刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

誤解と幻想の古代史(*^▽^*)

2024-08-31 00:51:22 | 古代史
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#2020-09-08 20:24:26に公開しましたが、その後読み返して、新しい知見も入れて少しだけ改訂します。よろしければ、またお付き合いください(^_-)-☆

古代史解明の魅力って何だろうか?単に分かっていないからという人もいるのかも知れませんが、日本人のルーツ、つまり自分たちのご先祖がどのようにして伝統的な文化や国家を作り上げ、現代の日本人がどういう経過で出来上がったのかを知りたいという知的欲求が一番かもしれません。

自然現象相手の理系の仕事を長くしてきた刮目天が古代史の謎に挑戦したきっかけですが、多くの方が定説と考えていることや通説がどうも怪しいと気付いたからです。

ヤマト政権が成立するのは三世紀に突然現れた纏向遺跡の発掘で明らかにされています。その当時の日本(倭)のことが詳しく書かれた通称「魏志倭人伝」正しくは「三国志 巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝倭人伝」や、現存する日本最古の歴史書と言われる「古事記」の真の編纂目的が、東洋史家の岡田英弘先生の「日本史の誕生」によって分かったことがきっかけでした。後で本文中で述べますが、とても衝撃的で、目からうろこでした(注1)(2024.8.30 赤字追加)

多くの研究者は『「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国への行程記事を正しく解釈すればたどり着くはず』という思いから、いろいろと文章を解釈しているのですが、各人が正しいと考える解釈でも全体として方角や距離で矛盾点があり、一つの場所ではだれも納得しないのです。いわゆる九州説と畿内説やその他の説が乱立している実態があります。どうしてこんなことになっているのでしょうか?

この疑問は、何故、このような行程記事が書かれたのか? 行程記事のどこが怪しいのかを真面目に考えることで解けます。実際、多くの研究者が二・三百年も考えて答えが出ないことで、正しく解釈すれば正しい結果を導くということが間違いであることはすでに証明されているのです。人間というのは一度染みついた考えからは、自分の頭だけでは簡単に脱け出せない特徴があるようです(´・ω・`)

「魏志倭人伝」の邪馬台国は、帯方郡の東南方向に万二千余里で、魏のライバルである呉を、その東方海上から圧迫する位置に在ると書かれています。西晋の史官陳寿にとって一番書きたかったことは、そのような女王が統治する東夷の大国を、西晋の礎を作った魏の将軍司馬懿が味方にしたことでした。魏の戦略上、最大の功績だということで、司馬懿を称賛するのが「魏志倭人伝」の真の目的だったのです。

しかし、陳寿が行程記事などを勝手に創作したのではなく、元は司馬懿の命令で倭国を手なづけるために帯方郡に派遣した太守劉夏が倭国王難升米(伊都国男王)と談合して作って、最初の魏使梯儁(ていしゅん)の報告書に書き入れたのだと推理しました(「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ)。

つまり、邪馬台国への行程記事は倭国のことを知らない魏の宮廷の人々が納得できる程度のデタラメな行程記事だったから邪馬台国問題が解決しなかったのだと分かりました。ついでに人々の注目を集めるために、倭国を女王様が統治するエキゾチックな大国という設定で倭国の国々の戸数なども二人の談合で決めたことだと推理しました。だから、正始元年(240年)の梯儁が伊都国までしか行ってなかろうが、邪馬台国まで行っていようがいまいが、どこに上陸しようが、全く関係ない、まったくエレガントでない話なのです

恐らく陳寿は行程記事がデタラメと気づいたので、後世の歴史家を陳寿が想定した筑紫平野に誘導する内容としたと考えられます。例えば、安本美典先生は朝倉市平塚川添遺跡に卑弥呼が居て、糸島市平原王墓(14m×12mの方形墓)が卑弥呼の墓と推理されています。しかしそこは邪馬台国ではありません。魏志倭人伝の記述から卑弥呼の墓は径百余歩(直径約150ⅿ)の円墳です。平原王墓には卑弥呼の伝承はありません。平原王墓は記紀で神功皇后とされた女王台与の墓と推理しています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。(2024.8.30 追加)

こういう話ですから、行程記事は一旦脇に置いて、「魏志倭人伝」に書かれた魏と倭国の交渉記事や考古学や民俗学などの成果からヤマト王権の成立過程を推理することで、問題が解決できると考えたわけです。

その推論の内容は「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますが、その推論の結果、実は「魏志倭人伝」の記述と矛盾するので無視されて来た范曄「後漢書 巻八十五東夷列伝倭伝」の中に「女王国から東へ海を千余里(約450km)渡ると狗奴国に至る」という記事が正しかったと分かりました。また、狗奴国は考古学・民俗学などから纏向遺跡だと推理し、宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社が卑弥呼の宮室だと分かりました。日本最大の円墳宇佐市安心院町「三柱山古墳」を発見しました。その地には卑弥呼の時代の宮ノ原遺跡があり、卑弥呼に纏わる伝承や地名などがありますので最も有力な候補です。(2024.8.30 赤字追加)



つまり卑弥呼は戦乱期には物騒な宗像市付近の海に面した不弥(うみ)国から要害堅固な野麻(やま)国(宇佐市安心院町)に疎開してきた縄文海人ムナカタ族の姫巫女だということです。やま国に棲む女王(台)のクニが邪馬台国の意味でした。実際に多くの人々から邪馬台国と呼ばれたわけではなく、台(臺)の意味が分かるシナ人か倭国の王・大夫などの教養人しか分からないシナの歴史書にだけ登場する地名だと思います。

このような推理によって、日本建国時代の多くの謎も解明されるので、ここで行った日本建国のシナリオは大筋でほぼ間違いないと考えています(下の図、年表)。

従来、卑弥呼は倭国を統治する権力を持った女王様と考えられていましたが、

実は倭国王に太陽神の神託を告げる縄文海人族の姫巫女だったのですよ(誤解と幻想の卑弥呼)!



また712年に完成したと言われる「古事記」が実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が、古代の氏族名鑑「新撰姓氏録」で多氏の出自が低くされたことに反発し、すでに存在していた「原古事記」をもとに書き変えたものだとだ分かりました。残念ながら「原古事記」は残っていません。しかし、人長は「日本書紀」に基本的に倣って書いていますが、「日本書紀」に見られない部分は「原古事記」にあったのではないかと推理しました(古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4))。

さらに、前回述べたとおり、現存する日本最古の正史と言われる「日本書紀」が何故編纂されたか、その真の目的を関裕二さんによって知ったことも重要な点でした。「日本書紀」の内容は、史実を反映した部分はあるのですが、完成当時の権力者藤原不比等によって、真相を隠すために史実が隠蔽され、相当改ざんされているのです(「日本書紀」編纂の真の目的?)。

具体的には、編纂者が「魏志倭人伝」などを読んでいることは、神功皇后紀の中で四カ所引用されて、神功皇后が卑弥呼なのか台与かもしれないとわざと思わせる記事から分かります。つまり、意図的に歴史をねつ造しているということが分かります。また、中臣鎌足が中大兄を見出す場面などは藤原氏寄りの記述になっています。中大兄・鎌足らが乙巳の変で殺した蘇我入鹿は聖徳太子の子山背大兄一族を滅ぼした悪人だったとしました。だから聖徳太子が大聖人であればあるほど蘇我氏が大悪人になる構図だと関裕二さんが指摘しています。また、日向三代の神話は天皇家の先祖は近親相姦のワニの一族だと嘲笑し、さらに雄略天皇の悪行や武烈天皇に至っては言葉にできないほどの酷い話が書かれています。

このように「日本書紀」は天皇家さえ貶めるデタラメな内容で、

天皇家のための歴史書ではないのです。

随所で藤原氏にとって都合のよい歴史になっていることが分かります。


以上のことから「正史は正しい歴史だ」というのは思い込みでしかなく、

正史は『権力を維持するための、「かくあるべし」の理念で書かれた政治文書』なのだと分かります。


くどいようですが、大事なことですので再度書きますが、

すでになぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )で述べたように、

現在までの考古学の成果によってヤマト王権の成立過程を

十分に解き明かすことが出来るようになっていました。

ですから、「魏志倭人伝」に登場する倭国の人物に、

「日本書紀」や「古事記」や記紀神話に沿った神社伝承などから人物を類推し、あてはめて、

日本建国の真相をかなり明確にすることが出来ました。勿論、考古学などで検証しました。

記紀神話は民族が長い間伝えてきた民族の物語ではないのです。

上で述べた考古学などの成果を無視する神武東征などの神話は

真の日本建国の歴史を誤魔化すために藤原不比等が創作したフィクションだったです。

考古学や民俗学などの成果を無視して

「日本書紀」を素直に史実が投影された歴史と信じることは、

単なる空想でしかないということなのです。

邪馬台国畿内説も、神武東征説も、邪馬台国東遷説も、九州王朝説なども

すべて事実を無視したおとぎ話でしかないのです!


(注1)岡田先生は古事記偽書説を明快に述べておられますが、多くの研究者は、序文を書いたのは多人長だと認めているものの、本文はほとんどそのまま受け入れています。刮目天は日本書紀との相違点を見ていて、日本書紀で隠された史実を藤原氏に悟られることなく暴露するための暗号書だと分かりました。これを解くと、スサノヲが高天原を追放されるときの古事記の描写は、八百万の神々から拷問を受けて財産を没収されて追放されたと記されているので、王年代紀の記述がヒントになって奴国宮廷祭祀を司る師升らの反乱で殺されたと推理できました。拷問は師升が奴国王にすり替わるために金印の在りかを聞き出すためだと推理できます。しかし、スサノヲの部下のアズミ族がいち早く持ち出し志賀島に埋めたと分かりますから、スサノヲは殺され、160人もの捕虜にしたスサノヲの部下らを奴隷として後漢に差し出し、倭国王として認めてもらうために朝貢した史実を暴露したと推理できました。その他にも、古事記の崩年干支が日本書紀と大きく異なる部分があることから、空白の四世紀に隠された二人の天皇の存在と倭の五王の系譜が分かりました。それによって昨年大きな話題になった富雄丸山古墳の被葬者も推理できました(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)







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【学校で習わなかった真実】正史とは何か?(@_@)

2024-08-28 20:57:38 | 古代史
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#学校で習った方もいるかもしれませんが、古今東西の権力者はウソをつく生き物だと考えていいと思います。日本の社会制度は、現状を考えると異様なまでに性善説ですが、戦前のしっかりした道徳教育を受けた方々が生きていた時代に作られたからでしょう。

もともと、倭人は「支配者に従順な人々」という意味です。倭人の支配者の呉王は徳を大事にする王でした(司馬遷「史記 呉太伯 世家」参照)。(2024.8.29 赤字追加)

しかし、後世のそうでない権力者にとって日本人は扱い易い人々なのです。そういう権力者に都合の好いウソをつかせない仕組みを日本国民は持つ必要があります。

本来は日本国民の味方であるべきジャーナリズム・マスメディアそして真実を探求する学者の使命なのですが、かなりの部分が国民を裏切り、権力者や外国勢力にすり寄り、堕落しているように見えます。それに気づかない多くの国民は「陰謀論」などのプロパガンダで言論統制されて騙されます。(2024.8.29 赤字追加)

民主主義を護る最後の砦は「言論の自由」です。これを悪い権力者らに奪われると日本国民は、「基本的人権」を持たない人民やその下の家畜に成り下がります。古代史ロマンとは程遠い、嫌なことを考えたくないかもしれませんが、みんなが政治・経済や歴史の真実に無関心だと子供や孫の人生が地獄になりますので、現実的な視点で世の中を考えながら古代史の真相を探求をしています。(2024.8.29 赤字追加)
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【ゆっくり解説 】邪馬台国は本当に存在したのか
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube


多くの皆さんは正史というものを思い違いしていますよ。三国志や日本書紀は何のために編纂されたのか?真実を後世に残したいからと考えるのは多分、多くの現代日本人でしょう。

権力者が正史を残す目的はこれしかありません。権力の正統性つまり、権力を維持することを正当化するためです。ですから、権力者にとって不都合な史実は隠され、歴史は改ざんされると考えていいと思います。シナでは三国志があまりにも権力者寄りの歴史書だったので、同時代史はよくないということを理解して何代も後の王朝で編纂事業が行われるようになったのです。

ところが日本の場合は、日本書紀が完成してからずっと単一王朝ですから実権を握っていた藤原氏が作った歴史書にはウソがあると考えるべきなのです。日本書紀は天皇の歴史書ではないことは、そういう目で見ればすぐに気づきます。天皇の歴史書だったらその子孫が祖先のスキャンダルを面白おかしく書き残すなどあり得ません。特に、荒唐無稽な話はウソだとすぐわかる場合もありますが、そうでない場合にどうやってウソを見抜くか?

それは簡単です。書かれてある内容が事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致するかどうか調べればいいのです。

そしてここからが重要なのですが、多くの方はウソが書かれていると分かるともう文献自体の存在を無視するから謎のままなのです。権力者が何故ウソをついてまで隠したのかを探求すると真相が見えてきます。

これを科学的に解明する方法があります。ウソの理由の仮説を、一連の事実で検証するアブダクションという推論手法を19世紀末から20世紀初頭に活躍した米国の論理学者で哲学者で化学者のC.S.パースが提唱しています。それを古代史へ応用すれば、古代史の真相らしきものが見えてきて、多くの謎が解明できました。

よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も判明していますよ(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

C.S.パース


【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆
倭国大乱の痕跡を見つけましたので、そこから推理すると、日本書紀が隠した卑弥呼の正体は宗像女神市杵島姫だと分かりました。宇佐八幡神宮の比売大神、厳島神社の祭神で、神仏習合して弁財天で祀られていますよ。4世紀から6世紀に力を持った和爾氏の祖ですので世界遺産になった沖ノ島で祭祀が行われていますし、日本全国各地で卑弥呼が祀られています。

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼の記事を集めました。知りたいことがまだありましたらコメントください(^_-)-☆

江島神社ー日本三代弁財天 ホームページより)


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え?渡来系弥生人のルーツが南遼河人?(@_@)

2024-08-27 21:29:06 | 古代史
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#弥生人のルーツについて、例の古墳人の金沢大学グループの研究成果でも標記のようなことを結論にしていたようです(弥生人は縄文祖先60%、北東アジア祖先40%)。下の動画ではその結果を詳しく説明されていますが、最後まで動画を見ると、その可能性はあるものの、長江河口の北岸当たりのグループが可能性は高いとはおっしゃっていましたよ。安心しました(#^.^#)

弥生人の起源は南遼河?【日本人のルーツシリーズ】
みどりTV@YouTube


いい話題をありがとうございます。
遼河人との交流は縄文時代中期からですよ(#^.^#)
三内丸山遺跡は西遼河人の可能性がありますし、日本のヘビ信仰も遼河人の影響です。
多分縄文人が運んできたのだと思います。
隠岐の黒曜石が沿海州や半島北部などで見つかっていますから、縄文海人が丸木舟で交易した証拠です。
ついでに嫁さんも日本に連れて来たので、mtDNAは多様になっていますよ。
詳しくは「刮目天の古代史 【分かった!】日本人の形成過程!(^_-)-☆」をご参照ください(#^.^#)

ちなみにO-47zが江南の倭人ですよ。
それを除くO1b2が半島の現代男性の1/3ですが、箕子朝鮮の人々で、殷(商)人系です。
詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆」をご参照ください。
たびたび、お邪魔してスイマセン(;^ω^)

@MIDORI-TV603
三内丸山と遼河文明の円筒土器文化圏は知っています。
青森にYハプロN系統が帰化したようで、青森はN系統が多いですね。
でも、弥生時代は人数が渡来人の多いのと、別経路で遼河文明と交流していたと思うので、別にしています。


@MIDORI-TV603 さん お返事ありがとう(#^.^#)
確かに弥生時代になって縄文人以外のいわゆる渡来人が、縄文時代よりもはるかに多い人数なのは事実でしょうが、ほとんどが倭人と呼ばれる現代日本人のルーツの人々ですよ。
現代男性の中の縄文人系は40%程度で、倭人系(O-47z)は25%程度ですが、核遺伝子は逆転していて縄文人の遺伝子はかなり少なくなっているようです。
それからBC219年に奴国王が招へいした徐福の一行から、その後かなりの数のシナ人系が繁殖して18%くらいになります。

ですから、渡来人というのは余り適切な用語ではないと思っています。
というのも古墳時代初頭頃までに彼らの文化を継承した日本人が形成されたようですから、彼らは全て日本人の祖先なのです。
弥生時代にやって来た遼河人はわずかだと思いますがどうでしょうか?
Y-DNA解析の結果から斎藤成也教授提唱の日本人形成過程の三段階モデルを説明できますよ。
詳しくは拙ブログをご覧ください(;^ω^)

【関連記事】
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆
斎藤成也教授の三段階モデルにY-DNAによる解析結果を当てはめてみたところ日本人がどのようにして成立したかが判明しています。ご意見やコメントがありましたらよろしくお願いいたします(;^ω^)

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆


日本民族の父系のルーツと地域性について!


【刮目天の古代史】倭人とは?(^_-)-☆

古代日本は海人国家だった(^_-)-☆
江南をルーツとする海人アズミ族のクニ
( 黒字:宮地直一、青字:大場磐雄 による)
①筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社
②壱岐・対馬 和多都美神社
③豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫  
 大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣

⑤隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
⑥伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷
 西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土
丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土
⑨播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足
⑩讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
⑪阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、
和多都美豊玉比賣神社、海部郡
⑫淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
⑬摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
⑭河内国 阿曇連等の地
⑮山城国 阿曇宿禰等の地
⑯近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
⑰美濃国 厚見郡、厚見郷
⑱三河国 渥美郡、渥美郷
⑲信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
⑳信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥
以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、
周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという
「安曇氏の経歴と分布」より引用)


古墳人って何なのさ?(;´Д`)
最新の遺伝子解析も、歴史学の知見がないとダメですよ(;´Д`)
(2021年9月21日 金沢大学 > 研究トピック > パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造 より)


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漢字は弥生時代からだった(^^♪

2024-08-26 20:00:25 | 古代史
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【海外の反応】「古代の日本人は文字すらも使えない」日本が文字を使えるのは中国のおかげだと主張する中国人が真実を知り大発狂!古代日本にあった漢字より古い文字の真実とは
JAPANの衝撃@YouTube


とても勉強になる話をありがとうございます。
中国という国名ですが、ほとんどの方は誤解しています。中共のことではないのです。「なかつくに」の意味なのです。世界の真ん中の国という意味でもありません。中はナーガ、つまり龍蛇神なのです。

日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武高木遺跡にありますが、三代の王と王族が葬られています。一つの王墓には三種の神器に対応する鏡・剣・玉が揃って副葬されています。



新唐書日本伝あるいは宋史日本国に記載された10世紀の東大寺の僧が献上した王年代紀に初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊から二十三代の王が筑紫日向宮にいて、最後の王の四男神武天皇が大和橿原宮に遷都したことが記されています。

ですからこの王墓がご皇室の祖先のものなのです。天(あめ)は海を意味し、天御中主は龍蛇神(奴=ナーガ)を信奉する海人族の王という意味なのです。ナーガに因む地名は那珂、那賀、長柄、中山などなど、列島各地に見られますが、弥生時代に入植した江南の倭人が拓いた土地なのです。

天御中主は記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされています。高天原は北部九州の倭国でした。倭国を支配したのが歴代の奴国王だったのです。王年代紀によってシナ人が「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と認めたので、正式に日本という国号がシナに正しく認知されたのです。

この奴国は西暦57年に後漢光武帝より「漢委奴国王」という金印を賜っていますが、鈕(印のツマミ)が蛇あるいは蛟(みずち)を象ったものですので、日本民族のシンボルなのです。

ということで、天御中主は春秋時代紀元前473年に越に滅ぼされた呉の王族だったのです。倭人に助けられて半島南部で王国を作っていたのですが、恐らく寒冷化の影響で福岡市早良平野に遷都したのです。さらにそこが手狭になったので4代王天爾聞尊(ににぎのみこと)に祖父の村雲尊が周囲の糸島平野・福岡平野を平定するようにレガリヤである三種の神器を持たせて命じた故事が、8世紀に作られた日本書紀の天孫降臨神話のもとになった史実なのです(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)」参照)

ついでに申し上げると、上の話でお分かりかと思いますが、日本書紀は天皇の歴史書ではなく完成当時の権力者藤原不比等によって創作された勝者の歴史書だったのです。古代史に謎が多いのは文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果との不整合が理由だったのです(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」参照)

このことを理解すると謎の古代史、天皇の起源、邪馬台国の卑弥呼などなどほとんどの謎が解明できます。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください。ちなみに中国神話も今のシナ人のものではなく、長江文明の担い手だった倭人たちのものなのです。今上天皇は人類の始祖神である天皇伏羲の末裔となります。詳細は「刮目天の古代史 中国神話は日本人の神話だった?」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)

スイマセン。肝心なことを忘れていました。

日本書紀では4世紀の応神天皇の時代に百済から漢字が伝わったとあるので騙されています。弥生中期から、特に北部九州で出土した砥石だと思われていたものが硯の破片であることが最近知られるようになりました。弥生後期の福岡市雀居遺跡では木製の組み机が一式出土していますし、糸島市では竹簡などを入れる赤漆塗円筒の一部も発見されていました。




倭の奴国王が金印を賜っているのは、列島がシルクロードの東端として位置づけられて、倭の珍しい品々を求めてやって来る楽浪郡などからの華僑の取引を奴国王に保護してもらう目的なのです。ですから、倭国王や側近は当然漢字を使用していたのです。

さらに、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の正体は奴国の宮廷祭祀を司る司祭師升でした。最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったのです。1950年代に室見川河口で発見された室見川銘板には師升が司祭王であることが分かる内容の金文が彫られています。詳しくは「【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆」の中の特集<倭王帥升の謎>をご参照ください。

倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)

よろしければどうぞ(#^.^#)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)

紀元前3200年に興った長江文明のひとつ良渚文化(りょうしょぶんか)が紀元前2200年頃突然消えました。洪水伝承があり、生き残った伏羲と女媧の二人が人類を創ったという伝説です。その末裔の禹が黄河中流域で夏王朝を建て、その末裔の古公亶父(ここうたんぽ)が、周初代武王の曾祖父です。長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)が長江下流域で呉を興し、倭人の王となりました。紀元前473年に呉王夫差が越に敗れて自害しました。呉王族の一部が半島南部に逃れ、紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に降り立った天御中主です。天皇陛下の先祖です(^_-)-☆

(左クリックで拡大)


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古代ロマンあふれるガラスの王国の謎(^_-)-☆

2024-08-25 14:10:38 | 古代史
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#とてもいい動画を見つけましたのでいつものようにコメントしましたら、Up主様からいいお返事を頂きました。是非、この動画をご覧ください。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)


海の京都、丹後には卑弥呼の生きた弥生時代の遺跡がたくさん見つかっています。
その中には、巨大な王墓と思われる墳墓や、大量のガラスと鉄、玉つくり工房の跡など、古代史において大変重要なものがたくさん発見されています。

古代丹後には、玉つくりや製鉄に関する高度な技術を持ち、ガラスや鉄を豊富に持っていた”ガラスの王国”が存在していたのかも知れません。

しかし、それらを示す遺跡は、調査が途中で打ち切られたりしていて、詳細はわかっていません。邪馬台国論争で有名な北部九州や奈良県、吉備や出雲にも匹敵する場所だと思うのですが、なぜかあまり触れられることがありません。

古代丹後には、古代史を書き換えてしまう何かが隠されているのでしょうか。そんなロマンを掻き立てます。

今回はそんな古代ロマンをテーマに、丹後の古代遺跡を訪ねた動画をまとめてみました。
ぜひ古代丹後のロマンを感じていただき、実際に現地を訪れてみてください。


とても素晴らしい動画、感謝します。とても参考になりました。
古代史を探求していて最近、分かったのですが、出雲・丹後王国の三代の王が日本建国の立役者だったのです。

赤坂今井墳丘墓の1号墓は2世紀末の倭国大乱の英雄の日高彦(豊岡市久久比神社祭神久久遅彦、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、ムナカタ海人族を束ねる王の襲名)だと推理しています。
右腕の玄界灘を支配していたムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)が遺体を菊池川付近から運び、葬ったと推理しています。
そしてガラスの豪華な頭飾りの4号墳は妃の刺国若比売で、大国主高野御子(日高彦の御子の隠語)の母親だと分かりました。

よろしければ詳細は「刮目天の古代史」をご参照ください。次の動画もこれから探して拝見させてください。有難うございました(;^ω^)

@nacretango
ご視聴コメントありがとうございます!
そして大変興味深いお話もありがとうございます!
久久比神社はよく行くのでまた調べてみます!


@nacretango さん いいお返事ありがとうございます。お気に入りもうれしい(^^♪
今年の6月に行ってきました。豊岡市や丹後半島は奴国大王スサノヲのゆかりの地なのです。
倭国東北一千里のタバナ国出身の新羅脱解王はスサノヲをモデルにしたものですよ(^_-)-☆
久久比神社の祭神久久遅命は棟上げ式の祭神ですので木の霊イタケル、つまりスサノヲの子ですからスサノヲ大王の子孫です。
魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗のことなのです。
日本書紀は勝者藤原氏の歴史書だと分かれば、芋づる式に謎が解けてきます。
よろしければ拙ブログに疑問点など教えて下さい。有難うございました(#^.^#)

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10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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