刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日向三代神話は出雲三代がモデルだった!(^_-)-☆

2024-01-31 11:10:17 | 古代史
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2023-12-22 20:11:32に記事にしましたが、大国主の系譜の図に日向三代神話との対応などの説明を追加しましたので、よろしければご参照ください(;^ω^)

刮目天の古代史とほとんど同じようなスタンスで古代史解明に取り組んでおられる研究グループの発表と討論の動画を見つけました。賛同するところが多いので、興味を持って拝見しましたが、例によってコメントを差し上げました。よろしければお付き合いください(#^.^#)


古事記・日本書紀の両方に、日向三代の記述=「天孫族の神話」が記載されている。
よく比べられる「出雲神話」は、古事記に有り、日本書紀には無い。
日向三代の話は、「このはなさくやひめ」との結婚/海幸彦・山幸彦の争い/鵜葺草葺不合命の誕生。
この三代の話には、次のような疑問が有る。
   1)実際に有ったことなのか? 
   2)年代・代数を引き延すために追加された話か?
   3)史実を隠して神話化したものか
参加者で6項目について議論を行った。


とても参考となるご議論、有難うございます。解明の方法論について史料批判に考古学の成果も入れるべきとのご意見に全く賛同します。その他、よく整理された御議論とご示唆に富むこの動画の内容は古代史解明にとってとても重要だと思います。

しかし、日本の古代史が謎である理由は文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果が合致していないのが一番の理由だと思います。

にもかかわらず多くの研究者は、天皇の歴史書だという思い込みによって文献を都合の好いように解釈して乗り切ろうとしていますが、謎のままです。

ですから古代史解明に用いる文献は、編纂した人物が誰で、何の目的だったのかを徹底的に考察する必要があると思います。事実と合わない謎の部分は虚偽という認識に立ち、何を隠したかったのかを考えて、真相と考えられる仮説を立てて、事実を用いて仮説検証を繰り返して仮説構築していくアブダクションによって真相が浮かび上がってきます。これにより、今回話題の日向三代の神話も、高天原神話や国譲り神話などもほとんど解明できます。提案する科学的方法論の詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。

ちなみに、天孫降臨神話ですが、紀元前四世紀ころ半島南部を経由して福岡市吉武高木遺跡に移り住んだ呉王族天御中主(新唐書・宋史 王年代紀の初代奴国王)から三代の王墓が発見されており、二代目天村雲尊が孫の四代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)に三種の神器を与えて、糸島平野や福岡平野を平定させて奴国隆盛の基礎を作った故事に基づくと推理しています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。



しかし、日向三代の神話は、二世紀初頭、奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された奴国第十八代王素戔嗚尊の王子五十猛命の子孫の八束水臣津野命(海神豊玉彦、ニニギノミコト)、天之冬衣命(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦、山幸彦)とその子大国主久々遅彦(ウガヤフキアエズ、神武天皇はダミーで本当は初代応神天皇の父)の出雲三代の話がすり替えられたものなのです。



ですから、記紀に書かれた内容は史実を歪曲し、改ざんしたものですので、記紀の記述に基づいて仮説を作っても事実に合致しないことが分かります(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」「国譲り神話の史実は?」「大谷さんは日高見国の王子だったの?」参照)。長々とお邪魔しました。

【関連記事】
あの諏訪大社の神様も?(@_@)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





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広い意味の邪馬台国東遷説でした(^_-)-☆

2024-01-27 20:35:57 | 古代史
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とてもいい動画がアップされたので、早速コメントしましたら、別の方からコメントがあり、議論できました。古庄様をはじめ皆様に感謝いたします。長いですが、よろしければお付き合いください(;^ω^)



刮目天
とても興味ある話題をありがとうございます。
先日、岡上佑さんの「史料批判からみる邪馬台国所在地論争への結論」が季刊・邪馬台国 144号に掲載されたので早速入手して、議論させていただきました。論文の内容はとても深いので大変参考になりましたが、結論が今回の古庄さんと同じ投馬国出雲説でした。邪馬台国は明示されなかったと思いますが、以下のような考古学の成果から反論させていただきました(詳細は「投馬国出雲説はどうなの?」参照)。

三世紀前半の卑弥呼の時代に中国地方(・四国地方)西部から東側の地域と北部九州が相互に行き来して交流していた痕跡が見当たらないのです(二世紀末の倭国大乱期には畿内・山陰の土器が狗奴国の官狗古智卑狗の拠点集落であったと考えられる菊池川流域の方保田東原遺跡には見られますが、三世紀半ばまで九州の土器が、刮目天が調べた限り、その東側の地域には出土していないのです。また、伊都国の一大率は女王への外国からの贈り物を間違いなく届ける役割があるというのがフェイクでなければ、一大率の部下が邪馬台国に行っていなければなりません)。しかも纏向遺跡には東海、吉備や山陰などの外来土器が数多く出土しています(時期に拠りますが外来土器が20%近くあった、詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。



これらのことは、ヤマト王権発祥を示す纏向式前方後円墳での祭祀に北部九州の人々が参加していなかったということですので、北部九州の倭国と纏向遺跡を中核とする勢力とが敵対関係にあったことを意味しています。つまり上述のとおり二世紀末の倭国大乱期は狗奴国の官が菊池川沿岸や大野川沿岸部などに軍事拠点を築いていたのですが、三世紀初頭の卑弥呼の登場時期に熊本・大分の狗奴国の勢力は纏向遺跡にも帰還していないのです。



そして卑弥呼の死の直前に狗奴国との抗争の話を倭国側は魏に報告したので、二人目の帯方郡使張政が派遣されて難升米に魏の正規軍の軍旗と詔勅を渡しています。卑弥呼はすでに死んで径百余歩の冢に葬られ、奴婢百余名が殉葬されたとあります。
こういう出来事を上の考古学の成果を合わせて考えると纏向遺跡に狗奴国王卑弥弓呼が居て、倭国追討軍を送ったと考えるのが自然です。つまり纏向遺跡が狗奴国の本拠地で、出雲や吉備から東側の勢力が狗奴国側の勢力と考えられるのです。この辺りの話は伊藤さんの「倭国大乱」の動画でやり取りさせていただきました(詳細は「倭国大乱が分かれば邪馬台国も分かる!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)


ありがとうございます
今回こんな動画を出しておりますが別のところではこんなブログを書いております
https://anisakuayataka.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
狗奴国に一番ふさわしいのは大和王権であると思います
私の場合 ミクロ的に見ればああも思える こうも思える となっておりまして 実はマクロ的に統合する自説は未だ持てておりません
なので 結果的にフラットにあちこちの比定地を語り そのためいろんな方が見てくれているという現象が起こっております

なお 一大率の役人が邪馬台国まで随伴し、結果出雲のみならず丹後にも九州の痕跡があるはず、というのは慧眼だなあと思いました
そうした矛盾を統合するものが私にはまだつかめないですね、九州と本州は断絶してますよね 確かに。


有難うございます。いろいろ面白い話で、いつも勉強させていただいています。またよろしくお願いいたします。

先ほどたぬきさんからコメントいただいたのでお返事しましたが、たぬきさんはドロンしました。ついでですので、以下にコメントを残させてください。

たぬきさん コメント有難うございます。前方後円墳は纏向遺跡の狗奴国の勢力のものです。
三世紀の後半、それも270年ころだと思います。

卑弥呼は247年ころ死んでいます。その直後に男王が立ち、千人が殺し合い、13歳の台与を卑弥呼の跡に立てて収まったと魏志倭人伝にあります。13歳ですから自ら女王に立つはずありません。戦いの勝者が卑弥呼の宗女として外交上倭国女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立したと分かります。



この事件は日本書紀で仲哀天皇の熊襲征伐になると推理しました。ただし、仲哀天皇は父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話です。モデルとなる実在人物が居ます。この戦いでその勝者は仲哀天皇のモデルを殺して倭国王に立ったのです。そして265年魏から帝位が西晋に禅譲されたので翌年台与が珍しい品物を沢山持って朝貢したと推理しています。

ですからその後に狗奴国勢が裏切った勢力を討つために再び北部九州を遠征します。日本書紀では景行天皇の九州遠征にしています。実は孫であるはずの仲哀天皇の子供が景行天皇というデタラメな話になっています。そして、景行天皇のモデルが纏向に凱旋して、直ぐに、北陸・東国・丹波・吉備を攻撃して日本が統一されます。日本書紀は崇神天皇の四道将軍の話や日本武尊の東国遠征の話など応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばしています。それは古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、実際は270年ころの史実だと分かりました。

ですから、那珂八幡古墳や赤塚古墳や石塚山古墳などの九州の前方後円墳はそのころの狗奴国側の武将の墓になりますよ。詳細は「日本書紀が隠した日本の建国」を参照してください(#^.^#)


@user-zh7rw3go2d
4 時間前
岡上さんの東遷説に乗り換えたので私が少しだけお答えしますと😂

三世紀前半に山陰と北九州の交流した痕跡が見当たらないというのは、
私がコメントした女王国の東の海の件と被りますが九州から東のことはよくわかってなかったのでしょう😅

纏向遺跡から北九州の土器が見当たらないというのも東遷したとしたら九州は狗奴国の勢力圏ということになりますので当然北九州から纏向への人の移動は少なかったのではないかと推察致します。

纏向が狗奴国で九州の倭国追討軍を送り九州の邪馬台国を滅ぼしたという仮説も、
まず考古学的に鉄器の出土状況は九州優勢で、古庄先生がよく演技されてますが😂伊都国が鉄の輸入の地政学的重要地点であり、
鉄器で劣る畿内が九州に戦争を仕掛けてもまず勝ち目はないでしょう😅
親魏倭王で冊封されてますから戦争になれば中国からの支援もありますので😅
纏向の年代を記紀のどの時代に比定するかですが、崇神天皇の没年がたしか干支から258年説と313年説のの二つがあったと記憶してますが、
前者の258年説をとればまさに邪馬台国の時代とほぼ被りまして、崇神天皇の時代に四道将軍を各地に派遣してる段階ですので九州に一極集中で戦力を投入できる段階でないと考えます😅

まああと狗奴国は女王国の南にあると魏志倭人伝には記載されてますのでまた東に読み替えなければならないちょうど古庄先生の本動画のような問題も生じてしまいます😅

ということで私は岡上さんの東遷説を支持することにしたわけですが、
岡上さんは卑弥呼が東遷したと言ってましたが私は台与です笑 そこだけは意見は食い違うのであしからず😂


オグリさん、議論に加わっていただき感謝します。

最終的に狗奴国王卑弥弓呼(日本書紀の崇神天皇)の王都纏向遺跡でヤマト王権が成立していますので、広い意味の邪馬台国東遷説ですが、みなさんの考えているような神武東征や神功皇后の東征で見られる九州の勢力が武力で纏向遺跡や狗奴国勢を平定した神話は史実を隠すために作られた真逆のお話だと突き止めています。じっさい、纏向遺跡は環濠集落でもないし、三世紀の戦乱の痕跡もありません。

日本書紀完成時の権力者藤原不比等にとってヤマト王権成立過程が都合が悪いので史実を誤魔化すために神武天皇や神功皇后の話が創作されたのです。上で述べたように崇神天皇の四道将軍から景行天皇の九州遠征、日本武尊の東国遠征、そして応神天皇即位までの約350年の話は、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると遠征ルート上に矢戦の痕跡が見つかり、古墳時代初頭の史実通りだったことが判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。270年頃の話です。

仲哀天皇の熊襲征伐で崩御する話は247年頃の卑弥呼の死後の千人が死ぬ内戦の勝者が仲哀天皇のモデルとなった尾張王を討ち、倭国王に立ち、外交上卑弥呼の跡の女王として13歳の台与を立てて、魏を後ろ盾にして纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼と対立したのです。詳細は「日本書紀が隠した日本の建国(^_-)-☆」を参照してください。最終的に、劣勢のヤマト勢が倭国を滅ぼしたのですが、魏の後の西晋が280年に呉を滅ぼしたので、神功皇后台与の倭国を滅ぼした仕返しを怖れて応神天皇(大田田根子)を纏向遺跡に呼び寄せてヤマトの祭祀王にしたのです。

箸墓は大物主の妻ヤマトトトビモモソヒメの墓ですが、女王台与が被葬者です。たった13歳で大国主の妃にされて、最期は伊都国でヤマト勢に殺された気の毒な姫ですから(平原王墓の被葬者)、ヤマトとトビ(蛇神大国主)を恨んで何度も何度もつぶやくお姫様という名前なのですよ!

纏向遺跡を邪馬台国(ヤマト国)と呼ぶことにしたというのが真の邪馬台国東遷説でした(^_-)-☆

【関連記事】
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)
景行天皇は父を大国主らに殺された敵討ちで九州遠征した尾張王建稲種命の史実です。当時、尾張勢は鉄鏃を使わず、銅鏃を使用していたことから戦いの模様が分かりました(^_-)-☆

【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆
古墳時代初期に大和盆地で盛行する長さ3mの割竹形木棺は被葬者の股間に日向峠からの朝日が差すように置かれており、木棺の上には素環頭大刀が置かれていました。男勝りの活躍をした神功皇后のイメージは台与が剣を取って狗奴国勢と戦い、戦死した史実から作られたと考えています。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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渡来人秦氏はどこからきた?

2024-01-25 16:58:16 | 古代史
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2022-02-24 00:36:18にアップしましたが、画像のリンクが切れていたので修正しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

とてもよい動画があったのでコメントさせていただきました。わたしも関裕二フリークで、何冊買ったか分かりません。書店で見ると直ぐに買ってしまって、あとで同じものがあって驚いたことが何回かあります。この本も一冊買って持っています。ためになりました(と書きましたが、本棚を調べてみると似た表紙の本「神社が語る 古代12氏族の正体」祥伝社新書、2014でした。秦氏の章もあります。失礼しました。「伏見稲荷の暗号ー秦氏の謎」講談社、2012に詳しく書かれています( ^)o(^ ))。お付き合いください(*^▽^*)

【歴史本紹介】寺社が語る秦氏の正体 (著)関裕二
2021/09/26 きーの歴史本プレゼンチャンネルさん@YouTube


三世紀の日本建国の史実を把握すれば、秦氏は武内宿禰(第18代奴国大王素戔嗚尊の子孫の大国主狗古智卑狗)を祖とする波多氏とその家人の技術者集団であると分かります。

渡来人というのはユダヤ民族などの異民族ではなく、多くは韓民族より前から半島南部に居た縄文人と長江河口の稲作・漁労民族の倭人(江南系)の混血の縄文系倭人であることがY染色体DNAとmtDNAの解析から推論できます(「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。

江南系倭人はBC.11Cよりも前から半島南部に来ていました。半島や列島の縄文人は陸稲を栽培していましたが、BC.10Cに日本列島に水田稲作技術を伝えました(「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」参照)。

現代韓民族の男性のルーツは、Wiki「日本人」のデータから、江南系倭人(O-47z)と非常に近い殷(商)人系(O1b2からO-47zを除く)が約33%とBC.3C~BC.2Cの戦国時代の戦争難民のシナ人系(O2)が約40%で、北方アジアのツングース系(C2)は約9%、その他です。

現代日本本土の男性のルーツは縄文系(D-M55)約39%、江南倭人系(O-47z)約25%、シナ人系(O2)約17%などです(詳しくは「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。



日本の天皇家のルーツは呉の太伯の後と推定されます。つまりBC.473春秋時代に越に滅ぼされた呉王族で、周王族と同じ先祖が夏王朝を建てた人々です。もともと長江文明の担い手だった原始夏人系(O1a)です(中田力「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書、2014、pp.61-71参照)。呉が滅亡し半島南部に落ち延び、寒冷化が厳しくなったのでBC.4Cに福岡市の吉武高木遺跡に南下しました。「宋史 王年代紀」の天御中主・天村雲尊・天八重雲尊の三代の奴国王墓がすでに発掘されています(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

第4代王天爾聞尊(アメノニニギ)が王宮を須玖・岡本遺跡に遷し、比恵・那珂遺跡群を作って列島内交易センターにして隆盛になりました。素戔嗚尊は宮廷楽師師升らのクーデターで倒れて、出雲方面に逃れた大王の弟の饒速日命が吉備を平定して奴国を再興し第19代王天照大神尊として、ヤマト政権の基礎を築きました。楯築王墓に葬られましたが、楯築神社の御神体の亀石が人面蛇体で中国神話の天皇伏羲氏と同体です。7世紀にヤマトの大王が天皇と呼ばれる所以です。現代日本に約3%です。台湾原住民は約90%と高い頻度です。詳しくは、「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」をご覧ください。



秦氏は日本建国の歴史が藤原不比等により改ざんされたので、それをしきりに暴露しようとした氏族です。「王年代紀」を宋の太宗に献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)も秦氏ですし、能楽は歴史の真相を伝えるために作られたようなものですよ。

【関連記事】
<秦氏と能楽の謎>
正史のウソを朝廷が告白?(^_-)-☆
東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に見せた日本の王年代紀によって、「日本が古の倭の奴国」だったということを告白したので、以後の中国の正史に倭国ではなく日本として記述されるようになった。
箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v
箸墓の被葬者はヤマトとトビ(へび=大国主)を怨んでいたはずとみんな思っていた
能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆
江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦氏だった。そう言えば奝然上人も秦氏だった。どうも秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったようです(^_-)-☆
能楽「翁」は大国主のサンバだった?(*^。^*)
能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?

半島の古代史だ!(漢四郡まで)
渡来人は異民族とは限らない?
日本民族の父系のルーツと地域性について!

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】仮説を検証する!(^_-)-☆
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沖ノ島祭祀は和邇氏が始めた!(^_-)-☆

2024-01-23 16:25:08 | 古代史
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いい話題をありがとうございます。
宗像三女神は宇佐神宮の本当の主祭神比売大神卑弥呼イチキシマヒメのことですよ。全国の八幡神社、厳島神社、弁天宮などで祀られていますよ。三女神は日本書紀が卑弥呼を隠すためにスサノヲの姫ということにしたのですが、宋史 王年代紀第18代奴国王スサノヲの子孫です。

大国主久々遅彦(魏志倭人伝の狗古智卑狗は大国主の父、豊岡市久久比神社祭神、全国の棟上げ式の祭神で木の霊イタケルの子孫、日本海沿岸部のムナカタ族を束ねる王、記紀の武内宿禰)とはいとこで卑弥呼の父はムナカタ海人族和邇氏の祖赤坂比古です(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)。

父娘は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡に居ました。赤坂比古は魏に朝貢する途中で病死した伊殸耆(いせぎ)と推理しています。三女神社は卑弥呼の宮室で、そこから西約500mにある日本最大の円墳「三柱山古墳」が魏志倭人伝にある径百余歩の冢です。赤坂比古の墓は直径120mの奥城古墳と比定しています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。

 

卑弥呼の弟赤坂比古(日触使主、掖邪拘、愛宕権現)の娘宮主宅媛と応神天皇の子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が応神天皇崩御後に即位して、隆盛になった和邇氏が沖ノ島祭祀を始めたのですよ。日本書紀が隠した第二代宇治天皇はオオサザキ(仁徳天皇)に暗殺されました。墓は先日、豪華副葬品で話題になった富雄丸山古墳です。詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。空白の世紀と倭の五王も解明しましたよ。
お邪魔しました(^_-)-☆

【関連記事】
【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎

消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)



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2024-01-21 14:27:47 | 古代史
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れーしch【歴史】10 日前

応神天皇は仲哀天皇が崩御した後(神功皇后の三韓征伐の後)に生まれています。
応神天皇は仲哀天皇の子だと思いますか?
1394 票
仲哀天皇の子だと思う。    28%
仲哀天皇の子だとは思えない。 35%
応神天皇自体が実在していない。18%
閲覧用 19%


刮目天
仲哀天皇の熊襲征伐の話は、卑弥呼の倭国を狗奴国勢が征伐した時の話ですよ!


仲哀天皇のモデルは尾張王ヲトヨノミコト、神功皇后のモデルは近江北陸を根拠地とする縄文海人ムナカタ族の姫巫女台与、父は先日話題になった吉野ヶ里遺跡の石棺墓の被葬者息長宿禰王で、大国主の国造りのパートナー少彦名命です。

そして神功皇后のそばで常に助けた白髪白髭の武内宿禰の正体は大国主久々遅彦です。
卑弥呼の死後に倭国に到着しましたが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古が戦意消失したので倭国王(伊都国男王)が逃亡しました。

無傷で倭国を手に入れたヲトヨノミコトが張政に唆されて倭国王に立ったので反発した久々遅彦と内戦になり千人ほど死にました。
赤坂比古が久々遅彦に味方してヲトヨノミコトを鳥栖市まで追い詰めて討ったと推理しました.ヲトヨノミコトは九州最古級の前方後方墳の赤坂古墳に葬られました。記紀では住吉大神の神託を信じないために突然死んだとされていますが、史実は上の通りです。

久々遅彦は台与13歳を卑弥呼の跡の女王に立てて魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったのです。しかし久々遅彦は列島の大部分の勢力を傘下にしたので記紀で大国主命とされたのです。

この後、尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、記紀の景行天皇、ヤマトタケルのモデル)が父の仇討ちで九州遠征し大国主、妃台与と赤坂比古を討ち、さらに纏向に凱旋するとすぐに大国主の傘下を鎮撫する命令を狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)より受けて、日本列島を統一します(途中で戦死します)。記紀の崇神天皇の四道将軍の話とされ、神話では大国主の国譲りとされています!詳しくは刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデーター共有」をご参照下さい。

仲哀天皇の父ヤマトタケルが死んで38年後に仲哀天皇が生まれていますよ!^_^


@shou-sho
仲哀も神功も実在してないのに誰の子とか考えるのは無意味


刮目天
ここで思考停止するので解決出来なかったのですよ!

@kyupytarou
いえいえ
実在してないのをどうやったらそれらしくできるか…
創作の意図を模索するのがおもしろいです。


@kyupytarou さん、
なるほどそう言う楽しみ方もありますね!
私は、何を隠すために嘘をつくのかに興味があって考古学などの事実から推理すると、隠し通したい大きな嘘を発見してしまいましたよ。先日豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者がわかりました。詳しくは拙ブログにありますので、よろしければご参照下さい!謎解きは楽しいですよ😃

@user-um9yo2xg6b
日本書紀の実質的な編纂者と考えられる藤原不比等が残した謎解きが面白いのです。
1300年前の偉人への挑戦です☺️



日本書紀は三世紀後半の日本建国の史実を隠すために、崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話に引き延ばして創作していました(^_-)-☆


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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