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古代史ランキング
今回は倭国と三国時代の国々との関わりを理解するために、既にバラバラに述べて重複する内容もありますが、後漢王朝と三国時代の前半までの年表に沿って、そこで何があったのか簡単に見て行きます(注1)。以下の倭国に関係する記事は紫字で書きます。
25年 建武元年 劉秀(光武帝)が帝位につき、洛陽を都とす。
57年 (中元二年)倭の奴国王(「宋史 王年代紀」第十六代王沫名杵尊)が朝貢し、金印紫綬を賜う。前漢の武帝がシルクロードで西域との交易のために漢四郡を設置して東夷を支配しましたが、急に領土拡張したので財政難から楽浪郡だけを残して三郡は廃止されます。倭国との取引の拠点は半島南部の勒島から壱岐そして伊都国に変わり、華僑を王都の中に住まわせました(三雲遺跡番上地区から楽浪土器が出土しています)。伊都国には奴国王族を配置し、対外交易を管理・監督させました(「魏志倭人伝」の大倭の役割)。華僑が欲しい倭国の珍しい産物を手に入れることが出来るように倭国を支配する奴国王に依頼するために光武帝が冊封体制に組み込んだと考えられます(注2)。
106年 (延平元年)和帝が崩御し、第三代皇帝章帝の孫劉祜が即位(第六代安帝)。
このころ、「宋史 王年代紀」第十七代王伊弉諾尊とその妃伊弉冉尊(宗像大社の伝承によるとイザナミは縄文海人ムナカタ族の姫)の子スサノヲが奴国大王となります(第十八代王素戔烏尊)。スサノヲ大王は王子の頃からムナカタ族と一緒に半島南部に渡り、鉄素材を入手して奴国や丹波(タニワ)などの鍛冶工房で鉄製品を作らせていました(「三国史記」新羅第四代王脱解のモデルと考えられる)。
ムナカタ族の行う縄文系祭祀に親しんだ大王が即位すると、奴国の伝統的な宮中祭祀に対し宗教改革を行おうとしたと考えられます。そこで奴国の祭祀を司る宮廷楽師の師升らが反乱を起こします。大王がいつものように旅行から奴国に帰還した時に、待ち伏せした反乱兵が大王と多数の部下を捕らえました。「漢委奴国王」の金印の在りかを聞き出すために大王を拷問したようですが、すでに部下のアズミ族がいち早く持ち出して逃亡していましたので、結局大王は殺されました(アズミ族が逃亡する途中で志賀島に寄り、石の下に金印を隠しましたので江戸時代になって発見されました)。
107年 (永初元年)約500年間続いた奴国が滅亡し、師升等が後漢に朝貢しました。160名もの捕虜にした大王の部下を奴隷として献上して、師升が倭国王として認められ、伊都国に都を作りました。
王子五十猛(イタケル)と大王の弟ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の助けで出雲・伯耆方面に逃げました。
旧奴国勢力は、スサノヲ大王の縁故で半島南部の鉄素材を入手して勢力を伸ばします。イタケル王子の子孫が丹波(タニワ)に鉄製品を製造する鍛冶工房や玉造工房を造り、列島内の交易を盛んに始めます。玄界灘、日本海沿岸部などを活動域とするムナカタ海人族の王とされ、代々、狗古智卑狗(久々遅彦)の王名を襲名します。
列島各地の首長(部族長)は久々遅彦王との縁故を結び系列化が進みます。王や各地の首長の権力が増大して、従来の大型銅鐸に見られる穀霊・祖霊祭祀などが廃れ、首長霊信仰がはじまります。偉大な先王の霊魂が首長に宿り、先王の霊魂と一体になって首長が力を発揮できるようになるという信仰ですから、王名が代々襲名されるのでしょう。
主に日本海沿岸部に、大型の四隅突出型墳丘墓が、また丹波や畿内に貼石のある方形墓が作られるようになります。後に、近江・東海・畿内に前方後方墳が営まれるようになり、古墳時代が始まります。
日本の王墓に墓誌が作られない理由は、この首長霊信仰により、亡くなった王の業績も祖先神の力によるものであって、次の王に霊力(パワー)が引き継がれるという思想があったからと考えられます。
125年 (延光四年)三月十日(4月30日)、安帝が崩御。 五月に、倭国では「祭祀を整え、(伊都国を)永久の王都とした」との紀年銘の入った銅製「室見川銘板」が作られました(1948年に福岡市西区、室見川河口付近で発見)。日本で作られた現存する最古の金石文です。弥生中期から硯(すずり)片が北部九州で発見されており、後期の雀居遺跡では木製の組机が発見されていますので、当時の倭国で文字が使われていたと考えられます。伊都国では通訳が居たはずで、当時から漢字を読み書きしてコミュニケーションできる人が居たことは確かです。
(左クリックで拡大)
「日本書紀」には応神天皇15年(284年)に百済から漢字の典籍が伝わったとあるので、「室見川銘板」の重要性に気付かなかったということだと思います。また、奈良時代に奴国は儺県(なのあがた)とされていましたが、「儺」は「鬼やらい」のことです。つまり鬼のような乱暴者のスサノヲ大王を追い払った師升の事績から来ます。さらに伊都国は殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)が出来の悪い王を追放した史実と師升王の事績が重なることから伊尹が定めた都という意味で伊都国と名付けたと分かります。つまり宮廷司祭師升の事績は史実だと考えられます。
126年 安帝の子劉保が即位(順帝)。
この頃、ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の支援で吉備を平定し、奴国を再興します。ニギハヤヒ大王(第十九代王天照大神尊)が亡くなると、楯築王墓に葬られました。楯築神社の御神体「亀石」に描かれた弧帯文は、後の纏向遺跡の前方後円墳に副葬された弧文円板や弧文石と同じヘビを象ったもので、「亀石」にはさらに大王の顔が彫られています。中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体ですので、初代王天御中主(アメノミナカヌシ、海神龍王)に始まる奴(ナーガ=龍蛇神)国王の子孫のヤマト大王を七世紀末に天皇と呼ぶようになります。「新唐書」「宋史」で「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と書かれた理由です。
145年 後漢草創期の功臣の一人の梁統の玄孫梁冀により章帝の玄孫である劉纘が即位(質帝)。梁冀は外戚として権勢を振るう。
146年 質帝が梁冀に毒殺される。
147年 章帝の曽孫劉志が即位(桓帝)。この時代から後漢朝廷がかなり乱れます。
159年 (延熹二年)梁冀の専横に対して桓帝は単超ら5人の宦官と謀り、梁冀派の宦官を逮捕し、兵を動員して梁冀の豪邸を囲みます。梁冀は妻子らと共に自害し、梁氏一族はことごとく処刑されました。
167年 (延熹十年)宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚、豪族勢力が糾弾するも、宦官たちはこれに大規模な弾圧を行いました(党錮の禁)。
この頃から、周辺の統治も弱まり、半島では韓人・濊人が強盛になり、楽浪郡から人々が散り、統治出来なくなります。倭国も楽浪郡との交易ができなくなり、徐々に衰退します。
168年 (永康元年)十二月、桓帝が崩御し、章帝の玄孫劉宏が即位する(霊帝)。桓帝の皇后の竇妙、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された。
169年 宦官排斥が計画されるが、事前に露見して、外戚や陳蕃ら士大夫が排除され、宦官(曹節、侯覧、王甫)が権力を掌握しました(第二次党錮の禁)。
184年 張角が挙兵、黄巾の乱が起こる。
曹操、孫堅、劉備らが討伐軍に加わる。
185年 宦官13人が列侯となる。
189年 霊帝が崩御。少帝劉弁即位。
霊帝の時代は宦官を重用し、売官が行われ官吏は堕落しました。民衆には重い賦役を課して民心は完全に離反しました。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化しました。この群雄割拠から三国時代への前段階の時代でした。霊帝の外戚で大将軍何進が司隷校尉袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官の一掃を図りました。地方豪族に対する宦官排除の命に応じた、并州牧董卓(へいしゅうのぼく とうたく)が洛陽に入り、武力を背景にして朝廷を牛耳り、少帝を廃し、劉協(献帝)を即位させました。董卓は廷臣の最高職である相国にまで上り詰めて、専横を極め、暴虐の限りを尽くしました。董卓の悪逆非道に対して袁詔が反董卓の諸侯連合の盟主となり、挙兵しました。
190年 董卓は洛陽に火を放ち、献帝を連れて長安に遷都。
192年 しかし董卓が暗殺されます。
反董卓諸侯連合は解体し、内戦が起こります。
劉備が徐州で曹操に反乱を起こし敗れ、袁詔を頼ります。
196年 (中平六年)公孫度が遼東太守となり、高句麗・烏桓を討つ。 師升王の子孫の倭国王(難升米の先王)は旧奴国勢力の攻勢に対して公孫度の支援を受けるために遼東郡の襄平に使節を送り、中平紀年銘大刀を賜わったと考えられます。
200年 曹操が、官渡(現在の河南省鄭州市中牟県北東)で袁詔を破る。
孫策が没し、弟孫権が呉を継ぐ。
201年 劉備が汝南(現在の河南省周口市)で曹操に敗れ、今度は劉表を頼る。
202年 袁詔、没する。
204年 曹操が袁尚を倒し、河北を平定。
公孫度が死に、子の公孫康が遼東太守を継ぎ、反抗していた韓・濊を討ち、 楽浪郡の南18県を別けて帯方郡を設置します。 倭国王難升米が使節を送り、恭順の姿勢を示し、 旧奴国(狗奴国)との戦況を報告し、軍事支援を得ます。 倭国は勢力を取り戻し、菊池川沿いの旧奴国の最前線基地を襲い、玄界灘・日本海沿岸部・九州東岸などを活動域とするムナカタ海人族らの王の 狗古智卑狗(久々遅彦)が戦死します。
王を失った、玄界灘を渡って半島の鉄素材を旧奴国側に供給していたムナカタ 海人族の族長赤坂比古(アタカタスミ)を懐柔に成功します。難升米王が野麻国の姫巫女卑弥呼による太陽神のお告げによって 政治を行うことで両者が合意し、九州全域、中国西部、 四国西部(後に全域)等 が、狗奴国を裏切り、倭国側に着くことになります。
劣勢だった倭国の危機は去り、半島南部の鉄素材を入手できるようになり、奴国の交易センターも改修して活発に取引が行われるようになり、隆盛になりました。狗奴国側に着いていた四国東部や紀伊半島沿岸部の勢力まで倭国側に着いた模様です。前回の纏向遺跡の外来土器の出土状況から見て取れます。
反対に狗奴国側に半島の鉄素材が全く回らなくなり、衰退することを怖れた 狗奴国王卑弥弓呼は纏向に旧奴国勢力を集めて、恨みのある倭国王や裏切り者のムナカタ族の赤坂比古や卑弥呼らを呪詛し、倭国徴伏の祈祷をして、 倭国攻略の作戦計画を練っていたと推理できます(注3)。
205年 曹操、袁譚を斬り、青州を平定。袁熈、袁尚が烏丸に逃亡。
207年 曹操、烏丸を討つ。 烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われて 遼東郡に逃れてきました。公孫康は曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・ 袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出しました。公孫康はこれにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命されました。
このころ 劉備、三顧の礼により諸葛亮を軍師とします。
208年 曹操が丞相となり、南征して聖人孔子の子孫孔融を殺す。
諸葛亮が孫権を説得して同盟を結び、曹操を赤壁で破る。
214年 劉備、成都に入り、益州を領土にする。
216年 曹操、魏王となる。
219年 劉備、漢中王となる。
関羽と子関平が孫権に敗れ、斬られる。
220年 曹操が死に、長子の曹丕が後漢献帝を廃し、皇帝に即位(魏文帝)。
曹操の諡を武帝とする。
221年 劉備が漢(蜀)の皇統を継ぐ(昭烈帝)。
222年 呉王孫権が独自の年号黄武元年とする。
223年 (章武三年)四月、昭烈帝(劉備)が崩御、 子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。
226年 (黄初七年)五月 魏文帝(曹丕)が崩御、 長男曹叡が即位(魏明帝)。
だいたいここまでが前回までの倭国の話と東アジア情勢です。この後、公孫氏が魏の太尉司馬懿に討たれ、帯方郡も魏に落ちたので、倭国王難升米が魏に朝貢します。二十一世紀の現代まで謎の邪馬台国への行程記事のトリックなどを次回に詳しく述べる予定ですので、またよろしくお願いします。
【日本の歴史の始まりはこうだ】(連載中)
(その1)天地開闢神話と史実について
(その2)古代の鉄について
(その3)弥生時代に何があったのか
(その4)日本建国の神たちと史実について
(その5)伊都国時代前半の様子
(その6)倭国大乱と卑弥呼の登場
(その7)狗奴国の都(纏向遺跡)の出現
(注1)日本大百科全書(ニッポニカ)「漢の時代(年表)」の解説を参考にした。
(注2)倭人同士の交易は、すでに弥生中期後半(紀元前三世紀)ころから、当時の列島最大の都市の比恵・那珂遺跡が作られ列島内の交易センターとして機能していました。倭国王は奴国の須玖岡本遺跡の王宮に住み、その周辺で青銅器などを製造する官営工場を造って、各地の首長に青銅鏡などを配布していました。奴国での交易権を与える代わりに、主に丸木舟で奴国に集まる人々に、約10~30キロごとに配置された海辺の集落で食料・水や宿などを供給させていたと考えられます(長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける』PHP新書968, 2015, pp.29-33 を参考にした)。
(注3)日経新聞の記事(2010年9月17日 17:00)によれば、「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀(さいし)に用いたとみられる2千個を超す桃の種や大量の土器、木製品が見つかり、同市教育委員会が17日、発表した。
桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。」とあります。毎日、必死に神に祈っていた様子が目に浮かびます。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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今回は倭国と三国時代の国々との関わりを理解するために、既にバラバラに述べて重複する内容もありますが、後漢王朝と三国時代の前半までの年表に沿って、そこで何があったのか簡単に見て行きます(注1)。以下の倭国に関係する記事は紫字で書きます。
25年 建武元年 劉秀(光武帝)が帝位につき、洛陽を都とす。
57年 (中元二年)倭の奴国王(「宋史 王年代紀」第十六代王沫名杵尊)が朝貢し、金印紫綬を賜う。前漢の武帝がシルクロードで西域との交易のために漢四郡を設置して東夷を支配しましたが、急に領土拡張したので財政難から楽浪郡だけを残して三郡は廃止されます。倭国との取引の拠点は半島南部の勒島から壱岐そして伊都国に変わり、華僑を王都の中に住まわせました(三雲遺跡番上地区から楽浪土器が出土しています)。伊都国には奴国王族を配置し、対外交易を管理・監督させました(「魏志倭人伝」の大倭の役割)。華僑が欲しい倭国の珍しい産物を手に入れることが出来るように倭国を支配する奴国王に依頼するために光武帝が冊封体制に組み込んだと考えられます(注2)。
106年 (延平元年)和帝が崩御し、第三代皇帝章帝の孫劉祜が即位(第六代安帝)。
このころ、「宋史 王年代紀」第十七代王伊弉諾尊とその妃伊弉冉尊(宗像大社の伝承によるとイザナミは縄文海人ムナカタ族の姫)の子スサノヲが奴国大王となります(第十八代王素戔烏尊)。スサノヲ大王は王子の頃からムナカタ族と一緒に半島南部に渡り、鉄素材を入手して奴国や丹波(タニワ)などの鍛冶工房で鉄製品を作らせていました(「三国史記」新羅第四代王脱解のモデルと考えられる)。
ムナカタ族の行う縄文系祭祀に親しんだ大王が即位すると、奴国の伝統的な宮中祭祀に対し宗教改革を行おうとしたと考えられます。そこで奴国の祭祀を司る宮廷楽師の師升らが反乱を起こします。大王がいつものように旅行から奴国に帰還した時に、待ち伏せした反乱兵が大王と多数の部下を捕らえました。「漢委奴国王」の金印の在りかを聞き出すために大王を拷問したようですが、すでに部下のアズミ族がいち早く持ち出して逃亡していましたので、結局大王は殺されました(アズミ族が逃亡する途中で志賀島に寄り、石の下に金印を隠しましたので江戸時代になって発見されました)。
107年 (永初元年)約500年間続いた奴国が滅亡し、師升等が後漢に朝貢しました。160名もの捕虜にした大王の部下を奴隷として献上して、師升が倭国王として認められ、伊都国に都を作りました。
王子五十猛(イタケル)と大王の弟ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の助けで出雲・伯耆方面に逃げました。
旧奴国勢力は、スサノヲ大王の縁故で半島南部の鉄素材を入手して勢力を伸ばします。イタケル王子の子孫が丹波(タニワ)に鉄製品を製造する鍛冶工房や玉造工房を造り、列島内の交易を盛んに始めます。玄界灘、日本海沿岸部などを活動域とするムナカタ海人族の王とされ、代々、狗古智卑狗(久々遅彦)の王名を襲名します。
列島各地の首長(部族長)は久々遅彦王との縁故を結び系列化が進みます。王や各地の首長の権力が増大して、従来の大型銅鐸に見られる穀霊・祖霊祭祀などが廃れ、首長霊信仰がはじまります。偉大な先王の霊魂が首長に宿り、先王の霊魂と一体になって首長が力を発揮できるようになるという信仰ですから、王名が代々襲名されるのでしょう。
主に日本海沿岸部に、大型の四隅突出型墳丘墓が、また丹波や畿内に貼石のある方形墓が作られるようになります。後に、近江・東海・畿内に前方後方墳が営まれるようになり、古墳時代が始まります。
日本の王墓に墓誌が作られない理由は、この首長霊信仰により、亡くなった王の業績も祖先神の力によるものであって、次の王に霊力(パワー)が引き継がれるという思想があったからと考えられます。
125年 (延光四年)三月十日(4月30日)、安帝が崩御。 五月に、倭国では「祭祀を整え、(伊都国を)永久の王都とした」との紀年銘の入った銅製「室見川銘板」が作られました(1948年に福岡市西区、室見川河口付近で発見)。日本で作られた現存する最古の金石文です。弥生中期から硯(すずり)片が北部九州で発見されており、後期の雀居遺跡では木製の組机が発見されていますので、当時の倭国で文字が使われていたと考えられます。伊都国では通訳が居たはずで、当時から漢字を読み書きしてコミュニケーションできる人が居たことは確かです。
(左クリックで拡大)
「日本書紀」には応神天皇15年(284年)に百済から漢字の典籍が伝わったとあるので、「室見川銘板」の重要性に気付かなかったということだと思います。また、奈良時代に奴国は儺県(なのあがた)とされていましたが、「儺」は「鬼やらい」のことです。つまり鬼のような乱暴者のスサノヲ大王を追い払った師升の事績から来ます。さらに伊都国は殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)が出来の悪い王を追放した史実と師升王の事績が重なることから伊尹が定めた都という意味で伊都国と名付けたと分かります。つまり宮廷司祭師升の事績は史実だと考えられます。
126年 安帝の子劉保が即位(順帝)。
この頃、ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の支援で吉備を平定し、奴国を再興します。ニギハヤヒ大王(第十九代王天照大神尊)が亡くなると、楯築王墓に葬られました。楯築神社の御神体「亀石」に描かれた弧帯文は、後の纏向遺跡の前方後円墳に副葬された弧文円板や弧文石と同じヘビを象ったもので、「亀石」にはさらに大王の顔が彫られています。中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体ですので、初代王天御中主(アメノミナカヌシ、海神龍王)に始まる奴(ナーガ=龍蛇神)国王の子孫のヤマト大王を七世紀末に天皇と呼ぶようになります。「新唐書」「宋史」で「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と書かれた理由です。
145年 後漢草創期の功臣の一人の梁統の玄孫梁冀により章帝の玄孫である劉纘が即位(質帝)。梁冀は外戚として権勢を振るう。
146年 質帝が梁冀に毒殺される。
147年 章帝の曽孫劉志が即位(桓帝)。この時代から後漢朝廷がかなり乱れます。
159年 (延熹二年)梁冀の専横に対して桓帝は単超ら5人の宦官と謀り、梁冀派の宦官を逮捕し、兵を動員して梁冀の豪邸を囲みます。梁冀は妻子らと共に自害し、梁氏一族はことごとく処刑されました。
167年 (延熹十年)宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚、豪族勢力が糾弾するも、宦官たちはこれに大規模な弾圧を行いました(党錮の禁)。
この頃から、周辺の統治も弱まり、半島では韓人・濊人が強盛になり、楽浪郡から人々が散り、統治出来なくなります。倭国も楽浪郡との交易ができなくなり、徐々に衰退します。
168年 (永康元年)十二月、桓帝が崩御し、章帝の玄孫劉宏が即位する(霊帝)。桓帝の皇后の竇妙、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された。
169年 宦官排斥が計画されるが、事前に露見して、外戚や陳蕃ら士大夫が排除され、宦官(曹節、侯覧、王甫)が権力を掌握しました(第二次党錮の禁)。
184年 張角が挙兵、黄巾の乱が起こる。
曹操、孫堅、劉備らが討伐軍に加わる。
185年 宦官13人が列侯となる。
189年 霊帝が崩御。少帝劉弁即位。
霊帝の時代は宦官を重用し、売官が行われ官吏は堕落しました。民衆には重い賦役を課して民心は完全に離反しました。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化しました。この群雄割拠から三国時代への前段階の時代でした。霊帝の外戚で大将軍何進が司隷校尉袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官の一掃を図りました。地方豪族に対する宦官排除の命に応じた、并州牧董卓(へいしゅうのぼく とうたく)が洛陽に入り、武力を背景にして朝廷を牛耳り、少帝を廃し、劉協(献帝)を即位させました。董卓は廷臣の最高職である相国にまで上り詰めて、専横を極め、暴虐の限りを尽くしました。董卓の悪逆非道に対して袁詔が反董卓の諸侯連合の盟主となり、挙兵しました。
190年 董卓は洛陽に火を放ち、献帝を連れて長安に遷都。
192年 しかし董卓が暗殺されます。
反董卓諸侯連合は解体し、内戦が起こります。
劉備が徐州で曹操に反乱を起こし敗れ、袁詔を頼ります。
196年 (中平六年)公孫度が遼東太守となり、高句麗・烏桓を討つ。 師升王の子孫の倭国王(難升米の先王)は旧奴国勢力の攻勢に対して公孫度の支援を受けるために遼東郡の襄平に使節を送り、中平紀年銘大刀を賜わったと考えられます。
200年 曹操が、官渡(現在の河南省鄭州市中牟県北東)で袁詔を破る。
孫策が没し、弟孫権が呉を継ぐ。
201年 劉備が汝南(現在の河南省周口市)で曹操に敗れ、今度は劉表を頼る。
202年 袁詔、没する。
204年 曹操が袁尚を倒し、河北を平定。
公孫度が死に、子の公孫康が遼東太守を継ぎ、反抗していた韓・濊を討ち、 楽浪郡の南18県を別けて帯方郡を設置します。 倭国王難升米が使節を送り、恭順の姿勢を示し、 旧奴国(狗奴国)との戦況を報告し、軍事支援を得ます。 倭国は勢力を取り戻し、菊池川沿いの旧奴国の最前線基地を襲い、玄界灘・日本海沿岸部・九州東岸などを活動域とするムナカタ海人族らの王の 狗古智卑狗(久々遅彦)が戦死します。
王を失った、玄界灘を渡って半島の鉄素材を旧奴国側に供給していたムナカタ 海人族の族長赤坂比古(アタカタスミ)を懐柔に成功します。難升米王が野麻国の姫巫女卑弥呼による太陽神のお告げによって 政治を行うことで両者が合意し、九州全域、中国西部、 四国西部(後に全域)等 が、狗奴国を裏切り、倭国側に着くことになります。
劣勢だった倭国の危機は去り、半島南部の鉄素材を入手できるようになり、奴国の交易センターも改修して活発に取引が行われるようになり、隆盛になりました。狗奴国側に着いていた四国東部や紀伊半島沿岸部の勢力まで倭国側に着いた模様です。前回の纏向遺跡の外来土器の出土状況から見て取れます。
反対に狗奴国側に半島の鉄素材が全く回らなくなり、衰退することを怖れた 狗奴国王卑弥弓呼は纏向に旧奴国勢力を集めて、恨みのある倭国王や裏切り者のムナカタ族の赤坂比古や卑弥呼らを呪詛し、倭国徴伏の祈祷をして、 倭国攻略の作戦計画を練っていたと推理できます(注3)。
205年 曹操、袁譚を斬り、青州を平定。袁熈、袁尚が烏丸に逃亡。
207年 曹操、烏丸を討つ。 烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われて 遼東郡に逃れてきました。公孫康は曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・ 袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出しました。公孫康はこれにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命されました。
このころ 劉備、三顧の礼により諸葛亮を軍師とします。
208年 曹操が丞相となり、南征して聖人孔子の子孫孔融を殺す。
諸葛亮が孫権を説得して同盟を結び、曹操を赤壁で破る。
214年 劉備、成都に入り、益州を領土にする。
216年 曹操、魏王となる。
219年 劉備、漢中王となる。
関羽と子関平が孫権に敗れ、斬られる。
220年 曹操が死に、長子の曹丕が後漢献帝を廃し、皇帝に即位(魏文帝)。
曹操の諡を武帝とする。
221年 劉備が漢(蜀)の皇統を継ぐ(昭烈帝)。
222年 呉王孫権が独自の年号黄武元年とする。
223年 (章武三年)四月、昭烈帝(劉備)が崩御、 子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。
226年 (黄初七年)五月 魏文帝(曹丕)が崩御、 長男曹叡が即位(魏明帝)。
だいたいここまでが前回までの倭国の話と東アジア情勢です。この後、公孫氏が魏の太尉司馬懿に討たれ、帯方郡も魏に落ちたので、倭国王難升米が魏に朝貢します。二十一世紀の現代まで謎の邪馬台国への行程記事のトリックなどを次回に詳しく述べる予定ですので、またよろしくお願いします。
【日本の歴史の始まりはこうだ】(連載中)
(その1)天地開闢神話と史実について
(その2)古代の鉄について
(その3)弥生時代に何があったのか
(その4)日本建国の神たちと史実について
(その5)伊都国時代前半の様子
(その6)倭国大乱と卑弥呼の登場
(その7)狗奴国の都(纏向遺跡)の出現
(注1)日本大百科全書(ニッポニカ)「漢の時代(年表)」の解説を参考にした。
(注2)倭人同士の交易は、すでに弥生中期後半(紀元前三世紀)ころから、当時の列島最大の都市の比恵・那珂遺跡が作られ列島内の交易センターとして機能していました。倭国王は奴国の須玖岡本遺跡の王宮に住み、その周辺で青銅器などを製造する官営工場を造って、各地の首長に青銅鏡などを配布していました。奴国での交易権を与える代わりに、主に丸木舟で奴国に集まる人々に、約10~30キロごとに配置された海辺の集落で食料・水や宿などを供給させていたと考えられます(長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける』PHP新書968, 2015, pp.29-33 を参考にした)。
(注3)日経新聞の記事(2010年9月17日 17:00)によれば、「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀(さいし)に用いたとみられる2千個を超す桃の種や大量の土器、木製品が見つかり、同市教育委員会が17日、発表した。
桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。」とあります。毎日、必死に神に祈っていた様子が目に浮かびます。
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