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月読尊(ツクヨミノミコト)はwikiによれば、「記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。長女天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる。(一説には、須佐之男命と兄弟関係が逆転するとも考えられている)一般には男神と考えられている。」とあります。
この神は記紀神話にはあまり登場せず、『書紀』巻十五の顕宗紀には、任那へ派遣された阿閉臣事代に月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された壱岐には月詠神社が存在し、云々。宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされる。今は遷座され箱崎八幡神社に鎮座している。[9]、とあります(注1)。
大宝元年(701年)四月三日 山背國葛野郡月讀神 樺井神 木嶋神 波都賀志神等神稻 自今以後 給中臣氏。(日本古代史料本文データ「続日本紀」より)(注2)
月讀神は上の月詠神社(名神大社「葛野坐月読神社」)の祭神で、樺井神も樺井月神社(天火明神天照御魂神を祀る水主神社の境内社)の祭神ですから月読命。ところが、木嶋(このしま)神は秦氏の本拠地太秦(うずまさ)にある木嶋坐天照御魂神社ですから、祭神は日神天火明神ですから月神と違いますが、藤原不比等によって秦忌寸都理(はたのいみきとり)が世襲の祝(はふり)に任じられました。というのも都理の祖は、他の秦氏の祖の弓月君(秦の始皇帝三世直系)と異なり、なんと天火明神饒速日命(ニギハヤヒ)の子孫のようですから驚きました(注3)。不比等は701年(大宝元年)に制定した大宝律令で、藤原意美麻呂(鎌足の娘婿で鎌足の甥でもある)の姓を中臣氏に戻させて、708年(和銅元年)に朝廷の祭祀を司る神祇伯に任じ、諸国の官社を統括させ、祝(はふり)部(神官)を管理させました。「律令と中臣氏による神道を融合し、新たな国家神道を築こうとしたのかもしれない」とあります(詳しくは丘真奈美「松尾大社 神秘と伝承」淡交社2020,pp.38-42参照)。(2020.10.5 修正)
つまり、藤原不比等は、すでに【関連記事】でみたように、日本建国で活躍した有力氏族が祀っていた各地の神社の祭神名や神社名を強引に変えさせ、神社伝承も720年に完成させる「日本書紀」の神話に合うように変更したり、新たに創作したと考えられます。
「先代旧事本紀」によればニギハヤヒは物部氏の祖で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)という立派な名前を持つ太陽神です。すでに見たとおり、最後の奴国王スサノヲが師升らのクーデターによって殺され奴国は滅亡したのですが、イタケル王子とともにムナカタ族の手助けで出雲に逃れたスサノヲの弟です。イタケルらに鉄製武器の支援を受けて強力な軍団を作って吉備を平定し奴国大王天照大神尊として称えられた人物です。ヤマト王権の基礎を築いたことは、下図のとおり前方後円墳の属性に吉備の祭祀が色濃く残っていることから考古学的に立証されています。
物部氏が纏向で吉備の祭祀を引き継ぎましたので、
ニギハヤヒ大王を祖とする伝承どおりだったのです
(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。
ヤマト王権の元は北部九州にあった旧(ク)奴国(狗奴国)だったのです。
この史実を抹殺するために、不比等は持統天皇をモデルとするアマテラス女神を創作し、本当の太陽神ニギハヤヒを月神として日陰の存在にしてしまいました。本当の兄スサノヲを弟にしてしまい誤魔化しています。しかし、「隋書」倭国伝に「倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。」とヤマトの大王の仕事が記述されていることから、兄スサノヲと弟ニギハヤヒの故事を示唆しているようです。「宋史」日本王年代紀に第十八代王素戔嗚尊の次に第十九代王天照大神尊となっていることからもニギハヤヒがスサノヲの弟であることが分かります。
月読命とは、「日本書紀」によってに陰に隠された
真の太陽神ニギハヤヒのことだったようです。
【関連記事】
日本ピラミッドの謎?
やはり庄原にニギハヤヒの足跡として吉備津彦神社(庄原市川西町977)や吉備津彦を祀る意加美神社(庄原市総領町稲草179)と備後国二之宮吉備津神社(庄原市東城町久代1749)がありました。帝釈峡の南にも吉備津神社(神石郡神石高原町永野2563)を見つけました。ニギハヤヒが根拠地とした可能性もあります。イタケルらから鉄素材の供給を受けて、葦嶽山付近の谷で冶金工房を造り、鉄製武器を製造したのかも知れません。付近に鍛冶屋床やタタラ原という地名も残っているようです。
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう
不比等の歌が示すように近江八幡市の日蝕の社を日群の社に強引に変えさせた模様です。
(注1)「伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣命の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や[注釈 5]、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事[注釈 6](伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。」(wiki「卜部氏」壱岐卜部氏より)
つまり、無理やり藤原氏に都合のよい歴史に変えるための布石なのですよ(;一_一)
(注2)「波都賀志神等の神稻を今より後中臣氏に給す。」波都賀志(はつかし)神は上の顕宗紀にある高皇産霊(たかみむすび)で、実在人物の誰をモデルとしたのかは不明です。
(注3)秦忌寸都理の後裔で明治まで神主家を世襲した東(ひがし)家の系図の冒頭部分に書かれている(丘 p.38)。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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月読尊(ツクヨミノミコト)はwikiによれば、「記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。長女天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる。(一説には、須佐之男命と兄弟関係が逆転するとも考えられている)一般には男神と考えられている。」とあります。
この神は記紀神話にはあまり登場せず、『書紀』巻十五の顕宗紀には、任那へ派遣された阿閉臣事代に月神が憑いて高皇産霊をわが祖と称し、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月詠神社の由来であり、宣託された壱岐には月詠神社が存在し、云々。宣託された本来の式内社月読神社は男岳にあった月読神社とされる。今は遷座され箱崎八幡神社に鎮座している。[9]、とあります(注1)。
大宝元年(701年)四月三日 山背國葛野郡月讀神 樺井神 木嶋神 波都賀志神等神稻 自今以後 給中臣氏。(日本古代史料本文データ「続日本紀」より)(注2)
月讀神は上の月詠神社(名神大社「葛野坐月読神社」)の祭神で、樺井神も樺井月神社(天火明神天照御魂神を祀る水主神社の境内社)の祭神ですから月読命。ところが、木嶋(このしま)神は秦氏の本拠地太秦(うずまさ)にある木嶋坐天照御魂神社ですから、祭神は日神天火明神ですから月神と違いますが、藤原不比等によって秦忌寸都理(はたのいみきとり)が世襲の祝(はふり)に任じられました。というのも都理の祖は、他の秦氏の祖の弓月君(秦の始皇帝三世直系)と異なり、なんと天火明神饒速日命(ニギハヤヒ)の子孫のようですから驚きました(注3)。不比等は701年(大宝元年)に制定した大宝律令で、藤原意美麻呂(鎌足の娘婿で鎌足の甥でもある)の姓を中臣氏に戻させて、708年(和銅元年)に朝廷の祭祀を司る神祇伯に任じ、諸国の官社を統括させ、祝(はふり)部(神官)を管理させました。「律令と中臣氏による神道を融合し、新たな国家神道を築こうとしたのかもしれない」とあります(詳しくは丘真奈美「松尾大社 神秘と伝承」淡交社2020,pp.38-42参照)。(2020.10.5 修正)
つまり、藤原不比等は、すでに【関連記事】でみたように、日本建国で活躍した有力氏族が祀っていた各地の神社の祭神名や神社名を強引に変えさせ、神社伝承も720年に完成させる「日本書紀」の神話に合うように変更したり、新たに創作したと考えられます。
「先代旧事本紀」によればニギハヤヒは物部氏の祖で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)という立派な名前を持つ太陽神です。すでに見たとおり、最後の奴国王スサノヲが師升らのクーデターによって殺され奴国は滅亡したのですが、イタケル王子とともにムナカタ族の手助けで出雲に逃れたスサノヲの弟です。イタケルらに鉄製武器の支援を受けて強力な軍団を作って吉備を平定し奴国大王天照大神尊として称えられた人物です。ヤマト王権の基礎を築いたことは、下図のとおり前方後円墳の属性に吉備の祭祀が色濃く残っていることから考古学的に立証されています。
物部氏が纏向で吉備の祭祀を引き継ぎましたので、
ニギハヤヒ大王を祖とする伝承どおりだったのです
(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。
ヤマト王権の元は北部九州にあった旧(ク)奴国(狗奴国)だったのです。
この史実を抹殺するために、不比等は持統天皇をモデルとするアマテラス女神を創作し、本当の太陽神ニギハヤヒを月神として日陰の存在にしてしまいました。本当の兄スサノヲを弟にしてしまい誤魔化しています。しかし、「隋書」倭国伝に「倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。」とヤマトの大王の仕事が記述されていることから、兄スサノヲと弟ニギハヤヒの故事を示唆しているようです。「宋史」日本王年代紀に第十八代王素戔嗚尊の次に第十九代王天照大神尊となっていることからもニギハヤヒがスサノヲの弟であることが分かります。
月読命とは、「日本書紀」によってに陰に隠された
真の太陽神ニギハヤヒのことだったようです。
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卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう
不比等の歌が示すように近江八幡市の日蝕の社を日群の社に強引に変えさせた模様です。
(注1)「伊吉島造家の伊岐氏(伊岐直)の一族。神功皇后の四太夫の一人で、天児屋根命12世の孫にあたる雷大臣命の子である真根子を伊岐直の祖とする系図や[注釈 5]、壱岐卜部氏の氏人である是雄の賜姓記事[注釈 6](伊伎宿祢姓)において先祖を雷大臣とするとの記載により、中臣氏族とする。」(wiki「卜部氏」壱岐卜部氏より)
つまり、無理やり藤原氏に都合のよい歴史に変えるための布石なのですよ(;一_一)
(注2)「波都賀志神等の神稻を今より後中臣氏に給す。」波都賀志(はつかし)神は上の顕宗紀にある高皇産霊(たかみむすび)で、実在人物の誰をモデルとしたのかは不明です。
(注3)秦忌寸都理の後裔で明治まで神主家を世襲した東(ひがし)家の系図の冒頭部分に書かれている(丘 p.38)。
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