古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀万葉における「出雲」とは何か

2021年04月18日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 今日までの研究で、いわゆる出雲神話は存在しないことが明らかになっている(注1)。古事記に載るスサノヲによるヤマタノオロチ退治の話は出雲風土記に載っていない。イナバのシロウサギの話は日本書紀にさえ載っていない。なぜそのような話が古事記に語られているかについては、天皇による支配を正統化させるべく物語が作られて所載されたためであると考えられるようになっている。ヤマト朝廷に服属した国々から神話や伝承を集め、統治の正統性を表す筋立てになるように取捨選択するとともに、内容の改変や再構成が行われたというのである。なぜ奇妙奇天烈な話に創られているかについては、これといって納得のいく回答が得られていないばかりか、その問いすら立てられていない。本稿では、「出雲」という語についての上代語のあり方を検討し、上代人の観念のありようを探ってその一助としたい。
 地名としての出雲は、言い伝えのなかで、記紀のなかでもはじめのほうに多く登場している。記の上巻、神代紀、また、崇神・垂仁・景行天皇時代に「出雲」と記された条は次のとおりである。

(1)イザナミの埋葬地
 かれ、其の、かむりましし伊耶那美神いざなみのかみは、出雲国いづものくに伯伎国ははきのくにとのさかひ比婆之山ひばのやまはふりまつりき。(記上)
(2)イフヤサカのこと
 故、其の所謂いはゆ黄泉よもつひら坂は、今、出雲国の伊賦夜坂いふやさかと謂ふ。(記上)
(3)スサノヲの降臨地、クシ(イ)ナダヒメの養育地
 故、はえて、出雲国のの河上、鳥髪とりかみといふところくだりき。(記)
 是の時に、素戔嗚尊すさのをのみことあめより出雲国の川上かはかみ降到いたります。(神代紀第八段本文)
 素戔嗚尊、天よりして出雲の簸の川上に降到ります。(同一書第一)
 是の後に、稲田宮主簀狭之八箇耳いなだみやぬしすさのやつみみが生める真髪触奇稲田媛まかみふるくしいなだひめ、出雲国の簸の川上にうつゑて、長養ひたす。(同一書第二)
 ふたつかたはらに山有り。……出雲の簸の川上の山、是なり。(同第三)
 ……遂に埴土はにを以て舟に作りて、乗りてひむかしのかたに渡りて、出雲国の簸の川上に所在鳥上とりかみたけに到る。(同第四)
(4)スガの宮の設営地
 故、是を以て、其の速須佐之男命はやすさのをのみこと、宮を造作つくるべきところを出雲国に求めき。しかくして、須賀すがといふ地に到りしてのりたまはく、「われ此地ここに来て、御心みこころすがすがし」とのりたまひて、其地そこに宮を作りていましき。故、其地は、今に須賀すがと云ふぞ。(記上)。
 然して後、行きつつみあはしせむ処をぐ。遂に出雲の清地すがに到ります。清地、此には素鵝すがといふ。乃ち言ひてのたまはく、「吾が心、清清すがすがし。」とのたまふ。此今、此のところを呼びてすがと曰ふ。彼処そこに宮を建つ。(神代紀第八段本文)
(5)スクナビコナとの出会いの地
 故、大国主神おほくにぬしのかみ、出雲の御大みほ御前みさきいます時に、波の穂より、あめ羅摩かがみの船に乗りて、かりの皮をうつぎに剥ぎて、衣服ころもと為てり来る神有り。(記)
 自後これよりのち、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神おほあなむちのかみ、独り能く巡り造る。遂に出雲国に到りて、乃ち興言ことあげして曰はく、……初め大己貴神、国けしときに、出雲国の五十狭狭いささ小汀をはま行到ゆきまして、飲食みをせむとす。……(神代紀第八段一書第六)
(6)国譲りの問いの場所
 是を以て、此のふたはしらの神、出雲国の伊耶佐いざさ小浜をはまくだり到りて、十掬剣とつかのつるぎを抜き、さかしまに浪の穂に刺し立て、其の剣のさきあぐて、其の大国主神に問ひて言はく、……(記上)
 ふたはしらの神、是に、出雲国の五十田狭いたさ小汀をはま降到あまくだりて、則ち十握剣とつかのつるぎを抜きて、さかしまつちつきたてて、其の鋒端さきうちあぐみにゐて、大己貴神に問ひて曰はく、……是の時に、其の子、事代主神ことしろぬしのかみ遊行あるきて出雲国の三穂 三穂、此には美保みほと云ふ。さきす。(神代紀第九段本文)
 時に二の神、出雲に降到あまくだりて、便ち大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第一)
 既にして二の神、出雲の五十田狭いたさ小汀をはまに降到りて、大己貴神に問ひて曰はく、……(同一書第二)
(7)オホクニヌシの御殿の設営地
 出雲国の多芸志たぎし小浜をはまに、あめ御舎みあらかを造りて、……(記上)
(8)出雲の神宝にまつわる話
 武日照命たけひなてるのみこと 一に云はく、武夷鳥たけひなとりといふ。又云はく、天夷鳥あめひなとりといふ。の天よりきたれる神宝かむたからを、出雲大神いづものおほみかみの宮にをさむ。是をみまし。(崇神紀六十年七月)
(9)ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)の経由地
 道路みちを知らずして、嶋浦しまじまうらうら留連つたよひつつ、北海きたつうみよりめぐりて、出雲国を此間ここに至れり。(垂仁紀二年是歳分注)
(10)相撲の元祖、野見宿禰の故郷
 やつかれうけたまはる、出雲国に勇士いさみびとはべり。野見宿禰のみのすくねと曰ふ。……是に、野見宿禰、出雲よりまういたれり。則ち当摩蹶速たぎまのくゑはやと野見宿禰と捔力すまひとらしむ。(垂仁紀七年七月)
(11)口のきけないホムチ(ツ)ワケノミコの縁故地
 如此かくさとす時に、ふとまにに占相うらなひて、いづれの神の心ぞと求めたまひしに、たたりは、出雲大神いづものおほかみ御心みこころなりき。……故、出雲に到りて、大神ををろがをはりて還りのぼります時に、肥河ひのかはの中に、黒き樔橋すばしを作り、仮宮かりみやを仕へ奉りていませき。爾くして、出雲国造いづものくにのみやつこおや、名は岐比佐都美きひさつみ、……(垂仁記)
 時に湯河板挙ゆかはたな、遠くくぐひの飛びし方を望みて、追ひぎて出雲にいたりて捕獲とらへつ。(垂仁紀二十三年十月)
(12)神宝の検校
 しばしば使者つかひを出雲国につかはして、其の国の神宝かむたから検校かむがへしむといへども、分明わきわきしく申言まをひと無し。いましみづから出雲にまかりて、検校へ定むべし。(垂仁紀二十六年八月)
(13)形象埴輪の製作人
 則ち使者つかひつかはして、出雲国の土部はじべ壱佰人ひとももひとし上げて、自ら土部たちつかひて、はにつちを取りて人・馬及び種種くさぐさの物の形を造作つくりて、……(垂仁紀三十二年七月)。
(14)ヤマトタケルの出雲征討
 即ち、出雲国に入りしき。其の出雲建いづもたけるを殺さむとおもひて、到りて即ちうるはしみを結びき。(景行記)

 (8)は、出雲大神の神宝を天皇が見たいと欲したときの記事である。対応をめぐって出雲側の主宰者のなかで兄弟の内紛が生じている。兄は、「頃者このごろ止屋やむやの淵にさは生ひたり。願はくは共に行きて見欲し」と誘い出し、偽刀を作っておいて斬り合いして撃ち殺している。内紛は朝廷の知るところとなり、兄も誅された。出雲臣等はそのことに畏怖を抱き、出雲大神を祭らないことがあった。皇太子の活目尊いくめのみこと(後の垂仁天皇)に、小児の言葉を借りて諭す人がいた。小児に神が憑依しての言葉かと進言している(注2)

 玉菨たまも鎮石しづし。出雲人のいのりまつる、真種またね甘美鏡うましかがみ。押し羽振はふる、甘美御神うましみかみ底宝そこたから御宝主みたからぬし山河やまがはくく御魂みたましづかる甘美御神、底宝御宝主。菨、此にはと云ふ。(崇神紀六十年七月)

 この文言から考えると、イヅモ(出雲)のことだからモ(菨=藻)が登場しているのではないかと気づかされる。説文に、「菨 菨餘なり。艸に从ひ妾声」とある。アサザのこと、古語に「あざさ〔阿邪左〕」(万3295)である。
アサザ(井の頭公園、2016年6月)
 水野1994.は、出雲厳藻説が提唱している。

 やつめさす〔夜都米佐須〕 出雲建いづもたけるが ける大刀たち 黒葛つづらさはまき さ身無しにあはれ(記23)
 八雲やくもさす〔八雲刺〕 出雲の子が 黒髪は 吉野の川の 奥になづさふ(万430)
 八雲立つ〔夜久毛多都〕 出雲八重垣やへがき 妻みに 八重垣作る その八重垣を(記1)

 これらの歌の枕詞の偏差について、「八雲立つ」と「やつめさす」の混合形として「八雲さす」があるとしている。そして、ヤツメ(メは乙類)は「弥津米やつめ」、すなわち、たくさんの海藻の義で、藻は古代人にとって神聖で呪的なものであり、出雲の国名の原義は「厳藻いつも」に由来するとする(注3)。筆者は、地名の由来を尋ねる立場には立たないが、多くの示唆を与えてくれるものである。
 出雲がメインテーマで出てくる最初の話の舞台は、「出雲国の(簸)の河(川)上」である(注4)。「河(川)上」は、カハノヘ(ヘは乙類)とも訓む。

 河上かはのへの〔河上乃〕 ゆつ磐群いはむらに 草さず 常丹毛冀名 常處女煮手(万22、四・五句目の訓に疑義あり)
 河上の〔河上乃〕 つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせの春野は(万56)
 河上の〔河上乃〕 いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万491)
 川上かはのへの〔川上之〕 いつ藻の花の いつもいつも 来ませ吾が背子 時じけめやも(万1931)
 …… 川上かはのへに〔迦波能倍邇〕 生ひ立てる 烏草樹さしぶを 烏草樹の木……(記57)
 川上かはかみの〔可波加美能〕 根白ねじろ高萱たかがや あやにあやに さ寝てさ寝てこそ ことにしか(万3497)

 くり返し言葉の多い歌が頻出する。川岸には左岸、右岸の両岸がある。二例目の椿は、硬い材を木刀のように使う武器とされた。手で握るところはつばのあるところに当たるし、先の方もツバ(キ)である。両端ともツバである。それが両岸に連なっているから「つらつら椿」と洒落ている。顔を横顔として見たつらも顔の両側にあるから、「つらつら椿」は「つらつら」を導いている。三例目のイツモは、何時も、常に、という意味と、水野説にある「厳藻いつも」の意、すなわち、河の水のなかで神威を受けたかのごとくとても盛んに茂っている藻のことを掛けている。四例目は、「烏草樹さしぶ」、「生ひ立てる」をくり返している。烏草樹さしぶはシャシャンボのことであるが、サシブの音がシブクサを思わせる。シブクサの別名は、ギシギシ(ギの甲乙不明)で、岸岸(キは乙類)を連想させるからであろう。五例目は、もと「河上」とあったものを読み違えて仮名表記したものであろう。
 藻が川床に繁茂していれば、「藻床もとこ」と言い表しうる。とことこの意味を強く持つ(注5)。安康紀元年二月条に、「荇菜をみなめ」とある。詩経・周南・関雎の「参差しんしたる荇菜は 左右之れをもとむ 窈窕たる淑女は 寤寐之れを求む(参差荇菜、左右流之、窈窕淑女、寤寐求之)」によるとされ、宮中に働く女性のことを表している。和名抄に、「荇 爾雅注に云はく、荇菜〈上の音は杏、字は亦、莕に作る。阿佐々あざさ〉は水中に叢生し、葉は円く端在り、長短は水の深浅に随ふ者なりといふ。」とある。崇神紀の「菨」に同じくアサザのことである。菨は翣に通じ、棺の羽飾りをもいう。左右のことは、垂仁紀ほかに「左右もとこ」とあり、モトコヒトとも訓んでいる。本処、許処の意で、もと、かたわら、側近くのこと、すぐに御用をかなえるために左右に控えている人である。左右両側に控えているのは、左右両岸があるのに同じで、三例目の「いつ藻」の花は、「いつもいつも」と重なる言葉を導いている。
 モトコは、喪床、つまり、亡くなった後に、亡骸を収める寝床である棺(柩)のこととも考えられる。永遠の眠りについているから、棺ほどとこなるとこはない。ヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)は、日月と同音である。イザナキは黄泉国よみのくにから帰還して禊ぎをする。左の眼からアマテラス(日神ひのかみ)、右の眼からツクヨミ(月神つきのかみ)が生まれている。左右もとこの目は日月である。仏教では、日光・月光菩薩を脇侍とするのは薬師如来である。薬師はクスシと訓まれ、大国主神おほくにぬしのかみ大己貴神おほあなむちのかみ)とともに国作りをしたスクナビコナが薬の神として崇められている。その後の話にその正体を幸魂さきみたま奇魂くしみたまであるとしている「奇し」も、クスシと訓む。
 したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対の事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、また、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿の話に出雲の地が設定されている。国生みの話において、イザナキとイザナミの交合の場面で、どちらが先に相手を「え」、つまり、素敵だという言葉を発するか、また、神代紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかが重要な要素にあげられている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭子ひるこ淡洲あはのしまが生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、反対回りにしたらうまくいって国生みが成功したことになっている。
 また、出雲の地は、国を譲るか否か、「いな」を答えさせる場所になっている。「伊耶佐いざさ」(記上)、「五十田狭たさ」(神代紀)とある。万葉集には「左右」(万1343)をカモカモと訓む例がある。ああでもこうでも、あれこれ、の意を表す。あれかこれかの二者択一を迫る場所として、出雲の地は設定されているわけである。
 スサノヲの話では、箸が上流から流れてきている。二本揃って流れて来なければ、それが箸であるとは確かめられないであろう。上流には、アシナヅチ・テナヅチという老夫・老女の二人がいた。二本がワンセットであることを強調する名前である。また、クシナダヒメを神聖な爪櫛に見立て、みずらに刺したともある。当時の髪型として知られる角髪あげまき(角子)は、左右二つに分けて両耳のあたりにわがねたものであった。
 「」が「」と関係があるなどありえようはずがないと捉えることは、「言語以前の一般的観念について語ること」であり、「牛の前に鋤をつける如き本末転倒である」(ソシュール)。そのことは、助詞「も」が、承ける語を不確実なものとして扱うことからもわかる。喪も藻? 藻も喪! という陳述にきょとんと納得せざるを得ない頓智が行われている。
 以上の検討から次のことが帰納される。イヅモ(出雲)という言葉は、記紀万葉において、それはすなわち、上代の人々の観念体系のなかにおいて、地名としてではなく、あるいは、地名に先んじて、イヅモ、イツモなる音がもとでくり広げられる意味の展開を示す言葉である。これは実は当たり前である。ヤマトコトバは誰が用いた言葉か。そしてその中心はどこの人であったか。まぎれもなくヤマトに暮らしていた人、なかでもヤマト朝廷の人たちであった。ヤマト朝廷の人にとって、イヅモ(出雲)というところは、名前は知っているけれど実情はまったく知らない。そのイヅモとは何かと問われれば、その言葉(音)があやなす意味でしか捉えることができない。無文字時代のヤマトコトバは、その音が荷っている意味合いを、音声ばかりで人々の間にやり取りするものでしかあり得なかった。出雲地方の風光や産物について噛んで含めて言い聞かせてみても、それがイヅモという言葉と何の関係があるのかつながるものでない限り、相手の琴線に触れて理解へと至ることはないのである。すなわち、イヅモ神話が出雲地方に創られて伝えられたのではなく、イヅモ説話はヤマトコトバの音によってヤマトで創られたのである。イヅモは厳藻のことでもある。イツモという語を真にかなえるのは喪の床のことである。今日の人の頭では洒落にしか聞こえないそんなことを、厳密な学としての論理学をもってそのとおりに考えていた。その論理展開にかなうように、説話の舞台としてイヅモ地方が設定されているばかりなのである。記紀の説話に対するこれまでの態度は、コペルニクス的転回を求められている。

(注)
(注1)新谷2009.は、記紀に記される出雲神話を歴史上の出雲世界の実体の反映として、考古学的な発掘情報に求めるには方法論的に困難であるとしている。常識的な見解である。
(注2)垂仁紀十年九月条にも、童女の言に、「ものもいはず。ただ歌ひつらくのみ」という歌の例がある。
(注3)この説は、上田1999.が正当に評価している。
(注4)この「河(川)上」は、西宮1990.に「「上流」の意であることを明らかに示している。」(286頁)とし、「到出雲国簸川上所在鳥上之峯。」(神代紀第八段一書第四)とあるから確実といい、カハカミと訓んで正しいとしている。「まだ上に人が住んでゐて箸が流れてきたことを矛盾として咎めることはあるまい。」(同頁)とあって、本居宣長・古事記伝に、「河上は、加波之弁カハノベと訓むもアシからねど、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041627/222)なる注に答えたようであるが、管見にして誰が疑義を唱えたかわからない。日本書紀の古訓では、上にあげた神代紀第八段本文に続く箇所、「時、聞川上有啼哭之声。」の「川上」にカハノホトリニ(為縄本)という例が見える。
(注5)上の例に見た万22歌の四・五句目の原文に見られる対には暗示があるように思われる。

(引用・参考文献)
上田1999. 上田正昭『上田正昭著作集4』角川書店、1999年。
新谷2009. 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』講談社、2009年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
水野1994. 水野祐『古代の出雲と大和 新装版』大和書房、1994年。

※本稿は、2012年9月稿を2021年4月に改稿、改題し、2024年9月にルビ形式にしたものである。

(English Summary)
Kojiki and Nihon Shoki have several narratives set in Izumo (出雲) country. In particular, the famous story of defeating Yamata no Orochi (八岐大蛇, a big snake with eight heads) is called the Izumo myth (出雲神話). It has thought that the tales that had been handed down in the Izumo’s region were passed down and incorporated into Yamato's folklore. In this paper, we focus on the word (pronunciation) "idumo" (出雲) and reconsider how the meaning of the word was positioned in the idea system of the ancient Japanese, Yamatokotoba people. Because at that time they had no characters and sounds were words themselves. And we will understand that the place name "Idumö" was used as to imply things such as “always” (itumö: 常時), “thickly growing algae” (itumö: 厳藻), “coffin” (mötökö: 喪床). The word "mö" was “algae” (mö: 藻) and “mourning” (mö: 喪), “too” (mö: も (particle)). We have to move into a new stage of thinking about what languages are.

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