刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国大和説は過去の学説だよ!(^_-)-☆

2025-01-27 00:20:11 | 古代史

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#2021-10-30 12:24:05に記事にしましたが、纏向遺跡を長年にわたり発掘調査されてきた関川尚功氏が2020年に纏向遺跡は邪馬台国ではないという考古学の証拠をあげて発表されて畿内説の勢いがなくなったようでしたが、驚くことにまた2023年3月に考古学の専門家で桜井市纏向学センター所長の寺沢薫氏が「卑弥呼とヤマト王権」中公選書を出されて、纏向遺跡に邪馬台国があったという説を主張されましたので少し混乱気味です。

YouTubeでもいくつか寺沢薫氏のこの著書に影響を受けて、登録者数1.1万人で2453 本もの高校日本史のオンライン講座動画をアップされている人気YouTuberが「YouTubeの邪馬台国論争 箸墓古墳は3世紀という考古学を認めるか認ないか、が分水嶺 【卑弥呼と邪馬台国】」のような動画の中でタイトルのような主張をされています。この方の別の動画「寺沢薫著 「卑弥呼とヤマト王権」を読む① プロローグ【邪馬台国2025-1】」に纏向説を否定する根拠を述べたのですが、完全に無視されました。削除されていないだけましですが(;^ω^)

影響力のある寺沢氏も含めてまともな反論を無視するのは古代妄想と断じるしかないので困った問題だと思います。もう一度、最初にご紹介した「箸墓古墳が3世紀か4世紀かで決まるかのような」動画に以下のような反論をしようか少し思案しているところです。

寺沢氏がプロローグの中で以下のように述べておられます(pp.17-18)。

邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「やまと」の領域、つまり私の言う「ヤマト国」を指し、女王卑弥呼は纏向遺跡に居たという考えを明らかにした。(中略)三世紀の巨大な遺跡として有名なのだが、(中略)邪馬台国畿内説の最有力候補となっている遺跡なのだ。

 とはいえ、邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争はあくまで文献学上の問題である。考古学のデータがどれだけ蓄積されていっても、文献を解釈するほどにモノ(遺跡や遺物)じたいから情報を引き出し、邪馬台国の位置や卑弥呼の実像を直接的に叙述することはむずかしい。だからといって、まま見受けられることだが、独断的な文献解釈をベースに考古学のデータの一部を切り出して自説の整合性を取りつくろう手法は本末転倒もはなはだしい。

 モノから有効な情報を可能な限り引き出し、考古学から得られた知見をもとに最も合理的で精緻な独自の歴史像を組み立て、そのうえで文献との整合性を逐一検証し、どれだけの歴史叙述ができるか、二段構えの論理的な手段を踏む必要がある。そこに十分な状況証拠と理論的説得力が得られたとき、邪馬台国論争にも王手を突きつけることができるはずである。

この内容は刮目天の主張するアブダクションによる科学的手法に似てはいますが、決定的に違うことは「独自の歴史像」が文献とは別に存在するかのような主張なのです(一部、信ぴょう性のあるシナの文献は使用しているようですが)。文献の内容が無ければモノはモノでしかなく、モノ自身が語る内容は限られるはずです。具体的に文献にある人物とモノの関連で具体的な「誰が、いつ、何をした」などの歴史叙述ができるのです。東洋史家の岡田英弘先生が教えてくれたように「考古学は歴史学の代用にならない」ということなのです。寺沢氏の言う「独自の歴史像」というのがF .エンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」の唯物論的考察で得られた歴史像だとすると、これと整合性の取れるように文献解釈を行うことになりますので、正解とはならないのです。

たとえば、水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。

戦争とは国家間の武力闘争ですから、対立国家が生まれないと戦争になりません。列島内で対立する国家に分裂したのは107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師の師升の反乱が原因だと分かりました。つまり師升が奴国王を殺して奪った倭国と旧奴国の王族が吉備で立てた狗奴国や出雲・丹後王国の対立が原因で戦争が起こったので、弥生後期後半(二世紀末)の倭国大乱が日本列島で初めて発生したのです。その結果、戦況が一方に傾き卑弥呼が登場したのですが、倭国が拡大したために、狗奴国は吉備から纏向遺跡に遷都したのです(詳細は「其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す!(^_-)-☆」参照)。

これは弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、環濠の溝で発見された矢じりが戦争の痕跡と見て、戦場は北部九州の倭国と山鹿市・菊池市の狗奴国の前線基地に限定されることが分かりました。狗奴国側の前線基地から山陰や畿内の土器が出土し、兵士を呼び寄せて倭国側の集落を襲ったと分かりました。さらに調査結果を考察すると狗奴国側の集落の環濠から、倭国側の銅鏃が出土していたので狗奴国の官狗古智卑狗が倭国に襲撃されて戦死したために、倭国が狗奴国側の一部の勢力を取り込んで卑弥呼を女王に共立したので戦闘が収まったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

実際は、卑弥呼は宗像女神市杵島姫で太陽神の神託を口寄せする姫巫女で、倭国を統治する女王ではありませんが、師升王の子孫の本当の倭国王難升米が政治的な理由で、倭国の王都を卑弥呼の居城として、戦略上重要な場所(帯方郡から東南万二千里で魏のライバルの呉を挟み撃ちする邪馬台国)に居たことにしたのです。ですから、いまだに邪馬台国問題が解決していないのです。

ですから、自説に都合の好い文献解釈をし、関川氏の主張する不都合な反論を無視していますので正解が得られないのです。正しい反論には仮説を修正しなければならないのです。纏向遺跡はヤマト王権成立した古代史の最も重要な遺跡であるのは間違いないので、卑弥呼が纏向遺跡にやって来て王権が成立したという説は成り立たないのです。

ということで前置きが長くなりましたが、以下の記事にお付き合いください(;^ω^)

 

箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞


タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。

すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。



マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。

纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。


このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。

「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。

さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。

通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。

しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないようなのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。

搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 49%
北陸・山陰系 17%
河内系 10%
吉備系 7%
近江系 5%
関東系 5%
播磨系 3%
西部瀬戸内海系 3%
紀伊系 1%

(wiki「纏向遺跡」より)

寺沢氏も外来系土器の下図のデータを載せながら、上掲書本文p.70で「近年、土器の形式から搬入元を推定するだけでなく、土器の胎土から製作地を特定する分析方法が広がり、纏向遺跡でもより詳細で、より広範な搬入元が推定されるようになった。リストに挙がっているのは、瀬戸内海ルートでは吉備中心に、讃岐、阿波、播磨、伊予、周防ないし長門、そして筑紫。」と記していますから驚きました。九州の土器はどこですか?2025.1.26 追記



九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。卑弥呼の時代の纏向遺跡に楽浪系の土器も出土していません。纏向遺跡で行われた前方後円墳での祭祀に各地から人々が来ていますが、北部九州の人々が来ていないのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください!(2025.1.27 青字追加)

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まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!

(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)

2025-01-25 20:00:09 | 古代史

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#九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説である(wiki「九州王朝説」より)。戦前から学者の間でも主張されていましたが、古田武彦「失われた九州王朝」(朝日文庫 1993)が大人気となり、学者・アマチュアによってこれに派生する様々な仮説が登場しました。しかし、学会で論争となり、安本美典「虚妄の九州王朝」(梓書院 1995)などによって九州王朝説が批判され、現在では古田氏の説を継承する「古田史学の会」などで研究活動が続けられています。

現在の天皇家に繋がる畿内の王朝とは別に九州王朝が存在したかのような【都市伝説】として語られていた動画をまた見つけましたので、今回は何故、このような天才的なアイデアが生まれるのか?について考えてみたいと思います。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)

古代日本史の隠された歴史を中国で発見『隋書倭国伝』に記録されていた…99%の日本人が知らない倭国の真実がヤバすぎる…【都市伝説】
くろの【都市伝説】@YouTube

興味ある話題を有難うございます。シナの正史と日本の正史「日本書紀」に矛盾があることは知られていますが、多くの皆さんは天武天皇が編纂を命じた日本書紀は天皇の歴史書だという思い込みがあるために謎のままなのです。

このような矛盾のある状況が史実として在ったとして、

その矛盾を解決するために九州王朝説が生まれたのでしょう。

しかし、日本書紀が完成した720年は天武天皇が崩御して34年後なのです。当時の権力者は藤原不比等だと知られています。不比等が日本書紀を残す理由は何かを深く考えるべきです。

それは権力を握る上で行った不都合な史実を隠し、歴史を改ざんする必要があったということだと直ぐに考えられます。

その証拠が、魏志倭人伝に登場する倭国女王卑弥呼が日本書紀に現れていないこともその一つです。他にもいくつもありますが、600年のアメノタリシヒコの遣隋使を無視したことも明確な証拠です。日本の歴史を誤魔化す理由がないと思われる隋書に明確に記されているので、日本書紀に信ぴょう性がないことは明白です。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記ですが、九世紀に突然表に出てきたものなのです。正史にその記録もないですし、日本書紀が参照したり、引用した痕跡は見当たりません。おかしいと思いませんか?

事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合わない文献は偽書なのです。

逆に事実から推理し、文献に虚構があるのはなぜか、編纂者・著者の意図を推理して仮説が生まれます。その仮説をさらに多くの事実で検証すると蓋然性の高い仮説が生まれます。

古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する目的の暗号書だったのです。

その暗号を解くことにより仮説がさらに拡張され詳細化できます。

こういう事実に基づく仮説構築の手法はアブダクションと呼ばれる科学的な推論法のひとつです。

これにより、3世紀の日本の建国過程を明らかにし、4・5世紀の空白の世紀と倭の五王の謎も7世紀初頭の二回の遣隋使の謎もすべて解明しました。そしてアメノタリシヒコは二人いたことが分かりました。二人ともヤマトの大王(おおきみ)です。

ですから、九州王朝が幻だったことが明らかになりました。

よろしければ詳細は「【刮目天の古代史】謎の古代史を科学的に解明する(#^.^#)」「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

 

【関連記事】

「倭の五王」は九州王朝の大王ではなかった!(;^ω^)

古事記の崩年干支から空白の150年に隠された二人の天皇と倭の五王の正体も分かりましたし(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)、アメノタリシヒコが二人いたことも、天武天皇と兄弟にされた天智天皇の系譜も古事記から推理できました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。不比等が隠したかったことを推理すると古代史の真相が分かってきました。

 

 

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巨大円墓は卑弥呼の一族和邇氏のもの( ^)o(^ )

2025-01-24 07:14:48 | 古代史

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#2025-01-25 07:14:48に記事にしましたが、先ほど別の記事を誤ってアップしてしまい一日一本のマイ・ルールに違反したので、便宜上前日2025-01-24 07:14:48の記事として登録させてください。申し訳ありません(^^;)

現在は奈良県奈良市の富雄丸山古墳(径110m)に抜かれましたが、つい最近までは全国一位の円墳でした。こうした巨大円墳を遮るものなく見ることができるのは実に貴重です。おそらく築かれた当時もこんな感じで人々は見たのではないでしょうか。埼玉古墳群は円墳より格上の前方後円墳が8基もあるなかで、唯一丸墓山古墳が円墳、しかも超巨大です。なぜなのでしょうか。そんなことを考えながら古墳公園を散策するのもよいのではないでしょうか。金錯銘鉄剣出土の稲荷山古墳と丸墓山古墳の位置関係図はブログにあります。こちらですhttps://kofunwodougademiru78.publog.j...

いい情報、有難うございます。 富雄丸山古墳よりも大きい円墳が3つも見つかっていますから、この古墳は全国5位になります。
 
3位は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の奥城(おくじょう)古墳(約120m)
2位は鳥栖市愛宕神社古墳(約140m)
1位は安心院町宮ノ原遺跡の三柱山古墳(約150m)
 
この墓が土を高く持っただけの百余歩の冢(ちょう)ですから卑弥呼の墓の有力候補です! 愛宕神社古墳は卑弥呼の弟赤坂比古(魏志倭人伝の掖邪拘)のものと推定しています。 奥城古墳は卑弥呼の父赤坂比古(魏志倭人伝の伊聲耆)のものと推定しています。現在ブドウ園の展望台になっています(*´Д`)
 
巨大円墳は弥生終末期から古墳時代初頭の和邇氏の祖のものです。天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が現在宗像氏の祖阿田賀田須命と宗像女神市杵島姫命とされていますが、元は赤坂比古が祭神だったので名前が残っています。和爾氏は縄文海人ムナカタ族の有力な氏族です(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ」参照)。*
 
4位の富雄丸山古墳は初代ヤマトの祭祀王応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が被葬者と推定しています。母は日触使主(ひふれのおみ)の娘宮主宅媛(みやぬしやかひめ)ですが、日触使主は卑弥呼の弟と推理しています。
 
近江八幡市日牟禮八幡宮で卑弥呼と共に祀られていました。裏山の八幡山は日触山といいます。藤原不比等が詣でて日群社(ひむれのもり)と社名を変えた歌が残っていますので、元は日蝕社(ひはえのもり)と推理しています。藤原氏によって祭神は隠され、卑弥呼は現在近江八幡市大嶋神社奥津嶋神社に遷されていますが、卑弥呼が日食によって暗殺されたことを示唆しています(詳細は「卑弥呼はいつ、どこで日食を見た?」参照)。
 
菟道稚郎子は、実は天皇(宇治天皇)に即位しており、仁徳天皇に暗殺されたと推理しています(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」参照)。


 
(左クリックで拡大)
 
丸は和邇氏を指し、丸山は和邇氏の円形墳墓という意味になります。4世紀前半の宇治天皇の時代に和邇氏は全国に広く展開して、各地の宗像神社・厳島神社などで市杵島姫卑弥呼を祀っています。神仏習合して弁財天としても祀られています。
 
丸墓山古墳は6世紀前半のものとありますで、5世紀末の稲荷山古墳の後の武烈天皇の時代で和邇氏の勢力が陰りを見せたころです。上で述べたように8世紀には藤原氏によって衰退し、春日氏・小野朝臣・粟田氏などに改姓させられています。家系図も相当改ざんされているようですので、被葬者は今のところ不明です。お邪魔しました(;^ω^)

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【刮目天の古代史】謎の古代史を科学的に解明する(#^.^#)

2025-01-23 11:48:24 | 古代史

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教科書では教えない...天皇家はどこから来たのか?

【茂木誠先生に聞くpart1】 シン・きー歴史沼チャンネル@YouTube


@katumoku10
とても興味ある話題を有難うございます。確かに古代史は文献も少なく謎だらけです。しかし古代史は妄想するしかないようにおっしゃっていますがそれは妄言ですよ。妄想というのは、事実ではないことに基づく想像、つまり空想に凝り固まって反論を受け付けない症状ですから、病気なのです。楽しい空想はいくらでもしていいのですが、間違いと分かればすぐに修正するのが正常な人間ですよ(#^.^#)

現在までに古代史に関連する事実、つまり考古学や民俗学などの成果は数多くありますので、そういう事実(証拠)に基づいて文献の信ぴょう性を調べる正しい文献批判が科学的な解明の第一段階です。従来の一次史料偏重主義は誤りなのです(^_-)-☆

次の段階はその文献の虚構の部分が明らかになれば、何故編纂者・著者がウソを書いたのかを追求すると、仮説が生まれます。その仮説をさらにいくつもの事実で検証すると、仮説を修正すべきであれば、修正し、同様に検証を繰り返すことによって、仮説の拡張や詳細化ができるようになります。このような事実に基づく科学的な手法はアブダクションと呼ばれる発見的な推論法として最近、様々な分野で成果を出してきていますので注目されるようになってきています。

この手法を古代史に適用すると、三世紀のヤマト王権の成立やその後の空白の四世紀・五世紀の倭の五王までの真相と思われるものが現れてきました。その過程で日本の歴史書で隠されたというか、別の名前で出ていましたが、卑弥呼の正体も邪馬台国の場所も判明しました。卑弥呼の径百余歩の冢を発見していますので有力な候補です。よろしければ、詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【古代史問題の科学的解決手法


@maomao96363
【訂正】12:58 気比神社の境内で祀られ、敦賀駅前に銅像が立っているのはツヌガアラシトです。敦賀の語源となった加羅(朝鮮南部)の王族で垂仁天皇の時に渡来し、崇神天皇のお名前ミマキイリヒトから「ミマナ」の名を賜り、加羅を「任那」と呼ぶようになったと『日本書紀』にあります。

アメノヒボコは同じ垂仁天皇の時に渡来した新羅王子で、但馬(たじま)国に定住しました。出石(いずし)神社の御祭神です。

@nihontaro9
訂正ありがとうございます😊

@katumoku10
応神天皇の名前はイザサワケ(気比大神、御食津大神)とは実際には交換はされていませんよ。

ツヌガアラシト、アメノヒボコの伝承は史実を誤魔化すために日本書紀で創作されたものなのですよ。
上で述べたとおり、古代史は事実に基づく科学的な推論によって解明できますよ。

御食津大神は出雲の熊野大社の祭神で、スサノヲの別名です。気比大神もツヌガアラシトもアメノヒボコも実在人物の応神天皇の先祖スサノヲを示唆しています。豊岡市気比の銅鐸出土地はスサノヲにゆかりの土地なのです。

スサノヲは宋史王年代紀第18代奴国王だったのです。

107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(本当は奴国宮廷楽師師升)によって殺され、倭国を奪われた史実がありました。記紀神話では乱暴者の神として描かれ、古事記は八百万の神に拷問されて、全財産を奪われた話としており、史実を暴露しています。

何故、拷問した?金印の在りかを白状させるためだったのです。しかしスサノヲ大王の部下がいち早く持ち出し、逃げる途中で志賀島に立ち寄り、土の中に隠したのです。それが江戸時代の百姓によってたまたま発見された本物ですよ。だから、師升は160人ものスサノヲの部下を奴隷として献上して倭国王に認められたのですよ(^_-)-☆

応神天皇の本当の父は、この反乱から逃げて出雲王となった王子イタケルの曽孫の、記紀神話で大国主とされたムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(高野御子、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社の祭神)です。記紀で、神功皇后に常に寄り添う三百歳の老臣武内宿禰とされています。住吉大社の「皇后は天皇のモガリで大神と夫婦のことをした」との伝承が史実を暴露していました(^_-)-☆

日本書紀の記事で、仲哀天皇はその父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、史実を隠すための杜撰な作り話だったのです。でも多くの方は記紀が天皇の歴史書という思い込みがあるので、いくつもの矛盾を無視します(*´Д`)

史実は247年の卑弥呼の死後に倭国王に立った狗奴国軍の大将(仲哀天皇とされた尾張王乎止与命ヲトヨノミコト)に不満だった久々遅彦が尾張王を討って、狗奴国を裏切って倭国王になったのです。久々遅彦は外交上、13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てて、日本の主要部を傘下にしたので記紀で大国主とされたのです。台与が応神天皇の母で神功皇后のモデルです。

(下の図は卑弥呼の死の直前の状況です)

 

その後、尾張王建稲種命が父の仇で九州に遠征し、苦難の末に大国主らを討って、その後東国遠征の途中駿河で戦死し、父の遺志を継いだ尾綱根命が日本全国を平定したのです(日本書紀の景行天皇の九州遠征、日本武尊の東国遠征の話とされています)。

しかし、280年に狗奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされます。狗奴国が西晋に朝貢していた大国主・台与を討ったので、西晋に追討されることを怖れた狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は二人の間の子ホムダワケを探し出し、狗奴国の王都(纏向遺跡)に呼び寄せて初代ヤマトの祭祀王にしたのです(崇神天皇紀の大田田根子の話)。邪馬台国の正統な後継者ということにして狗奴国(纏向遺跡)をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにしたと推理しました。

この三世紀末の史実を隠すために初代神武天皇の話を創作し、崇神天皇の四道軍遠征の話から応神天皇即位までの約350年間の話に引き延ばしていたことが、古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。長々と申し訳ありませんでした(;^ω^)

 

【関連記事】

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

何故、藤原不比等が史実を隠さねばならなかったかについてはこの記事をご参照ください(#^.^#)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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天香山のひみつ(#^.^#)

2025-01-21 23:39:18 | 古代史

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#持統天皇、百人一首の秘密?( ^)o(^ )(2024-12-17 )の記事に、いつも古典文学を教えていただいている新古今和歌集のjikan314様から持統天皇の歌に関して以下のようなとても勉強になるコメントを頂きました。ずっとお返事を考えていましたが、一応、分かった範囲で記事を作成しました。

持統天皇歌について
何時も拝見しております。先日は小生の愚問にお答え頂きありがとうございます。
持統天皇歌については、新古今和歌集歌なので、自説を申し上げます。
1 何時歌ったのか?
万葉学者は、明日香宮で歌ったとあるが、明日香宮からは、天の香具山は見えません。途中に、大伽藍の飛鳥寺、100mを越える五重塔があった大官寺があり、香久山はその寺院に遮られ見られない。
2 白妙
当時一般庶民が白い衣を着る事はなく、白妙とある以上、特別な衣装と言える。
3 衣干すてふ
時を支配する天皇が、山に洗濯物が干してあるから、夏が来たんだと宣言する自体可笑しな話。言霊信仰のある天皇が歌にする位、この洗濯が特別な物と考える方が自然。
4 洗濯の水
洗濯をするには、水が必要だが、香久山の西辺と北辺には池があったが、明日香側には池の存在が知られていない。
5 夏が来れば、次には田植
稲作の豊凶は、国を動かす程の重大な事柄であり、神に祈るしかない時代、神に献げる米を田植えする神田の五月女は、一定の期間、斎で身を清めた。それを香久山で行ったとすれば、神の山である香久山で衣を干しても可
笑しくない。
6 神事の準備
天皇が夏を宣言し、先祖神に今年の豊作を祈願する、その準備として、五月女達の白妙の衣を干したと考えれば、歌の意として不思議は無い

7 余談
藤原京の南北子午線は、天武天皇陵と同じなのは、知られているが、大極殿の位置は、もう一本の線が必要。
天武天皇が、持統天皇(鸕野讚良)の病気回復を願った元薬師寺と息子草壁皇子の陵がある点を結ぶ線の交差する点に大極殿跡があった。

Google earthで確認したが、問題は天武天皇陵が藤原京から見えない。もう少し高く造営しないと同じ子午線を測定できないと思う。これは、昔はもっと高く造営したが、後の洪水で土砂が流されたと考えた。根拠は、天武天皇陵の隣にある鬼の俎、鬼の雪隠。これは墳墓が土砂で流された物である。
素人の爺さんだが、何度も明日香を訪ね、推論した結果です。

天香久山が霊山と呼ばれるのは神武東征神話に拠るもののようですが、実は、日本書紀の中で史実に基づいてそれをかなり変形させて神話は作られています。その辺りを説明したいと思います。少しややこしい話で恐縮ですが、お付き合いください(#^.^#)

山の南側より Wiki「天香久山」

 

神武天皇が橿原の地に朝廷を開くために東征し、敵対勢力に押し返されたので、熊野を回ります。吉野に入ったところで「天香山の埴(はに)を取り、焼き物を作って、八百万の神をお祀りすれば、自ずと道が開かれる」と夢の中でお告げを受けて、その通りしたらお告げのとおり大和朝廷を開くことができたという故事が日本書紀にあるので、天皇家にとって特別な山なのです。埴(はに)は. 「きめの細かい黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料」とあります(weblio「埴」より)。

天香山は「あめのかぐやま」と呼ばれ、天香久山、天香具山とも書かれますが、「かぐ」というのは銅を意味する古言なのです。しかし、天香山が銅山だったという事実はないにもかかわらず、古事記、日本書紀、先代旧事本紀、古語拾遺に天香久山の銅などに関する記述があります。冨川ケイ子『「天香山」から銅が採れるか』によれば、これらの文献で詳しく解説されていますが、大和ではない天香山で銅が採れたとして北部九州などの銅を含む鉱山を、その候補地として挙げておられます。

しかし、ここでは大和盆地の銅の採れない「天香久山」が、なぜ「カグヤマ」とよばれたのかということが謎なのです。

日本書紀の岩戸隠れの段の第一の一書「即ち石凝姥を以て冶工たくみとして、天香山あめのかぐやまかねを採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴あめのはぶき(鹿の革で作ったふいご)に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり」とあります(wiki「日像鏡・日矛鏡」)。

例によって解明のヒントを与えてくれる古事記に「天安河之河上之天堅石を取り、天金山之鉄を取り而、鍛人(かぬち)天津麻羅を求メ而、伊斯許理度売命に科せて、鏡作ら令メ」つまり、天金山の鉄で鏡を伊斯許理度売命(イシコリドメ)に作らせたとあるのですが、石凝姥が作った日矛というのは鉄製武器のことではなく、日前神宮・國懸神宮和歌山市)の御神体のようです。八咫鏡三種の神器の一つ)に先立って作ったの日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)の後者のことではないかと考えられます。ややこしいですが、鉄も銅も金(かね)なのです。天金山の金(かね)は銅のことなので天金山も天香久山のことなのです。イシコリドメは、日本書紀は姥、古事記は売とあるので、青銅鏡を作る老女の神ということだと古事記は教えてくれています。

そうすると、イシコリドメは天香久山の埴(粘土)を鋳型として鏡を作ったということで、天香久山は鏡作りになくてはならない山ということです。ではどこで鏡を作ったかはイシコリドメがどこで祀られているのかを調べればいいということですね。

唐古・鍵遺跡の南約500mにある鏡作坐天照御魂神社です。祭神は天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)、石凝姥命天糠戸命(アメノヌカドノミコト)ですが、最初の一柱はニギハヤヒ大王のことで、三番目の祭神はイシコリドメの祖神とされています。しかし、これではニギハヤヒとの関係がよく分かりませんのでここまでです(*´Д`)。

しかし、天香山命という名の神を祀る神社があります。葛城市笛吹葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ、通称笛吹神社)です。火雷大神ともに祀られています。天香山命はニギハヤヒの子で尾張氏の祖なのです。別名「手栗彦命(たくりひこ)」または「高倉下命(たかくらじ)」とあり、神武東征で以下のような活躍をしています。

古事記』、『日本書紀』によれば、神武天皇とその軍は東征中、熊野で熊または悪神の毒気により倒れた。しかし、高倉下が剣をもたらすと覚醒したという。高倉下がこの剣を入手した経緯は次のようなものである。高倉下の夢の中で、天照大御神高木神が、葦原中国が騒がしいので建御雷神を遣わそうとしたところ、建御雷神は「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい」と述べ、高倉下に「この剣を高倉下の倉に落とし入れることにしよう。お前は朝目覚めたら、天津神の御子に献上しろ」と言った。そこで高倉下が目覚めて倉を調べたところ、はたして本当に倉の中に剣が置いてあったため、それを献上したのである。この剣は佐士布都神といい、甕布都神とも布都御魂ともいい、石上神宮に祀られている。wiki「高倉下」より)

日本書紀は天香久山で埴土を採ったイシコリドメという老女の神で誤魔化しましたが、その正体はどうもニギハヤヒの子の天香山命のことのようです。以下に説明します(^_-)-☆

建御雷神(タケミガズチ)は大国主の国譲り神話で経津主神(ふつぬしのかみ、物部氏の祖神)と共に活躍した神です。これは、史実を隠すために創られた神話です。つまり卑弥呼の死後に倭国王に立ったのが尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)で天香山命(高倉下命)の子孫なのです。日本書紀では九州に熊襲征伐に行って、住吉大神(大国主の祖神スサノヲ)の神託を疑ったために突然崩御した仲哀天皇の話になっています。つまり大国主久々遅彦らに討たれたので、父の敵討ちで建稲種命(タケイナダネノミコト)が九州遠征し、苦難の末に大国主らを討ち取ったと推理しました。日本書紀では景行天皇の九州遠征の話になっていますが、その遠征ルート上から尾張勢が好んで使う銅鏃が出土していたので分かりました(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)、民話の猿カニ合戦はこの史実から作られたものです(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照))。下の図は卑弥呼の死の直前の様子です。

 

そして、笛吹神社で祀られている火雷大神はその名のとおり、日本書紀では、軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ほむすび)と表記される火の神です。

神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死去。その後、怒ったイザナギに十拳剣天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺された。wiki「カグツチ」より)

大国主の祖神イザナギの剣が天之尾羽張ですから尾張氏を斬ったことを示唆していますから、神話のカグツチは大国主に討たれた尾張王乎止与命のことなのです。カグツチの血から八柱の神が産まれますが、その中に見られる建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)がタケミカズチですから父の仇討ちをした建稲種命のことなのです(^_-)-☆

笛吹神社の在る葛城地方は、日本書紀によると、神武天皇が高尾張邑(たかおわりむら)で葛の綱を結んで土蜘蛛を捕えたので、その邑を葛城と名づけたとあります。尾張氏ゆかりの土地と言うことになります。

尾張氏の故地は岡山市北区尾針神社だと分かります。祭神はニギハヤヒですが、『吉備温故秘録』は尾綱根命や日本武尊とする説を挙げているとwikiに在ります。日本武尊は建稲種命をモデルとした架空の英雄です。尾綱根命は建稲種命の子で、遠征の途中、駿河で戦死した父の遺志を継いで日本中を平定した建国の英雄だと考えています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。

尾針神社から天香山命の子孫(年代を考えると乎止与命の父か?が、狗奴国王卑弥弓呼(日本書紀の開化天皇)の纏向遺跡への遷都の時期に移住した場所が葛城の高尾張邑ということです。葛城地方の先住者の武内宿禰(年代的にスサノヲの孫の八束命)の子孫が鏡作りの技術者を抱える天香山命の子孫を呼び寄せたのです。さらに、当時の近江から東海地方を支配していた息長氏の祖(日本書紀で神功皇后のモデルとした台与の父息長宿禰王の一族)が乎止与命を呼び寄せて尾張に定住したと推理しています。「氷上姉子神社宮簀媛(乎止与命の娘、建稲種命の妹、ヤマトタケル妃)を祀っており、乎止与命の館跡という伝承がある」とありますので最初の根拠地としたようです(wiki「乎止与命」)。

尾張氏が支配する東海地方の集落からは鉄鏃はほとんど見られず、鏡作り職人が銅鏃を作って使用していたようです。尾張王は大国主の鉄のネットワークから外れていたようですので、両者は敵対関係になる素地があったようです(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

ということで霊山「天香山」は天香山命の子孫の尾張王乎止与命ゆかりの山なので、建稲種命が山頂に登り、大国主に討たれた亡き父を偲び、大国主への復讐を誓った故事を基にして日本書紀で天香山に関係する神話が創作されたものと推理できます。

そして持統天皇とされた鵜野讃良(うののさらら)は、ニギハヤヒ大王の末裔である父天智天皇から弘文天皇(大友皇子)に受け継がれた皇位を奪った、大国主と台与の子孫である天武天皇から奪い返したことになります。天香久山は大国主に討たれたカグツチ(天香久山の埴乎止与命に因む霊山ですから、鵜野讃良が、父の仇討ちで大国主とその妃の女王台与を討った尾張王建稲種命の故事を思い出して、この歌を歌ったものと推理できます。青空の下で風に揺れる山頂の白い衣は、台与をモデルとする天女の羽衣なのです。今の喜びに浸りながら遠い昔の尾張氏の敵討ちを思い出して、つい口からこぼれ落ちた歌なのでしょう(#^.^#)

 

 



ようやく、二年越しの宿題を終えた気分です。あ、天女の羽衣の話は関裕二さんから頂きました(;^ω^)

 

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