刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本民族の父系のルーツと地域性について!

2021-11-28 12:36:23 | 古代史
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前回の記事「渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )」でアイヌや沖縄の人々について(注1)に以下のように書きましたが、いつもフォローしているテレビとうさんからいいコメントを頂きましたので、早速記事にします。お付き合いください。

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆


刮目天さん、こんにちわ。 (テレビとうさん)

沖縄人や関西人は、現にその地名に住んでいるので、そのまま書いても良いと思いますが、アイヌ人は所謂「アイヌ人」或いは「アイヌ民族」と「 」付きで書かなければ、恰も「アイヌ民族は統一された民族で、アイヌの土地に住んでいる」と誤解されます。

「アイヌ民族」には、言語が互いに通じない「民俗性」の違う、少なくとも5民族が(13世紀以降)北海道に住んでいたと言われていますし、その証拠しかありません。

当然ながら、当初のシベリア系・樺太系・千島列島系の「アイヌ民族」は「縄文系遺伝子」は殆ど持っていなかったと推測できます。但し、日本海周辺の大陸系の「アイヌ民族」は最初から「縄文系遺伝子」を持っていても不思議は無いと思います。

つまり、出自の違う「民族」を一緒くたに纏めて「アイヌ民族」とする事は、民族の独自性を無視する言い方に思えます。


早速、いいコメントを感謝します。
全く異論はありませんし、同じ認識です。
日本列島は東西に長いので、それぞれの地域で文化の地域性があります。水田稲作が導入される時期も違いますが、現在の日本民族の多くは白米を主食にしていると思います。言葉も現在では日本語を身につけて日常で会話しています。日本のテレビ番組を見て日本文化が染みついていると思います。
国会で先住民族と決議しましたが、反日国家に利用される売国行為だと思います。日本国民はもっとしっかりしないと、日本は滅ぼされますね。これに賛成した政治家や組織の人々は、科学的に間違った話ですから制度は廃止しなければダメでしょう。
同じ日本民族のアイヌ人を貶める話で、アイヌ人への差別だと思います。沖縄でも進んでいるようですから、日本国民が一丸となって止めさせないとダメですね。

ちなみに、最新のデータがwiki「日本人」に公開されていますので、表にしました。縄文人と北方アジア人が混血したアイヌの人々は日本列島の先住民族ではなく、列島の他の人々と同じ日本民族であることはこのデータからも明らかです。沖縄の人々と同様に、本土日本人と比べて縄文人系を父系のルーツとする人が多く占めているということだけです。


(左クリックで拡大)

ヒトの場合、染色体は1つの細胞に46本(23対)あり、身体的な特徴や気質などの遺伝は22対の常染色体で決まります。現在は多くの人種の混血が進んでいますので、当たり前ですが、23対の中の1対の性染色体で人種を区別することなど最初からできません。

ただ、古代では厳しい環境を生き抜くために父系のルーツを同じくする集団が部族として行動することが多かったので、古代史解明に役立てることが出来るというだけです。ゲノムワイドな研究が現在進められており、将来は、どのような時期にどのような民族間の混血があったかが解明されるようになるのだと思います。

日本民族の父系のルーツについてはこちらで詳しく説明していますので、よろしければどうぞ!( ^)o(^ )
(左クリックで拡大)
上の日本民族の父系のルーツの図を作成した時はNonaka et al. 2007 のデータを使用しました。現在はデータがかなり増えています(Sato et al. 2014 )。若干シナ人系が増えていますので数値が少し異なりますがそれほど違いはありません。そのうちに改訂したいと思いますが、それまではこの図と上の表をご参考にしてください!(*^▽^*)


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日本は古の倭の奴国だ(^^♪

2021-11-26 10:50:35 | 古代史
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随分前の2016-11-28 14:47:49に記事にしましたが、あまり読まれていないようなので、最新の知見を入れて大幅に改訂しました。お付き合いください。


新たな学説に揺れる邪馬台国
2016年11月20日14:57【iRONNA】邪馬台国は「99・9%」九州にあった


タイトル通り専門家や歴史ファンらに衝撃を与えた。同書では邪馬台国の根拠となる資料「魏志倭人伝」を重視しつつ、「後世に改竄された」と新説をとなえた。記述のあった朝鮮半島から邪馬台国までの距離を再検討した結果、邪馬台国は熊本平野にあったと結論づけたのだ。
 一方、ささやかなニュースでしかなかったが、今年3月、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で弥生時代後期のものとみられる硯(すずり)の破片が出土した。この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の中枢をなし、朝鮮半島北西部で見つかった硯と似ているという。伊都国は中国の外交使節の滞在場所とされるだけに、やはりこの近隣に当時の日本を統治する拠点があったことを推論する根拠になり得るのではないか。
 邪馬台国論争において「畿内説」が有力であることは間違いないが、中国や朝鮮半島との外交に欠かせない海洋ルートに加え、出土品の数などを考慮すれば、「畿内説」に遜色ない根拠は十分にある。もちろん、邪馬台国論争は「九州」や「畿内」だけではない。少々、突拍子もない印象もあるが、沖縄や滋賀の琵琶湖畔といった学説があることも事実だ。
 iRONNA編集部は今回、こうした現状を踏まえたうえで、地理的な要因や出土品の数といった根拠から導き出された「九州説」の視点を柱に据え、「邪馬台国はどこにあったのか」という長年決着のつかないまま現在にいたるこのテーマについて議論したい。


邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 『安本美典』 2016/11/20 05:11 

やはり安本氏が主張されるように発掘された鉄の鏃(やじり)や勾玉、青銅鏡(三角縁神獣鏡は魏から貰ったものではない(注1))の数は圧倒的に北部九州が多い!また、当時の墓の形式が魏志倭人伝に「棺あって槨なし」とあるように北部九州には石棺のみで槨はなく該当するが、大和では木槨が有るので該当しない!さらに、大和説の有力候補地纏向遺跡の外来土器の中に当時の先進地域の北部九州のものが見られないのは、大和に邪馬台国が無かった大きな証拠でしょう!

それでは北部九州に在ったかというとそれは違います。 伊都国の平原遺跡に天照大神である卑弥呼の墓があると考えられてますが、もしもそうであれば何らかの伝承が無ければな りません!ところが、そういう伝承はいっさいないことがその説を否定していると言えます!また、高天原を邪馬台国と考えられていますが、下に述べますが、高天原は奴国ですよ。(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」)。

邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった『桑原久男』 2016/11/20 05:10

安本氏が何度も反論していますが、考古学の証拠から大和説は破たんしてます。しかし、安本氏が主張する、九州にあった邪馬台国が大和を滅ぼしたという邪馬台国東遷説も成り立ちません。三世紀にヤマト王権が始まった纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土していないことから分かります(「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」)。

唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する『里中満智子』 2016/11/20 05:09

元々、倭国は楽浪郡の南海上に有ると言うのが古来からの中国の常識でした(「漢書」地理誌)。邪馬台国の場所は帯方郡から東南に一万二千里の位置で、会稽郡東冶県の東方海上にあるというウソを拡めることにより、利益を得たい人たちは誰なのか?実際は違うということは魏の使者には分かっていましたが、上司帯方郡太守の命令でそういう報告書にしました。その報告書に基づき魏志倭人伝を書いた西晋の史官の陳寿の目的は西晋の宣帝と諡された魏の実力者司馬懿の功績を称揚することでした(注2)。




これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識 『産経新聞』 2016/11/20 05:07

奴国から倭国に変わり伊都国に男王が居住し、更に邪馬台国の女王が倭国王となって大和王権に引き継がれたのは間違いないことです。皇位継承の印の三種の神器(剣・玉・鏡)は奴国王の墓の副葬品と合致します。さらに、中国の歴史書「新唐書」に「日本は、古の倭の奴なり」と最初に明記されており、さらに最初の初代王は天御中主、王の姓は「阿毎(アメ)氏」、以下「尊(みこと)」を号とし、筑紫城に居し、彦瀲(ひこなぎさ、日本書紀の鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)の子、神武立ち、あらためて天皇を以って号となし、みやこを大和州に移すと書かれていることからも分かります(注3)。

邪馬台国がどこにあるかは魏志倭人伝の記述を好きなように解釈して改変し、どこへでも当てはめられるから本居宣長から三百年たっても解決できなかったわけです。NHKなどが取り上げるので、町おこし村おこしの格好の材料になっているのが現状です。(^_-)-☆

むしろ魏志倭人伝は、当時の伊都国に居た男王と帯方郡太守らにとって都合のよいウソから始まって、それを基にして書かれた歴史書というのが本当のようです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」)。

『【iRONNA】本日のテーマは「邪馬台国」』、その中で安本美典氏の記事の最後にある、邪馬台国であるための以下のような基準を書かれています。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、 統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。
(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。


しかし「魏志倭人伝」に書かれていることがすべて事実だという前提です。残念ながらその前提が間違っているから邪馬台国問題が迷走しているのです。これは現存する日本最古の正史「日本書紀」も同じ状況です。だから、権力者が書いた正史のどこにウソがあるかは、権力者の気持ちになれば見えてきます。権力者にとって不都合な歴史の真相は、正史で隠蔽されるか、改ざんされるからです。つまり、書かれていることが考古学や民俗学などの成果と矛盾するところにウソがあるという分かりやすい話でした。だからそのウソが分かれば、歴史の真相だと思われる仮説を立ててそれを検証していけば正解が浮かび上がってくるという話でした(「勝者の歴史から不都合な真相が分かる?(@_@)」)。

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(注1)三角縁神獣鏡は箸墓古墳から出土し、魏の皇帝が卑弥呼に与えた魏鏡百枚の一部だとして、大和説の卑弥呼墓の有力候補地としている。しかしこの鏡は我が国から500枚以上出土しているにもかかわらず、魏の都「洛陽」は勿論、中国全土から一枚も出土していない。文様から考えても北方の魏系のものでなく、南方の呉系の鏡であると安本氏は指摘しています(大崩壊「邪馬台国畿内説」、勉誠出版、p.31)。4世紀から5世紀にかけて呉の職人に作らせた訳であるが、魏の景初年号を付けていることからも、魏の鏡と見せかけたい意図がみえる。280年に呉が滅んで後ろ盾を失い混乱した狗奴国=ヤマト王権が親魏倭王卑弥呼の王権を継承したものと主張したい目的で大量に作らせたと推理できる。

(注2)陳寿の後に三国志以前の歴史書「後漢書」を書いた范曄(398年ー445年)に対する多くの評価は不当ではないかと考えてます。従来の邪馬台国に関する諸学説にとって「後漢書」の倭に関する記述が都合が悪いので、現在伝わる12世紀に作られた魏志倭人伝の版本を正しいと見做して議論を進める間違いを犯しています。

范曄は魏志倭人伝やそれ以前の倭に関する資料や当時の好太王碑にあるような半島の状況も理解しており、邪馬台国や大和王権のことは分かっていたようです。57年の倭の奴国の朝貢から倭国大乱が桓帝・霊帝の期間と魏志倭人伝にない記述がありますし、邪馬台国の時代に近い時代に生きた范曄の記述を間違いとして捨てることは無理がありますから、版本の書き写しを疑うべきでしょう(九州で人気のある古田武彦氏の九州王朝説は邪馬台国を邪馬壹国としたり臺与(トヨ)を壱与とする魏志倭人伝の版本を正しいとしている。今回の熊本説も古田氏と同様に会稽東冶を会稽東治とするのは当代一流と評価の高かった范曄を見くびっているのではないだろうか)。

(注3)「宋史」日本国には、その記事のソースが書かれている。984年に宋に留学した東大寺の奝然(ちょうねん)が太宗に献上した「王年代紀」である。ここには初代王の天御中主から神武天皇の父彦瀲までの23代が記されており、新唐書の三十二世という記述が写し間違いであることが分かる。


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日本書紀は藤原氏のための歴史書でした!(;一_一)

2021-11-21 10:38:18 | 古代史
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以下の三橋先生の動画に見られるように、明治時代以降の日本国民は、記紀の正体をほとんど分かっておられないので、現在では女性天皇、女性宮家、最終的に女系天皇まで容認する事態になっています。日本の危急存亡に近づいています。申し訳ないのですが、とても影響力のある三橋先生が間違った記紀の歴史認識を多くの視聴者に伝えるのは非常に危ないと思いましたので、再度記事にしました。日本を愛する日本人にとって見逃せない大事なことですので、お付き合いください。

[クイズ] 日本はいつから「日本」? 日本滅亡の危機を救った天皇の正体【11/24(水)までの限定公開】
1,424 回視聴2021/11/20 「新」経世済民新聞 三橋貴明 公式チャンネル チャンネル登録者数 39.4万人


現存する日本最古の正史「日本書紀」は壬申の乱を勝利した天武天皇が命じて編纂が始まりましたが、崩御の約三十年後の720年に、当時の権力者藤原不比等によって完成されました。ですから、不比等は藤原氏の権力を正当化するために、不都合な歴史を隠蔽し、改ざんしていることが分かってきました。つまり、「日本書紀」の正体は天皇家のものでなく、勝者藤原氏の歴史書なのです。

日本の中央集権化の動きは、すでに建国時代に活躍した祖先をもつ豪族が地方に割拠しており、対外的に中央集権化が必要とされたので、聖徳太子と蘇我氏が進めていたと「日本書紀」から分かります。その中で起った中大兄と鎌足らの乙巳の変(645年)の真相は、「日本書紀」で抹殺された蘇我系の天皇の政策(中央集権化と外交問題)に不満を持ったことから二人が首謀して天皇を弑逆したテロ事件でした。考古学の証拠から中央集権化を詔した大化の改新は虚構だということも判明し、長い議論の末にほぼ決着しています。

「日本書紀」よりも前に完成していたと序文に記された「古事記」は、九世紀の朝廷で「日本書紀」を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。序文は人長が書いたものでしょう。815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の中で多氏の先祖の地位が低められたことが一因と考えられます。本文は「日本書紀」の内容に沿いつつ独自の話を出していますから、「日本書紀」が隠した史実を一部暴露するものです。

しかし、天武天皇は天智天皇の兄弟ではなく、中大兄・鎌足らに弑逆された蘇我系天皇の子孫であり、皇極(斉明)と舒明天皇も創作された天皇だったことが、万葉集研究家の渡辺康則氏の著作(「捏造された天皇・天智(上・下)」「聖徳太子は天皇だった」(すべて青空出版)で明らかにされています。不比等はテロリストだった中大兄(注1)と父鎌足の悪行を隠して正当化し、日本建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の史実を改ざんし、藤原氏だけが権力を維持できるようにするために建国神話を創作しています。

藤原氏の氏神タケミカズチとフツヌシに大国主の治めていた豊葦原中つ国を奪う神話の中で活躍をさせて、鹿島神宮・春日大社などで祀っています。また、神武天皇の建国神話も創作して、藤原氏に都合の悪い日本建国の史実を改ざんし、誤魔化していることが考古学の成果から分かってきました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」)。

ヤマト王権は三世紀に纏向遺跡で始まったことは初期の前方後円墳の築造から考古学的に確認された事実です。そして三輪山の大物主大神(大国主の和魂)を祀る最初の祭祀王として、ヤマトの大王(崇神天皇)から大和に呼ばれた大国主の子オオタタネコの話を創作し、ヤマトで大国主大神を祀る初代祭祀王(神武ではなく応神天皇)の本当の父と母を、神武天皇と応神天皇の東征神話を作ることにより二重に隠しています。日本の成り立ちは征服王朝ではないのです。(2024.9.7 赤字追加)

応神天皇の父とされた仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は、「日本書紀」の記事から、その父日本武尊(ヤマトタケル)が薨去されて34年後に生まれた勘定になりますから杜撰な作り話と分かります。また、上記の考古学のデータから、仲哀天皇の祖父の景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)は、実は大国主に殺された尾張王(タラシナカツヒコ)の後継者のことだと分かってきました。ですから応神天皇直前までのすべての歴代天皇は架空の天皇となります。

応神天皇の実の父親は宇佐神宮の神宮寺弥勒寺の本尊の垂迹神である大国主命です。真の八幡大神でもあります。神宮で祀られている比売大神が宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼で、宗像大社の伝承や住吉大社の伝承が暴露していました。またこの仇討ちの史実は民話サルカニ合戦として民間で伝承されています。

さらに、不比等はその権力を支えた天武天皇の皇后鵜野讃良(中大兄の女子)を女神天照大御神とする神話まで創作して、実在した皇祖神天照大神尊(注2)を吉備津彦として隠しています。神武天皇の前にすでに天孫降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒ)のことで、楯築王墓に埋葬されたことを発見しています。楯築神社の御神体亀石に中国神話の天皇伏羲氏と同じ人面蛇体の大王が彫られていることから、七世紀にヤマトの大王を天皇と呼ぶ根拠を示す考古学的な物証です。

不比等は神武天皇の祖先の日向三代の神話では、天皇家をワニの近親婚で生まれた一族と貶めるデタラメな神話も作っています。雄略天皇や武烈天皇などの歴代天皇を貶める悪行をも記録しており、「日本書紀」が天皇家の歴史書でない証拠と言えます。

江戸時代の文化人たちは天照大神が男神であることを知っていましたし、庶民も伊勢の神が三輪の神と同体であることを知っていました(「アマテラス大神はヘビだった?」)。能楽は「日本書紀」が隠した歴史を伝えることが隠されたミッションだと分かりました(「【刮目天の古代史】謎を解明する」<秦氏と能楽の謎>)。

諸説を列記して内容が分かりにくい「日本書紀」に比べて「古事記」がひとつの物語になっているので、江戸時代の本居宣長が取り上げて研究しました。その影響を受けた平田篤胤が「記紀神話」に基づく復古神道を提唱しましたが、幕末の志士たちに大きな影響を与え、尊王攘夷運動から明治維新につながりました。

明治になって国家神道が創設され、小学校から国史として教育されたので、戦後はGHQによって焚書にされ、戦後のサヨク思想の歴史学会や教育界は「記紀神話」に基づく皇国史観を排除してきました。そのため戦後の愛国的な保守の人々は国史の復活を望んでいるようです。しかし、現在の歴史学は考古学などの発展によって間違ったマルクス史観から本来の実証主義に戻りつつあるようです。歴史は文献に基づき書かれるわけですから、記紀が見直されてきているようでもありますが、記紀が隠したウソからどのように史実を復元するかが今後の問題になります。

なお、日本誕生ですが、通説では持統天皇の時代702年に遣唐使粟田真人がシナの朝廷(丁度、則天武后が国号を唐から(大)周に変更していた)に申し出て認められたということになっていますが、その後945年に完成した「旧唐書」では倭国と日本とが別の国として並記されていました。国号が日本に統一されるのは1060年に完成した「新唐書」からでした。

その間に何があったのかを調べましたが、「新唐書」で「日本は古の倭の奴也」と書かれて、上記のとおり、奴国初代王が天御中主、二十三代王彦瀲尊(注3)まで筑紫日向宮を都とし、彦瀲尊の四男神武天皇が大和の橿原宮に遷したという内容の「王年代紀」が、984年に、東大寺の僧奝然(ちょうねん)の遣使で伝えられたことが分かりました。唐が滅び、五代十国から宋になった時代です。

「王年代紀」は「日本書紀」が高天原神話にした時代に北部九州を支配した奴国王が居て、日本の皇室の祖先だということをシナの朝廷に伝えたものなので、後漢光武帝が金印を与えた史実を日本が告白したから日本という国号が正式に認められたということなのです。この史実から出発して日本の建国まで、その過程を明らかにしました。それによれば日本という国号は既に四世紀にあったことも分かりました。詳細は「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)」をご覧ください。

【付録】中国文献(三国志~宋史)に関連する年表

(左クリックで拡大)

(注1)「日本書紀」に皇子とは書かれていないが、その名前から奴(ナーガ=龍蛇神)国の王位を受け継ぐ第十九代奴国王天照大神尊の直系の子孫。大兄は嫡子であることを意味します。皇后鵜野讃良が天武天皇の妃であったことから、中大兄が皇族であることが分かります。

(注2)「宋史 王年代紀」第十九代王です。兄の素戔嗚尊が奴国宮廷楽師の師升に殺され倭国を奪われましたので、出雲に逃亡し吉備を平定して奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた実在人物ニギハヤヒ大王です。父は伊弉諾尊、母伊弉冉尊です。大和朝廷は神々に神階を贈っていますが、皇族に与えられる特別な位階の品位が四柱にだけ贈られており、吉備津彦が入っていますので朝廷が、ニギハヤヒ大王が皇祖神であることを告白しているということです。第50代桓武天皇の父光仁天皇は中大兄の孫にあたり、今上天皇までニギハヤヒ大王の子孫です。

(注3)ひこなぎさのみこと、「新唐書」では三十二世と書かれていましたが、その間の王名は記載されておらず、「宋史」に二十三代の王名がすべて記載されていたので、三十二は誤記だとされています。


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一つの事象にいくつもの解釈あり!

2021-11-19 18:44:11 | 古代史
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3か月くらい前の以下の記事に、随分と遅れてしまって恐縮ですが、古代史解明のヒントがありましたのでコメントをしました。よろしくお願いします。

卑弥呼の死の原因は?
2021-08-12 20:11:56 | 歴史 古代日本の歴史を謎解き


興味ある話題をありがとうございます。
古代史が中々決着しない理由はいくつかありますが、一番大きい理由の一つは、タイトルのとおり、いくつも解釈が存在し、それが淘汰されないからだと気付きました。

わたしは長く理系の仕事をしてきましたので、現象を解明するための実験を行い、解釈=仮説を検証してきました。古代史の場合は実験は余りありませんので、どうするかを考えました。

その結果、一つの事象だけでなく、それと関連すると考えられる前後の複数の事象群について、つまり時代を跨いでその時代に一体何が起こったのかを説明する仮説を考えると解決できることに気付きました。論理学でいう仮説推論(アブダクション)を用いて事象群を個々に矛盾なく説明できる仮説が、実際に起こったことである蓋然性が高いということなのです。

ですから、あなたがひらめいた卑弥呼の死に関する仮説は、その前後の事象とどう絡み合い、その時代を矛盾なく説明できるかということに着目する必要があるということです。

この手法の特徴は、今まで考えもしない推論が突然ひらめいて発見できるということです。これによって弥生時代から古墳時代初頭の出来事が矛盾なく説明できました。ただし、検証はいつまでも続きますが、大きな事実誤認がなければその仮説が正しい可能性は高いと考えられるということです。

何よりも単なる想像が根拠ではなく、事実に基づき妥当な推論をすると言うことなのですから可能性は高いということです。よろしければ拙ブログ「古代史を推理する」に詳しく説明していますので、お越しください。突然失礼しました( ^)o(^
)

提案する古代史の科学的解決手法について、少しだけ下の図によって補足します。
①ある事象について、結果から原因を考えます。これによって思い付きでもひらめきでも、何でもいいですから仮説ができます。ただし、神が与えたとか、反証できないような仮説はダメですよ。

②そして別の事象の原因について、この仮説で妥当な演繹的推論(デダクション)によって説明できれば、「この仮説いいじゃん!」となります。ダメなら勇気を持ってボツにして最初から考え直すか、一部修正で何とかなるか?そして、さらにこの仮説を詳細化するひらめきがあれば仮説に加えていきます。

③ということで次の事象についても同様の検証を繰返します。すべてが矛盾なく説明できれば、帰納法的推論(インダクション)により、その仮説は実際に起こったことを矛盾なく説明する仮説(リトロダクション)だということです。

つまり、こう言う仮説が実際に起こったのではないかという、信念に近い確信となります。これが仮説推論(アブダクション)による古代史解明の科学的な手法です。従来の仮説の森の迷子から脱け出す一つの有用な方法だと思います。



なお、この手法は、19世紀後半から20世紀初頭の哲学者、論理学者、数学者、科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・サンダース・パース(1839年9月10日 - 1914年4月19日)が提唱した科学的解決手法を古代史の分野に応用したものです。一般の方には余り知られていない人物ですが、「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる偉人でした。


【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】謎を解明する!(^_-)-☆


第3の推論法「アブダクション」とはとても分かりやすく解説されています( ^)o(^ )

女王を共立した赤坂比古は?卑弥呼の死に関する推論は拙ブログの中で沢山述べていますが、最新のものです(#^.^#)

国宝「金印」の謎?(@_@)NHK番組「諸説あり!」で取り上げられました。金印が偽物だという説もありますが・・・


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愛宕権現の正体は赤坂比古か?

2021-11-14 00:02:00 | 古代史
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前回アップした火の神カグツチの記事の中で読者は聞き飽きたかも知れない経緯を注に移したときに書いておきたかった箇所を消してしまったので改めて記事にしました。

卑弥呼の死後にムナカタ海人族を束ねる大国主久々遅彦との大きな抗争に発展し、尾張王タラシナカツヒコ(仲哀天皇、日本書紀:足仲彦、古事記:帯中日子)が殺されて、鳥栖市永吉町赤坂所在の赤坂古墳に埋葬されたと推理しています。

赤坂古墳は鳥栖市教育委員会の説明によれば、以下のとおりですから、近江や尾張で始まり、盛行した前方後方墳で、九州最古級のものですから時代的にも形式的にも尾張王タラシナカツヒコのものと考えられます。
(赤坂古墳 左クリックで拡大)
 赤坂古墳は古墳の出現期(3世紀後半)の築造と推定される、全長約24mの前方後方墳です。
 現在確認されている定型化した古墳の中では、鳥栖地域最古のもので、九州でも最も古い初現期古墳の一つに数えられています。南側に筑紫平野を望む立地で、標高約35m、周辺との比高差10~15mの丘陵の尾根に沿って、ほぼ東西方向に主軸を取っています。後方部は、一辺約16mの正方形で、高さ(比高差)約2m、東側に約8mの低平な前方部を連接しています。前方部の幅ははっきりとしませんが、5m程度のごく狭いものと思われます。周溝は幅約1.5m~2.5m、深さは約80cmです。
 死者を埋葬する主体部は未確認ですが、一部削られたところから黄白色の粘土塊が採集されていることから、過去に破壊されているようです。おそらく粘土槨と呼ばれる、粘土で割竹形木棺を覆うタイプの主体部であろうと思われます。
 墳丘くびれ部分と周溝内から、古式土師器の二重口縁壷・小型壷・小型器台などが出土しましたが、これらは当時の近畿地方の影響を強く受けたものです。


古式土師器は畿内の庄内式土器ですから尾張王タラシナカツヒコの子オオタラシヒコオシロワケ(景行天皇)が仇の赤坂比古を殺し、ここを占領した時期に古墳の周濠部に献じたものでしょう。古墳は赤坂比古がタラシナカツヒコの部下に築造させたのではないかと思います。



そして、その西側約300mに愛宕神社古墳がありましたよ。卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の墓よりも少し小ぶりですが、直径100m以上ありそうな、かなり大きい円墳です。つまり、同じ玄界灘を活動域とする縄文海人ムナカタ族のものだということは、5・6世紀に宗像氏が築造した福津市にある新原・奴山古墳群の多くが円墳であることからも分かります。ということはやはりここに赤坂比古が眠っているということでしょう。盗掘されてなければいいですが。恐らくは尾張王タラシナカツヒコの仇討で、その子の尾張王オオタラシヒコオシロワケに殺されて葬られたのでしょう。

古墳に愛宕山神社があり、墳頂に小さな祠があります。恐らくは愛宕信仰が盛んになった戦国期から江戸時代に作られたのだと思いますが、愛宕権現の本地仏勝軍地蔵が祀られています。愛宕権現(あたごごんげん)は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする。wiki「愛宕権現」)とありますが、下図のとおり馬に乗った男性の将軍のようですから、真相を隠すために表向き記紀神話の女神イザナミとしているだけで、愛宕神社の旧称は阿多古神社ですからイザナミと同じ縄文系ムナカタ海人族の一族赤坂比古(阿田賀田須命/吾田片隅:アタカタス/ミの子孫と推理、アタカタスはイザナミの父と推理)に因む名称のようです。ということは愛宕神社の本当の主祭神はイザナミではなくカグツチ(タラシナカツヒコ仲哀天皇)でもなく赤坂比古だったということですね。実際に赤坂比古が尾張王タラシナカツヒコを殺した史実を誤魔化すために、創作されたカグツチの神話に合わせて愛宕権現赤坂比古と一緒に火の神カグツチが祀られているのでしょう。(2023.1.1 赤字追加)


さらにその南西約300mに、時代はかなり遡りますが、弥生時代中期の集落跡で、銅鐸や銅鉾などの青銅器鋳造の工房がある安永田遺跡があります。冶金技術者は奴国大王の要請で徐福が連れてきたと推理しています。発見された銅鐸の鋳型は、初例が広島市東区福田(木の宗山)から発見された福田型と言われるもので、病気や災厄を避けるために眼や顔を表現した邪視文(じゃしもん)が彫られています。銅鐸文化が北部九州にもあったことがこれによって分かった重要な発見でしたが、徐福が連れてきた楽師たちが銅鐸の音を宮廷祭祀に使ったと考えています。

さらにそこから南西約1kmの鳥栖市古賀町に弥生終末期から古墳初頭の牛原原田遺跡があり(下の図の⑲)、住居跡付近、つまり住居の外から鉄鏃が1個発見されているので、ここで戦闘があったかも知れないと考えています。当初、赤坂古墳に近いことから、尾張勢が使う銅鏃ではなく鉄鏃でしたので、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)が立て籠もった集落を赤坂比古が、攻撃して討ち取ったと考えましたが、その後のオオタラシヒコオシロワケ(タラシナカツヒコの後を継いだ尾張王、景行天皇)に従軍した狗奴国大王直属の物部勢が赤坂比古を攻めた痕跡かも知れませんので今のところは保留です。今後の調査で分かるかも知れませんね。

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ということで、前回の記事の補足でしたが、当時のことがかなり見えてきましたね。
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