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前からチャンネル登録していた方のとてもいい動画があったのを見逃していました。以下のようなコメントをしました。お付き合いください。( ^)o(^ )
2021/08/28 まあちゃん@YouTube
ご無沙汰しています。倭国大乱に着目するのはとてもいいセンスです。なぜ起こったのかを追求すると古代史の謎が解けます。戦争の証拠と言えるものが少ないので大規模な乱はなかったのではという説が有力でしたから、男女の人口差をあげておられるのはとても素晴らしいと思います。全く気づきませんでした。ただし、これは倭国内の話だと思います。
わたしは、弥生時代後期末(二世紀末から三世紀初頭)の列島内の鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べて大乱の様子が分かりました。倭国は糸島平野・福岡平野・筑紫平野・佐賀平野です。熊本県の菊池川流域は反倭国側で、その地名から狗奴国の官狗古智卑狗が指揮していたと分かります。また、福岡県東部から大分県大野川流域も、北九州から沖ノ島経由で製鉄遺跡のある半島南部まで狗古智卑狗が指揮していたようです。四国や中国西部・山陰・北陸も勢力下で、本拠地は兵庫県豊岡市だったようです。
狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコが正しい)は、吉備から播磨・河内、そして東海・関東までを勢力圏としていた模様で、その中心は纏向遺跡でした。纏向遺跡の3世紀前半の外来系土器の分布から分かります。九州のものは全くと言っていいほどありませんが、菊池川流域の遺跡では山陰・畿内の土器が見られますから、北部九州の倭国と対立していたと分かります。詳しくは拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください!
そこで大乱の原因ですが、寒冷化になって食料争奪というのは、中国大陸のことです。後漢王朝内部の権力闘争が引き金で、農民の支配が緩み黄巾の乱などが発生しました。三国時代に向かう桓霊の時代です。半島でも楽浪郡の支配が緩み韓人・濊人が暴れたとあります。ですから、倭国王が依存していた楽浪郡との交易ができなくなり、倭国が衰退する時期に、大分から熊本方面に軍地基地を築いた狗古智卑狗王が倭国を攻撃していた様子が見て取れます。狗古智卑狗王が沖ノ島経由で狗奴国勢力に鉄素材や鉄製品を供給し倭国を圧倒するようになったので戦争が起こりました。倭国と狗奴国は最初から確執があったと推理できます。
長くなったので、つづきは拙ブログで記事にしますので、よろしければご参照ください。失礼しました。
倭国側は鉄素材が供給されなくなり青銅器を潰して銅鏃を作って応戦していたことも分かりました。そして、菊池川流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡の環濠などから銅鏃が出土しているので、倭国側に襲われたと分かります。
結局、縄文海人ムナカタ族の姫巫女卑弥呼が女王に共立されたのは狗奴国圏よりも西側の国が倭国側に寝返ったからだと推理できます。北部九州を中心とする倭国の伝統祭祀は甕棺や武器形青銅器に特徴がありますので、太陽神を祀る卑弥呼は縄文系だと分かります。
何故寝返ったかを考えると、先ほどの菊池川流域の軍事基地から倭国を襲撃していた狗古智卑狗王が倭国の襲撃によって戦死し、沖ノ島ルートを支配していたムナカタ族の族長赤坂比古(卑弥呼の父と推理、和邇坐赤坂比古神社の祭神、和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されたからだと推理しました(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)」参照)。倭国王は伝統祭祀を捨てて縄文系の祭祀を導入したことが、甕棺墓が消滅し、筑紫平野などで縄文系の箱型石棺が見られるようになったことから分かります。
さて、今回の倭国大乱の直接の原因ですが、57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の後の107年には伊都国王師升が160人もの生口を献上する朝貢をしていますから、師升が奴国を乗っ取り、倭国を支配したと推理できます。金印は江戸時代に志賀島で発見されたことから、師升は金印が手に入らなかったので、後漢に倭王として認めてもらうために朝貢したと分かります。
そして、景初三年(239年)に魏へ朝貢するために帯方郡に出かけた倭国の大夫の難升米は儺升の米=頭目を意味する名前で、伊都国を王都とする師升一族の倭国王の襲名だと分かりました。魏の朝廷は難升米王に魏の正規軍の軍旗を直接渡していますので、軍事を司る人物、つまり魏志倭人伝で、女王の政治を輔佐するとした男弟で、伊都国男王で、刺史のような役割の大率だったということです。
奴国は奈良時代には儺県(なのあがた)と呼ばれていましたが、「儺」は鬼やらいの意味です。鬼のような乱暴者の奴国王を師升が追放した史実を示唆しています。難升米の難はニンベンがありませんが、金印で「倭」が「委」と書かれたように、ニンベンを省略するのが当時の漢字の流儀のようです。伊都国を水源とする福岡市の室見川河口で延光四年(125年)と彫られた文鎮状の銘文の入った銅板「室見川銘板」が発見されています。師升が奴国の楽師で司祭だったことを裏付ける内容の文章が掘られていました。日本で作られた最古の金石文でした(「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。
最近、伊都国で出土していた砥石と思われていたものが実は硯(すずり)の欠片だったことが分かったとニュースになりましたが、福岡市の雀居遺跡では木製の組み机が丸ごと出土していますから、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人がいたと分かります(「変わる弥生時代観」)。
そうなると、魏志倭人伝に登場する倭国内の地名や人名などは、従来は漢字を書けない倭人から魏の役人が発音を聞いて、韻書の先頭の文字を当てたという通説が否定されることになります。つまり、難升米王がこれらを書いて帯方郡太守劉夏に教えたと分かります。卑弥呼などいわゆる卑字が多用され、漢字を読めないことをバカにしたものですし、狗奴国は狗コロの奴国という意味の旧奴国の蔑称なのです。また狗古智卑狗は難升米がよほど頭に来ていた人物だと分かります。そして、伊都国だけは孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む名前だと分かります。それは伊尹が放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物ですから、同様に師升が奴国を滅ぼした事績を持つ人物だと示唆しています。師升が儺升と呼ばれたのだと分かります。ですから伊都国の男王のことを難升米(なしょうめ)と呼んだのです。
それでは、奴国最後の王は誰でしょうか?
そうです。記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲ、「宋史 王年代紀」第18代王だと分かります。高天原も代々奴国王が支配していた北部九州の倭国のことだったのです。ヤマト王権が成立した奈良県の地名と北部九州の地名が対応するのは、日本が古の倭の奴国だった証拠のひとつですね(^_-)-☆
この先もまだまだありますが、結局、倭国大乱の直接の原因は、奴国の宮廷楽師で司祭だったと思われる師升が奴国大王スサノヲを殺して倭国を奪ったことへの恨みだったということなのです(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。
そして、ヤマト王権が成立までの込み入った話は拙ブログでお楽しみください(*^▽^*)
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は不比等が創作したことが分かります。江戸時代まで多くの人は伊勢の神と三輪の神は同じヘビの化身(天照皇大神大国主命)と信じていました。神仏習合、修験道や道教の影響を受けた記紀神話と全く違う神話が語られていたのですよ(^_-)-☆。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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わたしは、弥生時代後期末(二世紀末から三世紀初頭)の列島内の鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べて大乱の様子が分かりました。倭国は糸島平野・福岡平野・筑紫平野・佐賀平野です。熊本県の菊池川流域は反倭国側で、その地名から狗奴国の官狗古智卑狗が指揮していたと分かります。また、福岡県東部から大分県大野川流域も、北九州から沖ノ島経由で製鉄遺跡のある半島南部まで狗古智卑狗が指揮していたようです。四国や中国西部・山陰・北陸も勢力下で、本拠地は兵庫県豊岡市だったようです。
狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコが正しい)は、吉備から播磨・河内、そして東海・関東までを勢力圏としていた模様で、その中心は纏向遺跡でした。纏向遺跡の3世紀前半の外来系土器の分布から分かります。九州のものは全くと言っていいほどありませんが、菊池川流域の遺跡では山陰・畿内の土器が見られますから、北部九州の倭国と対立していたと分かります。詳しくは拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください!
そこで大乱の原因ですが、寒冷化になって食料争奪というのは、中国大陸のことです。後漢王朝内部の権力闘争が引き金で、農民の支配が緩み黄巾の乱などが発生しました。三国時代に向かう桓霊の時代です。半島でも楽浪郡の支配が緩み韓人・濊人が暴れたとあります。ですから、倭国王が依存していた楽浪郡との交易ができなくなり、倭国が衰退する時期に、大分から熊本方面に軍地基地を築いた狗古智卑狗王が倭国を攻撃していた様子が見て取れます。狗古智卑狗王が沖ノ島経由で狗奴国勢力に鉄素材や鉄製品を供給し倭国を圧倒するようになったので戦争が起こりました。倭国と狗奴国は最初から確執があったと推理できます。
長くなったので、つづきは拙ブログで記事にしますので、よろしければご参照ください。失礼しました。
倭国側は鉄素材が供給されなくなり青銅器を潰して銅鏃を作って応戦していたことも分かりました。そして、菊池川流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡の環濠などから銅鏃が出土しているので、倭国側に襲われたと分かります。
結局、縄文海人ムナカタ族の姫巫女卑弥呼が女王に共立されたのは狗奴国圏よりも西側の国が倭国側に寝返ったからだと推理できます。北部九州を中心とする倭国の伝統祭祀は甕棺や武器形青銅器に特徴がありますので、太陽神を祀る卑弥呼は縄文系だと分かります。
何故寝返ったかを考えると、先ほどの菊池川流域の軍事基地から倭国を襲撃していた狗古智卑狗王が倭国の襲撃によって戦死し、沖ノ島ルートを支配していたムナカタ族の族長赤坂比古(卑弥呼の父と推理、和邇坐赤坂比古神社の祭神、和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されたからだと推理しました(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)」参照)。倭国王は伝統祭祀を捨てて縄文系の祭祀を導入したことが、甕棺墓が消滅し、筑紫平野などで縄文系の箱型石棺が見られるようになったことから分かります。
さて、今回の倭国大乱の直接の原因ですが、57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国王の後の107年には伊都国王師升が160人もの生口を献上する朝貢をしていますから、師升が奴国を乗っ取り、倭国を支配したと推理できます。金印は江戸時代に志賀島で発見されたことから、師升は金印が手に入らなかったので、後漢に倭王として認めてもらうために朝貢したと分かります。
そして、景初三年(239年)に魏へ朝貢するために帯方郡に出かけた倭国の大夫の難升米は儺升の米=頭目を意味する名前で、伊都国を王都とする師升一族の倭国王の襲名だと分かりました。魏の朝廷は難升米王に魏の正規軍の軍旗を直接渡していますので、軍事を司る人物、つまり魏志倭人伝で、女王の政治を輔佐するとした男弟で、伊都国男王で、刺史のような役割の大率だったということです。
奴国は奈良時代には儺県(なのあがた)と呼ばれていましたが、「儺」は鬼やらいの意味です。鬼のような乱暴者の奴国王を師升が追放した史実を示唆しています。難升米の難はニンベンがありませんが、金印で「倭」が「委」と書かれたように、ニンベンを省略するのが当時の漢字の流儀のようです。伊都国を水源とする福岡市の室見川河口で延光四年(125年)と彫られた文鎮状の銘文の入った銅板「室見川銘板」が発見されています。師升が奴国の楽師で司祭だったことを裏付ける内容の文章が掘られていました。日本で作られた最古の金石文でした(「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。
最近、伊都国で出土していた砥石と思われていたものが実は硯(すずり)の欠片だったことが分かったとニュースになりましたが、福岡市の雀居遺跡では木製の組み机が丸ごと出土していますから、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人がいたと分かります(「変わる弥生時代観」)。
そうなると、魏志倭人伝に登場する倭国内の地名や人名などは、従来は漢字を書けない倭人から魏の役人が発音を聞いて、韻書の先頭の文字を当てたという通説が否定されることになります。つまり、難升米王がこれらを書いて帯方郡太守劉夏に教えたと分かります。卑弥呼などいわゆる卑字が多用され、漢字を読めないことをバカにしたものですし、狗奴国は狗コロの奴国という意味の旧奴国の蔑称なのです。また狗古智卑狗は難升米がよほど頭に来ていた人物だと分かります。そして、伊都国だけは孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む名前だと分かります。それは伊尹が放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物ですから、同様に師升が奴国を滅ぼした事績を持つ人物だと示唆しています。師升が儺升と呼ばれたのだと分かります。ですから伊都国の男王のことを難升米(なしょうめ)と呼んだのです。
それでは、奴国最後の王は誰でしょうか?
そうです。記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲ、「宋史 王年代紀」第18代王だと分かります。高天原も代々奴国王が支配していた北部九州の倭国のことだったのです。ヤマト王権が成立した奈良県の地名と北部九州の地名が対応するのは、日本が古の倭の奴国だった証拠のひとつですね(^_-)-☆
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そして、ヤマト王権が成立までの込み入った話は拙ブログでお楽しみください(*^▽^*)
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