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奈良・富雄丸山古墳から「国宝級の大発見」…神話に秘められた「被葬者は誰か」の異説
2023/02/08 15:00 読売新聞 編集委員 丸山淳一
ついに歴史が覆る。日本の超古代「龍蛇神信仰」の謎を紐解く〝富雄丸山古墳〟の秘密がヤバすぎる!!出雲の王「長髄彦」の正体は〇〇だった…
TOLAND VLOG @YouTube 2023/3/25
また、いい話題を続けていただき、有難うございます。
すでに前回の動画にコメントさせていただいたように、日本神話は藤原不比等の創作なのです。神武東征神話も真の初代応神天皇の史実を隠すために創られたお話です。でも、史実を基に作っていますので、史実を推理すると、ほとんど謎が解けました。
結論を先に述べますと、被葬者は不比等によって隠された空白の四世紀の宇治天皇菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)だと推理しました。兄オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され、母方の和邇氏によって、その支配地で埋葬され、天皇に相応しい豪華な副葬品が古墳の造り出しの中に隠されたと推理できます(墳丁主体部は盗掘されていました)。
日本最大の円墳とありますが、古墳マップにアップしたとおり、卑弥呼の宇佐市三柱山古墳(直径約150m)が日本最大で、卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市愛宕神社古墳が2位、卑弥呼の父の宇佐市奥城古墳が3位です。富雄丸山古墳は国内4番目です。(詳細は拙ブログ「富雄丸山古墳の被葬者は?」
をご参照ください)。
ではナガスネヒコの正体ですが、おっしゃる通りナーガつまり龍蛇神であり、出雲と関係あります(詳細は「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」参照)。
説明のつづきが長くなり過ぎたので、残りは拙ブログにアップしました。よろしければどうぞ。どうもお邪魔しました(#^.^#)
北部九州から山陰・北陸・越などを根拠地とする縄文時代から活躍していたムナカタ海人族を束ねる奴国王の末裔でした。奴国の宮廷楽師だった師升らの反乱で殺された最後の奴国第18代王スサノヲの子孫の久々遅彦(魏志倭人伝で狗古智卑狗)です。代々の王の襲名ですが、豊岡市久々比神社の祭神で、スサノヲの王子イタケルと同じ木霊ですので全国の上棟式の祭神とされています。
最後の久々遅彦が、ムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の死後の内戦に勝利し、13歳の台与を外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして列島の主要部を支配した、記紀神話で大国主とされた倭国王です。台与は卑弥呼の宗女ということで、ムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王(神話で大国主の国造りのパートナーとされたスクナヒコナ)の姫巫女で、大国主の妃とされ、子供のホムダワケが応神天皇です。初代天皇なのですが、建国の史実が不比等にとって都合が悪いので神武天皇を創作し、仲哀天皇と神功皇后の話も創作です。仲哀天皇は父日本武尊(ヤマトタケル)が薨去して38年後に生まれた計算になるので、どちらも建国の歴史を隠すために創作された人物です。でも、モデルとなる実在人物が居ました。
仲哀天皇のモデルは、247年、卑弥呼の死後に狗(旧)奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫)を裏切って倭王に立った倭国征討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)です。ニギハヤヒ大王の子孫です。大国主久々遅彦らが反発し、卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖日触使主)が大国主側についてヲトヨを鳥栖市に追い詰めて討ちました。
三世紀末に父の仇討ちのために九州遠征した尾張王建稲種命が大国主・台与・赤坂比古を討ちました。記紀では仲哀天皇の祖父とされた景行天皇です。九州は崇神天皇の一族の物部氏に支配を任せ、纏向に戻りますが、すぐに大国主の傘下となっていた丹波・北陸・関東などを鎮撫して列島を統一した建国の父ですが隠されています。崇神天皇の四道将軍の話にされていますが、さるカニ合戦は尾張王の仇討ち話だったのです(詳細は「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。
建稲種命はヤマトタケルの副将として東海遠征に出かけ、帰路駿河湾で水死したとの伝承があり、ヤマトタケルのモデルとなった実在人物で熱田神宮の祭神です。崇神天皇は、大国主の祟りにより疫病が流行り、民が半分死んでしまうことになったので、大国主と台与の子ホムダワケ(大田田根子)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、大王にしたというのが史実でした。実際は、280年、狗(旧)奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされ、西晋に朝貢していた台与の倭国を狗奴国が討ったので、報復を恐れ、女王台与の後継者として応神天皇を大王に立てたということだったのです。そのために、纏向の地をヤマト(邪馬台国)と呼んだのです。崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話は、三世紀後半の約50年くらいの史実を引き延ばして創作されたものだということが、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しました。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
では、なぜ不比等が日本建国の史実を誤魔化さないといけなかったのかですが、これには大きな秘密があることを発見しました。これもかいつまんで述べます。天武天皇の後に妃の鵜野讃良(天智天皇皇女)の孫の文武天皇を15歳の異例の若さで即位させ、不比等の娘宮子を妃とさせて、外戚として朝廷の実権を握り、藤原氏に都合の好い律令制度を作りました。神話を創作し、宮中祭祀を独占し、神話に合致するように各地の豪族の神社の祭神や社名や由緒まで変更して、藤原氏千年の栄華を求めたのです。その目的のために、不比等が天武天皇崩御後に即位した宗形天皇(高市皇子)を暗殺し、文武天皇を即位させたその事実を隠すために天武皇后とした鵜野を持統天皇として即位したことにしたのです(注1)。本当は宗形氏が皇后で高市皇子が皇太子だったのかもしれません。和邇氏も本当は宗像・宗形氏という氏で、不比等が貶めるために創作したのかも知れません(注2)。
古事記は現存する最古の歴史書とされ、720年に完成した日本書紀よりも前の712年に完成したことにされています。しかし、古事記の序文に天武天皇が太安万侶と稗田阿礼に命じて編纂され、完成したとあるだけで、他の正史などに古事記に関する記録が全くありません。九世紀に突然、古事記を表に出した、宮廷で日本書紀の講義をしていた学者多人長(オオノヒトナガ)が創作したものだったと分かるのです(詳細は「不比等はイエス様に匹敵する?」または岡田英弘「倭国の時代」筑摩書房参照)。
古事記の内容は基本的に日本書紀に沿いながら、所々で日本書紀と違えた記述をしています。これが真相に導く暗号だったのです。例えば、ナガスネヒコを古事記でトビヒコとしたり(トビはヘビ神大国主命のこと)、コノハナサクヤヒメをムナカタ族と分かる神阿多都比売(カムアタツヒメ)などとしています(アタはアタゴに見られるようにムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを示唆します)。
日本の古代史に謎が多い理由は、歴史の真相を藤原氏によって隠された氏族の子孫が、時には古史古伝にあるような荒唐無稽な話を創って藤原氏にその目的を悟られないようにしながら、いくつもの異説や伝承を作ったからなのです。その中には真実が隠されているのかも知れません。
ですから、これらの文献をヒントにして、藤原氏が何を隠したかったのかを推理して仮説を立てることができます。そして考古学や民俗学などの成果によって検証を繰り返すことにより、仮説の修正や詳細化などを行って謎の古代史が解明できたのです。この手法は次の時代の解明に拡張できますので、もしもご興味がわけば、詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご覧ください。
(注1)古代からの日本では女帝などあり得ない話なので、皇后が即位する前例として推古天皇と皇極・斉明天皇も創作しました。また女帝の孫を即位させることの正統性のために高天原神話で女神アマテラスと天孫降臨神話を創作したのです。持統天皇は高天原広野姫とされましたが、その後のすべての女性天皇も藤原氏のフェイクで、実態は称制ということでしょう。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで光仁天皇より歴代の天皇をお祀りしていますが、明治になるまで女性天皇はどなたも祀られていませんでした。仏事に掲げる江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は明治になって作られています。未婚の皇女は奈良時代から南北朝時代まで斎王制度があり、神の妻となる姫巫女でした。皇祖神と霊的に一体となる天皇には、皇統の男系男子が即位し、皇祖神の霊力を身に着けて国家の安泰と国民の安寧を祈る宮中祭祀が真の役割ですから、女性差別ではない宗教上の役割の違いなのです。詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」参照。
(注2)日本書紀では、高市皇子はその母宗形氏の身分が低いので即位できないということにしましたが、応神天皇の母の台与もムナカタ族ですし、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコも母は和邇氏の祖日触使主(卑弥呼の弟赤坂比古)の娘ですからムナカタ族なのです。日本書紀はムナカタ族であることを隠すために、孝昭天皇に繋がる偽の系譜を作って誤魔化していますが、天理市和邇坐赤阪彦神社の祭神が宗像神イチキシマヒメ卑弥呼とアタカタスノミコト(ムナカタ族祖神でイザナミの父と推理)となっているので、ムナカタ支族であったことが分かりました。
また、息長氏も同様に、開化天皇の系譜だと誤魔化しましたが、近江・北陸を根拠地とする海人族であることから、息長氏もムナカタ支族であることが分かりました。つまり嘘がバレたのですから、不比等がなぜ嘘をついたのかを推理すると、高市皇子が即位したことを隠すためだったと分かりました。
そして、高市皇子の子の長屋王の広大な邸宅跡から長屋親王と墨書された木簡が出土し、宗形天皇の皇子だったと分かります。高市皇子が即位していた物証なのです。そして、持統天皇もフェイクだったということなのです。
それでも応神天皇崩御後にイラツコは即位せずに、兄オオサザキに皇位を譲るために自殺したというあり得ない美談を作って、ムナカタ腹のイラツコが即位していたことも隠しました。また、こういう後継者争いはよくある話だとするために、初代とした神武天皇の崩御後の全く同じような話を日本書紀で創作したのです。
しかし、史実は播磨国風土記に宇治天皇として登場するので、仁徳天皇の前に即位していたことがバレました。前述のとおりオオサザキに暗殺されたと推理できるのです。そしてイラツコの妹が仁徳天皇の妃となり生んだ子住吉仲皇子(スミノエノナカツミコ)が仁徳天皇崩御後に即位して、允恭天皇の本当の父であったことも古事記の崩年干支と倭の五王の朝貢年などから解明できました。詳細は「謎の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」をご参照ください。
面倒な話を最後までお付き合い、有難うございます(#^.^#)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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奈良・富雄丸山古墳から「国宝級の大発見」…神話に秘められた「被葬者は誰か」の異説
2023/02/08 15:00 読売新聞 編集委員 丸山淳一
ついに歴史が覆る。日本の超古代「龍蛇神信仰」の謎を紐解く〝富雄丸山古墳〟の秘密がヤバすぎる!!出雲の王「長髄彦」の正体は〇〇だった…
TOLAND VLOG @YouTube 2023/3/25
また、いい話題を続けていただき、有難うございます。
すでに前回の動画にコメントさせていただいたように、日本神話は藤原不比等の創作なのです。神武東征神話も真の初代応神天皇の史実を隠すために創られたお話です。でも、史実を基に作っていますので、史実を推理すると、ほとんど謎が解けました。
結論を先に述べますと、被葬者は不比等によって隠された空白の四世紀の宇治天皇菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)だと推理しました。兄オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され、母方の和邇氏によって、その支配地で埋葬され、天皇に相応しい豪華な副葬品が古墳の造り出しの中に隠されたと推理できます(墳丁主体部は盗掘されていました)。
日本最大の円墳とありますが、古墳マップにアップしたとおり、卑弥呼の宇佐市三柱山古墳(直径約150m)が日本最大で、卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市愛宕神社古墳が2位、卑弥呼の父の宇佐市奥城古墳が3位です。富雄丸山古墳は国内4番目です。(詳細は拙ブログ「富雄丸山古墳の被葬者は?」
をご参照ください)。
ではナガスネヒコの正体ですが、おっしゃる通りナーガつまり龍蛇神であり、出雲と関係あります(詳細は「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」参照)。
説明のつづきが長くなり過ぎたので、残りは拙ブログにアップしました。よろしければどうぞ。どうもお邪魔しました(#^.^#)
北部九州から山陰・北陸・越などを根拠地とする縄文時代から活躍していたムナカタ海人族を束ねる奴国王の末裔でした。奴国の宮廷楽師だった師升らの反乱で殺された最後の奴国第18代王スサノヲの子孫の久々遅彦(魏志倭人伝で狗古智卑狗)です。代々の王の襲名ですが、豊岡市久々比神社の祭神で、スサノヲの王子イタケルと同じ木霊ですので全国の上棟式の祭神とされています。
最後の久々遅彦が、ムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の死後の内戦に勝利し、13歳の台与を外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして列島の主要部を支配した、記紀神話で大国主とされた倭国王です。台与は卑弥呼の宗女ということで、ムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王(神話で大国主の国造りのパートナーとされたスクナヒコナ)の姫巫女で、大国主の妃とされ、子供のホムダワケが応神天皇です。初代天皇なのですが、建国の史実が不比等にとって都合が悪いので神武天皇を創作し、仲哀天皇と神功皇后の話も創作です。仲哀天皇は父日本武尊(ヤマトタケル)が薨去して38年後に生まれた計算になるので、どちらも建国の歴史を隠すために創作された人物です。でも、モデルとなる実在人物が居ました。
仲哀天皇のモデルは、247年、卑弥呼の死後に狗(旧)奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫)を裏切って倭王に立った倭国征討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)です。ニギハヤヒ大王の子孫です。大国主久々遅彦らが反発し、卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖日触使主)が大国主側についてヲトヨを鳥栖市に追い詰めて討ちました。
三世紀末に父の仇討ちのために九州遠征した尾張王建稲種命が大国主・台与・赤坂比古を討ちました。記紀では仲哀天皇の祖父とされた景行天皇です。九州は崇神天皇の一族の物部氏に支配を任せ、纏向に戻りますが、すぐに大国主の傘下となっていた丹波・北陸・関東などを鎮撫して列島を統一した建国の父ですが隠されています。崇神天皇の四道将軍の話にされていますが、さるカニ合戦は尾張王の仇討ち話だったのです(詳細は「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。
建稲種命はヤマトタケルの副将として東海遠征に出かけ、帰路駿河湾で水死したとの伝承があり、ヤマトタケルのモデルとなった実在人物で熱田神宮の祭神です。崇神天皇は、大国主の祟りにより疫病が流行り、民が半分死んでしまうことになったので、大国主と台与の子ホムダワケ(大田田根子)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、大王にしたというのが史実でした。実際は、280年、狗(旧)奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされ、西晋に朝貢していた台与の倭国を狗奴国が討ったので、報復を恐れ、女王台与の後継者として応神天皇を大王に立てたということだったのです。そのために、纏向の地をヤマト(邪馬台国)と呼んだのです。崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話は、三世紀後半の約50年くらいの史実を引き延ばして創作されたものだということが、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しました。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
では、なぜ不比等が日本建国の史実を誤魔化さないといけなかったのかですが、これには大きな秘密があることを発見しました。これもかいつまんで述べます。天武天皇の後に妃の鵜野讃良(天智天皇皇女)の孫の文武天皇を15歳の異例の若さで即位させ、不比等の娘宮子を妃とさせて、外戚として朝廷の実権を握り、藤原氏に都合の好い律令制度を作りました。神話を創作し、宮中祭祀を独占し、神話に合致するように各地の豪族の神社の祭神や社名や由緒まで変更して、藤原氏千年の栄華を求めたのです。その目的のために、不比等が天武天皇崩御後に即位した宗形天皇(高市皇子)を暗殺し、文武天皇を即位させたその事実を隠すために天武皇后とした鵜野を持統天皇として即位したことにしたのです(注1)。本当は宗形氏が皇后で高市皇子が皇太子だったのかもしれません。和邇氏も本当は宗像・宗形氏という氏で、不比等が貶めるために創作したのかも知れません(注2)。
古事記は現存する最古の歴史書とされ、720年に完成した日本書紀よりも前の712年に完成したことにされています。しかし、古事記の序文に天武天皇が太安万侶と稗田阿礼に命じて編纂され、完成したとあるだけで、他の正史などに古事記に関する記録が全くありません。九世紀に突然、古事記を表に出した、宮廷で日本書紀の講義をしていた学者多人長(オオノヒトナガ)が創作したものだったと分かるのです(詳細は「不比等はイエス様に匹敵する?」または岡田英弘「倭国の時代」筑摩書房参照)。
古事記の内容は基本的に日本書紀に沿いながら、所々で日本書紀と違えた記述をしています。これが真相に導く暗号だったのです。例えば、ナガスネヒコを古事記でトビヒコとしたり(トビはヘビ神大国主命のこと)、コノハナサクヤヒメをムナカタ族と分かる神阿多都比売(カムアタツヒメ)などとしています(アタはアタゴに見られるようにムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを示唆します)。
日本の古代史に謎が多い理由は、歴史の真相を藤原氏によって隠された氏族の子孫が、時には古史古伝にあるような荒唐無稽な話を創って藤原氏にその目的を悟られないようにしながら、いくつもの異説や伝承を作ったからなのです。その中には真実が隠されているのかも知れません。
ですから、これらの文献をヒントにして、藤原氏が何を隠したかったのかを推理して仮説を立てることができます。そして考古学や民俗学などの成果によって検証を繰り返すことにより、仮説の修正や詳細化などを行って謎の古代史が解明できたのです。この手法は次の時代の解明に拡張できますので、もしもご興味がわけば、詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご覧ください。
(注1)古代からの日本では女帝などあり得ない話なので、皇后が即位する前例として推古天皇と皇極・斉明天皇も創作しました。また女帝の孫を即位させることの正統性のために高天原神話で女神アマテラスと天孫降臨神話を創作したのです。持統天皇は高天原広野姫とされましたが、その後のすべての女性天皇も藤原氏のフェイクで、実態は称制ということでしょう。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで光仁天皇より歴代の天皇をお祀りしていますが、明治になるまで女性天皇はどなたも祀られていませんでした。仏事に掲げる江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は明治になって作られています。未婚の皇女は奈良時代から南北朝時代まで斎王制度があり、神の妻となる姫巫女でした。皇祖神と霊的に一体となる天皇には、皇統の男系男子が即位し、皇祖神の霊力を身に着けて国家の安泰と国民の安寧を祈る宮中祭祀が真の役割ですから、女性差別ではない宗教上の役割の違いなのです。詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」参照。
(注2)日本書紀では、高市皇子はその母宗形氏の身分が低いので即位できないということにしましたが、応神天皇の母の台与もムナカタ族ですし、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコも母は和邇氏の祖日触使主(卑弥呼の弟赤坂比古)の娘ですからムナカタ族なのです。日本書紀はムナカタ族であることを隠すために、孝昭天皇に繋がる偽の系譜を作って誤魔化していますが、天理市和邇坐赤阪彦神社の祭神が宗像神イチキシマヒメ卑弥呼とアタカタスノミコト(ムナカタ族祖神でイザナミの父と推理)となっているので、ムナカタ支族であったことが分かりました。
また、息長氏も同様に、開化天皇の系譜だと誤魔化しましたが、近江・北陸を根拠地とする海人族であることから、息長氏もムナカタ支族であることが分かりました。つまり嘘がバレたのですから、不比等がなぜ嘘をついたのかを推理すると、高市皇子が即位したことを隠すためだったと分かりました。
そして、高市皇子の子の長屋王の広大な邸宅跡から長屋親王と墨書された木簡が出土し、宗形天皇の皇子だったと分かります。高市皇子が即位していた物証なのです。そして、持統天皇もフェイクだったということなのです。
それでも応神天皇崩御後にイラツコは即位せずに、兄オオサザキに皇位を譲るために自殺したというあり得ない美談を作って、ムナカタ腹のイラツコが即位していたことも隠しました。また、こういう後継者争いはよくある話だとするために、初代とした神武天皇の崩御後の全く同じような話を日本書紀で創作したのです。
しかし、史実は播磨国風土記に宇治天皇として登場するので、仁徳天皇の前に即位していたことがバレました。前述のとおりオオサザキに暗殺されたと推理できるのです。そしてイラツコの妹が仁徳天皇の妃となり生んだ子住吉仲皇子(スミノエノナカツミコ)が仁徳天皇崩御後に即位して、允恭天皇の本当の父であったことも古事記の崩年干支と倭の五王の朝貢年などから解明できました。詳細は「謎の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」をご参照ください。
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