刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その2)

2021-12-29 01:36:46 | 古代史
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自転車くまさんの写真から、茶臼塚古墳の墳頂に置かれた大国主狗古智卑狗(久々遅彦)の本地仏の石仏が(注1)、もしもうてな遺跡を見ているならば、そこで戦死したことを示唆していると考えました。くまさんに尋ねたところ「古墳は、石の風車を背にしていますので東南方向を向いています。その先が台台地方向であることは間違いありませんが、ピンポイントで台(うてな)古墳かどうかまでは確認していません。」とお返事を頂きましたので、国土地理院の航空写真をもとに検討しました。



もしも向かって右側の石の風車が真後ろにあるならば、南東よりも右になるので、南南東よりも少しだけ東になります。うてな遺跡は南南東から5度も南側になります。

そこで、南東方向に何かあるかを調べてみると、木野神社という同じ名の神社が二つ見つかりました(手前が山鹿市菊鹿町で奥が菊池市木野の木野神社です)。GoogleMapで見たところ、御祭神はどちらも正確には分かりませんが、どちらも猿田彦大神の石碑が見つかりましたから、恐らくサルタヒコを祀っているのでしょう。

実は、サルタヒコについてはすでに「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」で記事にしており、その正体は龍蛇神(奴国の大王)であり、大国主の分身であることを突き止めています。本当のご祭神は、神社名から木霊の久々智神(久々遅彦)とわかりますから、大国主と先代の狗古智卑狗なのですよ。これについては後でまた述べますが、当時から首長は偉大な父祖の霊魂を自らに取り込み、父祖と霊的に一体になることでその重責を果たし、偉業を成し遂げることが出来ると信じられていたようです(注2)。

もしもこの石仏がこちらを向いていたならば、先代狗古智卑狗の終焉の地を示唆しているのかも知れません。菊池市木野神社の方が地名から考えると古いのではないかと思います。ということで、石仏が正確にどこを向いているかによって、さらに詳細な推理を楽しめます(^_-)-☆

さて、大国主の本地仏弥勒菩薩を調べると、胎蔵曼荼羅の中央部に描かれた大日如来から北東に現れています。



そこで茶臼塚古墳の付近を見ると南西約600mの所に、御宇田神宮(みうたじんぐう)がありました。光孝天皇仁和二年(886年)に伊勢・熊野・八幡三社を勧請し、その後、四條天皇仁治元年(1240年)に「阿蘇一宮を合祀し四座一殿として御宇田大明神と号す」とあります。御祭神は天照皇大神、豊受日賣大神、素盞男命、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇津日賣命の五柱とあります。伊勢神宮内宮から天照皇大神、外宮から豊受日賣大神、熊野大社から祭神櫛御気野命つまり素盞男命で、阿蘇神社から健磐龍命(阿蘇都彦命)と阿蘇津日賣命ですから、宇佐八幡神宮からはどなたを勧請したのでしょう?!

実は、「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その4)」で述べましたが、アソツヒコとアソツヒメは大国主久々遅彦と女王台与がその正体です。そして、宇佐八幡神宮の神功皇后のモデルは台与ですので、大国主が八幡大神の正体なのです。二人の間の子が応神天皇です。最初のヤマトの祭祀王応神天皇は大国主の霊魂を受け継いでいるので矛盾はないのですよ!そして、伊勢外宮の豊受日賣大神も正体は台与なのですから、内宮の天照皇大神は当然、大国主大神なのです。「能楽が建国の真相を伝える?」で述べたとおり、「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」ですから、伊勢の神(天照皇大神)と三輪の神(大国主)は同体だということを江戸時代までのかなりの人は分かっていましたよ(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。

そして、天照大神の本地仏が大日如来ですから、茶臼塚古墳の上に石の祠が先に置かれたのならば御宇田神宮が後で創建されたことになりますが、同時なのかも知れません。

さてここからが更に大発見です!

御宇田神宮から北東の茶臼塚古墳のラインを更に伸ばしていくと、一体どこにたどり着くのでしょうか?

はい、答えは佐田京石の置かれた宇佐市安心院町佐田地区でした(注3)。

これもすでに「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」で見たとおり、卑弥呼の死後に男王に立った尾張王タラシナカツヒコ(記紀では仲哀天皇、神話のカグツチ)を大国主が討ちました。そして、魏使張政の進言を入れて、台与を対外的に女王とし、魏を後ろ盾にして、もともと支配していた日本海沿岸部などに加えて、卑弥呼の九州・四国・中国西部まで版図にし、列島のほとんどの部分を手に入れることが出来ましたので、記紀神話で大国主と名付けられました。戦いに勝利して最初に訪れたのが卑弥呼の墓。そこから卑弥呼を妻垣神社の奥宮「一柱騰宮」で改葬した後に、佐田地区で豊葦原を瑞穂の国に変える国造りをしたと推理しました。

しかしその前に、父である先代狗古智卑狗の墓参りをしたはずです。ですから山鹿市から、安心院町三柱山の卑弥呼の墓に向かうルート上に、褐鉄鉱が産出される佐田地区を発見したと思われます。鉄製農工具などを作り、そこの葦原を水田に変えて、王都とした場所だったと推理しました。佐田京石はサルタヒコが都として祭祀を行った場所という意味なのですから。標高475mの米神山の西麓の佐田京石が、祖霊への感謝と加護を祈ったストーンサークルだと考えられます。父狗古智卑狗やスサノヲ大王など皇祖神の霊魂が宿る場所かも知れません。米神山の北西麓の田んぼの中に、こしき石(いわ)という男性のシンボルが山頂に向けて置かれています。米神山には何か霊的なものが漂っています。

この山の中腹に月の神谷と呼ばれる柱状節理が見られる場所があり、佐田京石もそこから採られたのではないかと思います。そこにまた陽石と呼ばれる男性のシンボルのようなものが幾つかありますが、何と、それらが全て南西を向いていると、ある方の動画で知りました(8:04では南東と言い間違えていますが、その後直ぐに、南西と言い直しており、14:34に全て南西を向いていると明言されています)。

さて、どなたでしょうか?



そうなんですよ!猿田彦という名前の方なのです!

日本の超古代文明、二万三千年前の巨石文化を研究されている方です!

この動画は以前にも見ていましたが、再度見直して南西向きを確認して、ほんとにビックリしました!

米神山は山頂にストーンサークルが置かれていますし、麓には佐田京石という立派な祭祀場もあり、すでに「日本ピラミッドの謎?」でご紹介した「太古日本のピラミッド」を記した洒井勝軍によるピラミッドの定義に合致するようです。猿田彦氏は国東半島の猪群山ピラミッドなども紹介されていました。最初に述べたとおり猿田彦大神は大国主の分身ですから、この方にやはり猿田彦大神の霊が乗り移って大活躍していただいているのでしょう!

そういう刮目天自身も、大国主大神をはじめとする日本建国で活躍した英雄たちの霊に導かれて、固く絡まった糸玉のような古代史の謎を徐々に解きほぐすことができたのだと実感しています。

大国主の父祖の霊的エネルギーが、陽石をアンテナにして米神山に注がれているようです。神々の霊的エネルギーで覆われた日本という国は、至る所がこのような神霊スポットとなっているのでしょうね!「【衝撃】卑弥呼の霊が不比等のウソを暴く?」で卑弥呼の霊ラインを引いてみて分かりましたが、ライン上にゆかりの神社仏閣が並んで、いろいろと教えてくれます。今回も、狗古智卑狗の霊ラインに導かれました。また、共有化したいと考えています。

来年は2022年寅年ですから歳男になります!

内憂外患で日本が存続できるかどうかが危ぶまれます。来年は特に重要な年になるかと思います。

でもきっと、神々の力によって多くの日本人が覚醒して、苦難を乗り越えることが出来ると信じています。

(注1)自転車くまさんから下図のとおり、石仏の「右手が左手の指を包むような形を智拳印(ちけんいん)といい、大日如来独特の印相」であることから大日如来であるとのコメントを頂きました。そうすると弥勒菩薩が修行して最高位の大日如来になったとして、先代狗古智卑狗の本地仏としてこの大日如来の石仏が古墳上に置かれたものと考えられます。



なお、この写真を見ると、一番右にある石の風車が石仏の正面の右側に見えており、他の風車が隠れていますので、石仏は南西よりも南寄りに向いているようです。やはり、うてな遺跡の方角に近いようです。

(注2)たとえば大国主とその先祖のスサノヲを同じ神社の祭神とすることが時々見られます。安心院町佐田地区の佐田神社は大国主が王宮を置いたところと思います。この佐田神社の祭神はサルタヒコではなく、スサノヲ、大山祇、武内宿禰の三柱です。つまりすべて同体なのだと分かります。

天皇即位後の大嘗祭で行われる、皇祖神と一体になるとされる真床負衾(まとこおうふすま)が最も重要な儀式のひとつと考えられています。皇祖神の男系の男子だけが天皇(ヤマトの大王)の位を受け継ぐ資格が与えられていることを示しています。これは秘儀なのでどのような内容のものか天皇陛下と担当の侍従だけしか知りません。他の者には明らかにされていないのです。

一方、宮中祭祀に置いて女性は巫女、つまり神の妻という位置づけなので、ヤマトの大王にはなれません。未婚の皇女が斎宮として加茂神社と伊勢神宮で大国主大神を祀る制度が奈良時代から南北朝時代までありました。女性天皇は天武天皇の皇后鵜野讃良(持統天皇)の即位を正当化するために作られたフェイクなのですから、宮中祭祀を完全には行えません(先の二人の女帝は日本書紀の創作です)。天皇家の菩提寺泉涌寺で仏事に掲げる歴代天皇の肖像画に二人の女性天皇のものがなかったので、明治になって作られたと分かっています。女性が天皇とはみなされていなかった証拠と言えます。女性差別ではないのです。役割が違うだけなのです。

(注3)大国主に関わる名所古跡がたくさんあります。パンフレットをダウンロードしてご覧ください。江戸時代の反射炉跡もあります。大国主の時代から製鉄が行われていた名残でしょう。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。(その3)につづきます。

皆様には今年も暖かいご支援をいただき、心より感謝いたします。
良いお年をお迎えになることを祈念いたします。
来年もどうぞよろしくお願い致します。

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【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)

2021-12-25 02:01:54 | 古代史
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二世紀末から三世紀初頭の(第一次)倭国大乱で大活躍した、大国主久々遅彦の父の先代久々遅彦の墓を探していました。熊本県山鹿市から菊池市にかけてその時代の墳丘墓や古墳を見ていましたが、津袋茶臼塚古墳がこの地区の古墳群の中で一番古く、最も高い場所に築造されている1辺約20mの方墳だと知りました。方形墳は丹後半島周辺で盛行した墓制です。後で説明しますが狗古智卑狗のものかと考えていましたが、決め手がありませんでした。

ところが、いつもフォローさせていただいている自転車くまさんの記事(2019-03-16 03:10:45掲載)が検索にかかりました。写真を拝見すると、何と、その墳頂に置かれた石の祠の石仏が弥勒菩薩?とあったのでこの茶臼塚古墳に間違いないと確信しました。石仏の両手が前で組まれていて、手の印形までは拡大してもよく見えませんが、大国主狗古智卑狗の本地仏である弥勒菩薩の印と考えられます。この辺りでは珍しい方墳の、しかもその墳頂に他の仏像を置く理由が考えられないからです(注1)(2022.1.1 自転車くまさんより大日如来だというコメントを頂いたので、注を追加します)

早速、記事のご紹介と写真の掲載をお願いしたところ快諾頂き、再度、多大な時間と労力をおかけし、良い写真にしていただきました。最初の帰路は雨に祟られたとか、大変申し訳ありませんでした。心から感謝いたします。今回は、この今年最後の大発見について記事にしました。少し、長くなるので二回に分けました。最後までお付き合いください(*^▽^*)

津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町塚古墳
2021-12-22 21:31:32 熊本から気ままに山と自転車のブログ 



魏志倭人伝で狗奴国の王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器の製造のために当時の最先端の軍事コンビナートを作り、さらに菊池川流域に方保田東原遺跡うてな遺跡を築きました。ここを最前線基地として、佐賀平野・筑紫平野を襲撃して倭国王を相当、苦しめていたと推理しています。

しかし、204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので、倭国王がその支援を受けて菊池川流域の集落を攻略し、狗古智卑狗を討って戦局を引っ繰り返したと推理しています。

それによって、王を失った縄文海人ムナカタ族の玄界灘を支配していた赤坂比古の一族(後の和邇氏の祖)が倭国王に懐柔され、一族の姫巫女による太陽神の神託に従って政治を行うことを条件に狗奴国を裏切る申し出を受諾したと推理しました。魏志倭人伝では女王卑弥呼の共立とされていますが、政治的な理由でそのように書かれたと推理しました。

ということで、この場所に先代久々遅彦の墓があれば、この仮説を支持する重要な発見になります。まず気になるのは、県教委は茶臼塚古墳を四世紀後半から五世紀初頭に築造されたものと見ています。髙木恭二著「菊池川流域の古墳」( 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ第 173 集 2012 年 3 月、p.513)によれば、「主体部は不明ながら周溝から土師器の壺が発見されており[中村幸史郎1986a],大塚古墳に先行する段階のもので方墳であることは重要である。この茶臼塚古墳の近くには径 15.8 m,高さ 3 mの円墳である小町塚古墳と小町塚西箱式石棺があり,小町塚古墳は舟形石棺をもつ。」とあります。年代の決定は周濠の土師器によるものとみられます。主体部も残っておらず、石祠があるだけですから、盗掘ではないでしょう。多分箱式石棺と思われますが、時代も不明ですが石棺ごとどこかに移された可能性もあります。この茶臼塚古墳は上のとおり、この辺りにはほとんど見られない方形墳です。南方約3kmのうてな遺跡と、南西方向に約3.4kmの方保田東原遺跡を見下ろす標高109mの高台にあり、墳頂に松の木が平成19年に枯れるまで植えられていたとのことで、恐らくどちらの遺跡からも見ることができるようにするためだったと思われます。一本松公園の名称となっており、この古墳はこの地域のシンボル的な存在であるようです。

現在は山鹿市に在りますが、東側の菊池市の地名は「平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。」とあります(wiki「菊池氏」より)。魏志倭人伝にある狗古智卑狗は兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命(くくのちのみこと)・久々智神(くくちのかみ)と推理しました。この神は上棟式の祭神で、木の神であり、鍛冶の神でもあります。両親は伊弉諾・伊弉冉となっていますが、スサノヲの子イタケルも木霊とされているので、狗古智卑狗はスサノヲ・イタケルの直系の子孫と考えています(久々遅彦は襲名され、大国主の先代です。古事記に大国主はスサノヲの六世孫とあります)。

狗古智卑狗は上述のとおり、倭国大乱で狗奴国軍を率いる大将として活躍しましたが、倭国王難升米によって方保田東原遺跡とうてな遺跡が攻撃されて、ここで戦死したと推理しました。倭国側は半島が混乱していた時期は鉄の供給が途絶えて銅鏃を作って使用していたことが分かっており、これら二つの遺跡のそれぞれの溝から銅鏃が発見されていますので、倭国側の攻撃があったことが分かります(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
(左クリックで拡大)
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方保田東原遺跡は、「幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっている」約35haの大規模な集落です(wiki「方保田東原遺跡」より)。弥生後期の住居跡から鉄鏃が大量に出ています。山陰や近畿など西日本各地の土器が運び込まれています。また、うてな遺跡は菊池川支流の迫間川東側の台地にある弥生後期の大型集落跡です。1号方形周溝墓~3号方形周溝墓・1号木棺~4号木棺・1号壷棺が検出されています。

方形周溝墓は弥生前期末の近畿に見られ、古墳前期にかけて列島で広く分布していますが、特に近畿以東で盛行しており、西には余り見られない墓制です。「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられているが、北部九州では方形周溝墓は極めて少なく近畿地方に発見され始める。その理由は方形周溝墓を作る集団が北部九州に定住した後、短い時間に近畿地方に直ぐ移動したからだと考えられている。」とありますが(wiki「弥生時代の墓制」より)、半島に渡った縄文海人族が列島に戻って畿内で始めたと考えられます。ですから、狗古智卑狗が率いた縄文系の人々が倭国大乱で倭国軍と戦って戦死して埋葬された可能性があります。周溝の土師器は、三世紀後半の大国主久々遅彦と女王台与が倭国を支配した時期に、慰霊の儀式をした際に置かれたものかも知れません。

先代狗古智卑狗は恐らくこの「うてな(台)」を居城としており、ここで戦死したのではないかと思います。方形周溝墓は集団墓ですので、王墓はやはり、二つの遺跡を見渡す高い場所である茶臼塚古墳が最もふさわしいと思います。卑弥呼の父の赤坂比古が築造したと考えられます。
(つづく)

(注1)茶臼塚古墳石仏は大日如来 (自転車くま)2022-01-01 10:34:59
茶臼塚古墳石仏について、大日如来のことがありましたので、写真を再度検証したところ、石仏は大日如来のようなので「津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町古墳」を追記・訂正させて下さい。自転車くま
(追記・訂正:2022.1.1)
2015.12.2の探訪記で、茶臼塚頂きの石仏の手が写真では合掌をしているようなので「弥勒菩薩?」ではとしていましたが、2021.12.22の写真をトリミングして確認(写真7参照)したところ、「右手が左手の指を包むような形を智拳印(ちけんいん)といい、大日如来独特の印相」(仏さまのハンドサインー彼岸寺ホームページ)のようなので、訂正させて頂きます。

というコメントを頂き、以下のようにお返事しました。
Re:茶臼塚古墳石仏は大日如来 (刮目天 一(はじめ))2022-01-01 12:44:32
ただいま大日如来を確認しました。日本密教では、両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主[5]、「万物の慈母」[9]、とされる汎神論的な仏[4]。wiki「大日如来」より)
ということは、先代狗古智卑狗の本地仏弥勒菩薩が、さとりによって最高位の大日如来に位が上がったのですね。やはり、茶臼塚古墳は先代狗古智卑狗の墓でいいかと思います。そして北東に米神山で、米神山から大日如来の霊的エネルギーを吸収して大日如来の依り代となる神奈備山となったということなのかしら。
大変貴重な情報をありがとうございます。




ここまでお付き合い、ありがとうございます。このあとも、大発見が続きますので、お楽しみください(*^▽^*)
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高天原は奴国だ!

2021-12-19 22:49:27 | 古代史
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2016-12-15 02:41:00 に記事にしたものをかなり加筆し改訂して再掲します。最後までお付き合いください。



(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説より)


この図のとおり北部九州と大和の中の数多くの地名とその位置関係もほぼ一致します。福岡平野から福岡県朝倉郡夜須町(現在は筑前町)を中心とする筑紫平野一帯というかなり広い範囲が該当します!「新唐書」・「宋史」に書かれた「日本は古の倭の奴国」ということを考えると、奴国は福岡平野のみならず、筑紫平野も奴国だったと言えそうですね!

考古学の成果から、三世紀の奈良県桜井市の纏向遺跡がヤマト王権の発祥の地だと分かっています。その前身が奴国ということです。つまり、二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らのクーデターによって滅亡した奴国を偲んで、ヤマトの大王らが大和の地名を故地の奴国に一致させて名づけたということでしょう(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)!

そこで、魏・西晋代の学者の魚豢(ぎょかん)が撰した「魏略」では「倭人が呉の太伯の後裔」とされています(注1)。太伯は周王朝初代武王の曾祖父の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、末の弟季歴に王位を譲り、次の弟の虞仲と共に長江河口付近に呉を興したと伝わっています。つまり倭人と呼ばれた長江河口の水田稲作・漁労の民の王となった人物であり、Y染色体DNAは倭人のものと異なります(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

倭人は長江河口から東や南に小舟で移動し、江南の水田稲作文化を各地に伝えています。越人は呉の倭人とY染色体DNAが少し異なりますが、倭人と同様の文化を持っており、東南アジアからインド沿岸部に文化をもたらしています。スリランカの西のインド・タミル地方は弥生文化とそっくりですので、タミル地方で見られるY染色体DNAから考えて、越の民が文化の運び手のようです。また、マダカスカルの天蚕(てぐす)は長野県安曇郡を原産地とするので、倭人が直接か、越人を介して運んだと考えられます(「東鯷人(とうていじん)って?」「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照)。

一般に言われる渡来系の弥生人というのは、江南の倭人という意味ですが、列島から渡った縄文人が半島南部にも住んで居ました。倭人が半島や列島で縄文人と混血したので、どちらも倭人と呼ばれた弥生時代人のことですから、略して弥生人です。



紀元前473年、呉が越によって亡ぼされて、呉の王族の一部が倭人の手助けで半島南部に落ち延びました。呉王族は寒冷化が進んだ紀元前四世紀中頃に南下して、北部九州(福岡市の早良平野)に移ったと推理しました。吉武・高木遺跡には日本で最初の王から三代の王の墓と見られるものが見つかっています。日本列島の最初の王が、奈良時代の人々に天御中主として記憶されていました。記紀神話に登場する高天原の最初の神である天御中主は奴国の初代の王なのです(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

呉王の姓は周王と同じ姫(き)氏で、周王から子爵として封じられていました。奴国の須玖岡本の王墓からガラス璧が出土していますが、周の子爵の王標(王を示すもの)です。奴国大王が呉王に繋がる血筋との伝承どおりであることを示しています(「【検証9】奴国時代の話(その2)」参照)。

また、伊都国の王都三雲南小路遺跡でもガラス璧片が複数個見つかっています。さらに、朝倉市夜須町峯遺跡からも璧片が見つかっており、奴国大王が中国に倣って峯遺跡を支配する王に与えたものです。鏡と共に奴国大王が地方の王・首長との間に爵封制を採っていたことを示すものです(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。璧片は銅鏡よりも貴重なものですから、伊都国王も峯遺跡の王も奴国の王族だったと推理できます。

やはり、日本で七世紀後半にヤマトの大王に天皇の称号があてられたのは、中国神話に登場する三皇(天皇・地皇・人皇)の筆頭の天皇にあたる伏羲氏が周の先王古公亶父の遠い祖先だったからなのです。伏羲氏の子孫が中国最初の夏王朝を興こした禹(う)で、古公亶父はその末裔ということなのです。

そうすると奴国とヤマト王権との繋がりですが、上のクーデターで奴国から脱出したニギハヤヒが、縄文海人ムナカタ族の支援で吉備を平定し、奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた人物と推理しました。二ギハヤヒは「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)の次の天照大神尊にあたる男王なので、スサノヲの姉アマテラス女神ではなく、弟と考えられます。

記紀では神武東征以前に大和に降臨していたとされ、アマテラス女神の子孫の彦火火出見(ヒコホホデミ、神武天皇)に大王位を譲ったことになっていますが、日本建国の史実を隠すための作り話です。三世紀の纏向遺跡に九州から大和に軍勢が押しかけて戦ったという神武東征の痕跡がありません。史実は、ニギハヤヒの子孫のヤマトの大王が伊都国を王都とした師升王の一族の倭国王を武力で滅ぼして、その後少し経緯がありますが、最終的に三世紀末にヤマト王権を成立させたと分かっています(【付録】参照)。

スサノヲとニギハヤヒ兄弟の父は十七代奴国王伊弉諾尊(いざなぎ)で、母の伊弉冉尊(いざなみ)は鳥取県米子市を拠点とする縄文海人ムナカタ族の王女です。ニギハヤヒは母の一族を頼って落ち延びて、支援を受けたと考えられます。呉王族の末裔の倭国王と縄文系族長の姫が婚姻によってはじめて生まれた奴国王の末裔でヤマトの大王が日本列島を統治することになるわけですから、記紀で国生み・神生みという神話になるわけです。

そしてニギハヤヒ大王は倉敷市の楯築王墓に葬られますが、そこに楯築神社があります。その御神体「亀石」が天皇伏羲氏と同じ人面蛇体でしたから、七世紀に壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位して、はじめてヤマトの大王が天皇という称号を名乗ることになります。それ以前の天皇の漢風諡号は八世紀に淡海三船によって贈られたものです。

通説では、奴国とヤマトの繋がりが全く無視され、「漢書 地理誌」に「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。歳時をもって来り献見すという。」とあるように奴国も列島にたくさんある国の中の有力なひとつという位置づけでした。ですから、日本は古(いにしえ)の倭の奴国であって、北部九州の奴国が記紀神話の高天原であったことに全く気付かれなかったということでした!

奴国という国名は一見して、奴隷の国のようですから、「漢委奴国王」の金印を委奴国(いとこく)と読む方もいます。しかし、これは全く間違いです。奴国はナーガ=龍蛇神の国、奴国大王は龍王だったのです。地名の那珂・那賀などからも分かります。中山や長柄などの中・長のつく地名等も奴国やヘビに関係するものです。北部九州から列島各地に展開した安曇族(江南系の倭人の部族)が名付けたものかも知れません。大国主など奴国の大王の血筋の神を祀る神社に行くと手水舎(てみずや)に置かれた青銅製などの龍の口から水が出ています。龍王の血筋を祀っているということでしょう。見ようとしないと見れないということでした(^_-)-☆

【付録】



(注1)太伯には子がなかったようで、最後の呉王夫差は、太伯と一緒に呉を建国した弟虞仲の後裔です!
 また、古公亶父が「後漢書」に出てくる亶州(たんしゅう)の古(いにしえ)の父祖を意味するので、亶州は倭人の住む日本列島を指すと云うことになります!古公亶父の逸話を見ると、仁徳天皇の「民のかまど」と同様に、民を大切にする王ということで一致しますから、天皇家が中国古代周王朝の末裔であると「日本書紀」を編纂した奈良時代の人々も知っていたということでしょう。
 奴国が奈良時代に儺県(なのあがた)と呼ばれたということも、「儺」の意味が「追儺=鬼やらい」ですので、奴国宮廷楽師らのクーデターが史実だったことを七世紀の人々が知っていて、それを隠してデタラメな歴史を書いた証拠と言えます(詳しくは「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。


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倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

2021-12-11 11:52:09 | 古代史
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2018-04-13 23:22:09に掲載した記事を少しだけ改訂して再度掲載します。お付き合いください。

突然ですが、シナの歴史書に最初に登場する日本の人物は誰でしょう?

そんな簡単な質問するな!
卑弥呼に決まってるやろ!

ブッブ~
ちゃいますよ~

今のは冗談だ!

答えは、倭国王帥升(すいしょう)やろ!

ブッブ~

え?うっそ~(;´Д`)

そうなんですよね~(*^-^*)。
これは『後漢書』「東夷伝 倭」の条に「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」とあるから正しいはずなんですが・・・・・

それが実は『後漢書』逸文が記載された「翰苑」の注には「後漢書曰:、安帝永初元年、有倭面上國王師升至。」つまり「安帝の永初元年(107年)、倭面上国王師升が来た」 と書かれているんです~

W!その「翰苑」ってのが間違ってない?

いやそれが~、その後の歴史書にもどうやら「後漢書」の原本が基になっているようで(注1)、表に示すように幾つもの変種が表れて何が本当か一見では分からなくなっているんや!(;´Д`)


そっか~( ^)o(^ )
いわゆる、写し間違いが結構あるんやな。
じゃあ、今日はそうゆうことで・・・

待て!待て!待たんかい!まだ先がある!

そ~か、でもオレ結構忙しいから、この次にしてんか?

そ~言われても、はい!分かりました!ってわけにはいかんやろ(*^-^*)

なら手短にお願い!

と言われても、中々面倒な話で簡単じゃないけど、かいつまんで言うから、よう聞け!

答えは・・・・・・・・わからん!

フザケルナ(;一_一)

わるい!わるい!そやな~!(*^-^*)

いや、「後漢書」の元々の記述については、邪馬台国論争の草分けで大和説の内藤湖南氏は「倭面土國王師升等」が正しいとして、「倭面土国」は「ヤマト(ワミャト)国」としたんや。

ところが、九州説の白鳥庫吉氏は「倭」の「面土国」を「倭の回土(ヱト、weitu)國=伊都国」だと言い出した。

「魏志倭人伝」「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。」(その国も、もとは男を王としていた。男が王となっていたのは七、八十年間であったが国が乱れて、攻め合いが何年も続いた。そこでついに、一人の女性を選んで女王とし、卑弥呼と名づけた)(藤堂明保ら「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.111)と2世紀末から3世紀初頭に「女王卑弥呼」が登場する話があるんで、卑弥呼の時代の伊都国の男王が107年かその少し前に王になった師升の子孫と考えると年代的にもピッタリやね!

他にも「面土国」はその発音から「末盧国」やら鯨面分身国だ、佐賀県三養基郡米多郷とかいう説もあって、メタメタ・メンドな話になっとるんや!

ダジャレか(*^-^*)? ほいで?

ま~、「倭面土国」が「ヤマト国」なら「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」とあるのを「後漢書」は「邪馬臺国」とわざわざ正しく書いているくらいやから、何で統一せんかったんやろ?と疑問が湧くのやが・・・

でも、「魏志倭人伝」に書かれた女王に属する30国に載ってない名前やから、その30国のどれかだと考えれば、 長官を置かない末盧国を除いて、内藤説か白鳥説とちゃう?(^◇^)



実は、それを決めるのが「帥升(すいしょう)」じゃなくて、正しくは「師升(ししょう)」ということなんや!さっきの表を見ても分かるやん(^_-)-☆

なんだ?

「帥」という姓の元祖は分かっていて、「廣韻」という文献に「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。」とあり、魏の有力者で、魏の帝位を奪った西晋の礎を築いた「晉宣帝」つまり「司馬懿」の長子の「諱(いみな)」が「師」だからそれを避けて、「師」姓の人が「帥」姓に変えたということなんよ(注2)。

ということは107年に後漢に朝貢した「帥升(すいしょう)」の時代には「帥」姓は無かったから、「師升(ししょう)」が正しいということになるわけか!

ふむ、ふむ!ほいで?

いや、だから「師升(ししょう)」の姓が謎を解く鍵やねん!

「師匠」早よ、言え!

プ!わかった!わかった!(^◇^)

「師」姓を調べると、おもろいことが分かった!

「師」姓というのは官位を表すもので、「風俗通義」によると,周の時代に「師尹」という楽師(がくし)の官位があったとある。楽師は「中国では皇帝諸侯のもとで祭祀,宴饗の楽をみずから指揮し楽人の教習に当たった者をいう。」とある。楽師の起源は神話・伝説の黄帝時代からあったようだから古い話や。「ただ楽師の名が師某として多く現れるのは雅俗の混乱を嫌った周以後で,絶対音高を定める鐘を聞きわける聴覚をそなえ(《呂氏春秋》長見の師曠(しこう)),音楽を写譜する能力をもった(《韓非子》十過の師涓(しけん))者として描かれている。

だが楽師はその才能にもかかわらず,女楽(歌伎)と同様に贈与物とされた(《左氏伝》襄公)ために,自分自身を賤工と卑下する意識(《楽記》師乙)と表裏をなして芸術家の自負をもちえず,すでに司馬遷によって楽師は技術屋と蔑視される(《史記》楽書)社会通念をもたらした。」
世界大百科事典にあるんや。

春秋時代の有名人では、さっきの「齊國樂師の師涓。晉國樂師の師曠は生まれつき盲目で、聲樂に精通していた。また師叔は鄭國の大夫。師丹は漢朝の官員、詩人で大司空という官位が与えられ,平帝の時に義陽侯に封じられた。」「維基百科」にあるんよ。

これらのことから考えると、初代天御中主(あめのみなかぬし)から始まる倭の奴国王は、周の先王の長男の太伯
の後裔だと言われていることもあるんで、「師升」は奴国でも宮中祭祀や宴会で楽師を担当していたシナ人の可能性があるんだわ。

なんやら、難しい話になってきたな!

そうでもないが、この「師升(ししょう)」が倭国の実権を握る王となったわけやから、倭国を代表する奴国を乗っ取った奴だと考えたわけだ(注3)。なぜなら、160人もの生口(特殊技能のある奴隷か?)をわざわざ後漢の都「洛陽」に連れて行って朝貢した理由は、奴国王に替わって倭国の支配権を得たことを認めてもらうためやったと推理できるからや。つまり、57年の「漢委奴国王」の金印は、後漢朝廷が奴国王を倭国における領事の役割をしてもらうために、形の上で朝貢してもらったからで、その時の奴国王の献上品は「師升」王よりもかなりショボいようやからわかるんよ(注4)。

つまり、奴国の官位を持つ役人たちのクーデターによって奴国とその周辺国を乗っ取ったと考えている(福岡平野・筑紫平野・佐賀平野)。乗っ取られたんは記紀神話から考えると、高天原を追放されたあの乱暴者の神スサノヲやろう!(^_-)-☆「宋史」に記載される「王年代紀」第18代奴国王素戔烏尊だ(【付録】参照)。こう考えると、図に示すように倭国大乱・女王卑弥呼の共立・ヤマト王権成立までの主な出来事を、大きな矛盾なく説明できるもんね!



首謀者が「師升」で、実力者やったから宮中祭祀の司祭くらいの重職だったんやないのかな?

じゃあ、何でクーデター起こしたんやろか?

推測だが、神話のスサノヲは一か所にじっとしている質(たち)じゃなかったようで、鉄の素材を求めて半島南部に渡ったり、列島の鉱物資源などを探索し回ってて、王宮を留守にすることが多かったんかなあ?

そして、たまに帰ってきたら、祭祀のやり方にいちゃもんを付けて畿内などで流行っていた大型の「見る」銅鐸を取り入れた縄文系の祭祀様式を導入しようとしたんかもね(注5)。そうなると奴国の楽師たちは困ってしまうんで、きっとスサノヲ大王が留守の間に乗っ取りを計画して、実行したんやろうね(;一_一)

師升らに抵抗するスサノヲの家来で、潜水漁労とか得意技術のある人間を160人ばかりまとめてシナに連れて行ったんやないのかな?!

「師升」はシナ人ということやけど、どっからきたん?

宮廷に入り込んで司祭の役割をするにはそれなりの出自とか経歴とか必要やから、やっぱり紀元前3世紀に始皇帝の命を受けてやってきた方士「徐福」の一行の子孫やないのかな。徐福は斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)の出身だから、「師」姓の出身地も琅邪県というのもあるさかい、徐福が日本に連れてきた若い男女か色々な技術者集団の子孫やろね(*^▽^*)。

やっぱ、徐福は日本に来ていたんやね(*^。^*)

日本列島に20か所くらい伝承が残っているし、シナの歴史書にも日本の平原広沢で王になっていると書かれているし。青銅器の加工技術は徐福の連れてきた冶金技術者やと思うし、やっぱ佐賀県には伝承地が沢山あるからね(龜山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房、2009)。ひょっとしたら吉野ヶ里遺跡は徐福が治めていたのかもね(^_-)-☆

それで、最初に戻るけど、「倭面土国」はどっちゃや?

もうどっちゃでもええやん( ^)o(^ )

おい!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

「後漢書」の撰者范曄の時代のシナ人は倭国の都が邪馬台(ヤマト)国だと考えているから、「師升」王の都を「倭面土国」と書いたのだろうか?・・・でも、腑に落ちない点は最初に言ったように、「後漢書」の記述が統一されてないことやね。「邪馬台国」と書けばいいのにね(;´Д`)

そやから、女王を共立した伊都国の男王は「師升」王の一族なんで、「後漢書」には一度も登場していない伊都国(回土国)と考えるのがきっと正解やろうね。

いずれにしても奴国を乗っ取った「師升(ししょう)」が倭国王という表現はいいかも知れんが、日本の最初の倭国王は、福岡市早良平野に最初に現れた皇祖神の天御中主(あめのみなかぬし)やから、それは間違えんといてね(^_-)-☆

【関連記事】
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆
【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)

(注1)Wiki「後漢書」によれば范曄は『東観漢記』『後漢紀』をベースに以下の書物を参照しながら、『後漢書』を著したとある。
『後漢書』(呉の謝承)
『後漢書』(呉の薛瑩)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢書』(東晋の袁山松)
『後漢書』(著者不明)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『漢紀』(東晋の張璠)
特に、後の唐の章懐太子李賢の注釈に「華嶠の辞」などと書かれていて、流用した部分があり、全体構成も同一らしい。華嶠は陳寿と同僚であり、共に張華がパトロンであって、華嶠の「後漢書」も西晋の朝廷によって公認された史書だったようだが、残念ながら完本は残っていないようだ(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.91)。

(注2)Wikiwnd「帥姓」に以下のような記述があります。
帥姓是中國姓氏之一。西晉武帝司馬炎追伯父司馬師為晉景帝,並令天下避「師」字名諱,故部分師姓者改為帥姓。[1]也是帥姓的源頭之一。[2]
帥は中国の氏の一つであることといいます。西晋の武帝司馬炎症は伯父司馬の師を追って晋景帝として、そして天下に「師」文字の名の諱を避けさせて、故部分師姓者は帥に変更していいます。[1]同じく格好良いいった源の一つです。[2](Weblio翻訳
[1] 《廣韻》:帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。
[2] 《姓苑》:本姓師,避晉諱改帥,帥與率同,望出南陽、河南、范陽。


(注3)福岡県の弥生中期の三雲遺跡(糸島市)、須玖遺跡(春日市)や峰遺跡(朝倉郡夜須町)などからガラスが発見されているが、これは銅鏡などよりも貴重なもので、シナの周代の子爵に相当する王位を表すものだ。奴国王が周辺の有力者に与え、王に封じたことをしめすものと考えられる。(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社、1992,pp.98-99)刮目天は福岡平野・筑紫平野一帯を高天原と考えている。

(注4)57年の奴国王については貢物を捧げて朝貢したとしか「後漢書」には書かれていない。107年の師升の朝貢についても、岡田英弘は当時の後漢朝廷の事情を説明し、奴国王の場合と同じで、後漢朝廷の要請で倭人が朝貢したものとしています(「日本史の誕生」弓立社1994,pp.55-58)。しかしもしも、奴国王の朝貢と同じであるならば、同様に倭王帥升(正しくは師升)にも金印紫綬を見返りとして与えるはずで、その記録がないので、師升が倭王として認証されたいための朝貢であって、後漢朝廷は渡りに船で師升の朝貢を許したものと考えられる。つまり倭国側の事情で朝貢したということと推理できる。

(注5)古代シナの楽師は編鐘を用いていたが日本では青銅製のフックが出土しておらず(大平裕「卑弥呼以前の倭国五○○年」PHP新書、2018,p.114)、奴国の楽師は複数の小型の所謂「聞く銅鐸」を紐で吊るして、舌に紐を付けて引っ張って鳴らして、いくつかの音階の音を出したのではないかと考えている。1世紀末か2世紀初頭にスサノヲは大型の「見る銅鐸」を奴国の祭祀に取り入れようとしたのではないかと考えている。

「畿内においても後期初頭頃が“聞く銅鐸”と“見る銅鐸”の境界ということになります。九州の編年に基づいて実年代をあてはめれば、紀元後1世紀初頭あたりが“聞く銅鐸”から“見る銅鐸”への転換期になります。」銅鐸の年代ー銅鐸分布考より)

以下は直接関係ありませんが、銅鐸に関する面白い内容なので引用しておきます。
「大和からは“見る銅鐸”は出土していない
銅鐸を多数出土し、時に銅鐸のメッカのように思われているふしのある大和ですが、大和盆地では纏向の双頭渦紋片を例外として突線鈕2~5式の後期の大型銅鐸である“見る銅鐸”は出土していません。大和でもっとも新しい形式は最後の“聞く銅鐸”突線鈕1式です。しかも、その最後の“聞く銅鐸”は大福村では庄内期まで使用されていたようです。
出雲と大和に共通性がある。
これは本当に驚きましたが、出雲と大和はいずれも“見る銅鐸”の祭祀をおこなわず、“聞く銅鐸”では流水紋を好みます。大和から山を越えた大阪では6区袈裟襷紋を好み、後期には大型の“見る銅鐸”を採用しているにもかかわらず、です。
“大和”という所は、やっぱり不思議な所です。」
(おわりにー銅鐸分布考 より)

【付録】王年代紀(宋史)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・(王の読みは『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』より引用)


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2021-12-10 19:48:09 | 古代史
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いつも勉強させていただいている漢籍の先生の記事にコメントしました。
新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 1/3
新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 2/3
新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 3/3
2021年12月 9日 (木) 古代史の散歩道など



<刮目天>
いつも拝見させていただき感謝いたします。今回の邪馬台国への行程論の先生のエレガントで謙虚なご推定、そして「陳寿すら把握できてなかった史実を知ることではないのです。」は全く同感です。
 やはり行程記事は、後世の日本人のために書かれたものではないですね。陳寿は西晋の朝廷の人々に向けて編纂したものですから。そしてその根拠資料は魏の太尉司馬懿とその部下の帯方郡太守らが書かせた魏使の報告書であることは明らかですので、邪馬台国への行程記事は魏の朝廷の人々に、司馬懿の、倭女王に朝貢させた功績を曹魏第一等のものであると称揚するのが目的であることも明かです。陳寿は当然それを理解して、魏志倭人伝を残したわけですね。
 従来、倭人は漢字を読み書きできず、発音を魏使などが聞いて漢字を当てたというのが定説になっていました。ところがこの数年でこれがひっくり返りました。伊都国で発見された多数の砥石と思われていたものが実は硯の欠片であることが明らかになり、すでに福岡市の雀居遺跡でも木製の組み机が完全な形で出土していたことなどから、当時の倭人の上層部は漢字を読み書きできたと分かってきました。
 ということは魏志倭人伝に記された倭の地名や人名などは倭人が書いて魏側に教えたと言うことが確かです。そうするとそれらに使われた好字と卑字は教えた倭人の意識が現れていることも明らかです。卑弥呼が女王に対する名称であることなどあり得ない話です。 一方で伊都国という国名は、孟子・尽心上篇で紹介される殷(商)王朝初期の政治家伊尹に因む好い名称であることが分かります。伊尹は放蕩の主君を追放したことで有名な人物ですが、これにより、伊都国を都とした帥升(正しくは師升)王が、元は奴国の宮廷楽師であって、クーデターにより奴国王を追放して、107年に後漢安帝に朝貢して、王都を伊都国(回土国)に遷した人物だったことが分かります。物証もあります。延光四年(125年)、祭祀を整えて永遠の都としたという内容が漢字などで彫られた室見川銘板が日本で作られた最初の金石文でした。
 景初三年六月、倭女王の命で最初の魏への朝貢を行ったとされた大夫難升米は、後に魏朝廷から黄幢(曹魏正規軍の軍旗)を女王を差し置いて直接授けられた倭国の軍事を司る人物であることが分かりますから、卑弥呼の政治を輔佐するとされた男弟であるし、師升の子孫の伊都国男王(実際上の倭国王)であることも難升姓が示しています。つまり、難は儺の略字であることが(「漢委奴国王」の金印で倭を委としたものと同じ流儀)、奴国が奈良時代に儺の県とされたことから分かります。儺は追儺のことで、「鬼やらい」を意味しますから、師升が奴国王を追放した史実が伝承として奈良時代にまで伝えられていたということです。
 ということで、卑弥呼を女王に立てた人物のひとりが倭国王難升米であって、邪馬台国への行程記事は彼が直接帯方郡に乗り込んで司馬懿の部下の太守劉夏と談合して作成したものであることが判明しました。倭国と対立した狗奴国は狗コロの奴国と蔑んだ国名ですし、王名が卑弥弓呼と卑字が使われていますが、その王よりも先に登場させている狗奴国の官狗古智卑狗という人物は、卑字が三個ですから難升米王と相当確執があることが分かります。
 最初に戻りますが、行程記事はハッキリ言ってデタラメです。水行一月・陸行一月などと言うべらぼうで、「隋書 佞国伝」に書かれた通りシナ人にとって珍奇な里程は洛陽から万七千余里(洛陽から楽浪郡まで五千余里)という気の遠くなるような遠くで、魏のライバル呉の東方海上から抑え込む戦略上重要な位置に邪馬台国を置きたいための大ぼらだということも分かります。全て、西晋の宣帝と諡された司馬懿自身が作らせた見せかけの功績の為ですから、このような行程記事にある全ての里程や戸数や不弥国以遠の国の位置などは、魏志倭人伝だけで分かるはずありません。三世紀のヤマト王権成立過程を科学的に解明することからしか比定できないということが二十一世紀になって考古学の成果からようやく分かったわけです。詳しくは拙ブログにあります。いつもながら不躾な長文のコメントで大変失礼いたしました。




刮目天 一(はじめ)さん
 常々兄事している方から丁寧なコメントを頂き感謝します。
 「陳寿すら把握できてなかった史実を知ることではないのです。」の拙見(humble opinion)に目を留めて頂いて恐縮ですが、以下、「お言葉ですが」の前振りを割愛して、反論させて頂きます。
 貴兄は、丹念に史観を披瀝頂いた上で(倭人伝は)「全て、西晋の宣帝と諡された司馬懿自身が作らせた見せかけの功績の為ですから、このような行程記事にある全ての里程や戸数や不弥国以遠の国の位置などは、魏志倭人伝だけで分かるはずありません。」と締めましたが、この断定には同意できません。
 話題を「従郡至倭」として語られた「道里記事」の解釈に絞ると、当方の見解は、「倭人伝」は単なる「条」でなく、魏志の掉尾を飾るに相応しい堂々たる「伝」である「東夷伝」の掉尾に相応しい「倭人伝」と見ています。
 つまり、皇帝をはじめとする中原知識人、「中原人」が、現代風に言うと、巻を綴じたとき拍手する「名記事」を志したものと見ています。
 初出の蕃夷の「伝」は、最寄りの帝国拠点から「王城」に至る行程が、所要日数と共に明記されていなければ、「不備」として恥を後世に残すどころか、皇帝奏上以前の閲読時に糾弾され、軽くても職を免じられるのです。陳寿は、そのような事態を刑死より怖れたに違いありません。
 この前提から、「中原人」は、「道里記事」だけで、帯方郡から王城に至る行程を読み取れたのです。もっとも、「中原人」に「道里記事」は、「問題」、読者の理解を問う「設問」であり、「問題」に「解答」は付いていませんが、明快な「正解」が用意されていたと見るべきです。
 陳寿が想定した「中原人」以外の非知識人は、時代を問わず、「正解」に必要な知識を持ち合わせていないので、「問題」を「設問」と解することができず、「欠陥」、「難点」と誤解した、いや、未だにしているのです。
 末尾で、「このような行程記事にある全ての里程や戸数や不弥国以遠の国の位置」と「一刀両断」されていますが、記事は、等し並み厳密でなければ大雑把でもないのです。
 アレキサンドロス大王が、武断した「ゴルディアスの結び目」は、難解な結び目が問題にしても、知恵でほぐせば、世にも貴重な宝、至上の糸が得られていた筈です。制作者が、人知を越えた工作を施した真意は、知恵を尽くせば無上の財宝が得られるという訓戒を与えたかったからに違いないのです。
 「道里記事」は、倭王城に至る行程と共に、余傍の脇道国について、手短に触れているのであってこれら本筋以外の国に大きな意味はないのですから、所在や風俗などが不詳でも、差し支えはない、と明記されています。
 と言うことで、「道里記事」の要点、編纂意図を読み取ると、明確に、狗邪、對海、一大、末羅、伊都の行程諸国の所在が、「中原人」が「誤解」しないように明記され、「正解」は、まことに「エレガント」とわかるのです。(「明快」「明快」などは、諸兄の著書にあり、盗用、流用を避けたものです)
 と言うような筋道は、素人には、十年がかりの蝸牛の道でしたが、登攀の道半ばで出発点の齟齬に気づいても、引き返し難いので、あえて、史料の原点にこだわったのです。
 以上、僭越ながら、貴兄の見過ごしでないか御再考いただきたいものです。
 なお、貴コメント全体に対する「反論」は、いずれ、当ブログで言及するかも知れませんが、その際は、「本意」を読み分けていただければ幸いです。
                               以上


<刮目天>
早速、丁寧な回答を感謝いたします。拙速な駄文で画面を汚し過ぎて、肝心なことを言い忘れたために、お叱りを被ったのではないかと畏れています。長い年月のご努力の賜物である諸先達の研究成果があってこその話であると理解しております。

当方も魏志倭人伝が西晋朝廷の人々に向けた倭国の記事と見ています。魏志倭人伝の行程記事は、陳寿がこのような中原人にエキゾチックな東夷の大国である倭国のイメージを与え、戦略的に重要な倭国を遠方より朝貢させた司馬懿の功績が西晋の宣帝にふさわしいものだとして称賛するのが大きな目的で編纂したものと考えています。

その上で、個々の国名や戸数やそれらへの行程は、陳寿が撰したものであっても、創作したものではなく、司馬懿自身が政治的な目的から魏使の報告書に書かせた内容に基づくものだという妥当と思われる推理の根拠をここでご紹介した次第です。

ですから現代日本人が、すでに散逸した先行文献の原文などから得ていたはずの当時の中原人の持っていた常識的な知識を持たないことも一因ですが、このような目的の行程記事だけで邪馬台国の位置を特定することはできないということを改めて結論として主張したわけです。もしも論旨が受け入れがたいものになったしまったとしたら、当方の力不足ですので申し訳ございません。また、改めてで結構ですので、この推論の根拠に関して厳しいご批判を期待しております。どうぞよろしくお願い致します。

【関連記事】
【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)



またこの件でご報告できたらと思います。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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