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倭人が邪馬台国と書いて教えたのはホント?( ^)o(^ )

2022-04-16 09:49:25 | 古代史
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2022-04-13 00:00:43 にアップした「邪馬台国と卑弥呼の日食の謎(^_-)-☆」でご紹介した方との邪馬台国の文字に関わる議論が続いていますので、お付き合いください。


北島正隆
@刮目天一 さん
邪馬台国と書いた時、当時の魏の発音では ジィア ラ アイ クヮクだったようです。Wikipediaにあります。
(Wikipedia 邪馬台国 2022年4月15日閲覧 3.1 発音と表記)
母音が重なっています。
刮目さんのご意見の通りなら、倭人の発音を記したということと母音の重なりを嫌うという、両方とも刮目さんのご意見ですが、矛盾しますが?
当時の読み方はどうであったか、ということを全く知らずに組み立てた論だから矛盾がある、ですね?

邪馬壱国だった場合、壹は魏壹の意味から考えると大変高貴な文字であり、東夷に使うわけにはいかないのでこれを台にしたり一にして、
邪馬台国や邪馬一国という表記にしたというならわかります。逆はあり得ないのではないでしょうか?
邪馬台国を邪馬壱国と書き間違えたという話です。後日とはいえ中国人はそういう失敗は起こさないと思いますが。
台与と壱与についてもそうです。台与を壱与に書き写し間違いはしないと思いますが。
すると元々は邪馬壱国が正しいと回帰しませんか?

邪馬壹國でも邪馬臺國でも、邪という悪い意味の漢字と、壹または臺という画数が多い漢字を両方使っています。
画数が多い漢字は格が高い漢字という当時の価値から考えても、東夷に使っていること、しかも邪と同じ国名に使っていることに、
違和感を感じませんでしたか?

卑弥呼だって、卑(これは刮目さんの論によると蔑称です)と、彌という画数が多いしかもいい意味の漢字と両方使っています。
ここには疑問がなかったのですか?

万葉仮名はWikipediaによると7世紀初め(650年以前)にさかのぼるらしい。ですが卑弥呼の時代(250年頃)から400年もあとです。
更に、ヤを表すのに「邪」は使われていないようです。このWikipediaのページには「耶」はありましたが「邪」は無い。



刮目天一
@北島正隆 さん 参考になるご意見、ありがとうございます。
一つひとつ見て行きましょうね !

①母音が重なっています。
シナ人が漢字をどう発音しようと構いませんが、漢字を書いて教えた倭人は二重母音を避けていたということです。

②当時の読み方はどうであったか、ということを全く知らずに組み立てた論だから矛盾がある、ですね?
ですから、このご意見は当たりませんよ(*´Д`)

③すると元々は邪馬壱国が正しいと回帰しませんか?
ぜんぜん理解できません。魏壹という言葉を初めて聞きました。出典は?
壹与についても説明していませんでしたが、おっしゃる通り、「台与を壱与に書き写し間違いはしないと思いますが。」は概ね好いと思います。しかし絶対にそうだとは言い切れませんが、恐らく臺与を避けたのだと思います。
臺與はトヨと読みます。豊国、豊後・豊前、豊姫など九州の至る所に現れます。壹與が正しいとすると愛媛県くらいしか見当たりませんが(´ω`*)

④画数が多い漢字は格が高い漢字という当時の価値から考えても、東夷に使っていること、しかも邪と同じ国名に使っていることに、
違和感を感じませんでしたか?

全然違和感はないですよ。何故ならば教養人である倭人の王が自分の教養をひけらかす意味で画数の多い文字を使うことはあると思います。でもそれが格が高い文字だとか高貴だとかは言えるのか分かりませんね(´ω`*)

⑤卑弥呼だって、卑(これは刮目さんの論によると蔑称です)と、彌という画数が多いしかもいい意味の漢字と両方使っています。
ここには疑問がなかったのですか?

ご指摘、有難うございます。彌が卑を打ち消すなど全く思いもよりませんでした。じゃあ何故、「卑字」という言葉が存在するのですか?

⑥万葉仮名はWikipediaによると7世紀初め(650年以前)にさかのぼるらしい。ですが卑弥呼の時代(250年頃)から400年もあとです。
「万葉仮名(まんようがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。」wikiにあります。倭人の発音を漢字の音を当てていますので、当時に3世紀の倭人の発音が伝えられていたことが分かるのですよ(^_-)-☆

⑦更に、ヤを表すのに「邪」は使われていないようです。このWikipediaのページには「耶」はありましたが「邪」は無い。
これこそ大発見です。有難う御座います。「邪」という文字はよほどじゃないと使わないということなのでしょうね。書いて教えた人物の感情が入っている文字ですから、邪馬台国と漢字で書いて教えた人物が卑弥呼に対してどういう感情を持っていたのかまではっきり読み取れるということですね。

とてもいいコメントを有難う御座いました。お願いですが、今後はわたしのブログに直接コメントいただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。

【関連記事】
【検証22】難升米という人物は?(その1)
景初三年六月に帯方郡に出かけて太守劉夏と談合して行程記事を作ったこの人物が古代史解明のカギを握っていました(^_-)-☆
この人物が奴国を滅ぼした師升王の血を引く倭国王で漢字を読み書きできる教養人だったということが分かると、邪馬台国や卑弥呼に対する幻想が払しょくされ、キーマン難升米の感情まで推理できますよ(@_@)

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邪馬台国への行程記事は西晋の宣帝と諡された魏の実力者司馬懿の功績を曹魏第一とするために、司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して作られたものだと推理しました。帯方郡より東南万二千里の海上から魏のライバルの呉を挟み撃ちする位置に邪馬台国があるとして、邪馬台国への行程を以下の図のように改ざんしました。卑弥呼を倭国の支配者ということにして、自ら女王卑弥呼の男弟という設定にしたのも魏の朝廷の人々の注目を集めるためですよ。西晋の史官陳寿はこのような行程記事などが書かれた報告書を宮廷の書庫で見て、魏志倭人伝を書きました。(^_-)-☆ 



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