刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

神武東征はあったのか?(@_@)

2023-10-27 21:42:12 | 古代史
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今話題の百田尚樹氏の気になる内容の1年前の動画が私のYouTube画面に出てきました。百田氏は、現在はとてもお忙しいと思いますので、暇な時にゆっくりと見ていただければいいと思い、以下のとおりコメントしました。よろしければ、皆さんお付き合いください(;^ω^)



「日本保守党」の立ち上げ、有難うございます。売国・利権集団に乗っ取られた現政権を蹴散らして、日本国民のためのまっとうな政治に戻してください(詳細は「今日は東京大空襲記念日だった!"(-""-)"」参照)!どうぞよろしくお願いいたします!!

さて、ご存じのとおり、日本の古代史については謎が多いので、多くの方はそれをロマンと感じるのだと思います。しかし冷静に考えると、古代に限らず権力者が作った歴史書は、権力の正統性を被支配者に押し付けることにより人々の過去を縛り、未来永劫その権力を維持し続けることを目的として作られる政治文書です。ですから古代史の謎の正体が、考古学などの事実との間の齟齬が原因だと気付くと、真相が見えてきます。史実に基づかない戦前の皇国史観のイデオロギー歴史学によると判断を誤り、日本国民を不幸にすると思います。今回の神武東征の動画について少し気になったのでコメントさせていただきます。

神武東征が史実だとご主張される根拠のひとつとして、近畿で壊された銅鐸が発見されたことをあげられています。畿内中心に銅鐸文化圏があって、九州の銅矛文化圏と対立する構図を語られていました。

しかし、佐賀県吉野ヶ里遺跡や鳥栖市安永田遺跡で銅鐸とその鋳型が出土されているので、両文化圏の対立という仮説は成り立たなくなり、学校の歴史教育でも教えられなくなっています。

また、熊野信仰は平安時代末期から鎌倉時代初期に盛んにおこなわれるようになりました。これは八世紀に完成した日本書紀でイワレヒコ(神武)の熊野上陸の話があったことも関係すると思いますが、熊野の地は古くから徐福伝説などがあるからでしょう。

そして、考古学の成果から、三世紀初頭に最初の前方後円墳纏向石塚古墳が造られてからヤマト王権が纏向遺跡で発祥したことが分かっています。初代天皇は纏向遺跡で即位しているはずです。また、この時代の大和盆地で戦争の痕跡はありません。三世紀より前の大和盆地には王墓と言えるものも存在していません。ですから、九州からやって来たイワレヒコがヤマトを平定して、橿原で即位したという神武東征神話は虚構だと結論付けられています。

多くの研究者は、日本書紀にデタラメな記述があることは承知していながら、天皇の歴史書なので、好意的に解釈して、なんとか理屈をつけて乗り切ろうと頑張っています。しかし、いくら天才的な解釈をしても謎は残されたままなのです。事実と合わなくても中々へこたれません。

しかし何故、このようなデタラメな神話などが作られたのかについて分析すると、記紀が天皇の歴史書ではなかったことが分かります(詳細は「日本の古代史が謎な理由?」参照)。それにより歴史の真相を表す仮説を立てて、いくつもの事実(考古学・民俗学などの成果)で検証すると分かります。このような科学的な手法でヤマト王権の成立過程を解明しましたので、詳細は「刮目天の古代史」をご参照ください。邪馬台国も卑弥呼の墓も判明しています(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」参照)。どうもお邪魔しました(;^ω^)


【参考】今年の夏に九州歴史旅に行ってきました(^_-)-☆

(図をクリックするとGoogleMapにジャンプします。)

銅鐸の鋳型は弥生中期のものですが、この柚比遺跡群は卑弥呼の時代(三世紀前半)に和邇氏の祖赤坂比古(卑弥呼の父と弟)が支配していました。記紀で仲哀天皇とされた尾張王ヲトヨノミコトが卑弥呼の弟赤坂比古に討たれて、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています(詳細は「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。弟赤坂比古は尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル、記紀の景行天皇)に仇討ちされて、卑弥呼の墓よりも少しだけ小さいですが、現在日本第二位の円墳愛宕神社古墳(直径約140m)に葬られたと推理しています。


【関連記事】
〇現存する最古の歴史書「古事記」「日本書紀」の正体が分かります。
日本の古代史が謎な理由?(@_@)?

〇藤原不比等が何のためにウソを書いたのか、核心部分はこちらです。
【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?

〇女性天皇も女系天皇も日本の歴史に存在しないことが分かりました(^_-)-☆
不比等はイエス様に匹敵する?(@_@)

〇以下は、魏志倭人伝に関する記事です(^_-)-☆
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆
あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!(;^ω^)

〇ウソの中から真相を探求する科学的な手法を解説しています。
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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狗奴国の場所から邪馬台国が分かる!(^_-)-☆

2023-10-20 22:07:02 | 古代史
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2023-10-20 05:33:08に記事にしましたが、うP主様からいいお返事を頂きましたので、更にコメントしました。よろしければおつきあいください(;^ω^)

前回の狗奴国の記事に加えて、以下の動画を発表していただきましたので早速コメントしました。お付き合いください(;^ω^)




とてもいい解説、勉強になります。
多くの皆さんは魏志倭人伝の記述に騙されて狗奴国は熊本にあると思っていますが、狗奴国は纏向遺跡で正解です。
孫栄建氏も「困ったときは范曄に聞け」と「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎2018年)の中で述べておられました。范曄は五世紀の倭の五王の時代の劉宋の人ですから、倭国の正しい情報を入手していたのですよね(^_-)-☆。

そして重要なのは、ご指摘のとおり魏志倭人伝の記述を書き換えて、

女王国の東に渡海すると約千里で狗奴国に至る

と明記しているのですから、纏向遺跡の狗奴国から逆に、瀬戸内海を渡って約450km西の周防灘に面した九州東部に邪馬台国があると范曄は言っているのです。

最初に宇佐説を学説とされた富来隆先生が「卑弥呼 - 朱と蛇神をめぐる古代日本人たち」(学生社1975年)の中で述べられている通り、卑弥呼は宇佐神宮の比売大神=宗像女神で、蛇神信仰(カガミはヘビの眼の意味)の巫女です。

日本書紀に記された三女神の降臨地「葦原中つ国の宇佐嶋」=宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三女神社に居たことを突き止めました。
卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳「三柱山古墳」を発見しましたし、
卑弥呼に纏わる遺物や伝承が周辺に数多く残されていますので間違いないと思います。
詳しくは「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。
どうも有難うございました(#^.^#)


ありがとうございます。とても詳しいコメント、ありがとうございます。
九州説の場合は、宇佐から下稗田遺跡、田川にかけた豊の国全体の領域で邪馬台国かと想像しています


早速、ご回答感謝します。
トヨの国は、卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主久々遅彦(狗古智卑狗、日本列島の大半を版図にしたので後世大国主とされた縄文海人ムナカタ族を束ねる王、兵庫県豊岡市久久比神社の祭神で木の霊ですからスサノヲの子イタケルの子孫、記紀の武内宿禰)によって卑弥呼の後継として女王に立てられた13歳の台与(記紀の神功皇后)に因む場所なので豊国と命名されています。

豊前は、この時代はまだ投馬国だと思います。前回の記事にコメントしましたが、魏志倭人伝に書かれた行程記事や倭の風俗は、倭国王・伊都国男王難升米が政治的な理由で書いて帯方郡太守劉夏に教えたもので、意味のある言葉だったのです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

投馬国は倭国の傘下になったムナカタ海人の族長赤坂比古(和邇氏の祖)に難升米が朝貢していた公孫氏から賜った馬を下賜した国という意味だったのです。魏志倭人伝に、馬はいないとあるのは、多くはいないという意味だったのです。在馬(豊津町節丸の古地名だと推理)という地名が投馬国の長官弥弥(ミミ、赤坂比古の親族と推定、多分、たくさん耳飾りを付けていた部族長、居所が下稗田遺跡を含む「みやこ町遺跡群」などを統括していた)に因む国名と推理しています。

邪馬台国は野麻国(ヤマコク、和名抄の宇佐郡野麻郷で宇佐市安心院町に比定される)に居る女王(台)の国という意味でしたので邪馬壱国はある理由で書き換えられたものだと分かりました。同じ理由で、壱与も台与を書き換えたものです(^_-)-☆

卑弥呼は赤坂比古と大国主の祖父八束命(出雲国風土記の国引きの神)の女(むすめ)との間の子(宗像女神イチキシマヒメ)で姫巫女です。卑弥呼の墓の遥拝所の摂社「八束神社」から推理しています(詳細は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

大国主の父も狗古智卑狗と呼ばれており(王の襲名)、倭国大乱の英雄でしたが難升米に討たれました。王を喪った赤坂比古が途方に暮れていたところを難升米に懐柔されたので、狗奴国を裏切って倭国側についたのです。狗古智卑狗の墓(山鹿市「茶臼塚古墳(4世紀に和邇氏によって造られたと推理しています)や赤坂比古の墓(宮ノ原遺跡「奥城古墳」、卑弥呼の墓よりも少し小さい直径約120mの巨大円墳)も発見しました(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。よろしければ拙ブログをご参照ください。長々と、失礼しました(;^ω^)


【関連記事】
投馬国へ水行してみませんか?

宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ(^_-)-☆
大国主が最初に国造りを行った安心院町佐田地区の米神山(475m)の中腹に石柱が多数、約80km先にある父の墓「茶臼塚古墳」に向けられています。古墳の墳頂には大日如来の石像が置かれており、大国主の本地仏弥勒菩薩が北東にあるので米神山の方角を指しています。さらに不思議なことはこの霊ラインを延長すると400km先に大国主の生誕地の碑にたどり着きます。古代人は超能力者かも知れません。信じるか、信じないかはあなた次第です(【大発見!】大国主命の生誕地か?)


(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)


【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
こちらに卑弥呼の記事をまとめていますので、飽きるまでご参照ください(#^.^#)
今年の夏に現地を見に行ってきました。最新記事は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」です。
 





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狗奴国って狗コロの奴国のこと?!(;´Д`)

2023-10-17 19:32:57 | 古代史
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とても参考になる動画を見つけましたので、例によってコメントしました。お付き合いください(#^.^#)



とてもいい話題をありがとうございます。
倭国大乱が倭国で起こって、倭国が大いに乱れたことはその名称から明らかで、倭国と敵対する狗奴国との抗争であることも容易に想像できます。ですから倭国と狗奴国がどこにあって、どういう国なのかを知ると邪馬台国問題が解決するはずですね。

しかし、この動画で紹介頂いた魏志倭人伝の記述からだけでは、おっしゃる通りいくつもの説が登場し、いったいどれが正しいのか分かりません。実は、魏志倭人伝はある政治的な目的で創られたからなのです(詳細は「権力者の歴史書は政治文書だよ!」「あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!」参照)。だから、その編纂目的を考えるとどこが虚偽なのか仮説ができますので、考古学や民俗学などの成果によって検証すると解明できます。最初の倭国、卑弥呼が登場したことにより成立した邪馬台国連合倭国そして狗奴国とその傘下の国々がほぼ特定できます。

まだ話が長くなりますので、よろしければ、つづきは拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。失礼しました(^^;)


倭国大乱の痕跡は、集団戦に使われた鉄鏃・銅鏃の出土状況から見つかります。集落の環濠や城柵の前に掘られた溝から出土した場合は、敵軍の矢の可能性が高いですから、これを調べることによって、この時期の倭国の領域と倭国大乱の様相が見えてきました。つまりこの時期の倭国は、佐賀県と福岡県の筑紫平野・福岡平野・糸島平野などが含まれます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。


(クリックで拡大)

(クリックで拡大)

そして卑弥呼が登場した三世紀初頭に構築された桜井市纏向遺跡の外来土器の内容から、纏向遺跡が狗奴国だと判明しました。

おっしゃるとおり、狗奴国王卑弥呼弓(ヒコミコの誤記)は、追放された男王の一族でした。記紀神話の高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの神話は、宋史 王年代紀第十八代奴国王素戔嗚尊が奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された史実から作られたものでした(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。卑弥呼弓は奴国を逃亡した弟饒速日尊(ニギハヤヒ、吉備を平定し奴国を再興した第十九代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明命)の子孫でした(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」「【刮目天の古代史】楯築遺跡は帥升の墓か?」参照)。

纏向遺跡の外来土器の半数は東海のもので、狗奴国王と同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張王が東海を支配していました。縄文海人ムナカタ族の根拠地の山陰・近江・北陸が22%です。卑弥弓呼大王の一族が支配する河内・吉備・播磨が20%、ムナカタ海人族や江南系倭人アズミ族などが活動していたと思われる関東の土器が5%、同じく阿波・讃岐・紀州のものが4%です。



倭国大乱期で倭国と敵対していた熊本・福岡東部・大分も含めて九州の土器も、中国西部、四国西部の土器も最初から見られません。さらに、卑弥呼の亡くなる247年の少し前あたりからは阿波・讃岐・紀州の土器も見られなくなります。これらの地方は邪馬台国連合に加わったと考えられます。



纏向遺跡は半島南部の鉄素材が供給されなくなったので、狗奴国の卑弥弓呼大王が纏向遺跡を造って狗奴国傘下の首長を呼び寄せたのだと分かります。つまり纏向遺跡は狗奴国王卑弥弓呼の王都だったのです(詳細は。「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。

魏志倭人伝に登場する倭国の国名や人名・役職名などは、景初三年(239年)六月に帯方郡に直接渡って、魏の実力者司馬懿の部下の太守劉夏と面会した倭国王だった伊都国男王難升米(なしょめ)がつけた名前だったのです。難升米は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の子孫でした。伊都国が帥升(正しくは師升)の史実を示唆する歴史的に特別な意味がある国名であることが分かり、すべて謎が解けました。狗奴国は旧奴国の蔑称で「狗コロの奴国」という意味だったのです。難升米は孟子も読む教養人でしたので、味方であっても漢字の読めない縄文海人の名前にも卑字を多用しています。特に、倭国大乱で大いに苦しめられた狗古智卑狗にはこれ以上ないほどの蔑称にしています。だいたい意味のある言葉なので、このことが分かると当時の倭国の状況がよく理解できるようになります。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」、「投馬国へ水行してみませんか?」などをご参照ください(#^.^#)



どういう理由で倭国大乱が起こり、それが収束したのか?、卑弥呼の正体は?についても推理していますので、よろしければ拙ブログ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」などをご参照ください。

【関連記事】
卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )





最後までお付き合い有難うございます!
関連記事をいくつもあげていますので、ご興味のある記事からご参照ください。
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国民の支持がなくても政権を維持する目的か?!( `ー´)ノ

2023-10-15 23:35:19 | その他
いい情報を発信している「哲学系ゆーちゅーばーじゅんちゃん」を時々チェックしていますが、以下の動画にコメントしました。



国民の利益になるなら選挙公約してからやるべきでしょう!
それなしにやるのは民主主義国家では許されないですよ。独裁者だ!
個々の個人情報が入った行政システムに横串入れるマイナポータルは
システムのリスクを無制限に増大させる極めて愚かな発想です。
犯罪国家のハッカーのターゲットになりますよ!
特に、総理とか国家機関の権力者の全個人情報が入手できるので真っ先に狙われます!
個々の行政システムで利便性を追求すればいいので、そうすればリスクは限定的です。

<マイナポータルは即刻、廃止すべきです!>

現状では、利便性とリスクを考えて個々の国民の判断でマイナカードを作れるようにしてもらわないと困ります。
政府がマイナカードを国民に押し付けるための紙の保険証廃止は、国民の利益以外の目的ですから、国民は反対すべきです!
保険証の不正利用>を防ぐ目的だと言うのならマイナカードではなく、顔写真入りの保険証にすれば何も問題ないでしょうに!
被保険者に何年かに一度扶養家族全員の写真を付けて申請させれば、本人確認の身分証にもなります。

別に読み取り装置なくても、今までどおり保険証の写真で本人確認して受診すればOK!
その他の行政サービスも同様に問題なく受けることができるでしょう!


日本の民主主義を破壊する利権政治屋が政権を握っているので、ヤバイ状況ですよ!
週刊文春で取り上げられた木原事件も大手マスメディアでほとんど取り上げないですが、
現職の警察庁長官が政治圧力によって「事件をなかったことにする」ために捜査妨害していることもYouTubeをみて分かっています。
法治国家ではなくなっています。
本来なら国家公安委員会が機能して、最高責任者の総理が法治国家を護る責任と権限があるのですが、それをしません!
統治能力のない政権の時に限って、過去二回も大きな自然災害(阪神淡路と東北大震災)が起こっていますので、とても心配です。
早く辞めさせて、国民に寄り添うまともな政権にしましょう!

大手マスメディアも権力に癒着していますので、国民の知る権利はネットだけが頼りです。
すでにYouTubeなどにも圧力をかけていますので、言論弾圧が起こっています。
多くの国民が、こういう現状を知る必要があります。

民主主義国家日本の危機ですよ!

これを見過ごすと、日本国民の人権と自由が完全に消えて無くなりますよ!

こういう状況を見て百トラダムスが「日本保守党」を立ち上げました。
党員が4万人に迫る勢いだそうです。
刮目天はずっと、チャンネル桜で勉強させてもらい、マクロ経済のエキスパートの前自民党衆議院議員安藤裕先生が代表となっている「新党くにもり」を支持しています。日本国民が一緒になって保守勢力を盛り上げて欲しいものです。

利権腐敗政治を止めさせる国民運動を起こして日本の未来を護りましょう!

【関連記事】
日本の店じまいか?!"(-""-)"
すべての財源は国債でいいのです。

増税一直線が日本を滅ぼす!(;´Д`)
すでに税収が過去最高額になっていますが、税制とは何なのかが分かっていません!
というか、国民からカネを巻き上げて、外国にバラまくのが目的ならば、外国のエージェントですよ!
スパイ防止法ができない理由はこれでしょう(;´Д`)


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あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!(;^ω^)

2023-10-14 13:38:43 | 古代史
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フォローさせていただいている、わたしが勝手に呼ばさせてもらっている「躓き石先生」のブログ「古代史の散歩道 など」に前回のわたしの記事「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」への論評を見つけました。先生の読者に紹介していただき、拙論への専門的な評論を頂きました。とても貴重なものですので、改めて感謝申し上げます。

今回ご指摘いただいた内容について、順次ご回答させていただきます。表現力が乏しいのでくどいと嫌われますが、言葉足らずよりはマシという気持ちで皆様にご理解賜れば幸いです。それでは行ってみましょう!(^^;)


新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 1/2
 「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。」
*コメント
 文章の前提は「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だ」と提示されますが、陳寿「三国志」魏志には不正確です。中国古代の公式史書は、時の「権力者」が作ったものでないのは衆知です。
 一転、「魏志倭人伝」を「西晋の史官陳寿が編纂した」と判定されますが、前提と用語が整合せず筋が通らないのです。氏は「魏志倭人伝」の局地を説き、冒頭の前提は空を切って見えますが、以下、ご高説を拝聴します。


説明不足だったようです。下に詳しく説明しますが、「三国志」そして「魏志倭人伝」は一流の歴史家陳寿(233?-297?年)が書いたので、学術文書であって、政治文書でないという主張は全く成り立ちません。直接編纂したのは陳寿で間違いないですが、陳寿の編纂目的・動機のことを言っているのです。つまり当時の西晋の権力者である張華(232-300年)が持ち掛けたもの、あるいは陳寿が張華を忖度した結果が「三国志」編纂なのだと分かるのです。

刮目天が邪馬台国問題に取り組む切っ掛けとなった故岡田英弘先生の著書「日本史の誕生」(弓立社 1994、pp.64-72)に「親魏倭王」卑弥呼の誕生に関する政治的な内容が詳しくありました。多くの研究者がこの重要な視点を無視していたから今まで邪馬台国問題が解決しなかったのです。

西晋の基礎を築いた魏の司馬懿の功績を持ち上げることが西晋の史官陳寿の「三国志」編纂の大きな目的でもあり、特に司馬懿の功績を明示する「魏書三十巻烏桓・鮮卑・東夷伝倭人の条」略して「魏志倭人伝」を残すことが、陳寿の才能を見抜き支援してくれた張華の恩に報いることだったという内容が説明されているのです。

張華の「後援で『三国志』を公認するよう請願が出て、勅令を持って正史の資格が『三国志』に与えられ、後世に伝わることになった。 こうしたいきさつがあってできたのが『三国志』であり、その一部分が「魏志倭人伝」なのだから、著者の陳寿の立場としては、たとえ真実でも、晋の帝室の名誉にかかわることを書くわけにはいかず、嘘と分かっていても、政治の建前ならば書かずにすますわけにはいかない。そんなことをすれば、自分ばかりかパトロンの張華にもわざわいがおよぶからである。・・・「西域伝」を立てていないのはこのためである。「西域伝」を書くとすれば、当然、「親魏大月氏王」ヴァースデーヴァに触れなければならないが、それでは司馬懿が暴力で倒した政敵の曹爽の父である曹真の功績をたたえることになる。陳寿に「西域伝」が書けるわけがない。」と詳しくあります(p.70)。

更に付け加えると、「魏志倭人伝」に帯方郡より万二千里の位置に邪馬台国があると明らかにウソの距離が記されています。当時、洛陽から楽浪郡まで五千余里と知られていましたし、洛陽から大月氏の王都カーピシ(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里となっていました。司馬懿の功績を曹魏第一等とするためには、それを上回る万七千余里に東夷の大国である「親魏倭王」卑弥呼の都がなければならないからなのです。つまり、皇帝の徳を慕ってより遠くの大国に朝貢させるのが皇帝の評価となり、当時の魏の最大のライバルの呉を東方海上から圧迫する位置にある東夷の大国の倭国が戦略上最も重要な国なのです。「三国志」は倭国の朝貢を実現させた司馬懿の功績を西晋の人々に強く印象付けるための作品なのです。

 「魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)」

*コメント
 倭人伝が引用するのは、蕃王への通達であり「絶賛」は時代錯誤です。
 「賛」とは、文字の含まれない、教養の示されていない職人芸「絵画」に、意義を認める文章/詩文を添えるのであり、「絵画」は、「賛」を得て始めて「文」芸と認められるのです。中国古代史で注意の必要な「単語」の一つです。


明帝が生前に派遣した帯方郡太守劉昕(りゅうきん)に代えて司馬懿が、新太守として送った部下の劉夏の報告書を基にして陳寿が「魏志倭人伝」を書いたのです。

劉夏は倭国王難升米と約半年間司馬懿を持ち上げるための談合をし、邪馬台国への行程記事などを作成して司馬懿に報告書を提出したのです。少帝曹芳の太傅(天子の師)となった司馬懿は、その間にライバルの曹爽が所管していた尚書省を取り上げ、自ら長官に就任し、卑弥呼に対する詔書を書かせたものですから、陳寿は詔勅をほとんどそのまま「魏志倭人伝」に記載したのです。

版本についてもご指摘がありましたが、正しく書けば、「魏氏倭人伝」が記載された「三国志」の版本ということですので、その版本の元になった写本にある景初二年(238年)六月に難升米が帯方郡に行ったとしても、まだ公孫氏の滅亡は同年八月なので、難升米が面会したのは公孫氏の配下のはずです。もしも明帝が準備した船ですでに楽浪・帯方郡を陥落させていたとしても、劉昕ではなく劉夏と帯方郡で面会できるはずありません。ですから、明帝が楽浪・帯方の二郡に密かに準備していた軍船を送ったのは遼東郡が陥落したことを司馬懿からの報告を受けた直後と考えるのが自然です。もしも明帝が公然と準備していたら公孫氏は二郡の防衛を強化しているはずですから、これは妥当な推理だと思います。ということで、帯方郡太守の劉夏は司馬懿が倭国の懐柔を命じた部下だと断言できます。

そしてこれらの経過は、司馬懿自らが魏の朝廷の実権を握る目的だったということも、司馬懿の孫司馬炎が西晋を建てた結果を考えても容易に推理できます。司馬懿の作らせた詔勅の内容が卑弥呼の貢献を大いに褒めるものであったのは、魏の朝廷に司馬懿自身の功績が曹真を上回るものだと印象付けるためだと分かるのです。西晋の多くの人々は司馬懿の功績を称えたはずです。このような内容の詔書のほぼ全文を載せた例は、他の正史にあるのでしょうか?「魏志倭人伝」の目的から考えて絶賛というのは言い過ぎではないと思います。( ^)o(^ )

こういう「三国志」が露骨な政治文書である理由は魏から帝位を禅譲された西晋で編纂された「同時代史」だったからだと後のシナの教養人は分かったはずです。ですから「三国志」以降の正史が、同時代史にならないようにしたのだと分かります。

 「倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。」

*コメント
 「晋書」は、数世紀の乱世を統一し中華世界を復元した唐代に、その元凶「晋朝」事績を史書としたものです。三国鼎立を統一した中原天子ながら、王族が「大乱」を起こして北方民族に滅ぼされた「司馬晋」の罪科露呈に編纂されたので、「晋書」深意が司馬懿の罪科でなく「功績」は、勘違いでしょう。
 氏ご自身の言葉を借りるなら、「晋書」を「作った」のは、唐帝であり、それを承知した上で解釈する必要があるのです。


新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 2/2
*コメント [承前]
 対して、陳寿は、西晋健在の時代に、司馬遷「史記」、班固「漢書」を踏まえ、「倭人伝」では、時点の皇帝明帝曹叡の「功績」を語っています。
 一方、明帝が臨終で遺孤曹芳を託した司馬懿は、忠誠を誓いながら、陰謀で曹魏実権を握り、曹芳を諡の無い廃位に追い込んだと明記されているので、むしろ、非難とみるべきです。なお、司馬懿絵姿は無用/蛇足と愚考します。


おっしゃるとおり「晋書」にはそういう意味があるのでしょう。東夷の、魏への朝貢は明帝の功績であることは明らかですが、「晋書」宣帝紀に東夷の朝貢は司馬懿の功績だと事実が述べられている点は重要です。司馬懿がどういう顔をしているのか示すと分かり易いかなと思った次第ですので、ご理解ください(#^.^#)

「三国志 魏書」少帝紀景初三年二月に司馬懿は道義を身に着け正直で、魏に忠誠をつくした人物だから太傅とするとの詔勅が出されたとありましたよ( ^)o(^ )

 「魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。」

*コメント
 微妙な誤解ですが、難升米は、蛮王の代理に過ぎず、「魏」(帯方郡太守)に「教える」などあり得ないことです。天下を統率する「魏」と東夷の「倭人」の立場は隔絶しています。(倭の地位が格段に低いのです。念のため)因みに、難升米が、「天子と雖も、徳を喪えば失墜する」と説いた「孟子」を熟読したかどうか、証拠がないので臆測に過ぎません。急に細かくなって、劉夏を司馬懿と並べて持ち上げているというのも、今一つ理解できません。
 ついでながら、倭人伝冒頭の「郡から倭まで」の行程記事は、大変精緻で、郡太守と倭大夫如きが相談して作れるものではないはずです。いずれにしろ、西晋史官陳寿が、最終的に編纂校訂したから、そのように解するのが、氏の本意のはずですが、なぜか、ここでは不本意な書き方です。続く、風俗記事は、大半が現地見聞報告で、魏使訪倭以前に、書くことはできないのです。


確かに陳寿が編纂したのですから、校訂も自身で行っているはずですので、目的から外れるものは削除しているはずです。例えば陳寿が参照したはずの「魏略」にある「倭人は呉の太伯の後裔」というのは意図的に削除されています。二人の魏使の報告書については帯方郡太守が内容を取捨選択して司馬懿に提出したことも当然です。また詔勅については陳寿が校訂できるはずはないです。司馬懿が作らせたものですので、一言一句、そのまま書いたはずです。

難升米は表向きは蛮王ですが、劉夏の出世を約束してくれる大事な人物なのです。正始元年(240年)には次の太守弓遵(きゅうじゅん)が着任し、魏使梯儁(ていしゅん)を派遣しています。多分、梯儁は伊都国に滞在して話を聞いただけでしょう。劉夏はとても有能な人物なので直ぐに栄転したのでしょう。劉夏は歴史を動かした重要人物ですので記録が残っていてもいいと思いますが、何か残っていないでしょうか?(^_-)-☆

難升米が107年に後漢安帝に朝貢した倭の回土(ウィト)国王師升の子孫の倭国王だったことも、「魏志倭人伝」の行程記事や風俗記事が難升米が書いて教えたことも、回土国を伊都国と書かれていたことから分かるのです。ご存じのとおり、伊都国は「孟子・尽心上篇」でその評価が議論される殷王朝初期の政治家伊尹に因む嘉字の国名なのです。魏の役人が回土国を伊都国と書く理由が見つかりません。また、行程記事・風俗記事は倭国の状況を熟知した難升米が政治的に配慮して書いたものだと分かるのです。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。邪馬台国問題はこれによって大きく解決に向いました。卑弥呼が登場する経緯も卑弥呼の正体も考古学や民俗学から判明しました。是非、ご意見をください(^^;)

 「これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。」 
 「古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。」「女王の居城の平面図」は省略
 「同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。
 「日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。」 

*コメント
 「日本」が発言した701年以降の「日本」古代史については、全くの素人で、刮目天氏の「日本書紀」観には口を挟めないので、ここでは素朴な疑問を述べるだけです。
 ・「日本書紀」原本は、現存しているのでしょうか。(当然、存在していないはずです)
 ・「日本書紀」現存写本は、写本の際に、都度厳格に校正され、解釈を迷わせる誤字などないものなのでしょうか。(数値化して比較していただければ幸いです)
 「ずっと後の時代」に編纂された歴史書には、余り通じていないので、恥を忍んで教えを請う次第です。お手数ながら、公平のため、確認いただきたいものです。
 因みに、古代史では、「問題」には、必ず解答があるのです。
 中国「正史」には、それぞれの由来、経緯がありますが、「三国志」魏志は、国家事業で校訂を重ね大変確実なのです。
*余談
 氏を含め、業界人の「倭人伝」論は、中国史書の大局が、帝国公文書を編纂した「厳格な記録文書」であることに気づいていないので、岡田英弘、渡邉義浩両巨魁に始まる、素人の「思い込み」が色濃い「誤解流」史観に帰属した「俗説」に見えるのは大変残念です。

 氏が、「俗説」と一線を劃された古代史論を展開されているのは、重々承知しているのですが、当コメントに集約された「倭人伝」観が、「俗説」に感染されていると見えるのは誠に残念です。中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらないのでしょうか。

妄言多謝。頓首頓首。死罪死罪。


「日本書紀」についても、純正漢文も和製漢文も読む素養など全くありませんので、市販されている文献やネットで公開されているもので調べていますから、それ以上の精緻な話は正直分かりません(^^;)

「三国志」の校訂が西晋の国家事業でやられた理由は、学術的な目的でないことは容易に想像できます。歴史書は過去を縛るものですので、権力者の歴史書編纂事業は権力を維持するために、野党を黙らせるためにあるのだというのが事実だと思います。ちょっと俗な表現で恐縮です。でも日本人は権力に従順な人が多いので、倭人という意味のとおり、記紀神話に騙され続けていますね(^_-)-☆。

そういう刮目天も現役時代はお上の言うこと、大手メディアの報道をそのまま信じて、自分の仕事に専念していたのですが、定年後、本当にやりたいことができる時間ができました。子供のころは近くで土器を見つけたので、考古学者になりたいなと思っていました。上述のとおり邪馬台国問題解決の道が見えたので、かれこれ十年以上考え続けています。

ついでに今まで疎遠だったマクロ経済学などもネットで勉強させてもらい、「国の借金」という大嘘、消費税という国民貧困化の元凶が分かりました。税制の意味も分かりました。税は財源ではないのです。政府の黒字は民間の赤字です。それ以来、政府の言うことを素直に信じることができなくなっていますので人体実験のワクチン接種もやってませんし、システム開発をやっていたので致命的なリスクをもたらすマイナンバーカードも作ってません。あまり残り時間が無くなっているので、自分で見つけた事実をブログなどで記事にして、皆さんに理解してもらいたいと思ってやっています。どうか素人のたわごとと切り捨てないで、ご理解のほどよろしくお願いいたします!

古代史研究についても、今後とも、専門的な意見や素朴な疑問を投げていただけると研究が進みますので、どうぞよろしくお願いします。どうも、お付き合い有難うございました(;^ω^)

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