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サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?

2021-08-22 00:00:29 | 古代史
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日本の民話サル・カニ合戦を聞いたことない日本人はいないと思います。子供の頃の絵本の記憶では、カニが持っていたおにぎりが欲しいサルが柿の種と交換しました。カニは早速、種を植えて「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃハサミでちょん切るぞ!」と言いながら毎日世話をしました。とうとう柿の木が成長して、柿の実がたくさん成りましたが、カニは木に登れません。そこにサルがやって来て、おれが採ってやると木に登り、自分だけむしゃむしゃ食べて、カニにはひとつもくれません。カニがしきりに催促すると、サルは固い柿をカニに投げつけたので、カニは死んでしまいました。それを聞いた子ガニたちが、サルにかたき討ちをする話です。仲間に加わったクリや臼やハチや牛糞たちが作戦を立てて、にっくきサルを退治しました。


この話に登場するサルは狡猾なやつで、カニの成果を横取りして、おまけにカニを殺してしまったのでカニの子供たちが仲間と一緒にサルに仕返しする話ですが、日本建国の真相を暴露しているようです。

サルは誰?そうです、そうです、示すへんに申(サル)で「神」ですからサルタヒコ。その正体は大国主のことです

そうすると、カニは誰?

倭国を追討する軍を率いてヤマトの狗奴国から北部九州にやって来た尾張王です。247年3月24日に北部九州で起こった日食のために卑弥呼が倭国王難升米に殺されました。そのため卑弥呼のムナカタ族(和邇氏の祖)は狗奴国軍に降参してしまい、倭国王が逃亡してしまったので、尾張王は狗奴国王を裏切って倭国王に立ちました。それに反発した狗古智卑狗(久々遅彦)らと内戦になり、狗古智卑狗が尾張王を殺し、狗古智卑狗も結局狗奴国王を裏切り、九州・四国・山陰・北陸などを支配する大国主になってしまいました。



そのために殺された尾張王の子供らが狗奴国王と一緒に、かたきの大国主狗古智卑狗(久々遅彦)を殺し、狗奴国ヤマトが大国主の倭国を滅ぼして日本を建国する史実とサル・カニ合戦の話が一致するということです。


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ですから、殺された尾張王がカニです。記紀では住吉大神(正体は武内宿禰、つまり大国主)の神託を疑い突然崩御した仲哀天皇(尾張王乎止与命:おとよのみこと)です。サルは前述のとおり大国主狗古智卑狗(久々遅彦)です。カニの子が、記紀では仲哀天皇の祖父となっていますが景行天皇(尾張王建稲種命:たけいなだねのみこと)で、天皇の九州遠征が、古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況と一致します。

何故、尾張勢がカニなのか調べると、名古屋市の西に海部郡蟹江町がありました(注1)。

『「かにえ」という地名が始めて文献に登場するのは、1215年(建保3年)、「水野家文書」中のこと。その頃の蟹江は一面を海で囲まれ、「蟹江郷」、「富吉荘」などと呼ばれていました。海辺に柳が茂り、多くの蟹が棲息していたことから、「かにえ」と呼ばれるようになったと伝えられます。』「かにえの歴史」より)

海部(あまべ)氏が尾張で開発した土地です。京都府宮津市に鎮座する籠神社(このじんじゃ)の社家、海部氏に伝わる系図があり、海部氏の祖は彦火明命です。「先代旧事本紀」の尾張氏の祖である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)と同じ人物ニギハヤヒ大王です。尾張王が海部氏を配下にしていたと考えられます。尾張と言えばシャチホコではなく、その昔はカニなんですね(^_-)-☆

そして、カニの子供の助太刀したクリ・臼・ハチ・牛糞ですが、桃太郎の家来が、イヌ・サル・キジではなく、地元吉備ではドングリ・臼・ハチ・牛糞などという説があるそうですから、ビックリ仰天です(【参考資料】)。

桃太郎の元ネタは吉備津彦の話ですが、真相はヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒの吉備平定の話でした。ですから、サル・カニ合戦は、大国主久々遅彦に殺された尾張王乎止与命(仲哀天皇)の敵(かたき)を、跡を継いだ尾張王建稲種命(景行天皇)に、同じニギハヤヒ大王の直系の狗奴国大王(崇神天皇)率いる物部一族が助太刀したという史実を民話にしたということでした。民話にはどこかに史実が隠されていますから、古代史解明のいいヒントですね( ^)o(^ )

【参考資料】

桃太郎
 岡山県には「横着者--寝太郎型」と「鬼退治型」の桃太郎があります。備中地方には 吉備団子を半分しか分けてやらない桃太郎の話もあります。(これは食料を共有し、同志 として戦うという意味がある?) 前回紹介した「桃の子太郎」は「横着者--寝太郎型」で、 この桃太郎は「鬼退治型」です。  ただ、お供が「猿・キジ・犬」ではなく 「臼・牛糞・蜂・カニ・鉄砲玉」です。これは全国に わたって採集例があり、「猿かに合戦」によく似ています。互いに影響しあって流布され たものでしょう。 江戸時代の「赤本」で現在の桃太郎が普及しすぎたため、本来の桃太 郎の姿が見えにくくなってきていると言えましょう。
 倉敷市の秋岡 栄さんが97歳の時に、このお話を語ってく ださっていますが、これは4・5歳の時80歳の祖母から聞かされたそうです。
 採話された稲田和子先生からテープをお借りして文字に起こしました。
つづきはこのページでご覧ください(*^-^*)

【関連記事】
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)
「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!
古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆

(注1)現在の名古屋市のほぼ全域にカニが生息していますので、古代では、尾張氏の居館にも国中夥しい数のカニが居たと考えられます。したがって、この話ができた当時、カニが尾張氏の代名詞になっていたのだと思います。

抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!


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【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)

2021-08-14 17:07:04 | 古代史
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前回、日本建国の謎を解くキーパーソン倭国王難升米(「なしょみ」がいいかも)の一生を見ましたが、今回は、帯方郡から使いとして難升米王に詔書と黄幢(魏の正規軍の軍旗)を届けに来た、難升米王の運命を決めた人物のひとりである張政について見て行きます。

張政は、塞の曹掾史という役職と「魏志倭人伝」にあります。「国境守備の属官」と藤堂らが解説していますから下級役人です(「倭国伝」講談社学術文庫2010、p.113)。しかし、帯方郡に新しい太守王頎(おうき)が着任し、その挨拶と狗奴国との戦況報告で来た倭国の使者たちに預けず、倭国に魏を代表する大使として張政を派遣して、重要な品々を届けさせたので、張政はかなり評価の高い人物だったようですが、本当に有能な人物でしたね

張政は倭国王に「檄を作りて之を告喩せしむ」と「魏志倭人伝」にありますから、魏の皇帝が黄幢を与え、後ろ盾になっているから安心して狗奴国と戦えというお触れを出したということでしょう。

しかし、「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」とあり、すでに卑弥呼は亡くなっていました。そして、「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」とあるとおり男王が立ったのが皆不服で、殺し合いになり千人余りが亡くなったとあります。

ここで、この男王を難升米王と見る方がいるかもしれませんが、もしも狗奴国勢が倭国に押し寄せていなければ、すでに卑弥呼の政治を輔佐する男弟が王に立っても誰も不服に思うはずありません。狗奴国勢が到着して倭国勢と戦闘になって倭国が勝ったと考えるならば、戦闘に勝利した倭国王が称えられるはずで、「國中服さず」という表現は当たりません。いずれにしろ卑弥呼の後に立った男王は難升米王ではあり得ません。

次に来る「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」という説明から考えると、狗奴国勢はすでに難升米王の倭国を蹴散らして、狗奴国軍の大将が男王、つまり倭国王に立ったので、纏向の狗奴国王卑弥弓呼を裏切ったことにより、部下たちから不満が出て、内部で争いになったと考えるのが自然です。

そしてこの戦いに勝利して、死んだ卑弥呼の後釜の倭国女王を立てて争いを収めたというのですから、これはこの内戦の勝者が狗奴国大王を裏切って魏を後ろ盾にしたと分かります。

そしてその女王が子供だということですから、実質的な王はこの戦いの勝者です。台与は卑弥呼と同族だというのです。すでに卑弥呼は玄界灘を支配するムナカタ海人族(和邇氏の祖)の姫巫女(宗像三女神の市杵島姫)と推理しています。なので、台与は日本海沿岸を支配するムナカタ海人族の姫巫女ということです。代々ムナカタ族に王とされていたスサノヲ大王直系の狗古智卑狗(久々遅彦)が内戦の勝者だったと分かります。「魏志倭人伝」で狗奴国の官として、卑弥弓呼王よりも先に登場する、狗奴国の有力者です。

これによって久々遅彦(狗古智卑狗)は卑弥呼の版図であった九州・四国・中国西部を加えて山陰から北陸まで支配する王になり、さらにその後も紀伊半島沿岸部や静岡県・長野県や関東各県など列島の大部分を支配することになったので(【検証19】日本建国のための戦いだ!」)、後世に大国主命と呼ばれて各地で祀られています。下の図は纏向の狗奴国が大国主の版図を武力で奪った証拠です。記紀では景行天皇・日本武尊(ヤマトタケル)や崇神紀の四道将軍の話に対応します。神代では大国主の国譲りという神話を創作して藤原氏の遠祖建御雷神(タケミカズチ)を活躍させました。(2021.8.20 青字追加)

(左クリックで拡大)

ということで、「政等以檄告喩壹與」ですから、張政は勝者の大国主久々遅彦に魏を後ろ盾にするように説得して、台与を女王と立てたと推理できます。もしも、久々遅彦が、狗奴国大王を裏切らなかったとしたら、倭国は魏と敵対することになったはずです。東夷の果ての倭国の、それと敵対する狗奴国との抗争に対してわざわざ魏が詔書と黄幢を持たせて使者を送ったその背景には、曹魏と敵対する孫呉が狗奴国の後ろ盾になっていた可能性も考えられます。(注1)

ですから、倭国が曹魏を裏切らないように工作した張政の功績は曹魏(実質上、司馬懿)が賞賛すべきものでしょう。その後「魏志倭人伝」では「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」と締めくくられています。掖邪狗(ややく)は、正始四年(243年)に魏に派遣され、生口や倭の錦などを献上して、難升米王と同格の率善中郎将と印綬を授けられた人物です。倭国王が大国主に代わっても要職に就いていますので、掖邪拘はムナカタの族長で和邇氏の祖の阿田賀田須命(アタカタスミ)ではないかと推理しています。

張政は掖邪拘らに帯方郡に送り届けてもらったとありますが、この記事に年号が書かれていないので、明確には分かりませんが、正始八年(247年)に次々起こった混乱が収まってからのはずです。その時の献上品から見ると、後漢の時代から倭国が贈ったもので最高の品々です。取り敢えず急いで朝貢するには豪華すぎます。大国主が狗奴国を裏切ると決断して魏を後ろ盾にしたばかりですから、ある程度落ち着くまで張政は帰国できないはずです。ですから、張政は帯方郡太守には使いを送って状況を報告し、倭国の状況は司馬懿の耳に入って、司馬懿としては張政を倭国に留めて、その活躍に期待したのだと考えられます。

さて、そこでその推理を裏付ける証拠が帯方郡址と考えられる黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で見つかっています。図のような帯方郡太守張撫夷墓と銘が塼に記されたレンガ造りの立派な墓です。太歳戊申と年号が書かれており、288年ということになります。干支ですから60年ごとに戊申の年が来ますので、348年とも考えられますが、帯方郡は204年に公孫氏が設置してから313年で終わっています。墓の型式編年とも矛盾しないと報告されていますので288年で良いようです。(注2)

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黄海道安岳郡龍順面の安岳三号墳の墓誌に「護撫夷校尉」と書かれたものが見られ、撫夷は韓を含む東夷を担当する武官の職名とも考えられますが、東晋穆(ぼく)帝の永和十三年(357年)のものです(斎藤忠「古代朝鮮文化と日本」東京大学出版会. 1981、p.28)。

ですから撫夷が一般的な官職であると考えると帯方郡太守張撫夷は帯方郡太守と同じ意味合いの東夷を担当する者ということになりますから、撫夷とわざわざ記すには特別な理由があると思います。つまり、正始八年(247)に派遣された塞曹掾史張政が東夷の大国であった倭国で、上に述べた顕著な功績を揚げたことを記念して撫夷という字(あざな、成人して実名のほかにつける別名)を自ら名乗ったと考えるのが自然です。その後の東晋でも、東夷の統治で功績を揚げた張政の事績から撫夷校尉という官職名にしたものではないかと考えます。

さらに、塼で見られた張使君ですが、(注2)に紹介された字(あざな)とする説や西谷正先生の訳にある尊称とする説もありますが、国から詔書と黄幢を持って倭国に派遣された「大使」という意味が張政にピッタリです。

下級役人であった張政がその後も魏少帝(事実上は司馬懿)の命を受けて倭国に、一旦帯方郡に帰還した後も、官職は分かりませんが度々大使として派遣されて滞在したと考えられます。あるいは、そのまま倭国に大使として滞在して、大国主の倭国の対外政策を監督したとも考えられます。

265年に司馬懿の孫司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、その挨拶のために女王台与が翌266年朝貢した際に、掖邪拘に張政を帯方郡まで送らせたのかも知れません。というのも、献上したものが、前述どおり前例のない豪華なものなのです。青大句珠は青い大きな勾玉ですから、「隋書 倭伝」に記された『如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也と』とある魚の眼精(まなこ)と呼ばれる珍しい宝石を思い起こさせます。(注3)台与のこの献上品によって倭国は珍しい宝石の島という評判が立ったと考えられます(王勇「中国史のなかの日本像 」農山漁村文化協会2000) 。

張撫夷に話を戻して、西晋武帝司馬炎の晩年ですが、288年頃に張使君の長年の功績が認められてようやく帯方郡太守に出世したので、河北省の漁陽郡の父母の遺骨を移し、自分もこの墓に入るために立派なレンガ造りの墓を造ったのではないかと考えられます。247年に倭国に最初に派遣されたときに三十歳くらいだとすれば四十年後ですから七十歳くらいです。もう少し若かったのかも知れませんが、かなり優れた人物ですよね。

【参考記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




(注1)孫呉の紀年銘の鏡が二面あります。山梨県鳥居原古墳の赤烏元年(238)銘の画文帯神獣鏡と、兵庫県宝塚市安倉遺跡の赤烏七年(244)銘鏡です。狗奴国が孫呉を後ろ盾としていたので、曹魏の正規軍旗を倭国王に授けたと考えられます。

(注2)竹谷俊夫「張撫夷墓塼の観察所見」(「王権と武器と信仰」同成社2008,p.488)の(20)に以下のとおり記述されている。
町田章1979「帯方太守張撫夷墓」世界考古辞典(上)平凡社655頁
出土した銘文塼から「・・・墓主は中国河北省蜜雲県(漁陽)出身で、張撫夷(字は使君)といい、帯方太守であったことがわかる。戊申の歳は、西晋の大康9年(288)にあたり、墓の型式編年とも矛盾しない。この墓の存在は、同じ文井面にある唐土城を帯方郡治址とする有力な根拠になっている」と述べている。
有光教一 1959「帯方郡遺跡」『図解考古辞典』平凡社 609頁 


(注3)「隋書 倭伝」ではその前に阿蘇山が紹介されているので、阿蘇で採れる青ガラスの勾玉という解釈もありますが、台与は越(こし)を支配するムナカタ海人族ですので、糸魚川でしか取れない青ヒスイと考えるのが良いようです。


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【検証22】難升米という人物は?(その3)

2021-08-08 00:00:12 | 古代史
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倭国への追討軍が大和を出たとの情報が難升米王の耳に入った時期だと思いますが、247年3月24日に北部九州で日食が起こりました。北九州市は皆既日食が見られました。難升米王の伊都国では部分食ですので、完全に暗くはなりませんが、日没前でしたので、太陽が相当欠けながら海に沈んで行ったのを目撃したと思われます(伊都国では最大食分99%)。昼間の皆既日食であれば、真っ暗になっても時間と共に明るさが戻りますが、日没帯食では翌朝に再び太陽が昇るのか不安になるはずです。難升米王は不吉なことが起こる前兆と捉え、太陽が欠けるのは卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたためだと考えたようです。不吉なことを避けるためにムナカタ族に気付かれずに、すぐに卑弥呼を暗殺するよう指令したと推理しました。当時の倭人は、貴人が不慮の死を遂げると怖ろしい崇りがあると信じていたのでしょう。殺した後に径百余歩(約150m)の円墳を作り、百余名の奴婢を殺して殉葬しました。口封じのためもあったのかも知れませんが、ムナカタ族の耳にも入った模様です。



その後、帯方郡から二人目の使者張政(ちょうせい)が到着し、難升米王に詔書と黄幢を届けましたが、すでに卑弥呼は亡くなっていたとあります。

そしてその直後でしょうか、倭国追討軍が北部九州に到着しましたが、卑弥呼が難升米王に殺されたことを知ったムナカタ族は、抵抗せずに狗奴国側に降参したと推理しました。(注5)そのため難升米王は恐らく、勝ち目はないと見て、親魏倭王の金印を持って素早く帯方郡に逃亡したと思われます。

倭国王が逃亡したので、追討軍の主将であった尾張王(タラシナカツヒコ)が狗奴国の卑弥弓呼大王を裏切り、自ら倭王に立ったと推理しました。副将として参加していた山陰・丹波・北陸の久々遅彦王や大王に近い河内物部勢などが反発したと推理しました。男王が立つと千人ほどが死ぬ内戦になったと「魏志倭人伝」が伝えています。タラシナカツヒコは殺されて、鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと考えています。

そして十三歳の台与が女王になって収まったとあります。台与は卑弥呼の宗女です。つまり卑弥呼と同じムナカタ族の姫巫女ですから、勝者は久々遅彦だと分かります。そして女王に立てたということは、今度は久々遅彦らが卑弥弓呼大王を裏切って魏を後ろ盾にしたということです。久々遅彦は大王の親族の有力者尾張王を殺害してしまったので、尾張勢から恨まれることになるだけでなく大王がどのように判断するか不安であったので、魏使張政の進言に従ったものと推理できます。

これによって、山陰・丹波・北陸の久々遅彦王は倭国の版図であった九州・四国・中国西部を手に入れ、後には遠州・駿河から信州や関東までも、列島のほとんどを支配したと思われます。ですから、久々遅彦王は後世、大国主命と呼ばれ、現代の日本の至る所で祀られています。仲哀天皇(タラシナカツヒコ)を殺したのが住吉大神であり武内宿禰ですので大国主久々遅彦ということです。(注6)そして十三歳の女王台与が神功皇后のモデルです。後で妃にします。神功皇后の子応神天皇の本当の父親は大国主ですが、「日本書紀」は仲哀天皇の子としてそれを隠しました。

ということで、張政は倭国が大国主久々遅彦の手に落ち、魏を後ろ盾とするように工作したと帯方郡に報告したので、司馬懿(179年 - 251年9月7日)にとって最早用済みとなった難升米王は司馬懿の命令で帯方郡太守によってひそかに殺されたと推理しました。年齢は六十五歳くらいでした。波乱万丈の人生で、哀しい最期だったと思います。

日本の正史「日本書紀」が隠してしまいましたが、難升米王の祟りで長い間日本建国の真相が隠されてしまったのかも知れませんね。建国時代の忘れてはならない重要人物のひとりでした。親魏倭王の金印が帯方郡址付近で見つかれば、この推理は大当たりでしょう。歴史的な価値のある金印なのでまさか鋳潰されることはないかと思いますが、どうでしょうか?見つかっていればとっくに世に知られるようになるでしょうから、まだ見つかってはいないのでしょう。247年に亡くなったと思われる難升米王も、その死から1,774年も経ちましたので、もうそろそろ出してくれるかもしれませんね(^_-)-☆

【関連記事】
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(注5)「魏志倭人伝」に正始四年に倭国から派遣された大夫伊聲耆(いとぎ)、掖邪拘(やざく)等八人も率善中郎将と印綬を与えられたとあります。しかしここで、けったいなことがあります。率善中郎将と印綬が掖邪拘等八人に与えたと書かれていて、正使であるはずの大夫伊聲耆を飛び越えています。

狗奴国の官を王よりも先に書いたのは、狗古智卑狗(久々遅彦)が魏にとって重要人物の倭国王大国主だからと思われます。同じ考えで、掖邪拘は、後に「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」とあり、台与が正使として送った人物ですから、伊聲耆よりも重要な人物だからだと推理できます。正始四年は難升米王の時代でした。倭国王が大国主に代わっても要職に就いていますので、掖邪拘はムナカタの族長で和邇氏の祖の赤坂比古と推理しています。伊聲耆はムナカタ海人の族長先代赤坂比古のことで、卑弥呼の父と推理しています。詳しくは「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」をご参照ください。(2023.2.28 赤字追加)

しかし、台与の遣使のこの記事は、台与が女王に立てられて直ぐなのか、いつのものか明記されていません。張政はまだできたばかりの親魏倭王の大国主・台与政権の舵取りのために、直ぐには帯方郡に帰還できないはずです。この後の話は長くなりそうなので、またの機会でお願いします(^_-)-☆

(注6)大国主久々遅彦は、いくつあるか分からない程数多くの別名や分身を持つ神として祀られていることを突き止めました。台与も同様です。道祖神などで夫婦の神として登場するのも大国主と台与のことですよ。日本建国の主役だったのをヤマト政権が隠したからなのです。

古代史のカギを握る神々の正体?


まだ倭国を手なづけた功績が司馬政権に認められて太守に出世した張政の墓の話があるのですが、またの機会にしましょう。
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【検証22】 難升米という人物は?(その2)

2021-08-06 22:51:58 | 古代史
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玄界灘を支配するムナカタ族を懐柔する前までは、日に日に強大化する狗奴国に圧迫された倭国はいつ滅亡してもおかしくない、かなり危機的な状況でした。これは倭国大乱の痕跡を鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。旧奴国勢力は半島南部の鉄を大量に入手して、阿蘇山東部の大分県竹田市・豊後大野市から熊本県側の阿蘇山麓などに武器を製造する多数の冶金工房を作り、菊池川流域の集落(方保田東原遺跡など)を最前線の軍事基地としていました。ここから倭国の領域である佐賀平野・筑紫平野の集落のみならず王宮のある三雲遺跡に近い福岡市西区の集落群まで襲撃して、倭国王をかなり苦しめた模様です。三雲遺跡の王宮も襲われたので難升米王の先代も討ち死にしたのかも知れません。


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狗奴国側の中心人物が、「魏志倭人伝」に王よりも先に登場させた狗奴国の官「狗古智卑狗」です。久久能智神(ククノチ)として兵庫県豊岡市久々比神社で祀られており、広く行われている棟上式の祭神屋船久久遅命(ヤフネククノチノミコト)のことだと突き止めました。奴国のクーデターを逃れたスサノヲの子五十猛命(イタケル)と同じ木霊ですので、狗古智卑狗(久々遅彦)はイタケルの子孫が代々襲名する王名だったと推理しました。玄界灘や山陰・北陸の日本海側を支配圏とする縄文海人ムナカタ族の王とされたと考えています。熊本県の菊池という地名はこの(第一次)倭国大乱で活躍した久々遅彦に因む地名でしょう。

二〇四年に公孫氏が帯方郡を置き、半島の混乱がようやく収まりましたので、まだ二十歳代の難升米王は早速公孫氏に支援を求め、公孫氏の援助によって倭国は勢いを取り戻したようです。(注2)恐らく、先代倭国王の時代に公孫氏の支配する楽浪郡に使いを送っていたと思われますが半島が相当乱れたので、交流が途絶えていたと考えられます。(注3)倭国には鉄の供給が無くなり、北部九州の集落で青銅器を溶かして矢尻「銅鏃」を作っていたことからも分かります。難升米王は菊池川添いの狗奴国の軍事拠点を襲撃し、そこで久々遅彦を討ち取ったのではないかと推理しました。久々遅彦の配下の玄界灘を支配するムナカタ族(後の和邇氏の祖)は大活躍していた王を突然失い、跡継ぎである後世大国主と呼ばれた久々遅彦はまだ幼かったので、途方に暮れていたところを、難升米王が和解の手を差し伸べて懐柔したものと推理しました。

難升米王は倭国の伝統ある祭祀に、前回述べたムナカタ族の卑弥呼(姫巫女)による太陽神の神託を取り込む方式を導入する決断をしたようです。これによって玄界灘を支配するムナカタ族(和邇氏の祖)は、ムナカタ族の山陰・北陸を支配する部族が狗奴国との関係を断てないので(注4)、ムナカタ族は分裂することになりました。これにより難升米王の支配する倭国は、一気に九州全域、中国西部(山口県)と四国西部(愛媛県・高知県)を版図にしました。後には四国東部(香川県・徳島県)と和歌山県の沿岸部までも倭国側についたようです。ですから、今度は狗(旧)奴国側が鉄の供給が断たれてしまったので、卑弥弓呼大王は新たに建設した纏向に旧奴国とつながりのある東国勢を呼び寄せました。倭国追討の祈祷を連日行って、計画を練ったようです。纏向で発見された大量の桃のタネはその頃の祈祷に使ったものではないでしょうか。

景初二年(238年)八月に魏の太尉司馬懿によって公孫氏が滅亡し、楽浪郡と帯方郡も魏が統治するようになったので、次に倭国が魏に追討されることを難升米王は怖れていました。司馬懿は降伏してきた公孫淵と従臣三千名の首を刎ね、さらに15歳以上の男子を全て殺して、遺骸をうず高く盛り上げて京観を作ったとされていますので、その情報が難升米王の耳にも入っていたはずです。そこに、倭国懐柔を司馬懿から命ぜられた帯方郡太守劉夏によって朝貢するように促されたので、渡りに舟ということで自ら決死の覚悟で、六月に帯方郡に出かけました。倭国の状況を劉夏に伝え、魏を後ろ盾にして狗奴国を抑えようと考えたはずです。劉夏は、東夷の朝貢を曹魏第一の功績として司馬懿のものにするために、朝廷への報告書の内容を二人で相談したのだと推理できます。情勢を的確に読んで交渉を成功させた難升米王は、とても度胸のある優れた人物です。十二月には帯方郡から洛陽に呼ばれて、少帝に拝謁し、司馬懿とも酒を酌み交わしたと思います。(2021.8.7  赤字修正)

さて、苦境にあった狗奴国側も、倭国が魏に朝貢したことを知り、焦ったはずです。ようやく倭国に追討軍を送る決断をしました。纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海ですので、ニギハヤヒ大王の血を引く尾張王(物部氏と同族)が追討軍の主将になったと推理しました。「日本書紀」では仲哀天皇の九州遠征に対応する話だという関裕二説を採りました。香椎宮に到着した仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は住吉大神の神託を信じないために突然崩御されます。住吉大神は常に神功皇后を守護する神です。傍らに寄り添い皇后を助けた三百歳の老人武内宿禰と重なります。「日本書紀 神功皇后紀」に「魏志倭人伝」の景初三年の卑弥呼の朝貢記事の他、西晋への台与の朝貢記事も注記され、神功皇后が卑弥呼なのか台与なのかあいまいにしています。しかし、卑弥呼には夫もなく、子もいないと思われますが、神功皇后は応神天皇を産み、九州から東征して即位させますので、台与を神功皇后のモデルとしたと考えています。



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(注2)204年帯方郡設置の直後に、卑弥呼が女王に共立された時点で政治を輔佐する人物が男弟とあります。その時卑弥呼は年長大だったとありますから、三十才くらいだとすると、男弟とした難升米王はそれ以下の年齢ですから、難升米は二十代の若者だと思います。

(注3)Wiki「公孫氏(遼東)」によれば「189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。」とあります。奈良県東大寺山古墳で発見された中平紀年銘鉄刀は、189年か190年に公孫氏から難升米王の先代が賜ったものだと思われます(後漢の年号「中平」は紀元後 184 ~ 190 年)。238年公孫氏が滅んだので、難升米王が和邇氏の祖阿田賀田須命(アタカタスミ)に与えたのではないかと考えられます。天理市和邇町の和邇坐赤坂彦神社の祭神で、市杵嶋比賣命(イチキシマヒメ)と共に祀られています。イチキシマヒメが宗像三女神の主神で卑弥呼だと考えています。残りの二人の女神が台与のことだと考えています。卑弥呼の宮室の在ったと考えている宇佐市安心院町の「三女神社」の二の鳥居の神額に「二女神社」とあります。「三は妙だ」ということで「さんみょう」神社と地元では呼ばれているのではないかと思います(^_-)-☆。

(注4)スサノヲの母イザナミの墓が比婆山に在ると伝えられています。いくつか説がありますが、米子の宗形神社辺りがイザナミの出身地だと思われますので、島根県安来市伯太町の比婆山久米神社ではないかと思います。


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【検証22】難升米という人物は?(その1)

2021-08-05 09:43:52 | 古代史
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難升米(なんしょうまい、なずめ、なとめ)という人物は日本建国の謎を解き明かすためのキーパーソンです。これまでに難升米の人物像を推理してきましたので、今回は難升米について整理しておきましょう。

「魏志倭人伝」で以下のとおり登場します。

「魏の明帝の景初二年(三年が正しい)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米を魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔(みことのり)が出た。『親魏倭王に詔す。・・・汝のよこした使い、難升米・都市牛利は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を与え、余が直接会ってねぎらい、贈り物を与えて送り返す。・・・』
(途中略)
「其の六年(正始六年、二四五年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。」
「其の八年(正始八年、二四七年)、太守王頎(おうき)が官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず、倭の載斯(そし)・烏越(うお)等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞の曹掾史張政(ちょうせい)等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りて之を告喩せしむ。」

ここで、黄幢は魏の正規軍の軍旗ですが、詔書と一緒に、倭女王にではなく難升米に直接与えられてます。このことは難升米は倭国の軍事を司る人物であると曹魏は考えているということですから、「魏志倭人伝」の文章から女王卑弥呼の政治を輔佐する男弟のことであるし、同時に伊都国に置かれた刺史のような役割の一大率だったということも分かります。魏晋の時代の刺史は皇帝から将軍位を与えられて兵権を行使する州の長官です。難升米に与えられた率善中郎将は、「降伏した蛮夷を管理する(武官の)職名」と小南一郎「三国志Ⅲ」(筑摩書房1989,p.425)にあります。難升米の後の正始四年に倭国から派遣された大夫伊聲耆(いぎ)、掖邪拘(ややこ、わきやく)等八人も率善中郎将と印綬を与えられたとありますから、黄幢を与えられた難升米は率善中郎将の筆頭の位置づけであり、事実上の倭国王であったと考えられます。(2023.5.25 赤字修正)

また、二世紀末に倭国の乱が起こる前の七・八十年間は男王が居たと「魏志倭人伝」にあります。范曄「後漢書」に記された一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(すいしょう)は、残念ながら「後漢書」の原本が残っていないのですが、この記事を引用した諸文献から正しくは面(「回」の異字体「囬」の誤写)土(ウィト)国王師升(ししょう)と考えられます(白鳥庫吉説)。ですから難升米は「魏志倭人伝」に書かれた伊都国の男王だったと分かります。

難升米が魏側に教えた伊都国という字の意味も夏王朝末から殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)が定めた都という意味です。殷の名臣である伊尹は主君である放蕩者の太甲を追放したということで評価が議論されている人物です(孟子・尽心上篇)。

師升の姓である「師」は古代中国の宮廷楽師の役職を表すものですから、倭国では五七年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の宮廷楽師だったと推理できます。師升をリーダーとする宮廷楽師らがクーデターを起こし、奴国王を殺し倭国を奪ったと考えられます。最後の奴国王こそ、「日本書紀」に登場する高天原で乱暴狼藉を働き神々から、手足の爪を剥がされて、財産を全て奪われて追放されたスサノヲでしょう。「宋史 王年代紀」に記された第十八代王素戔男尊です。師升は奴国王に成りすまそうとして、金印の在りかを白状させようとスサノヲを拷問しましたが、結局手に入らなかったので殺したようです。一〇七年に百六十名ものスサノヲの部下を生口(戦争奴隷)として後漢安帝に献上して倭国王に認めさせたと推理できます。金印は師升らのクーデターを逃れた奴国王の部下のアズミ族が逃亡の途中、志賀島に隠し埋めたと推理できます。

ですからそのような事績を持つ師升王の一族の姓が難升だと推理しました。つまり「漢委奴国王」の金印の「倭」を「委」と書いたのと同じ流儀で、「難」は「儺」のニンベンを省略したものと考えられます。儺(な)の意味は「漢字源」によれば「おにやらい。鬼(疫病神)を追いはらう儀式を追儺(ツイナ)」です。奈良時代に奴国の在った福岡市は儺県(なのあがた)と書かれました(仲哀紀四年)。鬼やらいを意味する「儺」は、鬼のような主君を追放した故事を表しています。主君であった奴国王スサノヲを追放した(殺した)師升王が王都にしたところを、伊尹の故事から伊都国としたと推理できます。つまり、師升のクーデターは「日本書紀」のスサノヲ追放の記述として記録されていたということです。(注1)

師升王か、あるいは後を継いだ次の王が伊都国を王都として祭祀を整えたという意味の天然真鍮製の板片が1948年に伊都国(糸島市瑞梅寺)を水源として博多湾にそそぐ主に福岡市西区を流れる室見川の河口で発見されています。正確には分かりませんが、北京で後世に作った偽物と鑑定されているようですが、当時の倭人は漢字を知らなかったという前提でのものですから、その鑑定は誤りでしょう。師升王が朝貢した後漢安帝の延光四年五(月)と漢字で彫られていますから、一二五年のものですので日本で作られた最古の金石文だと考えられます。



「魏志倭人伝」に書かれた人名や地名などのほとんどに「卑字」が使われているのですが、伊都国だけが由緒のある「好字」が充てられているということから、難升米王自身が魏の役人に書いて教えたと分かります。曹魏の有力者司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して、司馬懿の功績を曹魏第一のものとするために、倭国のフェイク情報を作ったと推理しました。難升米王は孟子も読む教養人だったのです。漢字を読み書できない無教養の倭人たちをバカにして人名や地名などに「卑字」を当てたのでしょう。難升米王は曹魏を後ろ盾にして、狗コロの奴国という意味の狗奴国と書いた旧奴国勢力を抑えるためだと推理できます。

奴国を滅ぼした師升王の末裔の倭国王難升米が、「魏志倭人伝」で伊都国男王、一大率、男弟、そして魏への使者の大夫(たいふ)と、それぞれ、別の人物が居るかのように記載された理由は、倭国が女王を統治者とするエキゾチックで遠いところにある大国として魏の朝廷の人々の興味を惹くためだったということです。
女王卑弥呼は、本当は倭国の統治者ではなく、縄文海人ムナカタ族のシャーマン王赤坂比古(卑弥呼の父、伊聲耆=年老いた巫(かんなぎ)、古代豪族和邇氏の祖)に太陽神の神託を与える、王族の巫女(ひめみこ)だったと推理しています。古琉球および琉球王国を中心に沖縄で信仰された琉球神道の原型と考えられる原始的な信仰を鬼道ということにして難升米が魏側に伝えたのだと考えています。難升米は、卑弥呼の伝える太陽神の神託を倭国の政治に取り込むことで、沖ノ島経由の海北道中ルートを支配しているムナカタ族を懐柔したと推理しました。倭国と敵対する狗奴国側に半島南部の鉄を供給させないためです。
(2024.3.27 青字修正)
(つづく)

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(注1)もちろん、スサノヲと姉アマテラスの話は全て創作です。皇祖神アマテラス女神は天武天皇の後に皇位を簒奪した持統天皇(皇后鵜野讃良うのさらら、天智天皇皇女)の正統性を主張するために創作した女神です。「日本書紀」が持統天皇の前に登場させた二人の女帝(推古、皇極・斉明)も前例を創るためのフェイクです。天照大神の名は「王年代紀」にスサノヲの後の第十九代王天照大神尊から採られたと考えられます。「先代旧事本紀」に物部氏の祖が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とあり、「日本書紀」で神武天皇の前に大和に降臨していた饒速日命(ニギハヤヒ)とされています。史実はクーデターを逃れたスサノヲの弟で、山陰・北陸を支配する縄文海人ムナカタ族の協力で、鉄製の武器を供給されたニギハヤヒが、瀬戸内航路の要衝である吉備を平定し、後のヤマト政権の基礎を築いた人物だと推理しました。ニギハヤヒ大王の直系の人物が奴国を纏向で再興した人物で、狗奴国王卑弥弓呼(比古皇子ヒコミコの誤記か)と考えています。

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)


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