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「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

2024-09-22 11:22:57 | 古代史

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#2019-12-12 02:03:00の記事を少し見直して公開します。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

『倭人在り、
帯方郡の東南の大海の中、
山島に依りて国邑をなす。
・・・・・・・
郡より女王国に至るに万二千余里。』


「魏志倭人伝」のこの四百字ほどの行程記事は、とどのつまり「東夷の大国、倭の女王国は帯方郡の東南の方向の海上のおよそ万二千里も離れた遠い島ですよ。」ということでした。その後の倭の風俗記事の中に「女王国は魏のライバルの呉を圧迫する、その東方海上に在るんですよ。」と陳寿はそれとなく書いています。当時半島を支配していた公孫氏を滅ぼして、倭国を手なずけた司馬懿(しばい)とその部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)たちが魏の朝廷の人々に最も伝えたかった内容なのです。

行程記事は、女王様が統治する気の遠くなるほど遠い東夷のエキゾチックな国にどうやって行くのかと、司馬懿のライバルの曹爽(そうそう)派閥の人たちにも疑念が出ないように、一応具体的な方角や里程・日数を述べたに過ぎないということです。

曹爽の父は曹真(そうしん)で、曹真は魏の曹操の甥でした。魏のライバルの蜀の西方にある大月氏(だいげっし、都はカーピーシー、現在アフガニスタンのバグラム)を味方にして蜀を挟み撃ちにした功績があったのですが、231年に病死しています。

後述するように倭の大夫難升米(なしょめ)と談合して作成した太守劉夏らによる倭国の記録を、宮廷の書庫から陳寿が入手して、同僚の華嶠(かきょう)の「後漢書」なども参考にして、西晋の当時の実力者張華(ちょうか)が満足するように文章を整えたのだと思います。

重要なのは帯方郡から女王国まで万二千余里に、洛陽から楽浪郡までの五千里を加えて合計万七千余里となるという里程なのです。洛陽から大月氏までの万六千三百七十里を超える距離だからです。また、当時戦乱のために人口が十万戸まで激減していた魏の都の洛陽と比べると、邪馬台国で7万戸、投馬国でも5万戸ですから倭国はかなりの大国だということです。だから、卑弥呼を親魏倭王にした司馬懿の功績はあの曹真を上回るものだと魏の人々は納得します。司馬懿派閥の人間や後の西晋の朝廷の人々にとって、いかに大事な数字であるかという話なのです。

ですから完成時点でその行程の中身はどのようにでも解釈できても、誰もがそれで納得しても、しなくても(遠いところなので多少曖昧でも仕方ないと言い訳もできますし)、西晋の基礎を築いて宣帝という諡(おくりな)を貰った司馬懿の功績を述べるわけですから、パトロンの張華の顔が立ちつように陳寿が上手に持ち上げれば西晋の誰もが満足する話でした。



これはもう漢籍のエレガントな読解の世界とはまさに別世界の、ドロドロとした政治の話だったのですよ(*^▽^*)

西晋の基礎を作った司馬懿の話は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫)に在りますよ(^◇^)。

行程記事の真相はこういうことです。

くどくどと何度も述べて恐縮ですが、

だからこそ、女王国に全く政治的な思惑が無いので

邪馬台国(女王国)の所在を明確に見抜いて記述した范曄の「後漢書」こそが

邪馬台国問題解決のカギだと気付く必要があるということです。


もう少しだけ、デタラメな行程記事が作られた話を想像を交えて見てみましょう(^_-)-☆

景初三年(239年)一月一日明帝曹叡が崩御する直前に、公孫氏を滅ぼした功績によって司馬懿が明帝の後継ぎ曹芳(少帝)の補佐役となり、明帝が崩御した後に実権を握りました。ですから明帝に命ぜられて公孫氏の帯方郡を攻略して帯方郡太守となった劉昕(りゅうきん)は、最早用済みということで、司馬懿は、倭国を手なずけるように指示して部下の劉夏(りゅうか)を帯方郡太守にしたのでしょう。

劉夏着任後、早速、倭国王に使いを送り朝貢を促しました。それまで公孫氏に従っていた倭国王は帯方郡が魏の支配下に変わったので討伐されることを怖れていました。何せ司馬懿は公孫氏を滅ぼしたら、魏に逆らわないように15歳以上の男子を皆殺しにして、死骸をうず高く盛り上げた京観を作ったそうですから。そういう噂は、倭国側にも届いていたのでしょう。渡りに舟で恭順の意を示して、魏への朝貢を相談するために帯方郡に大夫難升米が行きました。景初三年六月のことです。玄界灘が比較的静かな季節です。実は、難升米は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王師升(伊都国を王都にした)の一族の伊都国男王で倭国王だったことが分かりました(「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

劉夏は、卑弥呼と邪馬台国の情報を難升米王から直接聞き出し、魏の朝廷の注目を集めるために倭国を表向き女王卑弥呼が統治する大国ということにしました。さらに司馬懿にとって最も都合の良い位置に女王国を置こうと持ち掛けたのでしょう。考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室は宗像三女神の降臨地の伝承がある安心院町三女神社と分かったので、逆に、どのようなトリックをしたのかを推理したのが以下の図です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。


難升米王は郡から東南万二千里に女王国を置くために、倭国本土の上陸地点を末盧国の伊万里あたりにして、そこで方角を90度左に曲げて、さらに不弥国から投馬国までの水行の所要日数2日とそこから邪馬台国までの1日の計3日をそれぞれ十倍に、その後の女王の居城までの陸行も1日から1月に改ざんすることにしたのでしょう。

丸木舟での海岸の航行の1日は10~30キロだと長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」(PHP新書)にあります。本来、水行は河川の航行を意味するようですが、邪馬台国への行程記事を書いて劉夏に教えた倭国王難升米は、玄界灘を支配する縄文海人ムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)の娘の卑弥呼(宗像女神市杵嶋姫命、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の居城への実際の行程を基にして、呉の東の海上になるように水行・陸行を日数で誤魔化したと考えられます。

上陸地点でのこの東を南とする方角変更の痕跡が21世紀の現代でも残っているとしたらオモロ過ぎる話ですが、呼子のある東松浦半島は伊万里から見ると北、北松浦半島は西ですよ(*^▽^*)

いやそれ以外にもこの方角変更の怪が九州にはいくつか見られますよ。そのうちにブログにしたいと地図を調べる気の遠くなるような作業してますので、いい情報があれば教えてください。【参考記事】からいいヒントを頂きました。恐らく、7世紀白村江の敗北後に、邪馬台国時代の方角変更を思い出したのではないかと思います。外敵に対する位置情報かく乱のためでしょう(^_-)-☆。

日本建国の真相は多分、平安時代くらいまで朝廷の知識人の間では語り継がれていた模様ですよ。飛鳥時代の仏教導入、奈良時代の神仏習合・山岳信仰・修験道や平安時代の空海・最澄の密教導入も、3世紀の倭国大乱の影響なのですから驚きますよ(´・ω・`)。

【参考記事】
北浦海岸の名前の謎、判明2015-02-08 09:34:45 日本の歴史と日本人のルーツ

混一彊理歴代国都之図2015-02-08 09:38:32 日本の歴史と日本人のルーツ


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