栗と海栗?とを掛けているように思われておもしろい。海栗、ウニ(雲丹、海胆)は、食べるところがすべて腸のようである。ウニのことは別名、カセ、ガゼなどという。すべてがガセネタということであろう。身のない生き物にして食べ物である。クワイの場合は、すべてが実ということであろうか。実は実なのだが真実ではなくて、ちょっとえぐい人でなしということであろう。
(引用・参考文献)
小田2015. 小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年。
川上2006. 小出昌洋編、川上行蔵『完本 日本料理事物起源』岩波書店、2006年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
五来2009. 五来重『五来重著作集第八巻 宗教歳時史』法蔵館、2009年。
埼玉県農林部経営普及課1987. 埼玉県農林部経営普及課編『クワイの史料とその栽培』同発行、昭和62年。
思想大系本『聖徳太子集』 家永三郎・藤枝晃・早島鏡正・築島裕校注『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、1975年。
志田1921. 志田義秀「聖徳太子の歌」『聖徳太子論纂』平安考古会編・発行、大正10年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
吹田くわい保存会2010. 吹田くわい保存会編『吹田くわいの本─なにわの伝統野菜─』創元社、2010年。
『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説 注釈と研究』吉川弘文館、2005年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系文庫本万葉集一 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新大系文庫本万葉集五 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
東野2013. 東野治之『上宮聖徳法王帝説』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
西1984. 西義雄「仏教における餓鬼と其の救済─特にその源流を尋ねて─」大正大学真言学智山研究室編『那須正隆博士米寿記念佛教思想論集』成田山新勝寺、昭和59年。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
額田1984. 額田巌『垣根』法政大学出版局、1984年。
花咲1991. 花咲一男『川柳うなぎの蒲焼』太平書屋、平成3年。
林1984. 林春隆『食味宝典 野菜百珍』中央公論社(中公文庫)、昭和59年。(昭和5年初出)
松下・吉川・川上・山下1983. 松下幸子・吉川誠次・川上行蔵・山下光雄「古典料理の研究(九)─「小倉山飲食集」について─」『千葉大学教育学部紀要』第32巻(第2部)、昭和58年12月。
頼住2009. 頼住光子「仏教における『食』」『第3回国際日本学コンソーシアム』お茶の水女子大学、2009年。
※本稿は、2016年7月稿を2024年8月に一部訂正、整理のうえルビ形式にしたものである。