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まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)

2021-09-30 14:18:55 | 古代史
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THE古墳 箸墓の主は…卑弥呼、次の女王それとも「男王」
2021/9/29 08:00 小畑 三秋 無料会員記事



古代史好きの人々がゾクゾクする話題ですが、正解はとっくに出ています。
箸墓が卑弥呼の墓ではない事実を以下にあげます。
①魏志倭人伝に、「卑弥呼、以死、大作冢、径百余歩。殉葬者百余人」とあります。当時の一歩は約1.5m(右足を出して、次に左足が着地するまでの距離)ですから、卑弥呼の墓は直径が約150mの円墳です。箸墓も後円部の直径は150mですから一致しますが、墳丘長約280mの前方後円墳ですから、径百余歩の冢(つか)という表現には一致しません。

②卑弥呼の死の記事の直前には、正始八年(247年)に卑弥呼が帯方郡の新任の太守への挨拶のために遣使し、狗奴国との抗争を報告し、多分支援を求めました。それに応えて247年に倭国を訪れた魏使張政が倭国王への詔書と難升米に魏の正規軍の旗「黄幢」を授け、さらに、檄(おふれ)により告喩したとあります。ですから、張政が到着した時には卑弥呼は既に死んでいて、墓も作られていたと考えられますから、箸墓のような築造に何年もかかる大規模な前方後円墳ではなく、急造りの土を盛り上げただけの墓と考えられます。

③築造年代は、布留式土器が発見されているので、三世紀半ばではなく三世紀末葉です。

④「日本書紀」には箸墓の被葬者は大国主の妻「ヤマトトビモモソヒメ」とあり、夫を持たない卑弥呼ではないと言えます。


ですから、年代的に卑弥呼が死んだ後に13歳で女王に立てられた、卑弥呼の一族の台与の可能性があります。刮目天は卑弥呼の死んだ後の内戦に勝利した出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦)が卑弥呼の版図(九州・四国・中国西部)を加えて列島主要部分を支配したので、後世に大国主と呼ばれた人物だと突き止めました。そして狗奴国王卑弥弓呼を裏切って、台与を女王ということにして魏を後ろ盾として纏向の狗(旧)奴国勢力と対立したと推理しました。



しかし、狗奴国は再び倭国を追討し、大国主と台与を殺して列島を支配しましたが、魏の後継の西晋により280年に呉が滅ぼされ三国が統一されました。多分呉を後ろ盾としていた纏向狗奴国は、大国主と台与の祟りとして西晋の追討を恐れました。そこで、大国主と台与の間に生まれたホムダワケ(応神天皇)をヤマトの祭祀王(大王)として纏向に呼び寄せて、「纏向の狗奴国は母の代から、いやその前の叔母さん(卑弥呼)の代からお世話になっている邪馬台(ヤマト)ですから仲良くしましょう」ということで、纏向を対外的にヤマトと呼んだと突き止めました(^_-)-☆

ですから、応神天皇は父大国主のために桜井市外山(トビ)に茶臼山古墳を作り、母の台与のために箸墓古墳を作り改葬しました。母の墓を父のものよりも大きくしたのはどうしてでしょうか?

その答えは、対外的には母は倭国女王だからですね(^_-)-☆

箸墓の被葬者を「ヤマトとトビを何度も何度も唱える姫」という意味の名前にしたのはどうしてでしょうか?

その答えは次のとおりです。たった13才で卑弥呼の後を継ぐ女王(姫巫女)にされ、大国主(トビ、ヘビの別称)の妃にされて、結局ヤマト勢に殺されました。ヤマトもトビ(大国主)も、どっちも恨んでいるでしょう。台与(トヨ)を悲劇の女王と後の人が哀れみ、その崇りを畏れたので多くの伝承などが残されています。祟るはずのない神功皇后が実は祟ります。天変地異がある度に、朝廷は神功皇后を祀る神社に勅使を立てて、神階を上げ、食封を捧げて鎮魂の祈祷をしています。能楽の「鶴亀」やカゴメ歌も女王台与の話ですよ。詳しくは「悲劇の女王台与のはなし(その1)~(その4)」をご参照ください。

この記事の話に戻りますが、これ程ハッキリしているにも拘らず、まだ卑弥呼の墓という間違った学説?が完全に消えないのはどうしてでしょうか?「邪馬台国は纏向にあった」といういわゆる畿内説を主張するからでしょうか。しかし、畿内説もとっくに破たんしています。

纏向遺跡は卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭に突然出現した王都です。周辺に水田などがない宗教的な目的で作られたものです。そこに多くの外来系の土器が発見されています。特に、伊勢・東海のものや山陰・北陸や関東のものまであります。しかし、当時の先進文化を取り入れる玄関の北部九州のものがほとんどありません。

210年頃築造された纏向石塚古墳は纏向遺跡の最初の王墓ですが、そこに北部九州の人々が参列していません。纏向が邪馬台国ならば、伊都国に置かれた大率が女王への外国の貢物などを確実に届けることになっていますが、その痕跡がありません。畿内説では、邪馬台国と対立すると考える狗奴国は東国に在るはずですが、関東からも人々が纏向にやって来ています。畿内説を唱える研究者はこういう事実を全く無視しています。詳しくは「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」をご覧ください。



一般の古代史ファンにとって、古代史が謎に包まれたロマンなのはいいのですが、真実を探求する歴史学者や考古学者が証拠となる事実を認めない体質があるように思います。やはり、それなりの権威のある学者が、大衆に迎合して、間違いを認めないということなのでしょうかね?権威が失墜するとその後の研究グループの活動にも支障があるからなのかと勘ぐってしまいます。

しかし、素人の古代史ファンなら古代妄想も許されますが、事実を無視したり隠蔽・歪曲する体質の専門家がマスメディアを利用する発信は、歴史学や考古学が科学であることを放棄する自傷行為でしょう。間違いを間違いとして勇気を持って認めるのが真実を科学的に探究する立場の、真の学者でしょう。真実の探求は、宗教や権威への信仰により妨げられます。事実に基づく科学的思考だけが真実への道を開きます。

しかし、科学者が到達するものは、現時点で把握された事実によって推論された仮説でしかないというのも事実です。この仮説推論に反する事実が新たに発見された場合は、検証によってその仮説は棄却されなければならないということを常に考えていなければなりません。「真実は神のみぞ知る」という謙虚な姿勢が学問の発展には必要ですね。それが学問を科学的に発展させる唯一の方法でしょう(^_-)-☆



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箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v


チョッとくどい話になって恐縮ですが、通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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日本の歴史の始まりはこうだ(その5)

2021-09-29 15:50:59 | 古代史
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一部、赤字で修正したものをアップしました。今後つづきを書いてゆく予定ですので、またよろしくお願い致します。

今回は二世紀初頭(弥生後期後葉)の奴国宮廷楽師らのクーデターによる奴国滅亡後の伊都国時代について見てみましょう。

伊都国に王都を遷した師升一族の倭国と楽浪郡との対外交易ルートは、少し後の三世紀の倭国の様子を書いた「魏志倭人伝」の帯方郡と倭国との経路と少しだけ異なりますが、今後も倭人伝ルートと呼ぶことにします。つまり、卑弥呼が女王になる前の伊都国時代は、伊都国から末盧国・壱岐の後、対馬を経由せず、直接楽浪郡に向かうルートがメインだったと思われます。対馬を経由したとしてもその後は狗邪韓国(釜山)や勒島に立ち寄らず半島の南岸を横目で見ながら、半島西岸を回って楽浪郡に向かったと考えています。

奴国時代から対馬経由で半島南部に渡り、洛東江を北上して楽浪郡に向かうコースとその逆コースが通常の交易ルートのようでしたが、師升王の倭国は半島南部が旧奴国勢力に抑えられているのでそのルートでの交易は出来なかったということです。師升王は107年に後漢から王と認められるために大船団を組んで朝貢し、成功したようです。従って、後漢を後ろ盾とする楽浪郡との交易の方を重視し、敵対する旧奴国勢力の半島南部は放置していたと考えられます。

その中継点が壱岐の原の辻遺跡です。久住猛雄「3世紀のチクシと三韓と倭国」ふたかみ邪馬台国シンポジウム17によれば「弥生後期から終末期において、壱岐の拠点集落である原の辻・カラカミ遺跡に楽浪郡や三韓土器が集中しているが、伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ない」とあり、半島南部の人々は上述のとおり旧奴国勢力なので、壱岐までは来ることはあるが、敵対する伊都国には来ることが出来ないということなのです。

結構誤解があるのですが、当時の半島南部は韓人の世界ではなく、旧奴国勢力の倭人が支配する領域だったのです。(注1)

勿論、秦(辰)韓人も倭人が支配する弁辰に入り込んで倭人と一緒に鉄を取っていたと三世紀の様子が「魏志倭人伝 韓伝」にありますが、山陰・丹波王の久々遅彦(狗古智卑狗、クーデターを逃れたイタケル王子の直系の首長が代々久々遅彦を襲名したと考えています)がスサノヲ大王時代の縁故によって鉄素材を入手できたと考えています。二世紀前半から列島に沖ノ島経由で鉄素材を運ぶのはイザナミの一族の縄文海人ムナカタ族でしたので旧奴国側の勢力でした。

弥生中期後半から活発に行われていた半島南部の勒島と奴国に属する伊都国との交易が廃れ、楽浪郡・壱岐原の辻・伊都国三雲間が正式な対外交易ルートに変わりました。伊都国の王都とされる三雲遺跡の番上地区で楽浪郡の土器が集中して見つかっており、華僑の居住区と推定されます。そして伊都国の深江井牟田遺跡や御床松原遺跡などで華僑が倭人と交易していたと考えられます。これによって三雲南小路遺跡に王宮を置いた倭国王は後漢朝廷や半島情勢などの情報を華僑から入手していたのでしょう。当然、倭国側の人々(王や大夫)も文字を使い、口頭でも情報交換できたと考えられます。師升ら奴国の宮廷楽師は、もともと方士徐福が龍王(奴国大王)の要請で連れてきた人々の子孫でシナ人だと考えています。(2021.9.29 赤字修正)

すでに当時の日本で漢字が使われていた証拠がいくつか見つかっているからです。

福岡市博多区雀居遺跡で見つかった組合せ机は弥生時代後期後半のもので伊都国の王宮の三雲・井原遺跡から同じ時期の硯や今宿五郎江遺跡では木簡・竹簡を入れる漆塗りの筒の一部も見つかっています。(2020.10.23 赤字追加)



更に決定的な証拠が見つかっています。1948年に室見川河口近くの西鴈で発見された「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」と書かれた文鎮状の銅片「室見川銘板」です。つまり、扶桑国(日本の古称)に住む神仙の助けで、倭国王が王宮を造り、祭祀を行い、永遠に統治できるようにしたという内容です。延光四年は西暦125年です。師升が107年に朝貢した安帝がその年の3月崩御して少帝劉懿が即位しています(【わかった!】室見川銘板のなぞ)。強く祭祀に拘っているので、おそらく師升王の時代だと思いますが、次の王の時代かも知れません。

伊都国時代の日本ですでに文字が使われて、伊都国でシナ語も使われていたということは、「魏志倭人伝」に現れる地名や人名などを倭人が直接書いて魏使に示したものであることを示唆していますので、特に重要です(注2)。

また、奴国時代の伊都国王の三雲南小路遺跡の南約100 mにあったと推定される井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)の王墓に師升王が葬られたと思われます。

『柳園古器略考』(青柳種信著)によれば種信は聞き取り調査を行い、農民が保管していた鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。
「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。 あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」出土した銅鏡はすべて中国製である。拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着するまでの期間を加えたものとなる。それはおおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定できる。また、出土した 豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。
とあります。

弥生後期後半の「この時期,三韓土器は北部九州から瀬戸内・畿内に分布するが,一方,楽浪土器には器種構成や分布の変化が起こっている。
 まず,器種をみると,物資の運搬に有利な,大きすぎない壺・鉢・杯が主体となる。このような器種構成の変化は,楽浪人の側に原因を求めるべきである。すなわち,三雲遺跡群での楽浪人の滞在という特殊な政治状況から,交易を中心とする交渉へと遷り変わった可能性がある。」
「勒島貿易と原の辻貿易」考古学のおやつ より)とあります。三韓土器が出土する北部九州は不弥国(うみこく、宗像付近)で、ムナカタ族と一緒に半島人が沖ノ島経由で瀬戸内や畿内に訪れたものと思われます。また、三雲遺跡に楽浪人が滞在しなくなるのは次の半島の混乱期とそれに伴う倭国大乱によるものだと思われます。その詳細は次回にします。(2021.9.29 赤字修正)

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(注1)十二世紀に作られた正史「三国史記」の新羅第四代脱解王は奴国大王スサノヲをモデルにしたものと考えています(新羅の脱解王が奴国大王?)。脱解尼師今(57 - 80年)の後、朴氏に王位(尼師今)を戻した後、脱解王の孫伐休(ばっきゅう)が第九代王(184 - 196年)、その後も第十三代王の金氏を除き(262 - 284年)、第十六代まで伐休の孫訖解(きっかい)が王位を継いで(310 - 356年)、その後は金氏が尼師今(王)となっていたと「三国史記」に書かれています。しかしwiki「新羅」によれば「外国文献の新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦に朝貢したという記事です」ので、四世紀中頃までの王の在位はよく分かりません。半島の古代史だ!(漢四郡まで)で見たとおり紀元前三世紀から前二世紀頃に大陸から戦争難民が大量に押し寄せるまで江南系と縄文系の倭人が半島南部を支配していましたので、「三国史記」にある王名は信ぴょう性はないとしても、四世紀中頃までは倭人の有力者が半島南部(辰韓・弁韓)を支配していたと考えていいと思います。

(注2)「魏志倭人伝」の地名や人名などは倭人の発音を聞いて魏使が書き写したということで、いわゆる卑字が使われていたのではないという主張は当たらなくなります。例えば、卑弥呼の卑はヒミコを貶める文字ですし、狗奴国も旧奴国を女王国に逆らう狗コロの奴国という意味になります。奴国はすでに57年に使われたナーガ国を意味する国名ですから、その当時の奴国王らは漢字が使えなかった可能性もありますが、伊都国時代ではその王都を殷(商)の建国を助けた有名な宰相伊尹(いいん)に因む「伊都国」と書いていますので、孟子を読む教養人が倭国に居たことを示しています。


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「申」をなぜ「サル」と読むの?

2021-09-10 17:52:29 | 古代史
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「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!(2020-11-28 19:54:00)に以下のように書きました。

「申」は「いなびかり」を示す字という説明のようです。

『漢書』律暦志によると申は「呻」(しん:「うめく」の意味)。果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。
後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。(Wiki「申」より)

しかし、この説明では良く分かりません。「申」を「サル」と読むのはやはりサルタヒコと関係があるのかも知れませんね。どなたかお詳しい方がおいでなら、お教えください(#^.^#)

これに対して、テレビとうさんからいいコメントを頂きました。

申⇒猿 (テレビとうさん)
2021-09-07 07:39:50
「後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。」

この「後に」は、いつの事か判りますか?

私の感では「江戸時代」のような気もしますが。
🐵


Re:申⇒猿 (刮目天)
2021-09-07 08:43:21
おはようございます。Wikiにそのように書かれていますが、申は十二支のひとつですね。古代中国で始まった十二支は、早い時期に動物が充てられていたのだとすると相当古いですね。
日本では、720年に完成した日本書記で神の中の神であるサルタヒコが登場しますから、申をサルと呼ぶのは8世紀よりも古いのではないかと思います。猿楽は飛鳥時代に秦河勝が始めたといわれています。やはり、干支が日本に伝わった時期でしょうか。弥生時代後期の伊都国王は孟子を読んでいると推理していますから、その時期には十二支も伝わっているのかも知れませんね。また、何かありましたら、よろしくお願い致します(*^-^*)


これに対して、テレビとうさんから更に謎解きに繋がる以下のいいコメントを頂きました。

申⇒環 (テレビとうさん)
2021-09-07 18:52:44
調べてみると、秦の時代の竹簡で、

/wiki「生肖#歴史」

「…申、環也。…酉、水也。」と書いてあり、「環」が何を意味するのかは分かりませんが、「酉」はツボの中の水(酒)を意味する事から考えると、「環」は水以外の環境、例えば「大地」を意味するようにも思えます。

また、イナズマ⇒申から、自然現象の畏怖を表していたのかも知れません。ここから「神」は理解できるのですが、「サル」に辿り着くことが出来ませんでした。

以上、報告まで。


とのことなので、早速/wiki「生肖#歴史」を調べました。生肖(せいしょう)ということばをはじめて知りました(@_@)

その成立時期は従来、後漢の王充『論衡』にあることから後漢頃とみなされていた。

しかし、湖北省雲夢県の睡虎地秦墓から1975年に発見された竹簡(睡虎地秦簡)のうち卜占に関する『日書』の部分に十二生肖の記述が見つかり、紀元前200年代の秦の時代には既に成立していたことが分かった。

『日書』には次のようにある。

「子、鼠也。…丑、牛也。…寅、虎也。…卯、兔也。…辰、(原文脱落)。…巳、蟲也。…午、鹿也。…未、馬也。…申、環也。…酉、水也。…戌、老羊也。…亥、豕也」

(訳:子とは鼠(ねずみ)である。…丑とは牛である。…寅は虎である。…卯は兎である。…辰は(原文脱落)。…巳は蟲(むし、へびか?)である。…午は鹿である。…未は馬である。…申は環である。…酉は水である。…戌とは老いた羊である。…亥は豕(ぶた)である。)
比較すると「子鼠・丑牛・寅虎・卯兔・亥豕」は現在と一致し、「巳蟲・申環・酉水」も現在の蛇・猿・鶏と関連すると考えられている。ただ、「午鹿・未馬・戌老羊」というところに鹿が入り、その代わり、犬がない。順序も異なっていた。


これを見ると、十二支に生肖が当てられていないのは「申環・酉水」の二つだけのようです。この時代では「申」は「イナズマ」の意味ですし、「酉」も「トリ」の意味ではないようです。

そこでまず「環」を調べると、普通は「リング、ワ」の意味ですが、古代中国の天文関係では「光環」「行星環」を意味し、土星や天王星などの惑星の周りの環のことのようです。ですから、「申(イナズマ)は環也」というのは、中国の占星術では「イナズマ(申)は天体の運行(環)で起こる現象だ」と言う意味ではないかと思います。

そこで、中国の天文学・占星術で用いる二十八宿というのがありますが、これは天球を28個のエリア(星宿)に不均等分割したもので、天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)のことです(wiki「二十八宿」より)。



左上の図が本来の二十八宿を表す図です。右の図と下の表は二十八宿にそれぞれ生肖が当てられています。ここで、四象は「青竜・朱雀・白虎・玄武である。古代中国天文学では「四神」ということが多いが、後世の風水では四象と呼ぶ。」とあります(Wiki「四象(ししょう)」)。七曜は「肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星と、日(太陽)・月(太陰)を合わせた7つの天体のことである。七曜星とも言う」とあり(Wiki「七曜(しちよう)」)、四方向にそれぞれ七つの星宿が割り当てられています。その中の金星、日(太陽)、火星にそれぞれ四つの星宿が当てられ、全部で十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の名前の星宮が割り当てられています。

その中の「西方白虎」の七宿の六番目「火星」が觜火猴(申宮)、七番目「水星」が参水猿と呼ばれています(オリオン座のそれぞれラムダ星とゼータ星に対応します)。猿・猴(こう)はどちらもサルです。百度百科「觜火猴」によると「玉帝麾下暗藏两大神猴」とあり、觜火猴と参水猿は道教の最高神「玉帝」に仕える両大神とされていました。これでようやくサルが神と関係づけられました。

玉帝(玉皇大帝)は「中国道教における事実上の最高神で、天界または宇宙の支配者であり、その下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある[1]。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。」とあります(Wiki「玉皇大帝」より)。



この図の中央上部に玉帝が描かれています。玉帝の左側が觜火猴で、右側が参水猿でしょう。

そして、二十八宿のひとつである觜火猴に申宮が当てられていることから、十二支の原形を示した『日書』の一部の生肖が割り当てられていない(…申、環也。)の申(イナズマ)がサルと関係づけられたので、「申」を「サル」と呼ぶようになったのだと思います。サルは神の使いどころかサル大神として日本に入ってきたのでしょう。だからサルタヒコ大神が登場するのだと思います。

またもう一つの(…酉、水也。)についても同様に、十二星官の酉宮が二十八宿の昴日雞に当てられているので「酉」を、「雞」はニワトリですが、「トリ」と呼ぶようになったのだと思います。

つまり、最初に二十八宿に生肖が割り当てられており、十二支が二十八宿の十二星宮に割り当てられたことで、十二支にすべて生肖が当てられるようになったということでしょう。(2021.9.11 赤字追加)

いつごろからそうなったかが問題です。Wiki「二十八宿」によれば「考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった[1]。」とあります。

ここで、Wiki「玉皇大帝」によれば、玉帝は最初から最高神ではなかったとあり、六朝時代(建康または建業に都をおいた三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称)、『上帝(昊天上帝、天帝とも)が古くから天の主催者として信奉されてきた。道教では「太元」を神格化した元始天尊、次に「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、その後これらに「老子」を神格化した道徳天尊(太上老君)を加えた三柱(「三清」)が最高神とみなされていった[2]。

「玉皇」という名称は古くは六朝の道士・陶弘景の『真霊位業図』の中にみられるが、その地位はあまり高くなく、(途中省略)玉皇大帝が本格的に最高神とされるようになったのは北宋である。』
とあります。北宋は960年から1127年の王朝です。しかし、中国版のWiki維基百科「玉皇上帝」によれば、『「玉皇」這個名稱比太上老君出現要晚一些,魏晉時期有「玉皇道君」與「高上玉帝」兩位大神。』つまり「玉皇大帝」という名前は、太上老君よりも後に登場し、魏晋朝では「玉皇道君」と「高上玉帝」という大神がいたとあります。ですから、両大神をまとめて玉皇大帝(玉帝)としたということですから、すでに三世紀ごろには偉大な神として登場していたということだと思います。

Wiki「二十八宿」「日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており[2][3][4][5][6][7]、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。」とあります。

そして、申(猿)楽の祖と伝わる秦河勝は、生没年不詳ですが、七世紀、聖徳太子の部下として活躍した人物ですから、その時期にすでに「申」を「サル」と呼んでいたということです。ということは、大国主久々遅彦を分身のサルタヒコ大神として隠したのは、藤原不比等ではなく、秦河勝かも知れません。

何故、大国主命などの神が隠されなければならないのかですが、久々遅彦(狗古智卑狗)を狗奴国ヤマトの卑弥弓呼大王(ヒコミコ、崇神天皇)の命令で尾張王(オオタラシヒコオシロワケ、景行天皇)が殺害したことによって、日本の建国が達成されたわけですが、一方でヤマト王権にとって不都合な面もあったのでしょう。

つまり、落雷や地震・津波・疫病などの災害や、ヤマトの後ろ盾の呉が滅ぼされて、西晋に追討される恐れが生じたのは、大国主をはじめとする、建国の過程で殺された貴人(台与と卑弥呼)たちの祟りだとして怖れたからです。

ですから、大国主やオオモノヌシ、オオナムチ等々の数多くの別名を作り、サルタヒコや事代主、オオヤマツミなどの分身も数多く創作して、その真相を隠して鎮魂の祈祷などを行ったのだと推理しました。これはヤマト王権や朝廷に従う豪族やその部民もですから、朝廷の神祇祭祀だけでなく、民間信仰で大国主やサルタヒコなどの久々遅彦の分身が別々の神として信仰の対象になったと考えられます(注)。民間信仰は当時の先進的な文化を取り入れて活躍した秦氏などの渡来人の影響かも知れません。その後の神仏習合や修験道も根本は同じだと考えています。

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(注)日本書紀で無視された大国主命の神話は、古事記の編者とされる太安万侶の一族で、古事記を世に出した九世紀の多人長(おおのひとなが)が集めた可能性があります。多人長は朝廷で日本書紀を講義していた人物で、古事記の序文を書いた人物と見られています。古事記が日本人に知られるようになったのは江戸時代の本居宣長からですが、すでに民間信仰や説話などによって人々は建国の真相の一部が伝承されていたようです。明治以降に記紀に基づく国家神道が創設され国史が学校教育でされるようになり、多くの日本人は記紀の内容が日本の歴史だと思うようになっています。しかし、神話や古代天皇の事績などは考古学的には否定されるので、謎となっています。それを科学的に探求しようというのが刮目天の立場ですから、通説とは違うものになっていますが、弥生時代から古墳時代初頭のヤマト王権の成立過程は以下のようになっているのだと推理しました。

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆


最後までややこしい話にお付き合い、ありがとうございます。
今回は不慣れな道教とか占星術の話ですので、もしも間違って理解していたり、理解不足な点がありましたら、ご指摘ください。
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変わる弥生時代観!(^_-)-☆

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弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初
毎日新聞 2021/9/2 西部朝刊

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4・15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍――にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。
 武末名誉教授によると、これまで古墳時代に10進法を使用していたと考えられる事例はあったが、弥生時代に関してはそうした観点での研究はなかったという。
 須玖岡本遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の王墓とされ、同遺跡を含む須玖遺跡群は青銅器やガラス、鉄器などの生産工房跡も多数確認されている。当時の先端技術都市として「弥生のテクノポリス」と称される重要遺跡だ。市教委は「権は材料の調合のために正確な計量が必要だった青銅器の製造などに使われていたと考えられる」と説明している。武末名誉教授も「10進法の使用は奴国の先進性を裏付けるものだ」と話している。【上村里花】




辰砂(朱)や塩などの取引に天秤と権(分銅)を利用したと考えられます。中国ではすでに紀元前211年に秦始皇帝が度量衡の統一を行っていますので、その後の中国と周辺国との交易では秦帝国と同じ10進法を用いていると考えられます。珍しいものが産出される東夷の倭国にわざわざ楽浪郡から華僑が来ていたと考えられますので、倭人との交易のために、通訳を介せない場合も何とかして交渉する必要がありました。

既に2015年に以下の内容の記事も報道されていました。「武末氏によれば、これまで海村と内陸副葬地帯の接点があった韓国の茶戸里(タオリ)遺跡から筆、板に書いた文字を消す消しゴム代わりの「書刀(しょとう)」、てんびんの分銅が出土していた。
 加えて、勒島(ヌクト)(韓国)、原の辻(長崎)、田和山(島根)、青谷上寺地(あおやかみじち)(鳥取)の各遺跡から、石硯や研ぎ石なども出土しており、日本や朝鮮半島にあった海村では、交易の場で文字が使用されていた可能性が高まったという。」
古代日本と朝鮮、文字使い交易か 下関でシンポ 産経新聞 地方版 2015/9/6 07:06

さらに、最近の北部九州での硯や木製組机などの発見から弥生時代にすでに漢字が使用されていたと考えられるようになっています。


奴国は王族を伊都国王として派遣し、伊都国の集落を交易センター(市場)として華僑との交易の管理に当たらせていたと考えられます。ある場合は、華僑がこの市場に出入りする倭人に欲しいものをリクエストすると、それを華僑が手に入れるまでに時間が必要です。そこで取引の内容を記録し、倭国王がその取引を保証することにより契約が成立する制度があったと考えられます。伊都国の王都とされる三雲遺跡の番上地区で楽浪郡の土器が集中して見つかっており、華僑の居住区と推定されます。

つまり、西暦五七年に後漢光武帝が「漢委奴国王」の金印を与えた奴国王には、倭国でのこのような華僑と倭人との取引を保証させるためだと分かります。ですから、奴国に対する従来の、列島内に数多く存在する国のひとつという位置づけは全く誤りです。奴国王は倭国で円滑な交易を人々に与えるシステムを管理する倭国の大王なのです(【検証9】奴国時代の話(その2))。

また、三世紀の倭国の様子を記録した魏志倭人伝には「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之」とあり、租税として取り立てた物品を収める倉庫があり、国々には市場があり、倭人たちは物々交換で交易しています。それを監督する役職が大倭です。おそらく取引税を徴収していたと考えられます。例えば取引される物品の何割かを租税として徴収していたと考えられます。

弥生時代に漢字が使われていたという事実によって、室見川河口で発見された延光四年(125年)などの漢字その他の文字が書かれた銅製銘板「室見川銘板」が偽物という鑑定の根拠が崩れました。これが日本最古の金石文になるかと思います(【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆)。

ですから、刮目天が推理した「魏志倭人伝の行程記事は漢字を知る倭人が魏の役人に書いて教えた内容に基づき、魏・倭両国の政治的な目的で邪馬台国への行程や戸数などが改変された」という仮説を支持するものとなっています。

つまり、景初二年八月に公孫氏が魏の将軍司馬懿によって滅ぼされたので、景初三年六月に帯方郡を訪れた倭国大夫の難升米が司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と朝貢の件で会談しました。そこで、話された内容は、女王が統治する倭国が、孫呉を東の海上から圧迫する位置に在る東夷の大国という設定にすると言うことでした。それによって、倭国のことを知らない魏の朝廷の人々に司馬懿の功績が曹魏第一のものと理解させるためでした。倭国王は魏を後ろ盾として敵対する旧奴国勢力の台頭を抑える目的だと推理できます(【検証22】難升米という人物は?(その1))。

従って魏志倭人伝のこのような政治的な目的を無視して、真実を隠した行程記事をいくら真面目に読んで、正しく解釈しても邪馬台国へは誰もたどり着けなかったということなのです。

そして邪馬台国が見つからないために、卑弥呼神社がないのは卑弥呼が存在しなかったからだという短絡的な説まで登場することになって、邪馬台国問題はとても混乱しています。しかしよく考えれば、中国の正史は外交記録に基づき編纂されますので、実態はどうであれ倭国女王とされた人物の存在を完全に否定することはできません。また、卑弥呼といういわゆる卑字がそのまま神社名になるはずもありません。ですから、文献に書かれた内容の信ぴょう性については、考古学の成果などで確かめながら、推測する以外に手段はありません。

従来から、ある考古学の成果を文献に基づいて評価するのが通常の古代史解明の手法です。しかしその文献の、真実を書いたものではない可能性のある部分については、当然このような手法は使えません。ですから、それを考慮しないと様々な仮説が登場して、検証もされないと仮説は淘汰されず、一体どれが古代史の真相かを知ることができません。まさに現在の混迷した状況です。

そこで、その時代の出来事を包括する仮説を立てて、その仮説によって予測された内容と一致する数多くの事象を探して、個々に仮説の検証を繰り返し、仮説の詳細化・修正・拡張を行うことにより、その時代の歴史を推理する科学的な仮説推論(アブダクション)の手法が有効だと分かりました。詳しくはこちらでどうぞ!

【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆



【検証16】3世紀後半の伊都国だよ(*^^)v



【参考記事】
第3の推論法「アブダクション」とは
RtomyL 2018年10月20日 08:31


古代中国における四則演算の成立 度量衡制度が数学の生みの親である 
宮田 義美 2018 年 9 月 20 日



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