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箸墓古墳は卑弥呼の墓じゃないんだよ!(;^ω^)

2024-07-26 20:19:44 | 古代史
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すでに、箸墓の被葬者は大国主の妃台与だよ!(#^.^#)で、下の動画へのコメントを紹介し、考古学の成果に基づく推論を述べましたが、今度は周辺の神社の伝承などから推理した根拠を述べますね(^_-)-☆



下の図は箸墓古墳とその周辺の神社を示します。



まず箸墓古墳の後円部中心から東270mのところに国津神社があります。
境内の掲示板には以下のように記されています(「uziの神社参拝記」より)。
国津神社(大字箸中字湯屋垣内)
 当國津神社の境内は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。
 この男神五柱は、『記紀』神話によると、素戔嗚尊【すさのおのみこと】が天照大神【あまてらすおおかみ】と天【あめ】の安川【やすかわ】を中にはさんで誓約【うけひ】をしたとき、天照大神の玉を物実【ものざね】として成り出でた神であります。
 ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素戔嗚尊の剣を物実して生まれた奥津島比売【おくつしまひめ】、市杵島比売【いちきしまひめ】、多岐津比売【たぎつひめ】の三女神を祭祀しています。
 この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約【うけひ】によって成り出でた神をそれぞれ祭神としていることに、古代伝承の原景を見る思いがし、敬神の念を禁じ得ません。
 なお古来より毎年八月二十八日には、大字箸中と芝が相集い、三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神・天照大神)の大祭を執行しています。
 また『日本書紀』崇神天皇六年の条に「天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大殿の内に並び祭る。然して其の神の勢を畏【おそれい】りてともに住みたまふに安【やす】からず。故、天照大神を以【もっ】ては、豊鍬入姫命【とよすきいりひめのみこと】に詫【つ】けまつりて、倭【やまと】の笠縫邑【かさぬいのむら】に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の檜原の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居【みやい】のあった笠縫邑の伝承地となっています。
 天照大神の祭祀に奉した豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。
 国津神社秋季大祭は十月第二日曜日


つまり、宗像三女神を祀っているのです。三柱の女神の内、市杵島比売卑弥呼は宇佐神宮の一番立派な二之御殿に祀られている比売大神です。元宮が安心院町妻垣神社で、奥宮の一柱謄宮は日本書紀は神武天皇の母玉依姫の墓所として誤魔化していますが、ここが卑弥呼の墓と言う伝承があります(詳細は「卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆」参照)。さらに安心院盆地を挟んで北側の宮ノ原遺跡内の三女神社が卑弥呼の宮室とした場所です。そして卑弥呼の墓はその西側約500mにある「三柱山古墳」だと突き止めています。卑弥呼に関する遺物や伝承が沢山ありますので、ほとんど確信しています(;^ω^)。

三女神の二柱、奥津島比売(タギリヒメ)とタギツヒメは市杵島姫卑弥呼を隠すために日本書紀の中で創られた女神ですが、タギリビメはwikiによれば、古事記では大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されています。

またタギツヒメはwikiによれば、『先代旧事本紀』では後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。また出雲では阿遅鉏高日子根の子である多岐都比古命の妻とされる。とあります。

つまり、古事記と先代旧事本紀は二柱の女神が大国主の妃の台与であるとして、三女神のウソを上手に暴露しているのです。

そして、境内には社殿の右奥に朱色の鳥居のお稲荷さんを祀っていますが、ウカノミタマ豊受大神、つまり台与を祀っています。その手前に金毘羅権現の石碑がありますので、大国主を祀っていますよ(^_-)-☆。

国津神社の東約1kmの三輪山山麓の檜原神社があり、上の掲示板のとおり、その大祭を国津神社が行っているのですから、檜原神社の祭神の天照大神は三輪山の大物主大神大国主なのです。ちなみに天照皇大神とも書かれますが、大国主と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子が初代応神天皇ということなのですよ(#^.^#)。

ヤマトトビモモソヒメの箸墓伝承は藤原不比等が創りましたが、箸墓古墳の被葬者にゆかりの土地の方が藤原氏に遠慮しながらもしっかりと祀っているようです。箸墓古墳の被葬者は卑弥呼ではなく、13歳で女王にされて、多分50歳代の大国主の妃にされて、30歳ころに伊都国でヤマト勢に殺されたので、大国主の次に朝廷から畏れられているのです。

台与については菊理媛とか白山比売、丹生都比売などの別名でも祀られています。天女の羽衣も台与の伝承ですよ。伊都国で辰砂の対外貿易を大国主から任されていたので、朱に縁があるのです。だからお稲荷さんの鳥居は朱色なのですよ。和歌山県伊都郡という地名は、多分そこの鉱山で当時働いていた山師たちが台与を偲んでつけた地名ですよ(^_-)-☆

箸墓古墳の後円部から南西約400mに豊慶大神を祀るとする朱色の鳥居と祠があり、お稲荷さん豊受大神台与を祀っています。稲荷山古墳という直径10mほどの小さな円墳の上です。 台与は上のとおり、討たれて糸島市平原王墓に葬られたと推理していますから、ここや箸墓古墳には遺骸はないと思いますが、何か遺品が入っているかも知れませんよ(@_@)

【関連記事】
悲劇の女王台与のはなし(その1)(その4)

秦氏と古事記の関係?
渡来人秦氏がユダヤ人などという説も飛び出すほどの謎の氏族ですが、正体が明らかになりました( ^)o(^ )

最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私も宇佐神宮説です (馬鹿琴)
2024-07-26 22:31:04
私は全然詳しくありませんが、宇佐神宮のお告げの話を聞いて、必ず所縁があるはず、と思っていました。

調べても分からなかったのですが、神託を乞う使者は宇佐だけに派遣されたのでしょうか。
つまり伊勢には行っているのか、行っていないのか、が知りたいです。
行っていなければ、やはり、宇佐こそ最初の地、特別な地となるのではないでしょうか。

まあ、高木彬光詳しくありませんが、宇佐神宮のお告げの話を聞いて、必ず所縁があるはず、と思っていました。

調べても分からなかったのですが、神託を乞う使者は宇佐だけに派遣されたのでしょうか。
つまり伊勢には行っているのか、行っていないのか、が知りたいです。
行っていなければ、やはり、宇佐こそ最初の地、特別な地となるのではないでしょうか。

まあ、高木彬光さんの邪馬台国の謎が面白く読めたからなんですけどね(笑)
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Re:私も宇佐神宮説です (刮目天 一(はじめ))
2024-07-26 23:17:02
こんばんは!いいコメント有難うございます(^^♪
朝廷の宇佐神宮と伊勢神宮に対するそれぞれの位置づけですが、これははっきりしています。筑紫申真「アマテラス誕生」(講談社学術文庫)を読んで分かりましたが、伊勢神宮(内宮)の創建は文武二年(698年)です。そこには恐らく外宮の場所に先に豊受大神とされた台与が祀られていたはずです。息長氏の領地だった滋賀県伊勢遺跡でも祀られていて、社殿の造りが同じ様式だそうです。詳しくは「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」参照してください。
伊勢神宮を参拝した天皇は持統天皇から明治天皇まで誰も居ません。そして、持統天皇も内宮ができていない時期ですから、参拝はしていないのです。
それから、斎宮というのがあります。伊勢神宮と加茂神社に奉仕する仕事が奈良時代から南北朝まで未婚の皇女に課せられていたのですが、位の高い内親王などは京都の賀茂神社に行っていたそうです。どちらも大国主を祀っているのです。ですから、伊勢神宮に対する位置づけが分かりますよね。
一方、宇佐神宮は日本建国のキーパーソンが3人(大国主高野御子・市杵島姫卑弥呼・神功皇后台与)も祀られているのです。しかも朝廷が祟りを最も畏れる神様たちです(;^ω^)
地震や津波や火山噴火など天変地異はこの神様の祟りなのです。疫病はスサノヲだと思いますが(;^ω^)
ですから、京都に近い男山八幡宮に勧請していますが、なにかあると勅使を宇佐神宮に送って、お参りしないとダメだと思っているのです。伊勢神宮は明治からですかね( ^)o(^ )
宇佐神宮の二柱八幡大神大国主・八幡比売神卑弥呼と淡路國伊弉諾神社伊邪那岐尊と備中国吉備津神社吉備津彦(正体はスサノヲの弟ニギハヤヒで今上陛下の皇祖神)の神様だけが、皇族に与えられる特別な品位という神階なのです。この四柱しかないのですからヒントになりました。ちなみに伊勢神宮には神階はありませんよ。これだけでも分かりますね。記紀神話は江戸時代にできたのですから(;^ω^)
高木彬光は学生時代だったか読んだ覚えがあります。比売大神卑弥呼説だったと思いますが、多分頭に残っていたと思います。宇佐神宮の本当の祭神が宗像三女神で、その降臨伝承地の葦原中国の宇佐嶋は安心院町の三女神社と考え、市杵島姫が全国で主祭神として祀られているので、卑弥呼だろうと最初に目星をつけました。実際に三女神社に行って、参道を歩いていてものすごい霊気を感じて確信しましたよ(^_-)-☆
また、何かありましたらコメントください(#^.^#)
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なるほど (馬鹿琴)
2024-07-27 01:13:02
ご返答ありがとうございます。
なるほど伊勢には、古代の天皇は参拝されていないのですね。意外でした( ゚Д゚)
斎宮の派遣だけは行われているようですねえ。

平安末期から鎌倉時代に掛けても、白河上皇は12回、鳥羽上皇23回、後白河上皇33回、後鳥羽上皇29回も熊野速玉大社にお参りしているのです。
熊野に寄って、伊勢詣でをしないとは、何て不敬な!(笑)

もう一つだけ質問をお許し下さい。

男山八幡宮にも行ってきたのですが、ああ、宇佐から勧請したと説明がありました。

神託は、後にも先にも宇佐神宮だけに派遣された、と思って良いのでしょうか?
と言うより、大宰帥にして道鏡の親族の弓削浄人が道鏡を皇位につけましょうといった内容の神託が宇佐からありましたと言ってきたのが始まりですよね。
それの確認で和気清麻呂が確認に行ってる、やっぱり怪しい(笑)
宇佐には何かがありそうです。
返信する
Re:なるほど (刮目天 一(はじめ))
2024-08-01 09:48:06
おはようございます!(^^♪

斎宮!、そうなんですよ。
斎王は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社と伊勢神宮に派遣されて、伊勢神宮の方が斎宮、加茂神社の方が斎院とよばれたようです。
近場にある斎院の方が人気で、内親王など身分の高い皇女が奉仕しており、遠い伊勢斎宮は人気が無かったようです。
記紀神話は御存じのとおり江戸時代にできたものなのです。賀茂神社も伊勢神宮も同じ神様です。天照皇大神は大国主なのですから。江戸時代までは皇女たちまでみんな知っていたのですよ(#^.^#)

おっしゃるとおり熊野信仰の方が人気がありましたね。天皇や高貴な方たちがしきりと行幸されたようです。御霊信仰ですが祭神は熊野三神ですが最も怖い怨霊は疫病神のスサノヲなのですよ。スサノヲの怨霊を抑えてもらうために両親イザナギ・イザナミを祀っているのです。
>熊野に寄って、伊勢詣でをしないとは、何て不敬な!(笑)
そうですよね(#^.^#)。
でも伊勢神宮は遠いですから、そこまで行かなくても、近場でしっかりお祭りしてるので、「まっ、いいか」って感じなのですね。(;^ω^)

それから、ご質問の宇佐八幡神託事件ですが、孝謙天皇という女帝は存在しないと考えていますので、作り話だと思いますよ(^_-)-☆

和風諡号が高野姫天皇ですので斎院だったのかも知れません、そしてその時代は天皇は空位だとしたら称制として実際の政治は藤原氏が行っていて、大炊(淳仁天皇)を担ぐ南家(仲麻呂)と白壁(光仁天皇)を担ぐ北家(永手)の権力闘争が大きな流れだと推理しています。

宇佐八幡宮には大国主と台与、そして卑弥呼のゆかりの地の宇佐で祀っているのです。

最後のヤマトの大王(大国主・台与の子孫)で舎人親王の孫淳仁天皇を廃帝にして、天智天皇(実はヤマトの大王ではない、スサノヲの弟ニギハヤヒの嫡孫)の孫光仁天皇に皇位を継がせるための布石の作り話だと推理しています。

その前の聖武天皇の時代は反藤原勢力が政権を持っていましたが、結局藤原氏に追い落とされたのだと思います。この時代の推理をもう少し詰めてみたいとは思っていますが、結構複雑なので時間がかかりますネ。もしもご興味があれば、こういう目線で物証を集めて歴史を再構築してみませんか?
また、疑問点などありましたら、遠慮なくコメントください。有難うございました。( ^)o(^ )
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