刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜ日本の古代史にトンデモ説が多いのか?(@_@)

2024-07-31 20:59:29 | 古代史
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#YouTubeの古代史関係の動画を見ていて感じた標記のことを、歴史学の専門家の渡辺大門氏が下の動画の中で説明されていましたので、コメントしました。よろしければ20分ほどの動画ですので、まず、視聴されてから、切り口の全く違う拙論にお付き合いください。もしも拙論に違和感などございましたら、遠慮なくコメントください。よろしくお願いいたします(#^.^#)

なぜ歴史(特に日本史)には、こんなにトンデモ本が多いのか?「日本史の謎を解く」by 株式会社歴史と文化の研究所〔渡邊大門〕
いい話題をありがとうございます。
定年後に、古代史を研究していますが、現役時代は理系分野の研究開発をしていました。歴史には、井沢元彦さんや関裕二さんに嵌りました。古代史の学説やトンデモ説を見ていて、プロの学者も素人も古代史研究を科学の探求として見ていないことに気付きました。つまり、文献にあることから自分の好みで仮説を作るだけなのです。事実、つまり考古学や民俗学などの成果による検証が必要だという意識がほとんどありません。

ですから、すべて各人の思い込みが仮説になって、まるで仮説のジャングルになっています。事実で検証して淘汰すべきなのですが、プロの学者でもそれをしません。学説が定説にならないのは検証が不十分だからなのですが、それに気づいてないようです。

古代史の文献には政治的な理由で編纂者などのウソがあるはずですが、一次史料は正しいので、正しく解釈すれば正しい答えが得られるはずだという信仰に基づいているようです。だから魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事をいろいろと解釈を発明するだけで、誰が見ても分かる邪馬台国の場所にはたどり着けないのです。

科学的な手法は、書かれているもので怪しい箇所は物証などで検証してその部分が正しいかどうかを判断します。さらに、ウソが書かれていたと分かれば、何のためにウソを書いたのかを追求すると、逆に真相らしきものが見えてきます。それを事実で検証を重ねると確からしいストーリーが生まれてきます。それが史実と考えられるものです。

アブダクションという第三の推論法がすでに19世紀末から20世紀初頭に活躍した米国の哲学者で論理学者で化学者のC.S.パースによって提案されています。それを古代史分野に応用すると確からしい仮説が得られました。よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。目からウロコの驚く話が満載ですから、どうぞ(;^ω^)



【関連記事】
古代史解明の科学的方法とは?
文献に矛盾があるということは、原因は著者(または編纂者)の意図かさもなければ著者は気付いていたが不可抗力なのか?あるいは著者が気付かなかったか?ですが最後の可能性はほとんどないとすれば、先の二つのうちのひとつです。

どうやって真実に到達できるかを考えると、二つの仮説でそれぞれ何故なのかを合理的に説明できる仮説を選ぶべきです!

そして、それぞれの仮説を事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証するとどちらが有望なのか分かってきます。有望な方をさらに検証し続けると、仮説が信念に変わってきます。

信念がどのようにして形成されるかについてはC.S.パースが論文「信念の固着」(The Fixation of Belief 1877)で分析していますが、このような科学的手法から生まれた信念は多くの人々に受け入れやすくなります(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)」参照)


消された古代王族「トミ」族の正体?(^_-)-☆
藤原氏・中臣氏が神祇祭祀を独占したので日本書紀に合うように日本中の神社の社名・祭神・由緒書も改ざんしています。明治になって国家神道が創設されて各地の神社をそれぞれ統合し、記紀神話に合うように変更されていますので、神社伝承をそのまま受け取ると訳の分からないものになります。

朝廷に隠された神社伝承や出雲口伝や古史古伝の中には真実が隠されていると思いますが、朝廷に見つかった時の保険で、荒唐無稽なものにするなど、工夫されていますので、これもそのまま解釈しても真相から離れてしまうと思います。


日本の古代史が謎な理由?
 日本の古代史に謎が多いのは文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果とが合致していないのが理由です。普通は事実に基づき文献批判すべきなのですが、多くの日本人は、文献の内容は正しいとして、都合の好いように解釈して乗り切ろうと努力していますので、謎は残されたままです。文献が政治文書だということに気づけば解明できるのですが、洗脳されているので難しいのです。
と説明しましたが、一度頭に染み付いたものは中々修正は難しいようですね(;^ω^)

最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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出雲・丹後王国三代が建国の立役者だった!(#^.^#)

2024-07-30 23:21:32 | 古代史
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#いつも勉強させていただいている古荘英雄さんの動画に、最近分かった出雲・丹後王国の話がありましたので、嬉しくてついお邪魔してしまいました。いつものとおり不躾な長いコメントに暖かいお返事などを頂き、有難うございました。是非、動画を見ていただき、よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)



@katumoku10
いい話題をありがとうございます。   

古代大丹波王国と出雲王国は連続的につながっている古代史を解明する上で最も重要な地域のひとつだと思います。

ズバリ言うと、宋史 王年代紀十八代奴国王スサノヲゆかりの地です。スサノヲは三国史記の新羅第四代脱解王のモデルです。107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(奴国宮廷楽師師升)に殺されました。その王子イタケルが出雲に逃れ、祖母イザナミの一族によって出雲を与えられて、その子八束水臣津野命(以下、八束命)がスサノヲゆかりの諸部族を出雲に集めて、鉄のネットワークを作った史実が、国引き神話になっています。西谷三号墳はイタケルの墓だと推理しています。古墳時代の先駆けの首長継承儀礼がこの大型四隅墳丘墓で始まりました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。

出雲・丹後王国三代の初代王八束命が二代目日高彦によって9号墳に祀られています。日高彦がスサノヲの故地豊岡市から丹後半島に拠点を移しました。父八束命は恨みのある倭国王に復讐するための戦略として半島の鉄素材を大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓に運び入れて、鉄製武器の製造コンピナートを作りました。



日高彦は半島が混乱した二世紀末に菊池川沿岸方保田東原遺跡などに最前線基地を作りました。山陰・畿内の兵士を集めて倭国の筑紫平野・佐賀平野などをしきりに攻撃して、倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。

ところが公孫氏が半島を平定し、204年に帯方郡を設置しましたので、倭国は息を吹き返しました。菊池川の集落を襲い、油断していた日高彦を討ったのです。日高彦が魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗です。豊岡市久久比神社祭神です。木の神ですからイタケルの子孫です。

日高彦の右腕の玄界灘を活動域とするムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖)が自分の居館近くの赤坂今井墳丘墓まで、多分遺骸を運び1号墳で葬儀を行ったと推理しています。そして、王を喪って途方に暮れていた赤坂比古が帥升の孫の難升米に懐柔されて、娘卑弥呼(市杵島姫命)による太陽神のお告げに従って政治を行う条件で、狗奴国を裏切り倭国側についてしまいます。赤坂比古に従う勢力が倭国側について、半島の鉄を抑えて大勢力になります。卑弥呼の宮室は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡三女神社です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。



その後、日高彦の子高野御子(日高彦の御子の隠語)が成人し、日高彦の跡を継いで久々遅彦を襲名します(記紀の武内宿禰)。卑弥呼の死後に倭国を支配し、列島の大部分を傘下にしますので記紀神話で大国主と呼ばれます。

【卑弥呼の死の直前の状況】


赤坂今井墳丘墓4号墳は日高彦の妃刺国若比売(大国主の実母)の墓です。大国主自身が葬ったと思います。母の実家の刺国大神が大伴氏の祖で、和歌山市刺田比古神社で祀られている道臣命でしょう(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話」参照)。



出雲・丹後王国三代の史実が日本書紀で日向三代の神話で誤魔化されていますよ(詳細は「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?」参照)。長々とお邪魔しました(;^ω^)

@user-qt3dh6he2f
楽しい話をありがとうございます。総合的に検証されているのがよくわかります。

@katumoku10
ちょっと補足させてください。
270年頃、九州で大国主が討たれた後に尾張勢が丹後半島や豊岡市に侵入してこの地を占領します。豊岡市竹野町竹野の誕生之浦の石碑が大国主の生誕地を示しています。地元では神代の国譲り神話のタケミカズチが上陸した場所として誤魔化していますが直ぐにその名称からウソだと分かります。記紀の崇神天皇紀の四道将軍丹波道主の話とされて、尾張勢のことを隠しています。地元や丹後半島は尾張弁に似た方言が話されていますね(^_-)-☆



タケミカズチがニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命をモデルにして、尾張王に従った崇神天皇の配下の物部氏の祖をフツヌシとしています。藤原氏は春日大社などで祖神として祀っています。史実を隠してゴメンナサイということでしょう。ちなみに比売大神として春日大社で祀っているのは天児屋根の妻としていますが、本当は卑弥呼を祀っていますよ。

ですから、籠神社の宮司家海部氏は尾張王の配下で愛知県海部郡が根拠地ですよ。そして、豊受大神台与の羽衣伝承などを作って誤魔化していますよ。竹野神社は大海人皇子が娘を最初の斎王として派遣した斎宮ですよ。伊勢神宮の創建は文武天皇二年ですから、その時期には内宮はないですから。

地元では竹野を「たかの」と呼びます。大国主高野御子のことなのです(「高野御子の歌(その1)(その2)」参照)。失礼しました(;^ω^)

@user-qt3dh6he2f
なるほど 壮大に展開しますね!

【関連記事】
高野山の秘密?
弘法大師空海が何故、真言密教の修行場として高野山を開いたのか?分かりましたよ(^_-)-☆

赤坂今井墳丘墓の被葬者は?(^_-)-☆
出雲・丹後王国三代の史実が記紀で日向三代神話として隠されていたことを突き止めましたよ(^_-)-☆

【大発見!】大国主命の生誕地か?
日高彦の終焉後に造られた山鹿市茶臼塚古墳と大国主が最初に国造りした宇佐市安心院町佐田の日本一の霊山米神山を結ぶ直線上に米神山から400kmも離れた豊岡市竹野町竹野に日高彦の居城だった五社大明神社があります。そこで石碑を発見しましたこの不思議なレイラインを狗古智卑狗の霊ラインを読んでいます。米神山では大国主にお会いして、立派な木の杖を賜りましたので、我が家の家宝にしています。詳しくは「米神山で大国主に会ってきた!(@_@)!」もご参照ください(^_-)-☆





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尾張氏は日本建国のキーパーソン!( ^)o(^ )

2024-07-29 21:23:11 | 古代史
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とてもいい解説の動画が出ましたので、早速コメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)



また、いいところに目をつけましたね!尾張氏の乎止与命と建稲種命は日本建国のキーパーソンです(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)」参照)。

日本書紀が天皇の歴史書だと思わされてきましたが、これは8世紀に日本神話を含めて、藤原氏にとって不都合な史実を隠すために作られた勝者の歴史書だと分かれば、何を隠したかったのかは、日本書紀の中にヒントもあります。
先に完成したとされる古事記は実は9世紀に突然表に出てきたものです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露するための暗号書だったのです。詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼と天照大御神が同一人物?」をご参照ください。

記紀をヒントにして、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって解明できます。事実と食い違うものは捏造なのです。神社伝承はほとんど藤原氏に改ざんされていますので、記紀のストーリーや神社伝承に基づく仮説は事実と一致しません。

謎の古代史を解明するには、「日本が古(いにしえの)の倭の奴国」という事実から出発する必要があります。すべて事実と考えられる物証と裏付ける伝承から仮説を作り、さらに事実で検証し続けるアブダクションという科学的な推論法に従う必要があります。考え方の詳細はまず「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。どうも、お邪魔しました(;^ω^)


日本の建国において果たした尾張王の役割について推理した仮説の概略を以下に述べます(;^ω^)

玄界灘を活動域とするムナカタ海人族の赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏)が狗奴国を裏切って倭国王難升米側についたために、狗奴国勢に半島の鉄が供給されなくなりました。吉備のニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国卑弥弓呼大王(記紀の開化・崇神天皇)は各地の旧奴国(狗奴国)勢を纏向遺跡に呼び寄せ、連日祈祷を行い、倭国追討の作戦を練りました。

纏向遺跡に集まった中で一番の有力者は、東海を支配する尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)と推理しました。纏向遺跡の外来土器のほぼ半数が東海のものなのです。尾張王は狗奴国大王と同じニギハヤヒの子孫ですので記紀では仲哀天皇とされ、ヤマト王権に背いた熊襲を征伐するために九州征伐する話にされました。

史実は、下の図に示す尾張王乎止与命が倭国を掃討する狗奴国軍の大将として出陣しました。副将は倭国大乱で難升米に急襲されて戦死した英雄の狗古智卑狗(久々遅彦は豊岡市久久比神社祭神、木霊イタケルの子孫の出雲・丹波王で、代々ニギハヤヒの子孫の狗奴国大王の臣下(官)として仕えたので、記紀で武内宿禰とされた日高彦)の子大国主久々遅彦(日高彦の子高野御子)が副将として倭国掃討軍に参加しました。尾張王と近江・越を根拠地とするムナカタ海人族(息長氏の祖)は深い親交があったので、息長宿禰王の姫巫女台与が仲哀天皇の皇后とされています。初期の前方後方墳の祭祀様式を両者が共有しているので強いつながりがあったと分かります(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その2)」参照)。

【卑弥呼の死の直前の状況】


247年3月24日の日没直前に北部九州で日食がありました。狗奴国軍の動きを知った伊都国に居た倭国王難升米は、太陽が欠けながら海に沈む珍しい現象を目撃し(日没帯食)、不吉な予兆と考えたようです。太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったために日食が起こったと考え、卑弥呼を暗殺しました。

その直後に狗奴国軍が到着すると、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(父は234年に洛陽への朝貢の直前に死亡した大夫伊聲耆と推理した、安心院町宮ノ原遺跡奥城古墳に葬られた、記紀の日触使主)はかつての仲間だった狗奴国勢への戦意を喪失しましたので、倭国王は金印を持って半島に逃亡したと考えられます。

無傷で倭国を手に入れた尾張王乎止与命は、丁度、魏少帝の詔勅と黄憧を難升米に渡すために倭国に到着していた張政の進言に従って、狗奴国王を裏切り、倭国王に立ちます。それに不服な副将の久々遅彦と内戦になり、赤坂比古が久々遅彦に加勢して尾張王を討ちました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳(鳥栖市)に埋葬されたと推理しました。記紀では仲哀天皇が大神の神託を信じなかったので突然崩御したということになっています。

千人が死ぬ戦いに勝利した久々遅彦は、狗奴国の有力者を討ってしまったので狗奴国大王の処分を怖れました。久々遅彦は張政の進言を受け入れて、卑弥呼の宗女台与を13歳で外交上女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切り対立しました。日本海沿岸や関東などの勢力も久々遅彦の傘下に加わり、久々遅彦は列島の大半を手に入れたので、記紀神話で大国主命と呼ばれます。



大国主の倭国の成立によって狗奴国は滅亡寸前となります。尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、記紀の景行天皇)は父の敵討ちで九州遠征を行い、苦戦の末に油断していた大国主らを討ち取ることに成功しました。記紀の景行天皇の九州遠征の話として詳しく語られています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。

建稲種命は九州遠征からヤマトに凱旋すると、崇神天皇から直ぐに大国主傘下の地方を討つ命令を受け、東海道遠征の途中で戦死しました(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。子の尾綱根命が父の跡を継ぎ、物部氏の祖先と共に各地を遠征し日本を統一したと推理しています。記紀の崇神天皇の四道将軍の話になっています(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。また神代の大国主の国譲り神話にもなっています。タケミカズチが建稲種命で、フツヌシは物部氏の祖神です。タケイカズチの父がイザナミの生んだ火の神カグツチです。そのためにイザナミが死んだので怒ったイザナギに斬られます。つまり十七代奴国王伊弉諾尊の子孫の大国主久々遅彦に討たれた尾張王乎止与命がカグツチということです。愛知県で最も多く見られる秋葉神社の祭神ですから尾張王乎止与命を祀っていたのですよ(^_-)-☆

その後、280年に狗奴国の後ろ盾だったと推理した呉が西晋に滅ぼされたので、倭国を討った仕返しで西晋に追討されることを怖れた卑弥弓呼大王(崇神天皇)が大国主久々遅彦と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子を探し出してヤマトの祭祀王にします。纏向遺跡の狗奴国を邪馬台国の後継国ということにしてヤマトと呼んだと推理しました。記紀の崇神天皇紀の大田田根子の話です(^_-)-☆

このように、尾張王建稲種命の活躍が無ければ、その後の日本の歴史は大きく違ったものになったことでしょう。折角の日本建国の父の活躍もその史実が不都合だった藤原不比等によって抹殺されてしまいましたが、考古学や民俗学などの成果から推理して、再び史実が表に出てきたわけです。そして建国時代の大国主系の氏族とニギハヤヒ系の氏族の確執が尾を引いて悲劇が七世紀まで繰り返されます。その歴史を考えると、やはり、尾張王乎止与命が魏使張政の甘い言葉に乗ってしまったのが大失敗だったと思いますね(;´Д`)




【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆
卑弥呼がなぜ宇佐に居たのかを考古学や民俗学などの成果から推理しました(^_-)-☆


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纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)だったのだ(;^ω^)

2024-07-27 13:29:39 | 古代史
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纏向遺跡は卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭に突然登場した祭祀・政治に特化した都市です。各地の首長クラスが集まって祈祷などを行っているのです。卑弥呼の倭国と対立する、下で説明する狗奴国(旧奴国)なのです。

纏向遺跡の外来土器に北部九州のものがありません。纏向が倭国ならば伊都国の一大率や部下などが纏向に頻繁に来ていないとおかしいんです。また、前方後円墳の重要な祭祀に北部九州の倭国の人々が参加していないのですから、倭国と対立する狗奴国とわかるのです。范曄後漢書倭伝にも「女王国より東へ渡海千里で狗奴国に至る」と明記されていますので、女王国は九州東部の周防灘に面する宇佐です。卑弥呼の巨大円墳「三柱山古墳」が見つかっています(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。

魏志倭人伝では狗奴国は女王国の南とありますが、政治的な事情で邪馬台国を呉の東方海上にあるとしたいので、嘘が書かれています。南九州に女王国と対立する大勢力など存在しません。邪馬台国への行程記事を帯方郡太守劉夏に書いて教えた人物は、107年に後漢安帝に朝貢した帥升(正しくは奴国宮廷楽師の師升、最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った)の孫の難升米だったのですよ(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。お邪魔しました^_-)-☆

【卑弥呼の死の直前の状況】


@KeCN
旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があるので、邪馬台国と畿内大和王権は別の国(王朝)でしょうね。新唐書には日本国は倭国の別種なりとあります。白村江で大敗した倭国は衰退し、大和王権が倭国に取って代わって倭王として統一したのです。新唐書には、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されているので、元々は倭と後の日本は同じ一族だと思います。

おっしゃるとおりです。新唐書にあるとおり「日本は古の倭の奴国」だったのです。つまり、元々、「王年代紀」にある初代王天御中主の子孫の歴代奴国王が支配していた倭国を別の勢力、つまり伊都国王師升(奴国宮廷楽師)に倭国が奪われたのですが、倭国大乱があり、卑弥呼が登場して、最終的に狗奴国(旧奴国)が倭国を取り戻してヤマト王権が成立したということなんですよ。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください(;^ω^)

狗奴国が女王国の南だと魏志倭人伝にまんまと騙されました(*´Д`)

書かれたものにはウソがあるかも知れないので、疑わしいと思ったところは必ず、

事実(考古学や民俗学などの成果)で検証しないとダメだということですネ!


【関連記事】
ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆
纏向遺跡の初期前方後円墳のルーツを調べるとやはり吉備にたどり着きます。楯築遺跡は双方中円墳という形式の古墳とされていますが、間違いなく前方後円墳のルーツです。それは特殊器台とその表面に描かれた弧帯文が証拠です(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?
邪馬台国問題を解決するには3世紀の日本の建国の過程を解明しなければなりません。日本の最古の歴史書「古事記」「日本書紀」が天皇の歴史書だと多くの方は思っていますが、上の記事のとおり、思い込みなのです。藤原氏による勝者の歴史書だったのです。これに気付くと、事実、つまり考古学や民俗学のなどの成果から推理すると日本の古代史の真相が分かりますよ( ^)o(^ )


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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箸墓古墳は卑弥呼の墓じゃないんだよ!(;^ω^)

2024-07-26 20:19:44 | 古代史
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すでに、箸墓の被葬者は大国主の妃台与だよ!(#^.^#)で、下の動画へのコメントを紹介し、考古学の成果に基づく推論を述べましたが、今度は周辺の神社の伝承などから推理した根拠を述べますね(^_-)-☆



下の図は箸墓古墳とその周辺の神社を示します。



まず箸墓古墳の後円部中心から東270mのところに国津神社があります。
境内の掲示板には以下のように記されています(「uziの神社参拝記」より)。
国津神社(大字箸中字湯屋垣内)
 当國津神社の境内は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。
 この男神五柱は、『記紀』神話によると、素戔嗚尊【すさのおのみこと】が天照大神【あまてらすおおかみ】と天【あめ】の安川【やすかわ】を中にはさんで誓約【うけひ】をしたとき、天照大神の玉を物実【ものざね】として成り出でた神であります。
 ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素戔嗚尊の剣を物実して生まれた奥津島比売【おくつしまひめ】、市杵島比売【いちきしまひめ】、多岐津比売【たぎつひめ】の三女神を祭祀しています。
 この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約【うけひ】によって成り出でた神をそれぞれ祭神としていることに、古代伝承の原景を見る思いがし、敬神の念を禁じ得ません。
 なお古来より毎年八月二十八日には、大字箸中と芝が相集い、三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神・天照大神)の大祭を執行しています。
 また『日本書紀』崇神天皇六年の条に「天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大殿の内に並び祭る。然して其の神の勢を畏【おそれい】りてともに住みたまふに安【やす】からず。故、天照大神を以【もっ】ては、豊鍬入姫命【とよすきいりひめのみこと】に詫【つ】けまつりて、倭【やまと】の笠縫邑【かさぬいのむら】に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の檜原の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居【みやい】のあった笠縫邑の伝承地となっています。
 天照大神の祭祀に奉した豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。
 国津神社秋季大祭は十月第二日曜日


つまり、宗像三女神を祀っているのです。三柱の女神の内、市杵島比売卑弥呼は宇佐神宮の一番立派な二之御殿に祀られている比売大神です。元宮が安心院町妻垣神社で、奥宮の一柱謄宮は日本書紀は神武天皇の母玉依姫の墓所として誤魔化していますが、ここが卑弥呼の墓と言う伝承があります(詳細は「卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆」参照)。さらに安心院盆地を挟んで北側の宮ノ原遺跡内の三女神社が卑弥呼の宮室とした場所です。そして卑弥呼の墓はその西側約500mにある「三柱山古墳」だと突き止めています。卑弥呼に関する遺物や伝承が沢山ありますので、ほとんど確信しています(;^ω^)。

三女神の二柱、奥津島比売(タギリヒメ)とタギツヒメは市杵島姫卑弥呼を隠すために日本書紀の中で創られた女神ですが、タギリビメはwikiによれば、古事記では大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されています。

またタギツヒメはwikiによれば、『先代旧事本紀』では後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。また出雲では阿遅鉏高日子根の子である多岐都比古命の妻とされる。とあります。

つまり、古事記と先代旧事本紀は二柱の女神が大国主の妃の台与であるとして、三女神のウソを上手に暴露しているのです。

そして、境内には社殿の右奥に朱色の鳥居のお稲荷さんを祀っていますが、ウカノミタマ豊受大神、つまり台与を祀っています。その手前に金毘羅権現の石碑がありますので、大国主を祀っていますよ(^_-)-☆。

国津神社の東約1kmの三輪山山麓の檜原神社があり、上の掲示板のとおり、その大祭を国津神社が行っているのですから、檜原神社の祭神の天照大神は三輪山の大物主大神大国主なのです。ちなみに天照皇大神とも書かれますが、大国主と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子が初代応神天皇ということなのですよ(#^.^#)。

ヤマトトビモモソヒメの箸墓伝承は藤原不比等が創りましたが、箸墓古墳の被葬者にゆかりの土地の方が藤原氏に遠慮しながらもしっかりと祀っているようです。箸墓古墳の被葬者は卑弥呼ではなく、13歳で女王にされて、多分50歳代の大国主の妃にされて、30歳ころに伊都国でヤマト勢に殺されたので、大国主の次に朝廷から畏れられているのです。

台与については菊理媛とか白山比売、丹生都比売などの別名でも祀られています。天女の羽衣も台与の伝承ですよ。伊都国で辰砂の対外貿易を大国主から任されていたので、朱に縁があるのです。だからお稲荷さんの鳥居は朱色なのですよ。和歌山県伊都郡という地名は、多分そこの鉱山で当時働いていた山師たちが台与を偲んでつけた地名ですよ(^_-)-☆

箸墓古墳の後円部から南西約400mに豊慶大神を祀るとする朱色の鳥居と祠があり、お稲荷さん豊受大神台与を祀っています。稲荷山古墳という直径10mほどの小さな円墳の上です。 台与は上のとおり、討たれて糸島市平原王墓に葬られたと推理していますから、ここや箸墓古墳には遺骸はないと思いますが、何か遺品が入っているかも知れませんよ(@_@)

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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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