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高野御子の歌(その1)

2024-04-30 09:21:45 | 古代史
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#2024-04-27 23:29:46にアップしましたが、まだ見ていただいていない方が居られるようなので再度、アップします。よろしければお付き合いください(;^ω^)

#もう半年以上も前になりますが、jikan314様の新古今和歌集の部屋で古文を勉強させていただいているので、以前から気になっていた高野御子と呼ばれる人物が登場する歌について、以下のブログ記事に質問コメントしました。そうしたら、いろいろと調べていただきとてもいい成果が得られました。そのやり取りの内容を記録に残すためにブログにアップしました。jikan314様には、今頃になって恐縮ですが、改めて御礼申し上げます。少し長いので分割して掲載します。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)

新古今和歌集の部屋
源氏物語における「あやし」 その2 メモ 索引本間違い修正
源氏物語和歌
2023-08-28 20:24:31


katumoku10(2023年8月30日)
いつも勉強させていただいています。
丁度「怪し」という言葉が出てきたので興味を覚えました。古文は学生時代苦手にしていて、全く素養がないまま古代史研究に嵌り、幼稚な質問で恥ずかしいのですが、一つお教えください。
弘法大師空海が日本建国の主役大国主命を鎮魂する目的で真言密教の修行の場とした高野山を調べるうちに、伊都郡丹生都比売神社の祭神丹生都比売大神の御子に当る高野御子大神が現れました。丹生都比売は大国主の妃の女王台与のことであるのは、だいたい男女ペアの神様として現れることからすぐに気づきましたが、高野御子は大国主の幼名と推理していたので、台与の子供のことではなく、ペアであることを誤魔化すためにこのような伝承にしたのだと考えています。高野山の山号は高野御子から来たものだと考えています。豊岡市竹野町鷹野神社の元宮が父久久遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)の王宮で、大国主はここで生まれたと推理しています(詳細は「刮目天 【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。



そこで高野御子をネットで調べると以下のような解説があることを知りました(精選版 日本国語大辞典 )。
高野御子は日吉神社の神の使いといわれる猿の称。
※永久百首(1116)雑

「たかのみこいとも怪しと見まし鳬猿まろをしも引きたててとや」


この歌の直接的な意味は「神の使いが高野御子というのはとても奇妙に見えるかもしれないですが、お猿さんもひいきにしてくださいネ」というあまりよく分からない内容にしてますが、深い意味があるのかなと思います。先生の目から見てそのような解釈でよろしいのしょうか?

この永久百首はデジタル大辞泉で「平安後期の歌集。2巻。永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほか6人が編集。百首の和歌を収録。永久四年百首。堀河院後度百首。堀河院次郎百首。」とありました。
ということは、藤原氏が力を失い院政のはじまりで武家社会の入り口のような時代ですから、藤原政権が隠した公然の秘密「日吉神社の本当の祭神はオオヤマクイではなく大国主」あるいは「神の使いの猿は、大国主の分身猿田彦大神でしょ」ということをやんわりと暴露する内容ではないのかなと考えます。
「鳬」は「かも」でしょうから、大国主の別名の賀茂大神に引っかけたと見ました(^_-)-☆

つまり、当時の貴族の人々は日本建国の真相をある程度知っていたのですが、藤原氏の手前大ぴらにはできず、このような歌が歌集に載ったのかなと思いますが、どう思われますでしょうか?

お忙しい中誠に恐縮でございますが、劣等生にもわかるようにお教えください。よろしくお願いいたします。

新古今和歌集の部屋
永久四年百首歌 源俊頼 猿
その他
2023-09-14 10:09:19


katumoku10(2023年9月14日)
jikan314様
早速拝見させていただきました。貴記事『源氏物語における「あやし」 その2』に大変面倒なことをお願いするコメントをして申し訳ございませんでした。とても詳しくお調べいただいたので高野御子の歌について深く知ることができました。

永久四年百首歌
 雑  猿                  源俊頼
たかのみこいともあやしとみましけり猿まろをしも引きたてじとや


この歌の作者は源俊頼だったのですね。
そして、私がネットで調べた精選版 日本国語大辞典の「高野御子」の歌にあった「見まし鳬」を「見えるカモ」と解釈したのですが、「みまし」というのは御坐のことだったのですね。鳬も「賀茂大神(大国主の別名か分身)」の掛詞かと思ったのですが、ここでは「けり」と書かれていたようですね。
しかし古注で正本がないと言っているのは、この歌の正本ということならば、「見まし鳬」か「みまし(御坐)けり」なのか、よく分からないとも受け取れるのですが、そうであるなら「御坐かも」つまり賀茂大神の掛詞というのも捨てがたいのですが(^^;)
大変、有難うございました。またお気づきのことがございましたら、遠慮なくお教えください。どうぞよろしくお願い申し上げます

katumoku10(2023年9月14日)
たった今、気づきましたので再度コメントさせてください(#^.^#)

ご存じのとおり大国主には様々な別名があり、大己貴命(おおなむち-)・大穴牟遅神(おおあなむぢ-)もそのひとつです。そして「播磨国風土記」には大汝命(おおなむじのみこと)とあります。つまり、jikan様の「みしは、見しと汝(御座)の掛詞のようです。」というご意見のとおり、御坐は「汝(なむぢ)」の尊敬語ですから大国主の掛詞と見ていいように思います。いかがでしょうか?
何度も、申し訳ありません(^^;)

jikan314(2023年9月15日)
@katumoku10 これ以上無理かな?と思って、新古今和歌集を読もうとした途端、机の上のコーヒーを足に溢してしまいました。
これは、大己貴命の神罰だな⁉️と言う事で、急遽図書館に行って調べてみました。
汝(なむじ、なんじ)の国語大辞典を読むと、大己貴命の例を出していました。
とりあえず、宇治拾遺物語をアップしまいましたので、御覧ください。
高野(こうや)を蛇、中山(ちゅうざん)を猿としております。
源俊頼は、歌会で、自分の名前を折り込む程難解な歌を作ります。
このエピソードを知っていたのかも?確証はありませんが。
次は、今昔物語、そして源俊頼の歌論、俊頼髄脳を調べてみます😃

(つづく)

【関連記事】
猿田彦大神の石碑のなぞ?
高野山の秘密?
高野御子は、スサノヲの子孫で、倭国大乱の英雄狗古智卑狗「日高彦の御子(ひだかひこのみこ)」が大国主ですので、それを省略した形で高野御子(たかのみこ)としたようです。出雲三代の大国主の系譜を隠すための隠語なのでしょう(#^.^#)



通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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高野御子の歌(その2)犬猿の仲の由来かも(^_-)-☆

2024-04-28 20:18:06 | 古代史

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新古今和歌集の部屋
宇治拾遺物語  吾妻人生贄をとどむる事
物語 2023-09-15 06:38:19

宇治拾遺物語巻第十 六 吾妻人、生贄をとどむる事

 


今は昔、山陽道美作国に※中山、※高野と申す神おはします。高野は蛇、中山は猿丸にてなんおはする。その神、年ごとの祭に必ず生贄を奉る。人の女のかたちよく、髪長く、色白く、身なりをかしげに、姿らうたげたるをぞ求めて奉りける。昔より今にいたるまでその祭怠り侍らず。それにある人の女、生贄にさし当てられにけり。親ども泣き悲しむこと限りなし。人の親子となることは前の世の契りなりければ、あやしきをだにもおろそかにやは思ふ。ましてやよろづにめでたければ、身にもまさりて おろかならず思へども、さりとて逃るべからねば、嘆きながら月日を過す程に、やうやう命つづまるを、親子とあひ見ん事今いくばくならずと思ふにつけて、日を数へて明け暮れはただねをのみ泣く。 ※岡山県津山市一宮にある大明神。主祭神は鏡作命ではあるが、大己貴命(大国主命)、瓊瓊杵命が合祀されている。

<以下省略>

katumoku10(2023年9月15日)
こんばんは!宇治拾遺物語、名前しか知りませんでしたが、とても面白い話が載っているのですね。どうも、有難うございます。 それで、生贄の話はヤマタノオロチと似ているし、身長七、八尺の大猿は猿田彦大神でしょう。ニニギノミコトの天孫降臨の道案内の神ですから、一緒に祀られているわけです(^_-)-☆

犬猿の仲の猿を犬に喰わせるという話も面白いですね。神にも弱点があるということでしょうか?犬はどこからの発想なのかははっきりしませんが、今、思いつくのは魏志倭人伝の狗奴国や狗古智卑狗ですね( ^)o(^ ) 女好きの大猿は、大国主久々遅彦のことです。

弥生後期(2世紀)に半島南部の鉄のネットワークの元締めだった先代久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神、スサノヲの子孫)のことです。各地の首長はネットワークに参加するために綺麗な娘を差し出すしきたりがあったようです。それによって血縁関係で結ばれ、首長間の序列も作られたと見ています。 精力絶倫の大国主のシンボルは陽石です。縄文時代からの石棒信仰です。宇佐市安心院町佐田地区が、大国主が最初に国造りした「豊葦原の瑞穂の国」と突き止めましたが、「こしき石(いわ)」という陽石が田んぼの中に米神山方向に向いています。頭の部分に平石が置かれていて、これを取り外すと暴風が起こるという言い伝えで、誰も触りません。

大国主の支配した倭国のシンボルが安心院町の豊葦原瑞穂の国でしょう。



また蛇神はナーガ(龍蛇神)で初代奴国王の天御中主はナーガ(中)を信奉する海人族の王という意味です。

福岡市吉武高木遺跡に降臨した呉の王族で、天皇家の祖神です。日本書紀が隠しましたが、人々は龍神とか水神様として祀っています。

吉備の中山では奴国王スサノヲの弟ニギハヤヒ大神を朝廷は吉備津彦という名前にして備前国一之宮吉備津彦神社と備中国一之宮吉備津神社で祀らせています。中山という地名は、竜王山・龍王山と同様に全国にあります。当然、当時の人の共通の理解なのだと思います。

宇治という言葉も大国主の宇佐に因んで、ウサギ=大国主が治める場所という意味です。同時に菟遅は大国主の祟りという意味もあると思います。伊勢神宮内宮の宇治橋や門前町の地名の宇治は祭神の天照皇太神が大国主だと暗示しています。

斎宮に来ていた未婚の皇女は大神の妻ということです。朝には蛇のうろこが布団の上にあったという話は有名ですね。アマテラスが男神であることは当時の人々の共通認識だったと思います。

江戸時代になって本居宣長が古事記を広めたので、その後明治になって国家神道創設や学校教育によって記紀神話に変わっていったのですが、現代日本人は洗脳されていますが、記紀神話は新しい神話なのです。

それまでの日本民族の神話・伝承は神仏習合・山岳信仰の修験道や道教・陰陽道などの影響で中世日本紀と呼ばれるものに変化したということは、すでにご存じかも知れませんが、斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書)の中で説明されていました。

昔は全く苦手だった古文ですが、古代史研究でjikan様の記事などで勉強させてもらって、何となく意味が分かり、なんか親しみを感じるようになってきました。また古文の勉強をさせてください。どうもありがとうございました( ^)o(^ )

新古今和歌集の部屋 『宇治拾遺物語』「猿神退治」考 その他 2023-09-16 21:36:33
『宇治拾遺物語』「猿神退治」考
著者 廣田 收
雑誌名 文化學年報 号
発行年 2006-03-15
権利 同志社大学文化学会


katumoku10(2023年9月16日)
とてもいい記事をアップしていただきましたので、早速、論文をダウンロードしました。なんと百ページもあるので、直ぐには読めません。全部、細かいところまで読むとjikan様のご意見どおりになるのでしょうが、私の理解では猿田彦と猿田彦の一族というのは大国主でもあり、すべて同じものなのです。

これは古代人の先祖に対する感性なのだと思います。つまり先祖の霊魂を身に着けるから大業・偉業も可能になるという首長霊信仰です。これは男系首長の話です。2世紀末の倭国大乱から縄文系の人々のそれまでの祖霊信仰と穀霊信仰は乱暴に聞こえるかもしれませんが同じ霊魂なのです。記紀神話や神社伝承などで大国主とその祖スサノヲを同一人物のようにしているので、最初は分かりませんでしたが、当時の人にとって霊魂は引き継がれて、同じものだと見ているのだと気づきました。菅原道真もスサノヲの本地仏である大威徳明王の怨霊なのだと気づきました。

そして縄文・弥生人の神に対する現代人の思い込みが記紀のミスリードだと分かりました。 当時の人々は草木にも八百万の神が宿るというアニミズムだと学校で説明されていますが、歴史学者佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書2021年pp.32-34)に、「当時の人々が個々の草や木を、アニマをもつカミとして崇敬したという証拠は見いだせない。」とあり、原初の人類は太陽や月の運行など自然現象に人知を超えた力を見出しカミとして崇め、同様に大きな磐座、あるいは人類のもちえない能力のある動物を神として崇めていたとあります。ネットでもブログを出されていますのでご参照ください(^_-)-☆。 「日本の神はどこからきたのか? 自然現象から宗教が発生するワケ(2024.4.28 赤字加筆)

縄文時代中期から突然、蛇を頭にかぶる女神像が登場します。この時からヘビ神信仰が起こります。ヘビには人間にない能力があると見出したのです。大国主=猿田彦も、龍蛇神天御中主の子孫です。大猿に結びつけたのは道教の影響です。玉帝の両脇に猿神が居るので、日本書紀で大国主を大猿としたと分かりました(拙ブログ「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?」、「「申」をなぜ「サル」と読むの?」参照)。
(この図の中央上部に玉帝が描かれています。玉帝の左側が觜火猴で、右側が参水猿でしょう。 Wiki「玉皇大帝」より)。

jikan様の宇治拾遺物語の東人の話で、「犬猿の仲」は何が由来なのかを調べたらいろいろ出てきました。例えば、「犬猿の仲に隠された6つの由来」参照! しかし、申し訳ないですが、どれも納得できるものがありませんで、思案していたらやっぱり日本建国時代に答えがあるはずだと気づきました。 つまり犬猿の仲は「大国主VS狗奴国」というのが日本の昔話としては自然です。魏志倭人伝を読んだ人が作った言葉なのか?古代からの日本人が一致する思いが伝承となるはずです。大きな歴史的事件は人々の心に深く残るので口伝えで生き残り、仏教や道教などの影響を受けて寓話に変貌して行くのだと思います。(2024.4.28 赤字追加)

それで思い出しましたが、「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください(^_-)-☆ ご紹介いただいた論文を読んでみて、またじっくりと考えたいと思います。どうもありがとうございました(#^.^#)

【関連記事】
大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v


ストーンサークル 佐田京石 こしき石の謎 石藤@YouTube 8年前


佐田京石/こしき石(いわ)モノクロの写真集ですが、雰囲気がありますよ(^_-)-☆

佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)


ということで最後まで読んでいただき、感謝します。また、何かを発見したらご報告いたします(;^ω^)
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沼津市高尾山古墳の被葬者はヤマトタケルのモデル!

2024-04-26 12:05:58 | 古代史

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#8年も前の動画に今頃気付いてコメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

日本書紀で景行天皇とされた実在人物の墓です。ヤマトタケルのモデルでもあり熱田神宮に祀られています。この地で戦死して高尾山古墳に祀られたと推理しています。尾張氏が武力で日本を統一した建国の父なのですが、日本書紀を完成させた藤原不比等が建国の史実が都合が悪いので、国譲り神話などを創作して隠されてしまいました。でも、藤原氏の春日大社で神話のタケミカズチとして祀っています。
詳しい話は【検証26】建稲種命の終焉の地は? をご参照ください(;^ω^) 
 
 
【関連記事】
抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!

 

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【邪馬台国問題】徹底考察!ここにあった?

2024-04-24 21:06:47 | 古代史

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#半年以上前のとてもいい動画を見つけて早速コメントしました。ちょっとギャグを入れたので消されたようですが、改めて別の方にまじめなコメントを入れても削除されました(;´Д`)そうか、自分のブログへのリンクが問題だったのかな?。他の方のコメントもとても参考になります。顔見知り?ハンドル名ですが、のコメントもあり興味深い議論をしています。よろしければおつきあいください(;^ω^)

 

【古代】徹底考察!!邪馬台国はここにあった!!【歴史】 古代ミステリーチャンネル@YouTube

@katumoku10
卑弥呼の墓は径百余歩の冢とありますが、直径約150mの円墳「三柱山古墳」が発見されています。よろしければ

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(;^ω^)

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆ - 刮目天(かつもくてん)のブログだ!

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いつも応援ありがとうございます。よろしければポチっとお願いします(^)o(^)古代史ランキング古代日本史:日本神話と邪馬台国の謎解き【私見】minervascientia@YouTube刮目...

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@gaku_k
壱与は卑弥呼の娘ではありませんよ。

@kotetu358
貴方は当時を生きて見て来たんですか?

@mahitokiyohara6993
  @kotetu358 
何でもありですね。

@user-qg7oc5bt5f
良いですネ。居たんですネ、知っている人が。昔は壱与と書いて「とよ」と訓じたタワケもいました。「臺」「壹」「壺」の篆文を比較すると解ると思うのですが・・・。

@user-ub4pg2wm9g
年齢が合わないんですよね。卑弥呼未亡人かもしれないのに結婚してないと断定するのは変でしょう。因みに壱与と尉仇台の妻となった公孫度の娘の外この辺りの時代・地域で宗女とされる女性はいるんでしょうか⋯。

@katumoku10
 @user-qg7oc5bt5f   イヨはひろみの嫁さんと愛媛県くらいですが、日本の古代史にはトヨに因む重要な神様、地名などが数多く登場しますよ。ヤマイチコクなど存在しません。邪馬台国には意味があります。なぜ臺を壱と書いたのか理由があります。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」を参照してください(;^ω^)

@katumoku10
 @user-ub4pg2wm9g  さん 卑弥呼も台与もムナカタ海人族の姫巫女ですので、台与は卑弥呼の宗女で間違いないのですよ。縄文系の人々が営んだ唐古・鍵遺跡の絵画土器に描かれていますが、姫巫女と巫(かんなぎ)のペアで部族をまとめていました。魏志倭人伝にも登場します。卑弥呼の父は正始四年に魏に朝貢した伊殸耆だったのです。官位を貰う前に現地で死亡したようです。伊は聖職者を意味し、巫女が憑依して口寄せした太陽神の言葉の意味を理解し、人々に声で伝えるシャーマン王がイセと呼ばれていたと推理しました。耆は老人を意味します。これが卑弥呼の鬼道の正体です。台与も姫巫女です。縄文系の琉球古神道にも残っていましたよ。詳細は「卑弥呼の鬼道とは?」を参照してください(;^ω^)

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富雄丸山古墳に何故葬られたのか?(@_@)?

2024-04-21 09:37:02 | 古代史

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#2024-04-18 12:24:16に記事にしましたが、その後に直ぐに次の記事をアップしたので、あまり見られていないようなので、再度アップしました。よろしければご覧ください(;^ω^)。

#興味ある富雄丸山古墳の被葬者について記紀の神武東征神話から推理している動画を見つけましたが、神武天皇は本当の初代応神天皇の虚像ですので、私見をコメントしました。さらに日本書紀に隠された二人の天皇について推論しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


【富雄丸山古墳】古墳の主は誰?空白の4世紀解明へ!【1600年前の真実】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】@YouTube 2024.4.16

00:00 オープニング
00:55 富雄丸山古墳で相次ぐ国宝級の大発見!
04:28 未盗掘の木棺から青銅鏡り堅櫛を発見!
09:36 富雄川流域は長髄彦の支配地だった!?
13:55  古代ヤマト王権「水銀朱」をめぐる錬金術


多くの皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っていますが、日本書紀が成立したのは天武天皇崩御の34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良(持統天皇とされたが実は即位していないと推理)と組んで天武天皇の優秀な皇子たちを排除して、皇位を簒奪して権力を握ったのです。その悪事を隠し、3世紀の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の勢力を抑え、自らの祖神を活躍させる神話まで創作し、天皇家すら貶めて藤原氏の権力の正統性を主張するために創った勝者藤原氏の歴史書だったのですよ。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。正史にも古事記の記録がないし、日本書紀が古事記を参照したと分かる痕跡もないのです。(2024.8.29 赤字追加)人長の創作なのですが、天皇の歴史書だと思い込んでいるので気づけないのです。

古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するための暗号書だったのです。

建国の史実から古事記の暗号を解くと空白の4世紀から倭の五王の時代が解明できました。初代天皇は大国主(龍神トビヒコ、武内宿禰、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦)と女王台与(記紀の神功皇后のモデル、近江・北陸を拠点とするムナカタ族の姫巫女)の子の応神天皇です。狗奴国ヤマト勢に殺された両親の鎮魂のために纏向に呼ばれたヤマトの初代祭祀王(崇神天皇紀の大田田根子)です。神武天皇は史実を誤魔化すために創作された初代応神天皇の虚像です。

富雄丸山古墳の被葬者は、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇として即位していた)と推理しました。母が卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の弟赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)の娘宮主宅媛なのです。



オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され皇位を奪われたので、和邇氏の支配地でひっそりと葬られたのです。富雄の地名はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山の丸は和邇ですので和邇氏の墓を意味します。卑弥呼も弟赤坂比古も父先代赤坂比古もすべて巨大円墳に葬られています。

仁徳天皇の母仲姫命は記紀では景行天皇皇曾孫ですが、景行天皇のモデルの尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、ヤマトタケルのモデル)の子孫です。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)と同じニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者)の子孫です。大和盆地は大国主傘下の敵対勢力ばかりなので、ニギハヤヒ大王に所縁の氏族の拠点の河内・和泉で即位した模様です。詳しくは「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。和爾氏を隠さねばならない理由も分かりました。これが日本書紀のメインテーマだったのです。長々とお邪魔しました(#^.^#) 


日本建国の史実は247年の卑弥呼の死後に倭国追討軍の主将尾張王乎止与命(ニギハヤヒ大王の子孫)が狗奴国を裏切って倭国王に立ったので、それに不満のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(豊岡市久久比神社祭神久々遅彦、最後の奴国王スサノヲの子孫、先代は戦死と推理)と内戦になりました。久々遅彦は卑弥呼の弟赤坂比古が助太刀して尾張王を討ち、内戦に勝利し、狗奴国を裏切って日本列島の大半を支配したので記紀神話で大国主命と呼ばれました。父を殺された尾張王建稲種命(記紀神話のタケミカズチ)が父の敵討ちで大国主・台与そして赤坂比古を討ち、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)が日本を統一しました。



しかし、狗奴国の後ろ盾だったと推理した孫呉が280年に西晋に滅ぼされたので、女王台与の倭国を滅ぼしたために西晋に追討されることを怖れました。大国主と台与の祟りと考えた卑弥弓呼大王は二人の子を鎮魂のために纏向に呼んで祭祀王とし、国名もヤマト(邪馬台国)としたのです。これが初代応神天皇即位の史実だと推理しました。

応神天皇は265年に生まれたと古事記の崩年干支から推理したました。父の大国主は247年頃に13歳の台与を外交上卑弥呼の後継の女王とし、その後妃としましたので、応神天皇は末子ではないかと考えられます。兄が戦死していなければいたはずですが記録は残っていないようです。

卑弥弓呼大王は大国主系氏族との融和を図るために、応神天皇の妃として尾張王建稲種命の子尾綱根命の三人姉妹を嫁がせたと考えています。次女の仲姫命が295年に長男オオサザキ(仁徳天皇)を産みましたので、皇后とされ、オオサザキを世継ぎと決めたのだと推理しました。長女高城入姫命も同時に輿入れしたと思いますが、日本書紀は仲姫命が長女よりもひと月後に妃になったとしています。応神天皇崩御後に反乱を起こす大山守命を産んでいます。三女弟姫命は4人の皇女を産んでいますが、皇子はいませんでした。

弥生時代の大和盆地の拠点集落の唐古・鍵遺跡の出土品から見て、大国主の配下の縄文系ムナカタ族が開発したと推理できますので、ヤマトの大王となった応神天皇の父の大国主の一族に大和盆地を支配させたと推理しました。大和盆地北部を支配地とする和邇氏は卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘宮主宅媛を入内させて299年に菟道稚郎子が生まれたと考えました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」参照)。



崇神天皇は日本書紀では辛卯年崩御とありますので紀元前30年という計算になりますが、崇神天皇のモデル卑弥弓呼大王の崩御は、3世紀末か4世紀初頭と考えられますので、古事記の戌寅年とすると318年が正しいと考えられます。天理市柳本町の全長250mの前方後円墳「行燈山古墳」に葬られたと考えています。



応神天皇は334年に崩御したと推理していますが、「真の応神天皇陵を推理する!」で述べたとおり、日本書紀で景行天皇陵とされた全長300mの巨大前方後円墳「渋谷向山古墳」だと推理しています。景行天皇とされた建稲種命の墓は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」で推理しましたが、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」と推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。

宇治天皇が即位すると、母方の和邇氏が隆盛になり、卑弥呼に所縁の豊前地方や倭国大乱期に一族が住んだ肥後などを支配し、さらに卑弥呼の弟赤坂比古が殺された恨みから尾張王の領土まで侵入した模様なので(注)、尾張王の一族がオオサザキ(仁徳天皇)を立て和邇氏と対立し、宇治天皇を暗殺したと推理しました。仁徳天皇は敵対勢力の多い大和盆地を出て、元々ニギハヤヒ大王の一族が移り住んだ河内・和泉を拠点としました。仁徳天皇が崩御すると対立する両勢力の和解のために宇治天皇の妹八田皇女の子住吉仲津比古が住吉(すみのえ)天皇として即位しました。ところが、高句麗が半島南部の百済・任那・新羅を圧迫するようになり、倭国が鉄資源を確保するために半島南部で高句麗と対立するようになります。新羅に縁のある和邇氏が主導権を取り戻し、半島を支援するために王権強化のために、物部・尾張のニギハヤヒ大王系の氏族を締め付けた模様です。『晋書』安帝紀・『太平御覧』に413年に東晋の安帝に貢献した記録がありますが住吉天皇の事績と考えられます。好太王碑に半島での高句麗と倭国の抗争の模様が以下のとおり記されています。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した[9]。
— 好太王碑
[9]野呂肖生・笠原一男『史料による日本史』山川出版社、2007年1月1日、4-5頁。ISBN 978-4-634-02023-8。


新羅の源流の辰韓時代には奴国大王スサノヲをモデルとする脱解王の一族が支配していましたが、新羅も百済ももとは高句麗と同じ扶余族です。「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で述べたように、元々は楚人(シナ人系O2)や倭人(O-47z)の集団の濊(かい)人が出自と考えています。恐らく高句麗は楚人が扶余から分裂し、北東アジアでツングース系の人々と共に活動した騎馬民族の集団ではないかと考えています。

(注)名古屋市南区鳥栖は卑弥呼の父赤坂比古の支配した佐賀県鳥栖市と同じ地名で、神明社(鳥栖)の多数の祭神の中に五男三女神(ごなんさんじょしん)がありますので、和邇氏の祖神である宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼を祀っていると考えられます。地元ではこれを誤魔化すために「とりす」と呼んでいます。

また、『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつ名古屋市名東区和爾良神社(わにらじんじゃ)で応神天皇時代に百済から渡来し、千字文を伝え、菟道稚郎子の家庭教師となったとされる王仁吉師(わにきし)を祀っています(王仁吉師は架空の人物という説が有力です)。尾張王を殺した和邇氏が良いという名前の神社ですが、地元では尾張王が仇討ちしたのだから、当時の尾張のトレードマークの「かに」の尾張王が良いという意味で「かにらじんや」と呼んでいると推理しました。正解は論社の一つ長久手市「景行天皇社」だと推理しています。(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

和爾氏は藤原氏によって没落させられて、大和盆地の領地を奪われ、春日大社に尾張王建稲種命である国譲り神話の英雄タケミカズチとともに比売神を祀っています。天児屋根命の妻で天照大御神という説まであるようですが、卑弥呼のことでしょう!藤原氏は徹底的に隠した尾張王や卑弥呼の祟りを怖れ、ゴメンナサイという気持ちで祀っていたのでしょうね(;´Д`)

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【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?
6.日本建国の謎
②景行天皇の九州遠征の史実は、尾張王建稲種命の父の仇討だった
④狗奴国がヤマトになったのは大国主の祟りだった

【発見!】卑弥呼の墓(^_-)-☆


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